(7) ヴェレスラヴィーンの時代


  文家の民主化が進展し、しばしばヨーロッパ的水準の学問的著作が急激に増加したことから、16世の後半はチェコ文学の黄金時代といわれてきた。これは正しくない――この時代、すでに科学的な著作と文学とは区別されており、文学は(たとえ量的に豊かで合ったとはいえ)高い価値をもっていなかった。この時代はむしろ文学の言語的質にとって黄金時代である。今日においては主要な人物、D.アダム・ズ・ヴェレスラヴィーン D.Adam z Veleslavín の名前によって呼ばれている。  ラテン語作品は、たとえ数的には増加し、また『ウィントゥルの作品』 Wintrovo dílo で有名なヤン・カンパヌス・ヴォドニャンスキー師 Mistr Jan Kampanus VodHanský のような傑出した人物を誇ったとしても、さらにいっそう背景に退いたのはたしかである。カンパヌスは大学で講義し、音楽に献身し、才能豊かな詩人、散文家、また戯曲作家でもあった。愛国的劇作品『ブレティスラウス』 bretislausはチェコの歴史に題材をとった作品である。ラテン語作品のなかには非慣習的な点で(感情描写や自然描写において)チェコ語作品よりもすぐれており、将来の発展(パヴェル・s・イズビツェ、ヤン・ホッリンヌス)を予告している。この時代の文化の特別の一章を記したのは、人間主義詩人と音楽家との交流の場を与えたルドルフ王の宮廷である。ラテン語作品のパトロンは老ヤン・ホジェヨフスキー・ス・ホジェヨヴァ Jan staraí Hodjovský z Hodjova である。
  学問的著作は新しい学問の方向を求めようとはせずに停滞していた大学の周辺に集中した。しかしそれにもかかわらず、学者のあいだには偉大な人物たち、とくに自然科学の領域においてチェコの学問をヨーロッパ的水準にまで向上させた人物たちがいた。たとえば、医者で数学者でもあったタデアーシュ・ハージェク・ス・ハーイクゥと医者で哲学者でもあったヤン・エセンスキーである。エセンスキーは最初の人体解剖で知られる解剖学者でもある(「白山」の後、処刑された)。専門領域の広さで典型的ルネサンス人間といえるのは哲学者、天文学者、かつ、錬金術のハヴォル・ロドフスキー・ス・フスティジャン Bavor Rodovský z HustiYan である。彼はルドルフ宮廷の錬金術師の一人に名を連ねていたが、けっして詐欺師ではなかった。彼は自分の財産を研究にささげたのである。彼はまたチェコ語の学術用語の作成に貢献した。プラハのカレル大学のそばには16世紀後半から、徐々に高度な教育のためのエズイット派の教場(クレメンティヌム)の活動が活発になってきた。

ルドルフ宮廷の生活はヤン・ウェリッヒによる『皇帝のパン屋とパン屋の皇帝』 CísaYov pekaY a pekaYov císaY という映画がいろんな面でよくとらえている。時代の「考証的」研究はP.エベンが声楽曲『プラゲンシア』 Pragensia  <ラテン語でプラハにかんすることという意味>によって音楽的に表現している。

  チェコ文化の発展に貢献したのは学識ある印刷や、翻訳者、文学運動の組織者および大学の歴史教授ダニエル・アダム・ス・ヴェレスラヴィーナ Daniel Adam z Velslavína (15461599) である。彼は自分の周囲に作家の取り巻きをあつめた。彼の義父は当時、最も有名な印刷業者イジー・メラントリヒ JiYí Melantrich であり、義父の没後、印刷業を引き継いだ。彼は三十以上の著作を出版したが、それと同時に、人間主義の教養を大衆化すること、道徳的生活、愛国的感情を高揚させ、さらにまた、自分の読者の、とくに市民たちの経済的水準をも高めるようにつとめた。出版された書物は言語的に整頓され、言語文化の。向上に寄与し言語の規範を確立した。
  ヴェレスラヴィーンの最もオリジナルな作品は『歴史暦』 Karendá historický である。この暦を構成する際に、そしてまた二編の古い年代記(『チェコ建国に関する二編の年代記』 Kroniky dv o zalo~ení zem  eské) のすっぱんに際してつけた序言においても、彼は歴史の享受としてえた経験を生かした。彼はドイツ語から国家および公共行政のためのハンドブックを翻訳したし、学校教育の必要に応えて何種類課の辞書の編纂もした。
  当時は歴史記述があらゆる文化努力の前面に現われた。そして『歴史暦』と同じく系譜学的作品(たとえば、オジュンベルスキー家の文書記録者ヴァーツラフ・プジェザンの著作)のような新しい種類のもの、歴史関係出版物、回顧録などによって豊かになった。最後にあげた種類のもののなかで、今日、明らかに知られているのは(その内容のゆえにではなく、著者そのものによって)クトノホルの『女たらしにして喧嘩屋の回想録』である。この人物は映画のスクリーンやL.ストロウペジュニツキーの文学的改作によって知られているミクラーシュ・ダチツキー・ス・ヘスロヴァ Mikuláa Da ický z Heslova (1555-1626) で、その作品は今も生きている(P.ハプカはペイシュ夫人についての詩に作曲している)。ダチツキーは並みの作家ではなかった。彼の『回想録』は文学的価値もっている。彼は詩人としても詩集『単純な真実』 Prostopravda で真価を発揮している。そのなかには「好色的」作品のほかにも、愛国詩、法王の政治を批判する詩を見ることができる。ダチツキーの愛国心の吐露はまったく限りを知らない。

獅子、チェコ国の象徴は
絶えざる
、よその種族からの
あまたのくびきに呻吟する。
かく、獅子をば責め、略奪し
雄鶏のごとく、襲いかかる。
身を守れ、われらが獅子よ、敢然と
しかして、敵を、引きちぎれ!

  フスでさえも、次の意見には異論あるまい。

法皇さまは、とり巻きと
欲につかれて、えげつない
悪知恵しぼって、たぶらかし
信者信徒を、まどわせて
ほっかむりして、ご満悦。


善男善女は、火あぶりに
身内の信者は、褒め言葉
わが身の安全、第一だ
この世で、富者であるならば
神の言葉は、願い下げ。

  その「信仰」の陰にきわめて世俗的、政治的関心と目的を隠していたカトリックの高位の聖職者にたいする批判をしたのは彼だけではなかった。無名作者の政治風刺は神の羊飼い(司祭)たちの本性と本当の姿を容赦なく、完膚なきまでに暴露している。たとえば『プラハの僧侶たちへの反響』 Echo na pra~skékn~stvo には次のようにある。

言ってみろ、プラハの坊主どもとはどんな連中だ?
                            嘘つきなり。
坊主どもはカトリックの信仰を誓ったぞ。
                            やれ、やれ。
たとえ、女に誓ったとしても、
                            嘘をついた。
それでは、やつらはペテン師ではないか?
                            そうだ。
だから、やつらは信用できない。
                            ケツの穴だ。
やつらは守銭奴で、強盗で、免罪符屋だ。
                            商売人だ。
やつらは、食うために坊主になったのだ。
                            その通り。

  時事的作品はフス遺産の再生へと向かい、エズイット派への攻撃にも事欠かなかった(たとえば、シクストゥス・パルマ・モチドランスキーのペンによって)。反乱貴族ボチュカイのモラヴィアへの侵攻(1605年)にたいして作られた「立ち上がれ、チェコ人よ、勇気を鼓して立ち上がれ」と言う作品はその扇動的な言葉によってフス革命の故事を思い起こさせた。しかもこの歌はj18世紀の歌集の写本のなかにもまだ見いだされる。
  散文の旅行記の異なった二つのタイプを代表するのは、クリシュトフ・ハラント・ス・ボルジッツ・ア・ベズドゥルジッツ(「白山」の敗北の後に旧街区広場で処刑された)を作者とする『チェコ王国からベニスへ、そこから……聖地への旅』(1608年)と、ヴァーツラフ・ヴラティスラフ・ス・ミトロヴィッツ(1635年没)のコンスタンチノープルへの旅の『思い出』 Pmti である。
  クリシュトフ・ハラントは非常に教養ある人物で、学問研究に没頭し、ラテン語の詩も作り、その上にすぐれた音楽家でもあった。その当時、おそらく最高水準の宮廷楽団をペッカ城でつくったし、彼のモテットや五声部のミサは今日でも演奏されている。ハラントの旅行記は自分の学識を誇るルネサンスの教養人の作である(巻末にこの著書のなかに用いた文献のリストを加えているが、その数は六百点にもおよんでいる)。だが、この旅行記はかなり難解な文体で書かれており、いろんな著者の引用によって煩雑を極めている。
  ミトロヴィッツの『思い出』は部分的には寄せ集めの作品(これは当時の慣例)であるが、作者は他の人の作品を自分の体験の生き生きした語りによって巧みにつなぎ合わせて、文化指的、民俗学的、地理学的背景の上に波乱に満ちた複雑な人間の生活を描き出している。たとえば、作者がトルコ人とわれわれの生活習慣を比較する部分など読むのはなかなか興味ぶかい。

  無知なトルコ人たちにもたくさんの迷信がある。そのなかで、こんなことを見たことがある。あるとき、一人のトルコ人が地面に落ちていた紙を見つけるや、ただちにその紙を恭しく拾い上げて、隙間の中に押し込んだ。これとまったく同じようなことがわが国にもある。パンが地面に落ちているとたいがいの人はそのパンにキスをして、踏みつけられないように道の脇へどける。そこで、紙にたいしてかくも丁重で、しかも大事に扱う理由をたずねたところ、トルコ人が紙にたいしてきわめて恭しく敬意を払う理由は、紙には紙の御名が記されているからだというのだ。だから、われわれの下女がごくつまらない無駄なことに紙を使うのを見て、われわれも同様に悪者だと考えるのである。

  文学生活の上から見れば、ミトロヴィッツの『思い出』はまったくなんの影響も与えなかった。なぜなら、当時、その本は出版されなかったからである(その最初の版は1777年になって、やっと出版の運びとなった)。
  「純」文学の周辺に小冊子の形で様々な事件を簡単に報告したものが合った。それは「ノヴィニ」(noviny 新しいこと)と呼ばれ、いわゆる大衆読物の分野に属し、一定の市民階層を対象とした章出版物であったが、徐々に一般民衆のあいだに浸透していった。
  ノヴィニはいわば二種類の萌芽細胞であり、次の段階で結晶する。その一つは本当の意味での「ノヴィニ」(新聞)であり、いま一つは「店売り歌集」 kramáYská píseH である。
  「大衆読物小冊子」は文学の民主化にとってとくに意義がある。それらの小冊子のなかには古い物語が転載されているし(『イジーの幻想』『グリゼルダ』、また新しいテーマとはいっても、それがもつ伝統的娯楽読物の性格は、その起源をしばしば中世にまでたどることができるものである。(『嵐の海の処女』 Melusinmo&#345ská panna の話、また自分を好きなところへ運んでくれる帽子の持主「フォルトゥナート」の話、別れた愛人たちの冒険を語る「マゲロナ」の話、「ファウスト博士」の物語など)。そのなかには童話的要素も少なくなく、近代にいたるまで復刻されてきた。いくつかの主題は口承伝説によっても知られている。
  現実や具体的生活との関係は一連の道徳教育的、社会批判的作品のなかにも現われたが、残念ながらあまり精気に満ちたものとはいえない。その反面、何をするのが正しいのかの逆を教えているパロディーないしは風詩的作品には否定しがたい新鮮さと機知がある。たとえば「グロビアン博士」はテーブ・ルマナーについて次のように教えている。

食べるときは、豚のようにペチャペチャ音を立て
食べたくないものは、手をつけたものでも
大皿へもどせ
以前、わたしもそんな作法を見たことがある。
諸君もテーブルについたなら
ゲップをする習慣を身につけなければならんな
相手が誰であろうと遠慮はするな
咳をしろ、舌なめずりをしろ、ふーっと息を吹きかけろ。
骨は歯でかじれ
そのあと、テーブルの下の床に投げ捨てろ。

  チェコ詩の領域では宗教的詩歌が重要なジャンルであった。その理由は主として、それが当時の社会の広い層において受け入れられる可能性をもっていたからである。詩歌は讃美集の名かに収集されたが、もちろん、その当時は非カトリック的作品が常に優勢を保っていた。カトリックの讃美歌集(『新しい歌』 Písn nové 1580年) の収集にはシモン・ロムニツキー・ス・ブッチェ SimonLomnický z Bud e (1552-1623) の功績がある。しかし、讃美歌の発展は、とくに、「白山」後の時代に顕著になる。前「白山」期の讃美歌が皮相で、道徳っぽく、異口同音に同じ思想、同じ主題を芸術的な新工夫もないままにくり返していたのにくらべると、この時代の歌の多くは、それどころか、歌集全体が高い下芸術的水準を示している。
  ロムニツキーはこの時代の最も実り多いチェコ詩人である。ダチツキーの詩作品が全一巻にまとめられ、近代まで手写本の形で残っていたのにたいして、ロムニツキーの作品は印刷されて数冊の本として出版されたので、ある程度の知名度をえていた。作品はもちろん――時代の傾向に即して――主に、職人芸的に書かれた作品であり、そうすることで作者はパトロンの好意を得ようとつとめたのだ。文学者として彼はいつしか中世にひかれるようになり、そのことは彼の復活祭劇の中に現われている。しかし興味深いのは、このような劇作品のなかでロムニツキーが聖書のなかの事跡をチェコの環境に移しかえていることである。しかも、その場所というのが、彼がかつてビール醸造所のしはいにんとして、またシェヴィーナの運送会社の持主として数年間居住したことのあるロムニツェ・ナド・ルジェニツィー地方の環境のなかなのである。そのほかにも教訓的な作品(『クピダの矢』 Kupidova stYela ) や時事的な作品がある。そのなかでも最もよい作品は『ペトル・ヴォク・ス・ロジュムベルクの死の葬送の歌』 PohYbní píseH o smrti Petra Voka z Ro~mberka (1612) であり、恩人の記念に捧げられたものである。この死で詩人は随所に、真に詩的情熱の高揚を示しており、以下の抜粋がそのことを証明している。

木は長い年月を経て成長するが
     しかし、いつかは、倒れてしまう。
われらがこの世の過客であることを
     みな、誰もが、知っている。
白鳥は、年ながらえるほど
     美しい声で、鳴くという。
だからといって、それがなんになる
     完璧を究めることなど、しょせん、できはしないのだ。


鳥は空に舞い、また
     高木に身を寄せる。
だが、身の危険をふと忘れ
     餌を探して、飛ぶときは
森のなかを、うたいながら
     罠に向かってとんでいく。
そのあげく、望みを果す、そのまえに
     おのれの命を、失うのだ。


われらの年月、いまや短くなり
     花の盛りを、過ぎていく。
行かねばならぬ
     この世から彼岸の国へ
この世の逗留は短く
     すみかより、われらは連れ去られる。
木の葉が
     枝から落ちていくように。

  道徳教育的、そして社会批判的視点は、また同時代の劇作品、とくに、聖書劇のなかにも適用されている。その例は、パヴェル・キルメゼル Pavel Kyrmezer の場合、『未亡人についての新しい喜劇』 Komedie nová o vdov とか、『富豪とラザロに関するチェコ喜劇』 Komedie  eská o bohatci a Lazarovi に見られる。しかし、作品そのものはコミカルではない――その当時、喜劇とか悲劇とか言う名称は、今日のような意味でのジャンルの区分を意味していない。そのあとの発展の観点から言えば、むしろ同時代の生活を題材とした短い滑稽劇(ファース)をいみしており、精気あふれるユーモアに満ちたものであった。それはいわゆる間幕劇、短いファース(茶番劇)で、個々の幕間に深刻なドラマが終わったあとに演じられるもので、「白山」後の時代に大きな人気を博した。その種のものに『つかまった浮気』 Polapená nevra がある。この劇は年老いた夫をたくみに、見事なコキュ(寝取られ男)に仕立て上げる若い妻の話である。この劇は現代でも、E.F.ブリアンが上演したし(前述した『民衆組曲』 Lidov&aacite; svita のなかの『サリチュカ』 Sali tosite)、題材に刺激され刺激を受けてオトマル・マーハはファース・オペラ(1956-7)を作曲した。激情演劇はこの時代に、宗教プロパガンダにも奉仕しはじめた。とくに、エズイット派の宗教劇は騒々しい効果と大規模な舞台装置によって観客の肝を奪った――そのなかには、すでにバロック的要素が豊富にふくまれていた。
  民衆文化の発展は1618年の反ハプスブルクの身分階層的反乱によって中断される。この反乱派――ある意味で、すべての重要な政治的事件と同様に――時事的作品(パンフレット)を産んだが、新しい版の『ダリミル年代記』も出版された。この作品の愛国心と民族の団結への呼びかけは、この地代にたいして多くのことを語りかけることができたのであった。この時代は封建支配階級の利己的関心に起因する反乱の不統一の結果は「白山の悲劇」へと、また「プラハに起因し、プラハ全土においてはじまった恐ろしい戦争へとつながっていったのである。そしてこの原因こそ、支配者の行政官をチェコ同族会議の紳士たちが、情け容赦もなくプラハ城の執務室の窓から高い城壁の下の堀へ投げ込んだ」ことによる。






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