IV. 市民層の文化的優位のj時代における文学の実生活との結合の努力――

[十五世紀七〇年代から十七世紀二〇年代まで]



(0) 序
(1) 文学のあらたな発展のはじまり
(2) 人間主義の第一世代
(3) ヒネク・ス・ポジェブラット
(4) 同時代のその他の作家と文学作品
(5) 市民文学の開花
(6) ブラホスラフの時代
(7) ヴェレスラヴィーンの時代



チェコ社会のなかで文化的かつ経済的生活の上で権威中の権威であった教会の専制の崩壊、独自の聖書解釈に対する個人の権利の主張、また、人間の個性の強調、新しい社会勢力としての市民活力の意義の増大、これらの諸要因がイタリアを揺籃の地とするルネサンス時代がついにチェコでも開幕するための基礎条件を形作ったのである。この経過は大なり小なりあらゆるヨーロッパの国々が経験した過程であったが、ただチェコの国内の諸事情が他国とはちがった形態を与えたのである。
チェコではこの時代に起こった文化的かつ社会的問題の解決の努力はしばしば宗教的形態をとったから(実は、この点にかんしては多くのものがフス主義と結びついていた)、結局、わがチェコ国もいわゆるヨーロッパ的改革の中に組み込まれたのである。宗教問題において聖杯派とカトリックとのあいだにはいくつかの一致点があったが、(同じ聖杯派でありながら)友愛団 jednota bratrská は行的に認められた教会の枠外にあったからしばしば迫害を受けた。やがて新たにルターのいくつかの思想も広がり始めたが、その理念は聖杯派の教義よりもさらに戦闘的性格のものであった。
チェコ国内では全体の発展はけっして直線的ではなかった。都市の利害はふたたび台頭してきた貴族たちの利害と矛盾したし、それにまた王の宮廷の利害とも対立した。諸都市は確かに文化の領域ではリーダーシップを取ったが、政治・経済的には南や西ヨーロッパの諸都市に比べると、その地位ははるかに見劣りがした。それにまた貴族たちにたいし依存の度をだんだん強めていった王の仇敵が政治的主導者の地位につけるはずもなかった。そのことはイジー王の死後、チェコの王位についたポーランドのヤゲロネッツ家王朝(polská dynastie Jagellonco * ポーランド語の発音では「ヤギェウォ」。本書ではチェコ的な読み方を用いる)の支配の時代でも同じだった。この王朝の最初の王ヴラディスラフにたいして小話的調子を盛り込んだチェコ貴族たちの宣言文は、他のあらゆる広範な文献にもましてそのことを物語っている。

「貴下はわれらが王なり。ゆえに、われらは貴下の臣下(貴族=主人) なり」
Ty jsi náa král a my jsme tvoji páni.
<訳注・表向きの意味はこの訳の通りである。だが「貴族」「臣下」ないしに相当する言葉 páni (pán の複数形) が曲者である。この語には宮廷の「貴族」である限りにおける「臣下」という意味と同時に、「貴族」=「領主」=「主人」と言う意味もある。貴族は通常はどこかの土地の領主であり、その領地では「主人」である。したがってこの文章をくだいて訳せば「あんたは私らの王さまだが、私らはあんたの『主人』だよ」という意味にもなる。日本語にも似たようなニュアンスの言い回しがある。「あんたが大将、あたしは元帥」。つまり、チェコの臣下どもは最初っからヴラディスラフ王を馬鹿にしてかかっていたと言うことなのだろう>

そして貴族たちは国内ではこれまで以上に自由に振舞った。なぜならヴラディスラフが一四九〇年にハンガリーの王位も得て、宮廷はブディーン(ブダペスト)に移ったからである。ブディーンにはやがてヴラディスラフの後継者ルドヴィークも腰をすえたが、彼はチェコ以外のことで忙しかった。つまり南ハンガリーでのトルコとの戦争がおこりかけていたのだ。ヴラディスラフがハンガリーの王位を獲得したことには、さらにもう一つの意義がある。それはチェコとスロヴァキアが数世紀のあいだ同一国家形態に結合されたということである。
わが国の不均衡な社会的、政治的発展は宗教的不安とあいまって大学にも不幸な影を落とした。大学がフス主義を標榜して進歩思想の先頭に立ち、前進的発展の支えであった時代は過ぎ去った。大学派新しい思潮から身を守り、保守的機関となった。そして、ただ一つの学部(芸術学)をもつのみとなった。

造形芸術はそうではなかった。宗教的主題のなかに現実的要因、現代性、生きた人間が徐々に浸透していくのである。プラハの最も古い写生はこの時代の『スヘデル年代記』 Schedelva kronika のなかに描かれていたものだ。現実指向を実証する一つの断面は本の装飾画のなかにはっきりあらわれている。たとえば、ヴラディスラフの合唱本は、現実的な要素を装飾頭文字のなかにいっそう多く取り入れている(民俗的なもの、献堂式の要素など)。だから重要な建築家B. レイタについては、とくにそのことがいえる。この時代(エポック)の交替期の影響は、当時の最も偉大な画家、いわゆるリトムニェジツキーの画匠といわれるチェコの最初の肖像画家の作品にも反映している(彼はアルブレフト・ス・コロヴラットの肖像の画家である)。肖像画と風景画とは現実性と描かれる対象の個性をとらえるということへの、当時の造形芸術家の執拗なまでの関心を示しており、その関心こそはルネサンスの到来の徴候なのであった。一方、ゴチックの芸術においては、あらゆるものの尺度は神であったが、ルネサンスにおいてはその尺度は人間となる。もちろんルネサンスはその転換が極端にまでいたったとき崩壊する。なぜならあまりにも完全な人間を「創造した」ために、その人間そのものが「生命を失った」からである。

チェコの文化領域で最高の発展を遂げたのは造形芸術と音楽である。この時代に大量のルネサンス式の城館(ブチョヴィツェ、インジフーフ・フラデッツ、リトミシュル、その他)や市の公共建築物だけでなく、市民の建物も建造された。それらの多くはゴチック様式からルネサンス様式へ改造されたものである。たとえば世界的に有名なテルチュや忘れがたい美しい町スラヴォニツェにあるものだ。
市民層への音楽文化の浸透にかんしていうならば、それは一種のアマチュア合唱団である教会付聖歌隊が証明している。彼らの活動は一連の歌集のなかに記録されており、その歌集は創造的側面から見ても勝ちあるものである。この聖歌隊の歌のなかにいくつかの民衆的要素も入り込んできた。これらの聖歌隊は単声部の合唱の伝統を保存する一方で、他声部合唱も育ててきた。1621年に失敗に帰した反乱のあと処刑されたクリシュトフ・ハラント・ス・ポルジッツの音楽作品はヨーロッパ的水準に達していた。ハラント個人もまたルネサンスの芸術家や学者の多面性の典型的なケースとおなじであり、ヤン・ブラホスラフその他の人たちの作品についても同様のことがいえる。しかしあらゆる領域に手をのばすというルネサンス的努力は必ずしも有利な点ばかりとはかぎらない。今日、われられが見るように広ければ浅いというたとえがここにも通用するのである。
チェコ国の発展のなかで諸都市は文化的には著しい力を保ってはいたが、政治的、経済的にはけっして力をつけていたわけではないということが、16世紀の20年代からだんだんと明らかになってきた。経済的側面から見ると諸都市は手工業的小規模生産の段階にあった(それにたいして貴族階級は自分の大領地において封建的大規模農業を発展させていた)。また、政治的にはチェコの王座へのハプスブルク家の登場(1526年)都市の発展にブレーキをかけていた。ハプスブルク家は都市と下級貴族を犠牲にして、その支持基盤を大部分、外来の宮廷貴族とカトリックに依存していた。このことによって発展は言うまでもなく封建的段階へあともどりしたのである。諸都市の政治的、経済的運命はハプスブルク家にたいする反抗の失敗によって決定的となる(1547年)。だがハプスブルク家の反革命的努力は、チェコ国の問題にとどまらず、徐々にローマ派と反ローマ派の両陣営のヨーロッパ規模での抗争にまで発展した。こうして起こった政治的緊張は、もちろんわが国の相対的に平穏な発展の可能性さえも奪った。なぜなら、わが国の場合個々の封建領主間の利害までもが対立し、遂にはチェコの貴族、騎士、都市を一方とし、国王を他方とする両者のあいだに国内の支配権をめぐる激しい戦闘に入ったからである。要するに自分たちの政治的権利を常に制限されていた貴族たちは、宗教的理由(信仰の自由の要求)から反抗していた都市側に荷担したからである。

<訳注・都市市民層にはフスの流れをくむ新教が浸透していた。そしてチェコにおけるその傾向は「白山」の戦闘から三十年戦争をへて決定的な敗北を見たあとも、「兄弟団」などにひきつがれ脈々と続くのである>

一定の宗教的妥協では状況は解決しなかった(ルドルフ憲章、1609年)。そして不満の根はいっそう深まり、それが嵩じて貴族たちはハプスブルク家への反抗の蜂起へと進んでいくのである。
新しいものと古いものとの抗争は文学作品にも常についてまわるものである。しかも、それはどこか特定の社会に属している作品や共存する作品のなかにあるばかりでなく、同じ著者の様々な作品のなかにもある。チェコ文学にとっての大きな損失は、スラヴ系の民族のなかでも、たとえば、ポーランドや南スラヴが誇るようなルネサンス文学が、広範な領域において生まれ、干渉されるための十分な安定がこの期間を通して得られなかったことである。だからといってチェコがルネサンスのイタリアとまったく無縁であり、ルネサンス文化潮流の代表的傑作、つまり、わが国のカレル四世の同時代者(ボッカチオ、ペトラルカ)の作品がわが国において知られていなかったということではない。
都市の活力は、いまや重要性をまし新しい思想の担い手にもなったが、あまりにも世俗的生活の実用性を指向したために外国文学を知り、それに肩を並べようとする努力がなかったとはいえないまでも、芸術的にはあまり価値のない教育的、道徳的文学が文学発展の正面に押し出されることになった。娯楽文学は背景に退き、時事的題材の作品(際物的小歌や風刺、その他)や後には学問的著作が栄えることになった。――しかし、この時代には、もはや中世時代のようにもともとの意味での文学(リテラチャー)の概念で一義的にくくるということはできなくなっている。なぜなら、文学と専門的著作とのあいだの境界がすでに明確になっているからである。都市の利害を表現する文学とならんで、貴族が自己主張する文学も存在する。
ラテン語はチェコ語とともに記述言語として、このあともずっと残りつづける。チェコ語はふす戦争のあいだに獲得した地位を守りつづける一方、ラテン語の作品も市民階級にも教養人が増加した結果を受けて盛んであった(ラテン語は常に高等教育の言語だった)。だが、チェコ語の作品の領域は徐々に主題的側面からもラテン語の領分から区別されるようになった。いくつかの点では、当時の文学活動はすでに現代と接近している。それは教育の向上と印刷術のおかげで、文学作品が浸透する範囲が広まり、文学はその量においても、口承文学と比較してはるかに増大した。かくして言語文化の重心は文学的表現へと移行していったのである。
フス主義時代に大きく成長した個人参加という新しい文学概念は、まだ生まれつつあるところで合ったが、およそ、16世紀の20年代にいたって結実を見る。次の段階は市民文学の開花という意味に、そして、現実性を目指した学問的文学の発展ということに意義がある――その時代的区切りは「白山」事件(前出)である。












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