(2)ヤン・アーモス・コメンスキー Jan Ámos Komenský



 「白山後」期のチェコ民族の悲劇を昂然と胸を張り膝を屈することなく耐えた象徴的人物、それはモラヴァ地方出身のヤン・アーモス・コメンスキー(1592-1670) であった。この人物は――ヤン・フスと同様に――今日まで世界的文化領域においても知られている。友愛団の司教であり、哲学者、教育学者、歴史家、翻訳家であり、しかも創造的な著述家でも会った。しかし、なによりも「闇は曙光に身を引かねばならぬ」という希望と新年の思想家であり、詩人であった。彼の障害と作品は、いかなる苦境にあっても、真実、働くことを欲している人間の仕事を阻むことはできないし、また、たゆまぬ仕事の可能性こそ、底なしの苦境から救いの手となることがしばしばあるということの、偽り亡き証拠であった。  コメンスキーは若いころからすでに生活はあまり平穏とは言いがたいものであった。彼は確かに市民層の家庭の出身だった。そして物質的には何の不安もなく教育を受ける保障はされていたが、間もなく彼は両親を失い、そのため十六歳のときにプシェロフの友愛団の学校に引き取られた。その後外国での勉学(ヘルボルン、ハイデルベルク)によってさらに教養を深め、帰国後はまずプシェロフの学監 správce となり、その後フルネクで司祭となった。若いころからすでにチェコ民族的学問を創造しようという大胆な計画に没頭し、学問的研究のための資料を収集しはじめた。フルネクデはよりよい教育方法について思索し、同時に、文学的にも積極的な活動をはじめた。しかし1620年に、彼の生活に非情な干渉がなされ、フルネクからの逃亡を余儀なくされた。その後、妻と二人の子供が伝染病で死に、苦しい放浪の生活がはじまる。最初は国内に隠れていたが、やがて1628年に亡命生活に入る。そこでも、仮祖もの平安すらもたらされなかった。コメンスキーがあらゆる活動のなかで考えつづけていた祖国に彼のための場所はなく、没後も同じであった。オランダのナールデンにあるコメンスキーの墓碑がそのことを物語る悲しい証拠である。
  驚嘆に値するのは、コメンスキーが亡命の地にありながら(レシュノ、イギリス、エルブラク、シャリシュキー・ポトク、アムステルダム)創造的方法で精神と知的教育の努力のチェコ的伝統を発展させ、同時に、世界的な視野をもった作品を創造することができたことである。それというのも、彼の計画の中には全人類が包含されているからである。それにまた彼の思想は近代になって実現されはじめた。たとえば情操、がくもんのきょういくにおいて、また万人に差別なく享受しうる学問の体系、平和への努力において見るようにである。ここで真実、新しい世界の市民となった。この分野の彼の作品は、今日最もよく知られているものである。
  しかし、学者としてのコメンスキーだけでなく(今日、あえて言うならば)政治家としてのコメンスキーは封建主義の枠を抜け出して、新時代の方向へ正しい道を踏み出していた。文学者としてのコメンスキーは伝統的創作の絆を解き放った。このことにかんしては、彼の『世界の迷宮』 Labyrint svta (1623年作、1631年ペルナで、1663年にアムステルダムで出版)が証明している。この作品は明快なアレゴリーによって、近代文学の性格の特徴の一つとでも言うべきもの、つまり「現実」と「非現実」(芸術的フィクション)の結合という問題を意図的に、見事に提示してみせた。一人の放浪者が自分の職業を選ぶためにいろいろな職業を知ろうとして町――世界放浪の旅に出る。そして幻覚の眼鏡を通して世界の真の姿を見るというのである。ここで虚構と現実の矛盾が先鋭化されている。
  文学発展の視点から、コメンスキーの『迷宮』が最高に重要な作品であることはいうまでもないとしても、注目すべき点はこれだけではない。この作品は――この作者の他の作品にも言えることだが――コメンスキーをわれわれの身近に引き寄せ、彼の非凡さの象徴であるかのように言われていた、完璧で、冷ややかな大理石の彫像という誤ったイメージを打ち壊してくれる。彼の非凡さは、その天賦の才能、能力、超人的努力、自意識にもかかわらず、常に人間であること、しかも謙虚な人間であることを忘れなかったことにある。彼は見せ掛けの名誉を心のそこから嘲笑したし、また悪の暴露にあたっては毒をもち、善悪の判定においては妥協を許さず、公明正大で、勇敢かつ不屈であった。彼は自分の周辺を厳しく見つめ、その観察の結果を、真の言葉の芸術家として書きとめた。彼の『世界の迷宮』はまさに人生そのものであり、その人生にたいする自分の立場を率直に表明している。彼の巡礼者は、たとえば、どんな風に「アカデミアがほかの誰よりも努力し、芸術の最高を極めた者たちに名誉の冠を授ける」かを見る。「誰かが、一人ずつ順番に選び出して、その一人一人の額に、この人は自由芸術のミストル(マイスター)、この人は医学のドクトル、この人は法学のに部門の免許者であるとの称号を貼り付け、印判を押して証明する」――しかしそうこうするうちに早くも巡礼者のなかに妥協のない批評家――著者の真実の顔が現われる。
 「それでも私は彼らがこの先どうなるのか、常々知りたいと思っていたので、一人の芸術学士を探し出して、今度は何かの計算をするように言ってみた。ところが、できない。測ってみろというと、これもできない。星の名をあげよといっても、できない。三段論法で論証せよと言っても、できない。外国語で話せと言っても、できない。自国語で弁論をせよと言っても、できない。私には了解できた。そこで言ったものだ――長年学校に通い、それに財産をつぎ込んで、称号と判子を頂戴して、そのあげくに、いったい何を学んだのかね? とたずねなきゃならんとはねえと」。そして、もしここで「世界工場の方策」を「探求」していないなら、それはコメンスキーではないだろう。彼はそれを追放者の目で、真実の光の中で見つめ、そうすることで自分の感想を読者に訴えている。

  なんとここにはたくさんの椅子があることか。下の町からよく見えるように一列ずつ順に高く並べてある。まるでフォルトゥーナ(幸運)夫人よりも上の席か下の席かもう決まっているみたいに、みんなが座っている。道を通る人たちはみんなが挨拶する(だが、前の列の人にだけ)。席についた者たちは膝をゆすり、頭を振っている。どうやら前のほうには多くの注意を向けるが、後ろや横のほうにはあまり敬意を払わないのがわかった。この広い敷地のなかでは、誰かの後ろには必ず誰かが立っていて、後ろの連中は前の者を横目でちらちら見ながら、口をもぐもぐ、頭をふりふり、悪態をつき、背中に唾や鼻汁やなんかを引っかけている。誰かは椅子の脚を引っ張って落っことそうと企んでいる。ところが椅子は端のほうに並べてあったので、その一つはほんのちょっとずらしただけでひっくり返り、座った者は前によろけて墜落していった。そのほかにも何か回転台の上に据えられたものがあり、どこかちょっと触るとぐるぐる回りだし、座ったものが地面の上に倒れ落ちる。それが高くなればなるほど揺れやすくなり、椅子から落ちやすくなる。

  しかしわれらが巡礼者――コメンスキーは避難するためにのみ周囲のものを見回しているのではない。彼は宴会について語るとき――それおを「豚のご馳走」と彼らの食事を決めつけたので、彼らによって真っ先に追放された――率直に告白することもできるのだ。つまり、そう言ってから、ふたたび彼らのところへ行き、「それに、ご馳走を拒否する理由がどこにある? 私もあえてここへ来た。ここにすわり、のみ、腹いっぱい食うために、そして常にさいごには、いったいこの陽気さの中にどんな意味があるのかを見極めるために、私は歌にくわわり、肩を組み、体をぶっつけあったりしはじめた。要するに他の連中がするようにしたのだ」
 『迷宮』の迫真性、それどころか、まさに劇的迫力は、今世紀(20世紀)の30年代に解放劇場のためにそのドラマ化が検討される誘因となった。コメンスキーはさらにいくつかのラテン語の学校用戯曲の作者でもある。そのなかには、現在、チェコ語に翻案されて上演されているものがある。たとえば、彼の『舞台の学校』`kola ludus はブルノ・ピオニール劇団「ピールコ」が上演しているし、ウースティー・ナド・ラベムの演劇スタジオはディオゲネスについてのコメンスキーの戯曲を上演している。
  コメンスキーは宗教詩のなかでは別の顔をのぞかせる。その詩は讃美歌集のなかに収められているが、その歌集には自分の作品もあれば、他人の作品もあり、翻訳もあれば、いろんなもののパラフレーズもある。そしてこの詩集からもやはり人間――コメンスキーが語りかけてくる。彼は――たとえ、あらゆる苦難に耐えうる、ほとんど超人的力を事故のうちに秘めていたとはいえ――それでも、ときには悲しくなることがあった。だが、自分の悲しむ心を恥じてはいない。追放者の『長い苦難と悲しみ』 Dlouhá t~kost がその歌から響いてくる。

聞きたまえ、神よ、わが訴えを
わが訴えの、空しきものとならぬよう
御座(みざ)の御前(みまえ)に、まいらしめ
恵みの面ぞ、見せたまえ!
わが審判の、くだる日に
わが言葉に、耳傾けて
ただちに願い、聞きとどけ
汝が慈悲にて、満たしたまえ!


さもなくば、ああ、わがすべての日々は
煙のごとく、消え去って
骨は古木の、ごとくなり
わが体内で、干からびて
心臓は切りさいなまれ、青草のごと
もの悲しくも、打ちしおれて鼓動(おと)を断つ
かくしてわれは、苦難のなかで
パン、食することも忘るなり


われは、はや、夕暮れどきの
影のごとく、うなだれて

  1659年、コメンスキーの讃美歌集がアムステルダムで出版されたとき、まさしく「日は暮れた」のである。祖国への帰還の夢は完全に消え去った。そして配流(はいる)の地にありながら発展させた、祖国を変革させることを目指したコメンスキーの倦むことなき労作はむなしい響きを残すだけとなった。 「私の苦痛は私だけのものではなく、普遍的なものです。それは私が、あるいは、私たちの一部のものが見放されたからではなく、わが民族全体が見放されたのですから」とコメンスキーはスウェーデンの総領事に宛てて、1648年に書いている。しかし、讃美歌集の詩は、またコメンスキーの生涯の明るい日々についても証言している。何よりも彼が慈悲深い感情の持主であったればこそ、その感情が明るい日々を彼にもたらし、彼の手と心を聖書の『ソロモン王の雅歌』 PíseH písní へ導いたのであろう。コメンスキーはこれらの詩を、それらが本来もっていたオリエンタルなエロティシズムを強調しながら改作した。そこでは何らの状況も変えていない。キリストと教会とのあいだで行われる詩の対話はその時代の状況のなかに置かれている。バロック時代には世俗的感情が宗教的衣装をまとうという例はほかにもある。この点については、この後にその例を見るだろう。それにまた『雅歌』が深い感情を表そうとして大きく開いた喉に、声を貸しあたえたという例もこれだけではない。なぜなら、『雅歌』は今日にいたるまで、多くの愛の詩の尽きることのないインスピレーションの泉だったからである(その例は、スヒーの『もっとも美しい風景』ですでに紹介した)。だがいまは『雅歌』がコメンスキーに霊感を与えて書かせた言葉に耳を傾けよう。

おお、美しきもの! わが女ともだちよ!
おまえ以上のものを、私の心はもたぬ!
いとしき、御身の姿の、すべてよ
この世のなかに、おまえの上に出るものはない!


鳩のごとく、あどけなき瞳は
天を仰いで、まばたき
頭の上の、髪のかたちは
ガラーダの、羊の群れのよう


二列の歯並は、すばらしく
洗い清めた、羊の毛皮のよう
おまえの唇は、赤く
まるで絹の、縁取りのよう


その口から、やさしい言葉が流れでる
言葉は飾りのついた、まっすぐな剣
おまえの額の、こめかみは
ガーネットの意思の、かけらのよう


そして、おまえの喉は、ダビデのように
祭りの日の塔のように、多くのものを
身によろう、その飾りには
色とりどりの、飾り盾


指は、のろ鹿の双生児
茨のなかに、花を食む
影が姿を、消すころに
ミロスの山に、出かけよう

コメンスキーの言葉の芸術、コメンスキーの「歌は、死を克服した」と彼と同世代者の哲学者ライプニッツの言葉によって述べられている。おそらく、それは彼の芸術作品が学術的労作に裏付けられた根拠をもっていたからだろうし(コメンスキーはラテン→チェコ語、チェコ→ラテン語の大「辞典」編纂を準備中であった。しかし、レシュノの火事のときに資料が焼失した。また格言や慣用句の収集もしていたし、試論にも取り組んでいた)、あるいは、あらゆる面での才能を付与された人間だったからだろう。しかし、何よりも大きな理由は、彼が芸術的表現においても「単なる」人間であることを恥じなかったからだろう。
  コメンスキーがルネサンス的性格の持主であるか、バロック的性格の持主であるかという点にかんしては以前から意見の分かれるところであった。学問領域における彼の多面性はルネサンスに属しているが、思索の深さ、先見性、見解の新しさ、批判性、現実からの離脱などの性格によって見れば、彼はむしろバロックさえも通り越し、われわれの現代にも属する人間である。詩作品においても、鋭敏さ、妥協を許さぬ厳格さは一部、ルネサンスに属するが、同時にすでに啓蒙主義にも属し、芸術的手法においてはバロックでもあり、現代にも通じる。要するに、この偉大なる個性を枠にはめようとすること自体、無理な話でありその偉大さは単なる一時代の枠にはおさまらない。そしてコメンスキーの偉大さは、かの画家オスカル・ココシュカをも捕らえ、その結果、コメンスキーの祖国とオランダにおける活動を描写したドラマ『コメニウス』(コメンスキーのラテン語式の呼称)を書かしめたほどであった。コメンスキーには多くの音楽作品も捧げられている(たとえば、O.マーハのオラトリオ、D.ミヨーのカンタータ)。
  当然のことながら、コメンスキーの作品もまた時代的制約と誤謬の徴候を示している。その一つは信仰である。彼は時として理性よりも聖書を優先することがある。実際にある現実よりも迷信や予言や幻覚を信じた。また、宗教と科学の融和に努めたばかりか、むしろ、科学を宗教に従属させようとさえした。しかし胸に手を当てて重い見るとき、20世紀の人間でさえ、自分の信じるあらゆる価値観が突然失われたとしたら、迷信や占いや予言にふと頼るということなしにすまされるだろうか? だって、このような危機的状況のなかで、それが希望の一滴(ひとしずく)を意味するものだとしたら。コメンスキーは人生の伴侶として、孤独と苦難と追跡の恐怖とをあまりにも早く受け取ってしまった。だから、髪は罪人を罰し、信ずるものを見捨てたまわぬと信じて、むなしく神の助けを祈ったのだ。だから、われわれは今日でも、たとえ彼に多少の過ちがあったとしても、いっぽうてきに非難することはできず――ふたたびライプニッツの言葉を借りるなら――コメンスキーの行動にも、希望にも、それどころか、彼が渇望した夢にだってさえも敬意を払おうではないか。コメンスキーは、ただ単に池の衝動に駆られて積年のほこりを払うといった、そんな超人間的完璧性の大理石の偶像ではない。







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