チェフとヴルフリツキーの時代にわが国で最初の労働者詩人も誕生した。このことは70年代にチェコ領土内に独立した労働者の政党を設立しようとの機運が最高潮に達した現実と関連する。そこへ導いたのは絶えず増大する資本とブルジョワジーの地からとの組織された階級闘争の必要性であった。搾取的圧力は一段と強まり、一連のストライキを起こさせた(例えば、1870年のスヴァーロヴァ Svarova における)。同時にまた外国における幾つかの実例(特に、1871年、パリ・コミューンの戦い)はチェコの労働者の社会意識に大いに影響を及ぼした。政府はあらゆる手段を通して労働運動や労働者の出版を追及し、またチェコにおける社会民主党の結成(1878)後は、その活動を全力をあげて妨害しようと努めた。この弾圧はある種の社会民主的政策の不完全さ(例えば、民族性とプロレタリアートの国際主義にたいする立場のあいまいさ)から労働運動の弱体化をきたし、労働運動のなかに徐々にアナーキズムノ傾向が浸透する結果となった。
労働者の定期刊行物には多くの労働者作家が参画した。彼らは文学的独学者であり、おおむね自分のジャーナリスティックな活動にしろ詩人としての活動にしろ、ひたすら社会的闘争への奉仕として位置づけていた。これらの作家の詩作品はわが国の同時代の詩との接触なしに発展はありえなかった。ネルダやチェフの作品の影響がしばしば明瞭に認められる。しかしながら口承文学もまた強い影響を与えている。
多くの労働詩や歌は、よく知られた民衆歌のメロディーに直ちに合せて作られた。
この世代の最も有望なプロレタリア詩人の一人はヨゼフ・ボレスラフ・ペツカ Josef Boleslav Pecka (1849−1897)であった。彼は織物職人、製鉄労働者であり、後にはジャーナリスト、そしてチェコスロバンスカー社会民主党の共同設立者だった。彼は労働運動のなかでの活動のために投獄され、やがてプラハから追放され、1885年にアメリカへ出国した。彼は詩をいろいろな労働雑誌に発表したが、それらの作品は1899年になって『J.B.ペツカ詩集』Sebrane basne J.B.Pecky としてシカゴで本の形で出版された。ペツカの詩の社会煽動的かつ社会意識の特徴は、例えば、1878年に書かれた
『わが友よ、絶望するな』Muj priteli,jen nezoufej という詩にはっきりと現れている。
わが友よ、絶望するな
そして、仕事にかかれ
おれたちの回りの、貧しさを見れば
力が一層はいるじゃないか
これ以上、おれたちを奴隷にするな
いまこそ、おれたちにはわかったぞ
おれたちすべての、かたくなな憎悪が
きっと、くびきをば砕くだろうと
人々の苦しみを、除かんとの
強い意思に全霊を捧げよ
そして迷妄の墓場にありし者たちを
われらの教えにて蘇らせん
われらには、強力な味方がある
その味方は、群衆の真先に立たざるをえないのだ。
なぜなら、民衆は貧困から
社会的運動へ、飛び込んでいくのだから
ペツカの作品と同様の意義をこの世代の他のプロレタリア詩人たちももっていた。例えば、ノルベルト・ゾウラ Norbert Zoula(1854−1886)、レオポルト・コフマン Leopold Kochman(1845−1919、筆名ヴィヴ・ラ・リベルテ Vive la liberte)は『共産党宣言』Manifest komunisticke strany(1882)の翻訳者である。以上にあげた作家たちはわが国における労働詩の前提を作った。これらの詩人や、その他の労働者詩人の作品集をヤン・ペトルミフが編纂した(『最後の戦闘に火がついた』Posledni bitva vzplala,1951)。