V. 市民文化の後退と反革命時代における民衆創造の意義の増大


[17世紀20年から18世紀70年代まで]



00 序
01 亡命者作品における前「白山」期文学伝統の余韻と国内文学における反動的努力の強化
02 ヤン・アーモス・コメンスキー
03 「白山後」時代チェコ文学の第一世代
04 アダム・ヴァーツラフ・ミフナ・ス・オトラヴィッツ
05 その他の同時代の作家たち
06 わが国文学発展過程の重要な担い手としての民衆の文学

VI. 失われた文化的地位奪回への努力を支えた文学


00. 序



  ハプスブルク家にたいするチェコ貴族と上流市民との反乱の挫折は1620年と記録される。この年、皇帝軍は「白山」&ltBílá hora の戦いにおいて圧倒的な勝利をおさめた。この勝利の結果は広い範囲に影響を及ぼすことになる。なぜなら、その結果はまさにチェコ社会の生活全般に襲いかかったからだ。チェコ人の反抗者にたいする最初の処罰は反乱の主な指導者の処刑を意味し、それは1621年6月に旧市街広場で行われた。住人の貴族や騎士とともに十七名の市民が首斬り役人の手によって葬られ、そのほかの加担者たちもプラハから移住を強いられたり、国外に追放された。処刑された者たちの財産の没収と、それに追い討ちをかけるように政治的、市民的、文化的弾圧が続いた。「権利と正義はこの民族にたいして目を閉ざし、沈黙した」とダチツキー (Mikuláa Da ický z Heslova; 1555-1626)はその『回想記』のなかに記している。このことは処刑されたクリシュトフの弟イジー・ハラントの言葉によっても裏づけられている。彼は次のように書いている。「チェコ領土内では重大な判決や人々の窮乏を少なくしようというはいりょはいっさいされなかった。そればかりかいっそう激しさを増した」と。
  非カトリックの貴族や市民層の人々も、唯一、後任の救済の手段となったカトリックの信仰に宗旨がえをしないかぎり、外国へ移住しなければならなかった。もちろん、農奴たちは封建領地におけるあまりにも貴重な労働力だったため移住は許されなかった。学校をはじめ、あらゆる文化の管理はエズイット派の方針にゆだねられ、検閲もまた文学がイデオロギー的強制の道具となるような方向を目指した。
  イデオロギー的抑圧は教養あるチェコ語の読者大衆の数的弱体化(国外移住のため)につながったから、チェコ語でかかれた文学の領分を狭くした。チェコ文学の発展は市民層のドイツ語化によっても歯止めをかけられた。チェコの教養ある読者層の幅が狭くなるにつれて、ラテン語文学がチェコ語文学を凌駕しはじめる。
  チェコ民族の貧困化がさらにいっそう進んだのは、ただ自由が抑圧されたからというだけdなく、戦争という事態によってももたらされたのである。1618年のチェコ貴族の反乱は単にチェコの問題にとどまらず、それは当時のヨーロッパのハプスブルク派陣営と半ハプスブルク派陣営との対立の高僧の一部を構成していたのである。その結果そこから三十年戦争の火ぶたが切って落とされたのだ。両陣営の軍団は何度となくチェコの領土を横断し、ひたすらチェコ人民を貧困と窮乏におとしいれた。そしてここに、その絶望の言葉がある。

ああ、ああ、神さま、兵隊たちはどうしてこんなにわたしたちを苦しめるのです?
異教徒のトルコ人よりも何層倍も残忍なのです。
髪をつかんで引きまわし、打ったり、叩いたり、こづいたり、
銃で頭を打ちのめし、はては剣で切りつけます。
あちこちの墓場では、宝物を探しまわり、
半分腐った死体からも、指輪を抜き取っていくのです。
大勢の者が子供を連れて、池に逃れ、
ほかの連中は、犬が地面をかぐように、池のなかをはいまわり、
岩場や山に逃げ込んだ者も、わずかながらいるのです、 ハイエナからの恐怖を避けるために。

  実際、コメンスキーが去らねばならなくなった祖国チェコに向かって語りかけた願いが、いつの日か、その一部なりととも実現できるなどとは、その当時はほとんど考えられないことだった。コメンスキーは言った。「君たちチェコ民族よ、別れにあたって、燃え輝く祝福の言葉を贈ろう。君たちがいつまでも生長を続ける若枝<子孫>、泉のそばに繁り、岩の上にまで伸びる若枝であり、また、ありつづけますように、たとえ苦難が君たちを浸し、ひそかな憎悪を抱いた射手たちが君たちに矢を向けようとも、君たちは張りつめた弓が力をたくわえているように、じっと耐えるのだ・・・・・・」
  確かにいまの目で見ると、チェコ民族の腕が引き絞った弓のなかに、また、決して屈することのなかった背骨のなかに、力がたくわえられていたことがわかる。封建的抑圧にたいして民衆は反乱の連鎖によって応え、イデオロギー的抑圧にたいしては独自の文化の発展によって応えた。民衆が公認のイデオロギーを嘲笑したことは少なくなく、無意識のうちに権力者が自分たちの文学作品を民衆の文学に適応させざるを得ないように仕向けたのだった。

芸術様式としてのバロックは、ルネサンス芸術における理性支配の反動であった。なぜならばロック芸術のあらゆる構成要素は、際立った技巧をもって受容者の感性に作用するよう意図されていたからである。しかしながら、同時にバロックは「完全に表現されないもの」であった――特徴的なのは虚構(フィクション)への愛好であった。つまり、表現された現象解釈の多様な可能性を提示したことである。この特質においてバロックは近代芸術を先取りしていた。
  わが国の文化にとって特徴的なことは、公認(オフィシャル)のバロックをチェコ人のメンタリティーに適応させたことであった。これは造形芸術にも、音楽にも、文学にも当てはまる。その上、何人かのチェコ人の芸術家はヨーロッパ的な名声を博した。たとえば亡命音楽家たち(スタミッツ、ベンドゥー一家、ヴラニツキー一家、ミスリヴェチェク、レイハ、その他)である。
  バロックの造形芸術は多くのチェコの都市を性格付けたばかりでなく(バロック建築の大規模な複合体はプラハに見られる)、地方の町村にも個性を与えた(南チェコ地方の、いわゆる農民バロック)。このことは協会や世俗建築の領域にも言える。おそらく、ディーンツェンホーフェル父子の名前、わが国に帰化したイタリア人サンティーニ、カンカ、その他の名前を指摘するまでもあるまい。最初の二人の名前は外国でも有名になった。同様に彫刻家M.B.ブラウンの名前も知られている――とりわけ、カレル橋の彫像のいくつかの作者として(聖ルイトガルダの群像)やククス館の記念碑の作者として知られている。ブラウンの影響のもとに、東チェコに独自の画派が形成された(パツァーク、テーニ、ツェフバウエル)。チェコ絵画には個性的な画家としてP.ブランドル、K.シュクレータ、および亡命画家クペツキーも加えることができる。クペツキーはチェコの特性を外国滞在中の作品においても保ちつづけた。フレスコ画家の名前のなかで今日までもっとも有名なのはイルネ、パレク、クラツケルである。わが民族の卓越せる人物たちの作品に見られるように、民族の最も広いその文化的成長にかんする前世紀からの努力は、まさにここにいたってその実りをもたらしたのである。かくして――ラテン語の格言の言う――ミューズの女神でさえ沈黙を守ったはずのときに、今日もなおわれわれに語りかける芸術作品を生み出したことは、チェコ文化の誇りであり、それらは世界を驚嘆させる作品であった。それはまた、暗黒のなかの光明であった。

  文学発展の分岐点は17世紀の70年代である。第一段階では、亡命作家の作品のなかに古い文学伝統が余韻を響かせている(その頂点はコメンスキーの作品である)。国内では前「白山」期の文化世界のなかで成長してきた作者たちが、やがて創作をはじめるが、彼らは作品の内容、芸術的表現、あるいは、少なくとも言語表現の形式的完成への努力と広範な読者層への配慮によって、これまでの伝統を引き継いだのである。  第二段階では、前「白山」期文化との一貫性は、とくに、公認の文学において断たれる。そして外来支配者の利害に奉仕する新しい文学伝統の確立への努力が強化される。しかしながら、この努力は堅固な基盤をもたなかったため、空しく鳴りをひそめることになる。文学生活の重心は民衆的、半民衆的文学がになうことになる。この文学には権力の所有者は何の影響も及ぼすことはできなかった。









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