2. アロイスセク/Alois Jirasek


 アロイス・イラーセクはチェコで最も人気のある歴史文学の作家となった。彼がそう言われる理由は、まず何よりも、彼が民族という言葉のもつ完全な意味において、民族の作家という読者の期待を満たすことに最も成功したからであり、またチェコ民族の過去の歴史的を<チェコ民族が>これまで伝統としてきた最も進歩的視点から生き生きと描き出すという点に関する限り、広範な人民読者階層の要求を満足させたからである。
 イラーセクは第一次世界大戦に先立つ十年間に彼の最高傑作群を著した。彼の傑作ロマン全体のなかの一つ――『暗黒時代』Temno――はまさに戦争のはじまる瀬戸際に出版されたのである。このことはイラーセクの歴史ロマンや短編が民族的に、国家的に独立を求める当時の闘争を背景として一般に受け取られていたことを意味し、そのことは必然的にそれらの作品に現実的かつ社会的な時代的アクセントを付加することになった。それにもかかわらず、イラーセクは今日でもなお、最も多く読まれている作家の一人である。第二次世界大戦後の時代に、彼の作品を親しみやすくポピュラーなものにしたことに関しては二人の人物の功績に負うところ大である。その一人はイラーセクの作品の出版(1949−1958、「民族の遺産」版)に刺激を与えたクレメント・ゴットワルトKlement Gottwaldであり、もう一人は、イラーセクの生前、そして改めて1945年以降、彼の作品の進歩的性格を指摘し、その作品のために長期にわたる研究と著作を捧げ、わが国においてイラーセク作品に最も造詣の深い解釈者となったズデニェク・ネエドリー Zdenek Nejedly である。
 アロイス・イラーセク(1851−1930)はフロノフの古い農家の家系の家に生れた。彼の父はもとは織工だったが、後にパン屋になった。生れ故郷はイラーセクに生涯変わることのない感動を与えた。彼はブロウモフ Broumov のドイツ系ピアリスタ<カトリック>のギムナジウムとフラデッツ・クラーロヴェー Hradec Kralove のチェコのギムナジウムに学んだ後、絵画への愛着(彼は事実絵の才能をもっていた)と歴史の勉強にたいする興味との間で悩んだ。そして彼は後者の道を選び大学卒業後1874年にリトミシュルの中等教育の教師として世に出た。その地のギムナジウムに勤務したあと、実業学校へ移った。リトミシュルにおける14年間の滞在はイラーセクに芸術創造への多くの刺激を与えた。彼はここで多くの散文、劇作品のための素材を発見し、この間にチェコの歴史文学の名匠にまで成長した。同時に彼がリトミシュルに在任中に、この町をプラハ以外の重要な文化の中心地にしたという点で大いに貢献した。1888年にイラーセクはリトミシュルからプラハへ移り、1909年までジトナー通りのギムナジウムに勤めた。彼はこの時代に傑作ロマンの大部分を書いた。
 イラーセクは学生時代からミコラーシュ・アレシュと交友を結び、時代の芸術的イメージとプランを共に担い合った。やがてプラハではその他にも多くの芸術家たちや文化の代表者たち、特にルフ派やルミール派のグループの人たち(例えば、スラーデク、トマエル、ライス、ウィンテル)と近付いたばかりでなく、若い世代の人たち(マハル、J.クヴァピル、Zd. ネエドリー)とも近付いた。彼は雑誌「鐘」Zvon の編集にも加わり、1917年には民族独立の要求を宣言したチェコ作家のマニフェストにも参加した。彼はプラハで死に、フロノヴァに埋葬された。

 イラーセクは文学的キャリアを民族的、愛国的精神の詩作品でもって始めた。彼は最初の散文作品の主題を同時代の農村の現実から取った。しかし彼の最初の長編小説<ロマン>『スカラーク家の人々』Skalaci (1875)にいたって初めてしかるべき注目を浴びるにいたった。この作品は書きはじめたばかりの若い散文作家の作品としては驚くほど成熟した作品であった。イラーセクは生れ故郷の地方の百年前の時代の姿を外面的にも内面的にも捕えることのできるずばぬけた知性と感性をもって――保存されていた当時の人々の報告をもとに――ナーホツコにおける外人の領主ピッコロミーニにたいする民衆の抵抗を描き出した。ここには明らかに民主的な、そしてとくに社会的意識が映しだされており、イラーセクは民衆の英雄イジー・スカラークにたいする心からの共感を示している。
 それほど古くはないナーホツコの領主の歴史からイラーセクは続く二編のロマンの素材も得ている。ロマン『領主の館にて』Na dvore vevodskem(1877)ではナーホツコの領主館における十八世紀末の啓蒙的雰囲気と奴隷労働を阻止しようとする愛国者たちの努力を描き、『この世の楽園』Raj sveta (1880)えは前の作品に続いて、ナポレオン戦争集結後の、いわゆるウィーン会議の時代のウィーンの雰囲気を描いている。
 リトミシュルと、その町のそれほど遠くない、またはほとんどいまなお生きている過去は、70年代後半以後のイラーセクに新しい素材を提供した。彼をその方へ向かわせたのは記録された文書と口伝えであった。リトムシュルを主題とした最もせいこうしたイラーセクの作品は『哲学的物語』Filosoficka historie(1878)であり、チェコの学生によって代表される愛国的傾向がドイツ化された小市民的保守主義と衝突する三月事件以前期のリトミシュルの社会の情景を呈示している。ユーモラスで微笑ましい学生の物語のなかに1848年のプラハのバリケード事件の反響が悲劇的な楽音を響かせている。――過去の再興期時代のリトミシュルからイラーセクは短編『騎士たちのもとで』U rytiru(1880)と『古い郵便局で』Na stare poste(1881)の素材を得ている。これらの作品は後に『哲学的物語』とともに『小街区物語』Malamestske historie(1890)一巻のなかに収められている。
 80年代はイラーセクの芸術的発展において創造力の大きな発展の最初の時期を意味している。イラーセクは しばしば平行的に 民族の歴史のいろいろな時代から、一連
の大小の作品を書いている。特に、白山後時代とフス主義時代とからのものである。これらの二つの主題的グループの作品に特徴的なことはイラーセクがいかに意識的にそれらの作品のなかで民衆の反抗の主題を全面に押しだしているかである。この主題はすでに『スカラーク家の人々』のなかで極めて明瞭に鳴り渡っている。つまりそれは民族、宗教、そればかりでなく社会的正義の抑圧にたいする抵抗である。そして同時にそれらの作品のなかには過去の歴史の描写におけるイラーセクのコレクティヴィスムの概念がより一層鮮明になっている。
 散文作品『財宝』Poklad(1881)――18世紀末のポトチェイナ城で演ぜられる物語――はこの作者の創造的全盛期への移行を示す一つの前触れである。イラーセクはここで東チェコにおける啓蒙的、覚醒的努力の最初の徴候をとらえている。短編の『隣人たち』Sousede (1882)は大きな意味をもつ。この作品は「白山後」期の移民と、彼らの祖国にたいする関係の問題にも触れている。十五世紀のチェコ歴史からの偉大な歴史絵巻への準備期の成果は『国外での勤め』V cizich sluzbach (1883)である。この作品はヴラディスラフ・ヤゲロンスキーの時代に、ランツフート Landshut をめぐるバイエルン地方の貴族たちの抗争のんかでたどるフス主義者たちの子孫たちの運命を描いている。 この時代の実質的な最初の大作はロマン『ホツコの人たち』Psohlavci (1884)であり、理念的には『スカラーク家の人々』に結びつく。『ホツコの人たち』を書くことにイラーセクを駆り立てたものは、ホツコやホツコ人の個人的な認識もさることながら、十七世紀末、相続してきた権利の保持のために闘った彼らの先祖たちの勇敢なる戦いもあった。イラーセクはヤン・スラトキー−コジナやその他の一連の人物たちのなかに芸術的に説得性をもつ英雄のタイプを創造した。彼らの反貴族的姿勢は自己の問題の公平さに関する固い信念の表現である。同時に彼はホツコの農村の民衆の集団と民衆環境を見事に描き出し、その表現の色彩性は彼の絵画の才能と現実の創造的観察力を証明している。――白山後時代からイラーセクはロマン『スカーリ』Skaly (1886)の題材を取っている。彼はそのなかで革命的司祭ウリツキーという人物を描き出している。彼は封建的抑圧者たちにたいする民衆の蜂起に火をつけようと努力したが、最後には処刑台に消えた。
 80年代の終わりにイラーセクはチェコ歴史から取った雄大な文学的描写手法へと移行していく。彼は民族の歴史の広大な流れを描き出そうと努めた。そして、それは彼が民族の民衆的力が最高の盛り上がりの表現を見た時期――つまり、フス運動の時期であった。――三部作『流れのなかに』Mezi proudy (『二つの宮廷』Dvoji dvur,1887 、『火の鳥の息子』Syn ohnivcu,1888、『三つの声のなかに』Do tri hlasu,1890 )はこの種のものの第一作である。イラーセクはもともとこの作品をもっと大規模な作品にする構想をもっていたが、その時代の市民階級の批評の側の敵意ある反応が彼に構想を変更させた。その否定的批評の根拠は大部分がイラーセクの進歩的歴史観にたいする反感から出たものであった。
 イラーセクはここで課題としてフス主義運動の発端を取り上げている。前フス主義時代の専門家として彼は、そのじだいの社会的雰囲気やその時代の宗教生活の問題に読者を引き込むことができた。三部作の第一部(『二つの宮廷』)が本来、広大な呈示部である。イラーセクは教会内の改革運動の社会的かつ道徳的本質を示し、増大しつつある反教会的な、同時に反貴族的反抗の本当の担い手が聖職者や知識人階級から出てきた個々人ではなく、なによりも平凡な民衆であることを強調している。その民衆の典型的な代表はロマン『火の鳥』のなかのシープ Sip である。彼は自分の経験から高位の僧職者たちの道徳的退廃と一般民衆の社会的差別を認識している。彼に対立する大司教ヤン・ス・エンシュテイナはチェコ・ルネッサンス期の聖職者貴族の典型である。彼の放蕩生活からクリスチャン的謙譲への悔恨の転向は単に内面的理由からばかりでなく、政治的原因によってもたらされたものである。この二人の個性ゆたかに描かれた人物とともに、このロマンの最も成功した人物はヴァーツラフ四世王である。彼は民衆的な、ある意味では、民主的な支配者としてとらえられている。王はヤン・ス・エンシュテイナとの論争において増大する教会と大貴族の勢力にたいする反感を表明する。イラーセクは民族の要求と利害にたいするヴァーツラフ王の理解を賞賛している。そのことは三部作の終末における「クトナ山勅令」Dekret kutnohorsky の王の署名によって表現されている。――イラーセクは彼のロマンのなかで他の歴史的人物、とくにヤン・フスやヤン・ジシュカを場面に登場させている。だがこれらの人物はむしろ脇役的役割しかもっていないが、それはイラーセクがすでに述べたように集合的社会的事件を描くことに特に力を入れたことの結果である。
『流れのなかに』がフス主義運動の予兆期を描いたのにたいして、続くロマン『すべてに反して』Proti vsem(1893)はフス主義革命の第一期と同時に早くも絶頂期を描いている。したがって両作品の時間的関連は直接的ではない。『すべてに反して』がとらえているのは1419−1420年の期間であり、この時期にジシュカの指揮のもとに外国のまた国内の封建権力、法王権の代表者にたいする民衆の反抗の波が盛り上がり、しかも子のときすでに個々の方向、グループの分化が始まっている。イラーセクの共感は特にターボル派にたいして全面的に向けられており、そのなかに革命イデオロギーの本当の担い手を認知している。この作品の思想的かつ芸術的頂点はヴィートコフ Vitkov の戦闘の描写である。ロマン『すべてに反して』が民族史の群衆画であるにもかかわらず、この作品にも何人かの明確に個性化された人間タイプを見出だすことができる。それは、特にズデナ夫人とその夫の司祭ビドリンスキーである。彼らの運命の上にイラーセクはフス主義運動のなかにおける分離は運動の悲劇的な結末を示している。
 イラーセクはロマン三部作『友愛団』Bratrstvo (I.ルチェネッツの戦闘 Bitva u Lucence,1899 、II. マーリア Maria,1904 、III.物乞いたち Zebraci,1908 )によってフス主題へもどった。今度はフス主義運動の終焉と低落期を選んでいる。彼はリパニの戦闘で敗北した「聖杯派友愛団」の仲間たち、またターボル陣営兵士の残党の運命を描いている。彼らはスロバキアでヤン・イスクラ・ス・ブランディースの支配権の確立を助け、有名なルチェネッツの戦いではマジャールの軍隊にたいして勝利を収める。しかし、やがて友愛軍団」はもはや略奪を目的とした遠征をおこなうようになり、内部的にもばらばらになっていく。隊長タラフーサやその恋人マーリエの人物像のなかにイラーセクは性格描写の技巧と心理的性格づけの能力を証明する素晴らしいタイプを創造している。ロマン『友愛団』は第一次世界大戦以前の時期におけるチェコ−スロバキア接近の傾向にとって大きな意味をもった。そしてそのことはチェコとスロバキアの民族的発展の歴史的関連性を指摘したことにもある。
 フス時代の大ロマンと同時にイラーセクはプラハとチェコ農村における民族再興運動の物語をとらえた二つの膨大な作品を創造した。
 五部からなるロマン『F.L.ヴィェク』F.L.Vek (1888−1906)は民衆啓蒙家ヴィェクの伝記的物語に基づいてわが国の再興運動の始まりと発展を描いている。このロマンの主人公のヒントとして、また部分的にはモデルとしてイラーセクに仕えたのはフランティシェク・ヴラディスラフ・ヘク(1769−1847)である。かれはドブルシェの商人で、ドイツ語で書かれた興味ある「回想」Pameti の著者である。
 ヴィェクの運命はイラーセクの描写のなかで最初の啓蒙世代、ターム Tham とプフマイエル Puchmajer の再興運動の努力と密接に結びついている。ヨゼフ二世時代とヨゼフ二世後のプラハは、時代生活の外観ばかりでなく、その社会的、思想的、感情的雰囲気をも適確にとらえたイラーセクの描写の名人芸的によって見事に描き出されている。。特にイラーセクは再興運動初期のチェコ社会における民族意識の萌芽と成長を、いかなる愛国的感傷主義も排した客観的な語り口によって極めて効果的にとらえた。その実例として『F.L.ヴィェク』第二部14章「生と死について」から「クラメリウス」の場面の一部分を少し引用してみよう。

「それはカレル王時代の、別のときだったよ」ヴィェクは絵の前から離れながら言った。
「じゃ、もう、そんな時代は来ないと、彼らが思っているとでもいうのかい?」そう言いながら、クラメリウスは自分のまえのテーブルの上にその手紙を置いた。ヴィェクは少し顔を赤らめた。彼はその言葉のなかに、彼がチェコ語にたいして疑念をもっているとフニェコフスキーがさっき言ったことにたいする非難を感じたからだった。しかし、クラメリウスは彼を理解して、大きな青い目でじっと彼を見つめながら、言葉を続けた。
「彼らだけじゃないさ。今より、もっと悪くなるだろうと考えている連中は他にも沢山いる」
「しかも、それは最も教養のある君じゃないか」フニェフコフスキーはその言葉に割って入った。彼らはフランス人やイギリス人、今ではドイツ人たちのなかにもあるような言語芸術を考えているんだ。だが、われわれの言語芸術にそれに対抗しうるものが果たして有りや否やだ。ドブルフスキーがわれわれと同様に有りと信じているかどうかはわからんがね」
「信じているさ」クラメリウスはやや撫然たる面持ちで言った。「そのほかには、ほんのわずかしかいない。その一人がコルノヴァだ。彼はそこに座っていた。ぼくたちは二人だけで愛国心の重要性について語り合ったのだがクラメリウスは背後のすでに日陰になっていた書棚のほうを示した。それはもう遅い昼下がりで、ミハルスカーの狭い通りから、ひさしに覆われた部屋のなかに多くの日光は差し込んでこなかった。ただ頭にかつらを置いて、襟の後部が高くなったダークグリーンの上衣を着たクラメニウスだけがいっぱいの日の光のなかにあったが、それは格子窓の側近くに立っていたからだった。
「しばらく、そうやって見てたがね、不意に教授がチェコ語で言ったよ。『かって有ったものがだんだんなくなっていく。われわれの先祖は当時はあらゆる教養に対応することができていたのだ。ところが今はどうだ! われわれのなかからも、だんだん消え去っている。われわれは最後のチェコ人だ』とね」
 ヴィェクも、そこにいる全員も非常に熱心にわが国の歴史について語った学識ゆたかなコルノヴァの教え子だったので、みんなが驚いた。これほど尊敬する人の言葉が彼らを打ったのだ。みんなの食い入るような視線がクラメニウスの上に注がれた。それからどうした。クラメニウスは微笑んで続けた。
「そこで、ぼくはすぐに続けて言ったものさ。いえ、先生、私たちは最初のチェコ人ですとね」

 イラーセクは直接的にしろまた間接的にしろわが国に影響を及ぼしたヨーロッパの事件にたいする当時のチェコ世界の反応――つまりその事件がフランス大革命であれナポレオン戦争であれ、それらの事件と平行してチェコ愛国主義者のロシアにたいする近親感が最高の段階にまで高まった事実――を十分の説得性をもって描き出すことができた。イラーセクは民族再興運動を民族の広い層から成長した運動としての、大衆的過程として理解し、説明した。それゆえに特徴てきなことは、彼のロマンにおいて先頭に立つのは決して啓蒙的な大人物ではなくて、小さな日々の民族意識を目覚めさせる労働の実践者である。イラーセクは『F.L.ヴィェク』のなかで十八世紀の終わりと十九世紀の始めのプラハとともにチェコの農村における、そしてチェコの田舎の小さな町、特にドブルシュカにおける再興運動の第一段階の物語をも描いている。
 イラーセクは彼の生れ故郷のナーホツコ地方における再興運動の過程を『わが国では』U nas という四巻からなる膨大な編年史(I.『荒れ地』Uhor,1896 、II. 『新事件』Novina,1898 、III.『種蒔き』Osetek,1902 、IV. 『せんぶり』Zemezluc,1903 )のなかに描いた。『F.L.ヴィェク』とは異なり、ここでは再興運動のその後の第二期に集中している。彼は農村の小さな町パドリー、すなわちフロノフとその周辺の1823−1852年の期間、従ってわが国の農村の啓蒙運動の初期(それはプラハと比べると明らかに遅れていた)からその最高潮の年かつバッハ反動体制の始まりの年1848年までを描いている。イラーセクは素朴な人々、その大部分は貧しい山間地の職工たちの生きる社会条件の重圧をとくに強調した。彼らの物質的窮乏は精神的にも経済的にも発達を遅れさせた。イラーセクのロマンのなかではパドリーの教区司祭ハヴロヴィツキーはこれらのすべてと戦う。これは啓蒙的司祭ヨゼフ・レグネルの物語上の人物であり、イラーセクはすでに彼の記念に最初のロマン『スカラーク家の人々』を捧げている。自由にただようかのように語られる幾本かの事件の筋は読者を集団的民衆の生活と同様に、幾人かの個人の連合に近付ける。
『F.L.ヴィェク』と比較してみると、イラーセクは編年史『わが国では』の場合には民族再興運動の過程の社会的問題性を特に強調している。それゆえ1852年、ハヴロヴィツキーの死によって終わる彼の物語もまた必ずしも楽天的余韻を響かせているとは言いがたい。イラーセクは、1848年の理想が実は農村の人々を幻滅させるようにいかに利用されたか、そしてその後間もなくふたたび弾圧政治が強化されていった様子を示している。
 第一次世界大戦直前になってイラーセクは、完結したものとしては最後の作品となるロマン『暗黒時代』Temno (1913)を書いて出版した。そのなかで彼は時代をふたたび反革命時代、しかもその絶頂期にもどった。彼は十八世紀20年代のチェコにおける勝利をおさめたエズイット派の支配を描いている。その頃はまだ明るい未来の到来を予測することすら不可能であった。イラーセクは読者をプラハに、またチェコ農村に誘い、エズイット派たち(そのなかにはコニアーシュ神父が暗示的に描かれている)が至る所でいかに狂信的にチェコ人民のなかから「異端者」の最後の一人まで捜し出そうとしているかを示している。内密の反カトリック信者たちのなかには、彼らの父祖たちの信仰を守り続けようとすれば、国外に脱出するしかなかった。このロマンはヤン・ネポムツキーの壮麗な神の賛美の説教の大場面で終わるのだが、エズイット派たちはネポムツキーの祭式によってチェコ人民の間にあるヤン・フスの記念碑を拭い去ろうとしたのである。イラーセクのこの悲劇の時代の描写のなかには一筋の希望の光すらも差して来ないように見える。それにもかかわらず彼の作品の結論はなお勇気を鼓舞するものがあり、それはとくに民族のなかの民衆層の士気と不屈の精神を示し強調したという点にある。第一次世界大戦中『暗黒時代』はチェコ人の最高の愛読書となった。なぜなら暴力をもとにした権力のはかなさをおしえているからである。
 イジー・ポヂェブラッツキーの運命と支配を描いている『フス派王』Husitsky kral
(1919、1930、未完)はイラーセクの最後のロマンとなるはずだった。察するに(Zd. ネエドリーと同意見)イラーセクはこのロマンを書き進めるうちに、選んだ歴史上の人物にたいする内面的関係を失ってしまった。したがって作品本来の概念が分裂し、この作品が未完に終わったのである。
 芸術的に最も成功したイラーセクの作品のなかに『チェコの古い伝説』Stare povesti ceske (1894)が入る。この作品のためにイラーセクはコスマスやダリミルの年代記、その他の古い文献から素材を得ている。しかしそれらに個性的詩的価値を盛り込んでいる。同時に民族的、愛国的モメントを前面に押し出されている。『チェコの古い伝説』と並んでイラーセクの物語作品 povidka『チェコから世界の果てまで』Z Cech az na konec sveta(1888)もかなりの読者、それも若い読者の人気を博した。この物語はシャシィェク・ス・ビーシュコヴァ氏の旅行記に基づいてイジー・ポヂェブラッツキーのチェコ使節の西ヨーロッパへの遍歴の旅を描いている。イラーセクは青年時代とリトミシュルでの教師時代の思い出を『私の記憶のなかから』Z mych pameti (1909、1921)と呼ばれる二巻のなかに書き綴った。
 イラーセクは戯曲作家としても成功をおさめた。彼は12本の戯曲を書いたがそのほとんどは国民劇場で初演された。イラーセクのドラマの大きな役はエドゥアルト・ヴォヤンが演じ人気を博した。一方、イラーセク劇の大部分は今日までチェコ演劇のレパートリーのなかに加えられている。これらの長い生命を保っている劇作品のなかに史劇三部作『ヤン・フス』Jan Hus (1911)、『ヤン・ジシュカ』Jan Zizka (1903)、『ヤン・ロハーチュ』Jan Rohac (1914)と、特に童話劇『ランタン』Lucerna (1905)が含まれる。イラーセクの二編の現代劇は特別の意味をもっている。その題材はリトミシュルの農村の環境のなかから取られている。その作品とは『ヴォイナルカ』Vojnarka(1890)と『父』Otec(1894)であり、そのなかには世紀末の階級的に尖鋭化した農村における社会問題が反映している。この戯曲二作品は90年代のチェコ・ドラマと演劇において批判的リアリズムが決定的な有効性を発揮するにいたることへ極めて大きな貢献をした。








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