(6)ルフ派とルミール派の詩人たちのその他の作品から


 ルフ派、いわゆる民族派にはまず第一に女流詩人エリシュカ・クラースノホルスカー Eliska Krasnohorska(1847−1926)本名ぺホヴァーPechova が属している。若いころからカロリーナ・スヴィェットラーと個人的に接触し、チェコ女性解放運動の協力者となった(特に、女性生産同盟 Zensuky vyrobni spolek において)。また雑誌「女性新聞」Zenske listyを編集し、オーストリア・ハンガリー帝国における最初の女子のための中等学校、ギムナジウム・ミネルヴァ・フ・プラゼ(1890)の開校に尽力した。
クラースノホルスカーの詩作品のうち芸術的価値をもつのは内面的自然抒情詩の領域である。この領域に属するのは『生命の五月から』Z maje ziti (1871)と『シュマヴァより』Ze Sumavy (1873)である。彼女はトルコにたいするバルカン諸民族の民族解放闘争への共感を抒情的叙事詩『南のスラヴの国へ』K slovanskemu jihu(1880)において表明した。
クラースノホルスカーはベドジフ・スメタナのオペラ台本の作者としてチェコ文化史に永久をとどめた(『くちづけ』Hubicka、『秘密』Tajemstvi、『魔の壁』Certova stena )。クラースノホルスカーの翻訳活動も豊富である。彼女が翻訳したのは主に A.S. プーシキン(『小品詩集』Vybor mensich basni,1894、Boris Godunov,1905)、 A. ミツキエウィッツ(『タデアーシュ氏』Pan Tadeas,1882)及び G.G. バイロン(『貴公子ハロルドの巡礼』Childe Haroldova pout,1890)など
の作品である。
今日まで価値のあるものは彼女の回顧的作品『わが青春から』Z meho mladi(1921)と『年月のもたらすもの』Co prinesla leta(1927)である。クラースノホルスカーの文学批評活動についてはすでに述べた。

 『民族派』Skola narodni グループに近いところに位置していた。彼はユーモア雑誌「一寸法師」Palecek とその付録「家の守護神」Sotek の共同編集者だった。彼は自身の詩集(例えば、『チェコの空の下で』Pod ceskym nebem,1879 、『山から』Z hor,1881、『祖国と自由へ』Vlasti a svobode,1883 )において、賛美歌的、スラヴ民族主義的傾向の修辞的詩を作った。ポコルニーによるチェコとスロバキア接近の努力は評価されるべきであり、その最も成功した文学的表現は二巻からなる『スロバキア放浪より』Z potulek po Slovensku(1883−1885)である。彼の翻訳のなかで最も重要なものは『ロシア抒情詩選集』Antologie ruske lyriky(1887)である。

 ルフ派のその他のメンバーとしてはラディスラフ・クィス Ladislav Quis がある。彼自身の作品(例えば、詩集『騒然のなかから』Z ruchu,1872、『馬鹿者ホンザ』Hloupy Honza,1880 、『バラード』Balady,1883 )は最も強くネルダや Sv.チェフ、または部分的には民族叙事詩への傾向を示している。この創作的努力よりも重要なのはクィスの翻訳である(例えば、ゲーテの『タウリスのイフゲーニア』Ifigenie v Tauride,1894 、シラーの『マリア・スチュアート』Marie Stuartovna,1891 、クライストの『こわれ瓶』Rozbity dzban,1910)。クィスはまたカレル・ハヴリーチェク、K.J.エルベン、ヤン・ネルダ、その他の作品の出版者としても多大の功績を残した。
クィスの『回想の書』Kniha vzpominek (1902)はルフ派全盛時代のこと、ネルダのこと、60、70年代の文学環境を興味深く物語っている。
 ルミール派の詩人グループにはヴルフリツキー、ゼイエル、スラーデクといった人たちの他にも大勢の作家たちが属している。彼らはルミール派のリーダーたち(最も頻繁なのはヴルフリツキー)の作品の強い影響のもとにあり、彼らの芸術的主張も原則的にはリーダーたちの主張に一致している。

 ヴルフリツキーの同世代であり友人でもあった若きボフダン・エリーネク(1851−1874)に最も大きな期待が寄せられていた。彼はとりわけ抒情詩、愛国的社会叙事詩および幾編かの散文(特に、短編『ドブリンスキーのこと』O Doblinskem によって注目を集めた。しかし彼が早世したため紛れもないその才能の発展は不可能となった。『ボフダン・エリーネク著作集』Spisy Bohdana Jelinka と名付けられた詩と散文からなる作品集は1880年にヤロスラフ・ヴルフリツキーによって編纂された。

 1868年、アルマナック「ルフ」に詩人として登場したヤロスラフ・ゴル Jaroslav Goll(1846−1929)は間もなくルミール派、特にヴルフリツキーのグループに接近した。彼の唯一の作品集『詩集』Basne (1874)は極めて強い内面抒情詩の性格をもっている。彼は『チェコ抒情詩選集』(1872)を編纂し、ヤロスラフ・ヴルフリツキーとともに Ch.ボードレールの『悪の華』Kvety zla (1895)の選集を翻訳した。
 ゴルは今日、詩人としてはほとんど完全に忘れられてしまった(彼の詩は1930年にオトカル・フィッシェルによって新しく出版されている)が、チェコの歴史学上、パラーツキー以後最大の代表者としてわが国の文化史のなかに生きている。コメンスキー、チェルチツキー、友愛団結社の歴史に関する研究のほかにも、彼は『中世におけるチェコとプロシャ』Cechy a Prusy ve stredoveku (1897)という歴史の大著がある。

 オタカル・モクリー Otakar Mokry (1854−1899)はヴォドニャン時代のゼイエルの友人で、詩的創作によって生れ故郷の南チェコ地方と、その地方のフス主義の歴史と結びついている。そのことは彼の詩集『南チェコの旋律』Jihoceske melodie (1880)と『詩集』Basne (1883)のなかに反映しており、これらの作品において比較的独自の芸術的境地に到達している。ルミール派とともに彼に強い影響を与えたのはポーランドのロマン主義の詩であり、ルミール派の大部分の者と同じく、モクリーも翻訳に貢献した。  J.スロワーツキの『詩集』(1876)、『バラディナ』(1893)、『リラ・ウェンダ』(1896)をチェコ語に翻訳した。

 ポーランドの古典詩の同じ領域は翻訳家としてのフランティシェク・クヴァピル(1855−1925)をも引きつけた。彼のオリジナルな詩作品(例えば、『貴族の歌声』Zpevy knizeci,1883、や『雪におおわれた足跡』Zavate stopy,1887 )は彼の翻訳になるジクムント・クラシーンスキ、アダム・ミツキエウィッツ、ユリウス・スウォワーツキの詩作品ほど有意義ではない。  ボフダン・カミンスキー Bohdan Kaminsky(本名カレル・ブシェク Karel Busek,1859−1929)とアウグルチン・オイゲン・ムジーク(1859−1925)はルミール派のなかでもあまり大きな独自性をもつ作家とは言えないが、とくにジャーナリスト、翻訳家としてはこの派の有名な代表者だった(カミンスキーはモリエールの作品を、ムジークは Th.ムーア、E.A.ポーなどを翻訳)。

 ルミール派のすぐれた弟子であり後継者と言えるのはアントニーン・クラーシュテルスキー Antonin Klastersky (1866−1938)である。彼は長大な詩集、例えば『鳥の世界』Ptaci svet(1889)、『落葉』Spadale listi (1890)、『人生のかけら』Drobty zivota (1892)の作者であり、また多くのイギリス、アメリカの詩の翻訳者でもある。彼はスラーデクの死の後を継いでシェークスピアの戯曲及び詩作品の完全翻訳を成し遂げた。







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