(13)ヨゼフ・ホレチェク /Josef Holecek


 ヨゼフ・ホレチェク(1853−1929)はストジツェ・ウ・ヴォドニャンに生れ、幼児をそこで過ごした。彼はターボルの経済学校で学び農業経済学者になるはずだったが、若いころから文学とジャーナリズムに没頭した。南チェコ学生年鑑「アネモンキ」(1871年、ヤロスラフ・ヴルフリツキー、フランティシェク・ヘリテス、その他とともに)に参加し、ブルガリアの大衆詩の翻訳によってプラハの「芸術会議」Umelecka beseda の注目を集めた。スラヴ文化またスラヴ世界にたいしても、ホレチェクはすでに学生時代から愛着をもち、やがてこの関係はスラヴのみ南方の地、またロシアでの生活によって深められる。ホレチェクは最初、ザグレブで家庭教師として働き、後に 1875−1876年のトルコにたいするチェルナー・ホラ人の反乱の間 民族新聞(Narodni listy)のチェルナー・ホラ通信員になった。チェルナー・ホラの滞在から、彼は幾編かのチェルナー・ホラの人々またその解放の戦いについての出版物、文学的著作、『チェルナー・ホラ』(1876)、『自由のために』(1878−1880)、『チェルナー・ホラの青春スケッチ』(Junacke kresby cernohorske,1884-1889)その他を生み出している。これらの作品によって彼はチェコ人民階級におけるスラヴ民族の相互依存性の意識を強め、また同時に抑圧者にたいするスラヴ小民族の頑強な抵抗の実例によって反ハプスブルク家の国内での闘争に目覚めたのである。

 ホレチェクはまたチェコの一般社会に南方スラヴ民族民衆の文学を紹介した。彼は一連の南スラヴ民族の叙事詩(『ヘルツェゴヴィナの詩歌』Pisne hercegovske 、『セルビアの民族叙事詩』Srbska narodni epika 等)の詩の訳を出版した。スラヴ民族の作品とともにフィンランドの民衆詩も翻訳家としてのホレチェクをとらえた。傑出した訳業としてはフィンランドの大叙事詩カレワラ(五巻、1894−1896)の翻訳とフィンランドの民衆抒情詩『カンテレタル』Kanteletar からの選集(二巻、1904、1905)がある。
 ホレチェクはスラヴ民族およびその文化の知識をバルカン半島だけに限定せず、旅行と体系的な研究によって拡大した。70年代にはスロバキアを知り、以後ずっとチェコ・スロバキア友好の宣伝者となった。1887年にはじめてロシアを訪れるが、ロシアでは南スラヴ民族にかんする論文ですでに知られていた。それで彼自身もロシアへの旅行にそなえてロシア文学の十分な知識をたくわえたが、なかでもツルゲーネフをとくに高く評価した。ロシアではとくに「スラヴィヤノフィル」派のサークルと親しく交わった。彼らのスラヴ文化志向やまた、農村民衆の道徳的価値観ないしは隠れた価値観にたいする彼らの熱狂を共感をもって受けとった。スラヴィヤフィル派の人たちは、そのなかに民族社会の損なわれていない核をみとめたのである。だが同時にホレチェクはこのようなスラヴィヤノフル的意見にも影響されて、わが国の当時の社会的状況の判断にも、彼本来の思想的保守性が一層強調されて現れた。それはとくに社会的不平等の改善と社会発展の高い段階への到達は民衆の啓蒙的かつ道徳教育、および社会改革の過程を経てのみ可能であるという確信であった。これらの考え方の痕跡を幾つかその後のホレチェクの文学作品のなかに見出だすことができる。ホレチェクはさらに何度かロシアに戻った。同時代のロシアおよびチェコ−ロシアの関係についてのジャーナリスティックな考察は『ロシア−チェコの章』Ruskoceske kapitoly,1891: オーストリアの検閲によって発禁になる)および『ロシアへの旅』(Zajezd na Rus,1896,1903;二巻)に収められている。
 しかしホレチェクのインスピレーションの主要な源泉は彼の祖国、そして生れ故郷、南チェコでありつずけた。その土地の人々の生活、伝統、そして現在もがホレチェクに思想的、芸術創造的刺激を不変に与え続けた。
 そのことはホレチェクの長大なロマン・チクルス『わが同胞』Nasi のなかに明確に現れている。この作品は十巻(十二冊)からなり、1898年から1930年にかけて出版された。作品はこの著者の最も個性的な創造的遺産であり、彼のライフ・ワークである。そのなかにはホレチェク文学の力強い側面も議論の的となるべき側面も映し出されている。

 『わが同胞』にたいする基本的創造衝動をホレチェクに与えたのは彼の子供時代の思い出である。連作の第一巻(I.わが国ではいかに生き、またいかに死ぬか Jak u nas zijou i umiraji :II.フランティークとバルトニュ Frantik a Barton )は子供の世界、子供らしい自然の発見、そして現実の環境そのものの詩的描写となっている。同時に子供の心は大人の世界や考え方にたいけつさせられて、この世界や知性の姿勢が著者によって子供の汚れ無き倫理規範に基づいて判定されている。第二巻(バルト)から著者は徐々に南チェコ農村の社会生活と過去、未来におけるチェコ民族社会の発展についての自己の概念を明確化することに努力を集中している。考察の中心にはバルトニュ(ホレチェクは彼のなかに彼自身の幼年時代の姿の幾つかの特徴を具体化している)と彼の父、農夫で「熱烈なクリスチャン」のコヤン Kojan が置かれる。そしてこのコヤンのモデルはかなりのところまで作者自身の父親である。

 ホレチェクは封建主義から資本主義への移行の段階、つまり十九世紀の50年代から60年代における南チェコの農村を描いている。クリスチャンではあるが教会ヒエラルキーに反発し純粋な福音派キリスト教の信者であるコヤンはとりわけ金銭にたいする利害によって左右される新しい農村形態の浸透を拒否する。コヤンは そしてホレチェクもまた古い愛国主義的秩序の保護者だった。したがって農村の社会生活の理想を過去のなかに見出だし、階級的に明確に区別された新しい関係にたいする反感は、急進的な社会変革の思想にたいする不信感とも相携えている。ここにコヤンのそしてホレチェクの保守主義の本質がある。農民賛歌はその古い生活形態を守ろうとするが、しかし同時に、人為的に長引かせようとする傾向と結びついている。教会の強制にたいするチェコの、そしてとくに南チェコの反抗の伝統は神の御手への福音主義的献身と結びついているのである。

 今日、ホレチェクの見解や社会理論にたいしては異議をさし挟まざるをえなくさせるようなこのような諸性格にもかかわらず、彼の文学作品は、とくに『わが同胞』は世紀の変り目のチェコの農村リアリズム文学の重要な要素となっているのである。チェコ文学のこの位相(フェイズ)にあって新しい作品の誕生に際しては、よりしばしば直接的生活の刺激ではなく借物の、通常西ヨーロッパの文学の刺激が利用され、したがってチェコ文学のかなりの部分がエピゴーネン的性格をもっているのであるが、ホレチェクはわが国の散文文学のなかに新しい、芸術的に個性的な価値をもちこんだのである。彼はチェコ民衆の生活と問題性に注意を向け、反教会的、反封建的な反抗の姿勢の伝統を現前させ、資本主義
の農村社会への破壊的影響を暴き、素朴な人々の手が確実な積極的な生活の価値を作り出
していくそんな人々の例と作品を、それらに抵抗して提示したのである。
 だから、これら働く人々の未来は、ホレチェクに言わせれば、個人および民族の平等化によってのみ確実にすることができるというのである。ここにいたる過程をホレチェクに示したのは、まさにわが国社会のスラヴ的、向ロシア的指向性であった。
 ホレチェクの芸術的軌跡およぴ文学的、政治的、社会的思想の認識のためには彼の文学
的―回想録的作品『ユリウス・グレーグルの悲劇』(Trageie Julia Gregr, 1914-1918)
と『ペン』四巻(Pero, 1922-1925)が重要な参考資料となる。









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