(1)  亡命者作品における前「白山」期文学伝統の余韻と、国内文学における反動的努力の強化



 たとえチェコ貴族の反乱がフス革命のときのように、全民族的民衆の運動ではなかったとはいえ、その結果は全民族の統一に悲劇的影響を及ぼした。その結果は、フェルディナンド二世によって発布された、いわゆる「改正地域統治法」Obnovené Yízení zemské (1627年チェコ地域に、翌年、モラヴァ地域に施行)となって現われた。この法律はハプスブルク家にチェコ王位の世襲権を保証するものであり、公用語な二重言語となり、カトリックが唯一の公認の宗教になった。したがって1618年のエズイットのチェコからの追放の喜びは長くは続かなかったものの、政治風刺作品のなかにきわめて注目すべき現われ方をしている。 たとえば、『聖ヴァーツラフと聖クリストフォロスの両聖者がご自身の御名のもとにチェコ王国の各階層のみなさまにご意見申し上げてくださるよう乞い願う、エズイット派の両聖者への叫び』 Volání jezuitov k sv. Václavu a Krystoforovi,abyse tí svatí za He k stavom královstství  eského pod obojí pYmluvili. と『エズイット派へ捧げるミゼレレ』  Miserere mei jezuvítském である。ここにあげた二作品のうち前者では、聖ヴァーツラフは断固としてエズイットの代弁を断る。なぜなら、彼は「チェコの正当なる相続人」であり、しかもエズイット派はチェコに危害を加えたからである。ところが聖クリストフォロも――エズイット派に次のような「サービス」をするよう提案する。

わたしはみんなを 連れていく
川を渡って よその地へ
ヴルタヴァ越えて、あんたらを
海のむこうの 果てまでも


アメリカなんて いかがです
人食い人種の 住むところ
あんたら捕って 食いますよ
チェコ人さえも 知らぬ間に

 皇帝とともに「チェコ王国の住民はすべて、唯一の救済の道である聖なるカトリックを等しく信仰すべし」という命令こそ、まさに、チェコの「異端者」どもにたいするハプスブルク家の仕返しの第一段階での最高に効果的な処置だった。その結果「カトリックに改宗することを望まぬ人は、決められた時間内に国からでていかなければならなかった」とこれらの多くの人々の運命に心打たれたヤン・イジー・ハラントは書いている。

 1628年の夏、聖十字架の日曜日の次の月曜日、私はチェコ王国のわが家からフェルディナンド二世のおふれにより出てまいりました。妻と三人の息子と、二人の幼い娘と年頃の娘をもつ私どものところへも、カトリックの進行を受け入れるようにとの皇帝のお達しが参りましたのでございます。しかし、聖杯派の信仰のゆえに、私はお言いつけの信仰を心から受け入れることができなかったのでございます。全能の神よ、どうか私と私の家族のみなが、この苦難にあって、異国への追放を従容として耐ええますように、力と忍耐をお授けくださいますように!

  おなじような、この時代の回想や年代記の行間にどれほどの絶望の涙が、とりわけ無力の涙が流されていることか、とても数えきれるものではない。また、異国の地にあって移住者たちが自分たちの文学活動によって、熱烈な努力を、超人的であると同時に空しい努力を――なぜなら、彼らは自分の国という生きた幹からもぎ取られた枝だったのだから――くり広げたことか、とても測り知ることはできない。そういった何千人もの人々が、そしてそのなかにはハラントもいた、そういった人々が、結局は、何の痕跡もとどめずに消え去ってしまったのだ。それにまたウエストヴァーレン条約によって祖国への帰還の希望が完全にむなしくなったとき、コメンスキーが自分のなかに見出さねばならなかった勇気がどれほどのものであったか、おそらく、それはもはや想像を絶するものだっただろう(亡命者としての彼の過酷な運命は、その生涯において遭遇した多くの不幸によって何倍にも倍加されたのである)。そして、ただ彼にできたことは、勇を鼓舞する言葉を発することだけだった。
「私は神かけて信じる。チェコの人民よ、怒りの嵐が過ぎ去ったあとには、ふたたび、おまえたちのものの支配権はおまえたちのもとにもどってくることを!」
 亡命者たちはドイツ、スロバキア、ポーランドへと身を避けていった。亡命者たちのもっとも教養あるものたちはドイツで自分の作品のなかに前「白山」期の姿勢を保持する努力をした(パヴェル・ストラーンスキー、パヴェル・スカラ・ゼ・ズホジェ)。その他のものは全体として、実りなき宗教論争に明け暮れた。注目すべきことは、1938年末のわが国の共和体制がナチスの脅威にさらされた時代にストランスキーのチェコ国家にかんするいくつかの意見がふたたび鳴り響いたことである。
 亡命文学がチェコ本国の文学へ何らかの影響を与える可能性は、相対的な問題ではあるが、むしろスロバキアに向かった亡命者たちのほうにあった。しかし、その多くはスロバキアの環境にどうかする方向に向かった。たとえば、チェシーン生まれのイジー・トチャノフスキーである。1636年にレヴォチュで出版された彼の有名な讃美歌集は百版以上も版を重ね、スロバキア文学の一部とさえなった。
 もっともうまくいったのは、レシュノを主要拠点としたポーランドで組織された「友愛団」bratrská emigrace であった。コメンスキーはこの地でも活発な活動を展開した。彼は亡命文学および学問の最大の人物であり、彼において前「白山」チェコ文化の発展は頂点を極め、芸術、学問の新旧の要素を結合した人物であった。
 当然のことながら、亡命者の財産はそのほとんどが没収され、移住者の地位はヨーロッパ中から来た外国人によって取って代わられた。そのことは同時代の文学作品のなかに証言されている。

かつては 栄えあるお役所で
町、財産を 守るのも
チェコ人だけで まかなった
それも生粋の チェコ人で
ところが新手の手口 はじまった
役所はチェコ人 締め出して
国中、やさしさ なくなって
仕事のお手当て なくなった
チェコの言葉は 役立たず
使用人まで つんとする

 亡命者たちのいろいろな詩も同時代の事件に反応を示しはしたが、文学の発展に深くかかわることはできなかった。そのことはさまざまな回想録や年代記についても言える。だが、これらの作品――少なくとも、われわれのもとに保存されているかぎり――は今日の読者にとっても無関心でいるわけにはいかない。なぜなら、時は最良の医者なりという格言の真理をはっきりと拒否しているからであるし、さらにまた、父親の苦しい体験は、はたして、子供の良識になりうるかという問題提起すらしているからである。

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