(10)ジークムント・ウィンテル/Zikmund Winter


 アロイス・イラーセクと並んで十九世紀末から今世紀初頭にかけてわが国の歴史文学の重要な代表者はジークムント・ウィンテルである。彼もまた――イラーセクと同様に――高等教育を受けた歴史家であった。しかし彼のより一層ポピュラーな仲間との相違点は、彼が歴史のイデオロギー的説明の努力なしにチェコの過去からの文学的絵巻を創作したことである。それは確実な事実認識を徹底的によりどころとする歴史研究にさいしての哲学的思索にたいする不信から出ている。歴史発展の内面的動機の追跡と結合にたいする理解の不足によってウィンテルはパラツキーからも、また当時のわが国の最大の歴史学の代表者ヤロスラフ・ゴルからも区別される。
 ウィンテルのこのような歴史観の原因の一つとして、師の V.V. トメク Tomek の影響と見ることができるし、また他方ではチェコの小さな町(ラコヴニーク Rakovnik )の歴史の長期間にわたる古文書研究がウィンテルの関心をとくに過去の百年の人々のプライベイトな問題に向けさせたとも言える。
 ウィンテルは個人の運命は常に環境の圧迫下にあり、その環境にたいして人間は皆無ではないにしても、ほんの取るに足りない影響力しかもっていない。環境とは一つには外面的、客観的なものであり、他方では内面的、主観的なものであった。ウィンテルのか弱い主人公はしばしば本能と情熱の思うがままにされ、逆らうことができない。
 こうしてウィンテルは彼の最高の諸作品において、ウィンテルは人間にたいする懐疑的で運命論的な考えによってチェコの若い世代の社会学的、心理学的自然主義者たちに近いところにあり、創造的にも思想的にも関連性をもっている。ウィンテル自身はルフ−ルミール派の古い世代に属していることをその派の機関誌に公表している。

 ジークムント・ウィンテル(1846−1912)は鐘つきの息子としてプラハの旧街区<スタレー・ムニェスト>で生れた。アカデミツキー・ギムナジウムとプラハ大学の哲学科に学び、博士号を得た後、まずパルヅビツェ、その後ラコヴニーク(1874−1884)、そして最後にプラハのギムナジウムの歴史の教師となった。古文献の体系的研究によってわが国における15−17世紀のチェコの市民生活研究の第一人者となった。そしてこの時代にわが国の文化史のいろいろな分野が彼をとらえたのである。
 彼の文学作品は彼が長い間にわたって他をかえりみずに没頭してきた純粋に専門的な研究を土台として生れてきたのである。その結果ウィンテルはイラーセクよりも年長であるにもかかわらず、文学的な位置付けを得るのははるかに遅く、80年代の後半になってからのことである。
 文学者としては1883年に古いプラハの学校生活を題材にした小説『奔放な学士』Nezbedny bakalar で初めて注目を集めた。80年代のその他の作品は主にラコヴニークの古い話を取り上げている(『ラコヴニークの昔の情景』Starobyle obrazky z Rakovnika,1886、『ラコヴニークの風景』Rakovnicke obrazky,1888 )。
 90年代の初めからウィンテルはほとんど徹底的に十六世紀の終わりから十七世紀の初めにかけてのプラハの物語に集中している。その時期はずっと以前に民衆の集団的運動の反響はすでに消え去り、チェコの支配階級とチェコ社会の他の階級との断層が大きく広がっていた時代であった。ウィンテルの描写から結論づけられるのは町における社会的差別がいかに厳しく定められていたかであり、またそこでは富裕商人階級やギルドの職人たちにたいして都市の貧民とが対立して、貧民たちはぎりぎりの生存権を守っていた。彼らの窮乏は支配者層の、そしてしばしば聖職者たちの放蕩三昧な生活と対比され、そのお手本を裕福な市民階級までが自分のものとして取り入れるのである。
 90年代のウィンテルは文学者としてはまだ模索時代であった。彼のなかの歴史家が文学を支配し、文章の言葉は古風で重苦しく、素材を芸術的に支配するというよりも題材それ自体の効果のほうが強烈で、あからさまである。世紀の変り目になってはじめて、そして続く何年間かの間にウィンテルは十分成熟した作品を創作するようになる。それらの作品はとくに短編小説『この世にありしときは短く』Kratky jeho svet(1901)、『孤児ロジナ』Rozina sebranec (1903)、および『地獄』Peklo (1904)などであるが、これらの作品は例外なくウィンテルの性格描写や作品構成の最もよい見本である。そのなかで彼は、それが自分の弱点であれ激情であれ、人間にたいする無心な信頼であれ、不幸な偶然の一致であれ、それらに打ちひしがれた人々の悲劇的運命を描いている。
 これらの散文作品でさえも本物の古文献資料にその典拠をもっているということは、実は作品のなかにいろんな種類の当時評判の裁判事件が取り上げられているという事実が証明している。しかし作者は無味乾燥な古文献の語りから創造の衝動と芸術的効果を引き出している。例えば短編小説『この世にありしときは短く』がそのことを実証している。ここでは若い不幸なティーンの町の教師ヤン・ピストルのことが語られている。彼はあるふしだらな女を正しい道に導こうとするが、彼自身がその女の愛人であると疑われることになり、嫉妬に狂った夫に殺される。その小説のまさに結びの部分の引用は古文献の記録を作品の芸術的コンテクストにおいて利用する作者の能力の証拠である。殺された若者の貧しい所持品の単なる列記は、この小説の最も効果的なポイントとして作用する。

    ヤン先生の葬儀から三週間ほどたった。
    ティーン小学校に見るからに気の弱そうな田舎者の老人が入っていった。頭には羊の毛皮の帽子をかぶり、短い毛皮のコートを着て足には皮の長靴をはいる。それはかくしゃくとした老人である。彼は激しい勢いで回れ右をしたが、まるで何かに動転しているかのようであった。老人を学校まで案内した井戸の水運び人は二度も校門を示してやらねばならなかった。
    それは死んだ先生の親父さんだった。
    老人は息子の遺品を引き取りに来たのである。
    苦学生のビエロフラーベクがそれを保管していた。それというのも、もっと地位の上の人は誰もそんなことをしたがらなかったからだ。その彼は無造作にその遺品を取り出した。擦り切れた短い袖のスクニェ、穴が空いて血のこびり付いたよれよれのコート、シャツ二枚、堅い履きふるしたブーツ、とめ金つきの新しい靴、しみのついたレースのタルツェ、帽子、それにコディチルの本。
    老人は何も言わずに、それらのものを先生の貧しいベッドに残されていたシーツにくるんで、みすぼらしい包みのなかのわが子の遺産をティーン小学校から運び出した。
    この小さな包みこそ、この老人が豊かに実るべきあらゆる希望の代わりに得たものだった。

 ウィンテルはプラハを主題とした小説作品を連作の形にまとめた(『プラハの風景』Prazske obrazy,1893 、『古いプラハから』Ze stare Prahy,1894 、『十六、十七世紀の古いプラハ小説集』Staroprazske novely z 16.a 17.veku,1896 、『古い手紙』Stare listy,1902、『嵐と通り雨』Boure a prehanka,1907 その他)。
 ウィンテルはまた唯一の長編小説<ロマン>『カンパヌス師』Mistr Kanpanus(1909)を「白山前」期および「白山」期の時代に設定している。この作品はプラハと、多数のその時代の人物とともにプラハ大学の生活の広大な絵巻物である。作者はそれらの人物のなかでも、とくにカレル大学の最後の学長でありヒューマニスティックな詩人でもあったカンパヌス・ヴォドニャンスキーの運命に焦点を当てている。
 温和で感性的な学者であり、詩人である彼は、貴族の蜂起 stavovske povstani と白山後の報復の時代のなかに大学をリードしようと努力した。彼は旧街区広場 Staromestske namesti でのチェコ貴族たちの悲劇的最後の目撃者であり、最初の再カトリック化弾圧の時代を体験する。そして大学がエズイット派教徒の手に陥るのを防ぐために、最後には自ら白山の勝利の信仰へと転向する。だがその犠牲も空しかった。それゆえ、カンパヌスは自ら命を断つのである。
 ウィンテルの弱々しい不幸な主人公は時代的な大きな信憑性をもって描かれており、それ自身のなかに世紀の分岐点における知識人の多くの性格を同時に備えている――とくに、内面的矛盾と消極性であり、それらはウィンテルの時代の大部分のチェコの知識人層の特徴でもあった。
 Z.ウィンテルは学問的領域においても大きな権威を獲得した。それは一連の文化史的、民族学的大著によるものである。そのなかで最も重要で今日でも価値があるのは、とくに、二巻よりなる『チェコ諸都市の文化的風景』Kulturni obraz ceskych mest (1890、1892)と『十五世紀初頭から白山の戦いの時代までのチェコ各地における衣装の歴史』Dejiny kroje v zemich ceskych od pocatku stoleti XV.az po dobu belohorske bitvy
(1893、この作品の第一部はチェニェク・ジーブルトが書いた)である。
ウィンテルのその他の作品は、特にチェコの学制、職人、及び商業の歴史に注がれている(『プラハの大学の歴史』Deje vysokych skol prazskych,1897 ,『プラハの大学生活』O zivote na vysokych skolach prazskych,1899 、『十五、十六世紀チェコにおける専門学校の生活と教育』Zivot a uceni na partikularnich skolach v Cechach v XV.XVI.stol.,1901 、『十四、十五世紀チェコにおける職人と商業の歴史』Dejny remesel a obchodu v Ce
chach v XIV.a XV.stol.,1906 )。








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