(8)40年代以後の歴史文学の発展


  1.トチェビースキー V. Bena TYebízskýzský

 70年代からチェコの散文文学のなかに歴史的主題が取り扱われるようになった。30年以上もの間にわたってわが国の歴史文学の意義は明らかに低下していたのである。このジャンルの再興期=啓蒙的プログラムは40年代までに衰退し、芸術的に刺激を与え、かつ創造的であることを止めたのである。クトナー・ホラの時代を題材としたティルの歴史小説――その作品自体がすでに、わが国の再興期の歴史文学の絶頂期というよりは、むしろ衰退の痕跡をとどめているのだが――の時代以後、この文学ジャンルがチェコ作家の関心の片隅に追いやられていたのである。このジャンルの多少なりとも重要性をもつ代表者は40年代ではヤン・インドジフ・マレク Jan Jindrich Marek とプロコプ・ホホロウシェク Prokop Chocholousek である。マレク、詩人としての名はヤン・ス・フヴィェズディ Jan z Hvezdy (1803−1853)、はチェコ歴史文学の後期ロマン主義の段階を彼の小説作品のなかで表現している。彼の作品のなかで比較的成功しているのは二つの歴史小説、イジー・ポジェブラッツキーの時代から題材を取った『ヤロスラフ・ス・フラーデク』 Jarohnev z Hradku(1843)とインドジフ・コルタンスキーの治世時代の『薬膏売り』Mastickar (1845)である。プロコプ・ホホロウシェク(1819−1864)はチェコ中世の歴史に題材を求め、ロマン『チェコの僧兵』Templari v Cchach (1843)や『旧プラハの長老、歓迎』Privitan,kmet staroprazsky(1855)を書いた。これらの作品はかなり皮相であり、それに比べると南スラヴ人の生活や歴史に基づいた短編小説のチクルス『南の土地』Jih (1863−1864、3巻)のほうが一層価値がある。
 マーイ世代にたいしてホホロウシェクは年長者の仲間には入るが同世代であった。そしてマーイ派世代は、これまでのあまりにも歴史化された古いチェコ散文文学の性格に反対し、創作のプログラムとして、時代的、現実的、それどころか、まさに明確な傾向的な問題や主題に重点を置いた。このことはすでに述べたように、民族的防衛の地位や機能からチェコ文学を解放し、新しい、現実社会的かつ政治的にも進歩的プログラムによって文学を充実させようとする努力と関連している。それゆえに、代表的マーイ派の作家の散文作品のなかに歴史的主題が現れるのはほんの例外にすぎず、このジャンルの作品に第一級の芸術的意義を有するものがないというのは、必ずしも偶然ではない。K.スヴィェットラーの極めてロマンチックな古いプラハの風物詩『フロホフスカー家の最後の夫人』Posledni pani Hlohovska や『鈴の女王様』Zvoneckova kralovna がその例である。マーイ派世代のヨゼフ・スヴァーテク(1835−1897)は彼の同世代の仲間とは反対の政治的、文学的立場を取っていたが、その歴史小説<ロマン>によって大きな人気を博した。オーストリアに忠誠な政治的には保守的な視点が彼の文学作品のなかには浸透しており、その題材を彼は古代文献から吸収したが、その作品を芸術的水準まで高めることはできなかった。彼のロマン(例えば、『プラハの首切り役人』Prazsky kat,1876、『プラハの首切り役人一族ミドラーシュ家の回想録』Pameti katovske rodiny Mydlaru v Praze,1886-1889、及び『スミジツキー一族の没落』Pad rodu Smirickych,1893)は効果的なプロットと事件の緊張によって読者の興味をそそろうとしてはいるが、冗舌と文体の空虚さ、職人芸のなかに埋没している。思想的な観点から見れば、スヴァーテクの作品は大部分がネガティーヴに作用していた。それはチェコの過去の民族的反抗の伝統、とくに白山後時代の伝統にたいして否定的な姿勢のゆえである。ヨゼフ・イジー・コラールは芸術手法、チェコの過去にたいする思想的アプローチにおいてスヴァーテクに近い。彼は一連の歴史主題をもつ文学作品の著者であり、それらの作品は芸術的には低く、効果の上ではロマンチックなシチュエーションによって、読者の関心を獲得した。最も有名なのはルドルフ二世時代のロマン『悪魔の申し子』Pekla zplozenci (1862)である。
ヤンダ・ツィドリンスキー Janda Cidlinsky(1841−1875)の『ヤン・ボフミル』の歴史的描写はより大きな芸術的価値と思想的に進歩的意図をもっていた。彼はフス時代のロマン三部作『ヴィシェフラッド城の下で』Pod Vysehradem(1869)『アンナ・ムニェステツカー』Anna Mestecka (1870)『ボチェク』Bocek (1871)の作者である。
 しかしながら、チェコ文学史の実際の再生と復興をもたらしたのは、ルフ派の詩人集団に密着し、またいわゆる民族派にも接近していた文学世代である。この世代は――あたかもマーイ派の反歴史的潮流の反対の立場にあるかのように――これまでにないほどの強烈さでチェコの過去からの主題に精力を傾けた。なかでも彼らの関心を喚起したのは特にフス時代、白山時代、白山後時代、及び民族再興期であった。スヴァトプルク・チェフは世代の先頭に立つ代表者として過去における民族の栄光と苦難にたいして、愛情に満ちた崇敬の手本を自ら示した。やがて70年代になると彼と並んでヴァーツラフ・ベネシュ・トチェビースキー Vaclav Benes Trebizsky と Al.イラーセクが歴史的指向をもつ作品を発展させはじめ、彼らに続いてその後に、さらにジクムント・ウィンテルが登場してくる。
 70年代の半ばから歴史主題にたいする関心が顕著となり、急速に増大してきたのはもちろん偶然ではない。もしオーストリア憲法体制の初期(したがって70年代の初めから)において、結局のところチェコ文学が民族的に保守的な、そして愛国的に目覚めさせる意図とは違う課題に取り組むことのできる時代が始まったというふうに思えたとしたら、それはつまり民族的希望にたいする裏切り――特に、1867年のオーストリア−ハンガリー平等化以後―― そして70年代の意に反する政治的な進展が、ふたたびチェコ文学の民族意識の覚醒と士気高揚の機能と傾向を現実化させ、ふたたび作家の関心をチェコの昔に向かわせたのである。もちろんこれには70年代にパラツキーの歴史の最後の諸巻が出版されていたという事実も大いに作用した。この歴史は民族の過去にたいする関心を高めたばかりでなく、ハプスブルク家の登場に至るまでのチェコの歴史の全体像を初めて提供したのである。ベンシュ・トチェビースキーもイラーセクもそれから自分の作品に吸収し、パラーツキーもわが国の歴史の進歩的な解釈によって、この二人に接近したのである。

 ヴァーツラフ・ベネシュ・トチェビースキー(本名ヴァーツラフ・ベネシュ、1849−1884)はトチェビース・ウ・スラネーホ Trebiz u Slaneho で土地の仕立屋の息子として生れた。この家に伝わる「読書家」の伝統は少年の教育や教養に影響を及ぼした。そしてこの家庭的な伝統は彼のなかに民族の過去と現在との相関性についての意識を目覚めさせ、同時代の人々の眼前に先祖たちの栄光に満ちた時代を呈示しようという願望を植えつけた。この若い愛国者の民族意識を鼓舞させる啓蒙的なプログラムは、彼が僧職についたことによってもなんらの変更も加えられなかった。彼は始めにリテニュ Liten に、次いでクレツァニ・ウ・プラヒ Krecany u Prahy に教区牧師として赴任した。彼のなかでは宗教的教会的観点よりも民族的観点が常に優先していた。
 トチェビースキーの目標は生涯にわたってカトリック的普遍主義ではなく、民族と祖国の繁栄であった。彼の早世のあと(彼はマリアーンスケー・ラーズニェで肺結核のため35歳で死んだ)ネルダは彼を同時代の最も民族的チェコ作家と指摘した。これは単なるその場かぎりの誇張ではない。民族の過去の進歩的な理念はトチェビースキーの作品のなかで感情的にも効果的な表現にたっしている。そしてこの表現によってその作品は広範な民衆読者に影響を及ぼしている。
 これによってトチェビースキーの作品は――その芸術的評価にたいする一定の留保をなしにすれば――民族社会にすぐれた役割を果たし、その作者は正当にネルダの評価の意味において十九世紀の最後の四半世紀のチェコ文学の民族的プログラムの卓越した実現者の一人として評価されなければならない。
 ブルガリア−トルコ戦争を主題とした処女作『マラ・ボチャロヴナ』Mara Bocarovna(1871「世界観」Svetozor に掲載)のあと、ベネシュ・トチェビースキーは創作的関心を徹底的にチェコ歴史にむけた。その準備のために彼はパラーツキーを読み、古文献を研究した。作者の関心は古代から十九世紀にいたるチェコ歴史の様々な時代に向けられたが、関心の中心は最も栄光に満ち、最も悲劇的な時代フス主義時代と白山後時代に向けられた。このことは民族の歴史への彼の内面的関係に対応している。彼は、とくに、子孫にたいして啓蒙的ないしは警告的に作用する倫理教育的示唆を、民族の歴史のなかに捜し求めたのである。芸術的観点から見れば、白山後時代と反改革時代がトチェビースキーの歴史的題材への感情的アプローチに合致していた。彼はそれらの時代のなかに最も成功した作品の題材を見出だした(『レヴィー・フラデッツ物語』Levohradecka povidka,1882、『万事休す』Dokonano jest,1886、『シュヴァンベルク家の白鳥のために』Pro bilou labut svamberskou,1884)。彼の作品のなかで長編ロマンの規模をもっているのはわずかである。『アネシュカ・プシェミスル王女』Anezka Premyslovna(1878)はプシェミスル王とその弟との仲を仲裁したヴァーツラフ一世の妹の物語。『さまよえる魂』Bludne duse (1897)はこの作家の作品のなかで最も成功したもので、その背景をなすのはヨゼフ二世時代(1780−90)のスランスコ地方の農民一揆である。『辣の冠』Trnova koruna (1883)は白山後時代からのものであり、『ダグマル女王』Kralovna Dagmar (1883)はプシェミスル・オタカル一世の娘の物語、等。ベンシュ・トチェビースキーは膨大な短編作品を何冊かの連続した作品集に整理して収めた。『わらぶきの屋根の下で』Pod doskovymi strechami 、『黎明の杯』V Cervancich kalicha、『酒杯の輝きのなかで』V zari kalicha、『白山後の悲歌』Pobelohorske elegie 、『いろいろな時代から』Z ruznych dob 。
 トチェビースキーは歴史のなかに、倫理的行為にたいするヒントを発見し、読者を教育し、感動させようと努めた。彼の短編や長編作品の歴史的輪郭は、多くの場合不明瞭であり、前面に現れるのはロマンチックに色付けされた物語や人物であるのにたいし、最高の作品においては――例えば『さまよえる魂』に見るように――これらの特徴と同時に、田舎の民衆の生活環境や代表的人物たちのリアリスティックな性格を描き出そうとする努力が明らかに見える。それゆえにトチェビースキーはわが国の歴史文学のなかでJ.K.ティルやJ.K.マレクに代表される段階とイラーセクやウィンテルによる歴史編纂的基盤に立つリアリスティックなさくひんとの間の橋渡しの役割を担っている。







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