(5)その他の同時代の作家たち


 明るい風景ときわめて楽天的な生活感情の詩人であるミフナの対極に立つのはベッジフ・ブリデル Bed&#345ich Bridel (1619-1680) である。彼はエズイットの伝道者、修辞学と詩学の教授であり、翻訳家、詩人、散文家でもあった。彼は森の僻地の薄明と、沈黙せる荒野の詩人であった。もちろん彼は自然抒情詩人のように自然の崇拝者ではない。だが自然はこの地上的生活の空しさの隠遁の場所となり、神の偉大さにたいして人間的無意味さについて思索のための安静を与え、人間を神へ近づける仲介をする。
『神とはなんぞ? 人間とは?』 Co Boh?  lovk? (1658) はブリデルの主著のなまえであり、この作品により彼は当時のヨーロッパの神秘主義者たちのなかに位置づけられている。それは哲学的側面からだけでなく、バロック寺院の絢爛たる美を彷彿とさせる豊かで装飾的で圧倒的な表現技法によって、そして最後には地上的生活にたいする大きな疑問と不安、動揺にいたる結論によってである。

汝は、奈落の底、その覆い
我は、いちばん小さな水のしずく
汝は、太陽の日輪
我は、その小さな火花
汝は、花の花そのもの
我は、日だまりのただの雑草
汝は、最高の露玉、新しい世界
我は、ゆえに、夜の水泡


我は、霧、霜、氷のかけら
汝は、無限の歓喜
我は、貧困と挫折へ向かう者
汝は、堅固なる持続
我は、苦痛の円環
汝は、永遠の基(もとい)
我は、嘆きの車輪
汝は、おわり無き歓喜


我は、うめき、たわごと
汝は、美しいオルガンの歌、響き
我は、嘆願と、怨みごと
汝は、いたるところに染みとおる
汝は明かり、我は闇
我は汚泥、汝は清浄
汝は慈愛、我は憂鬱
汝は安泰、我は不安


汝は甘さ、我は毒
汝は甘美、我は酸味
我は胆汁、苦味、汝は蜜
我はふさぎ、汝は陽気
我は病気、汝は回復
我は熱病、汝は健康
我は犯罪、汝は赦し
我は罪業、汝は救済・・・

 禁欲的伝道師は雪の中、雨のなか、はだしの足を引きずり、ぼろぼろの衣装をまとって息つく暇もない。看病した病人から移された疫病にかかったときなど、文字どうり隣人のために生命を危険にさらしたが、彼は子なるキリストの生誕の奇跡を思い心をなごませた。そしてクリスマス歌集『キリスト誕生図』Jeali ky においては偉大な哲学者であり、鞭打ち苦行僧であった彼のなかにも――「純真」な人間が隠されていることを示している。たとえば『われを訪れたまえ、いとし子よ』 Zavítej k nám Dít milé である。

おまえの目を見ていると
二つの星が見えてくる
その星から明るい火花が放たれる
真珠のような輝きの。
かわいい涙が流れ出る
水晶の流れのような――二つの目
おお、世の中を見つめておくれそして、涙をながしておくれ!


二つの頬が、もの思い
二つのバラが見つめると
血よりも赤く
雪よりも白く
画家の描くようにではなく
野に咲くバラのようにでなく――
バラの香りを味わいつ
恋人たちはむつみ合う。


きれいな脚を見ていると
それは白い大理石
寒さに震える小さな指は
それは、まるで火花のよう。
飛んでおいでな、かわいい小鳥
お脱ぎなさいな羽ごろも
お床をちゃんとととのえて
暖めましょう、ベツレヘム!

 ブリデルの作品、とりわけ哲学的―反省的作品は、わが国のバロックの詩人たちが、その極端な作品のなかでさえも、民衆的読者にたいする配慮を忘れなかったことを証言している。そのことは直喩、隠喩などの選択において示されている。つまり、それらはごく一般的な人々の日常のなかに息づいているものである。そして、当然のことながらチェコ語によって作り出された主題の比類なさは、チェコの民衆の文化水準の高さの証明となるものである。
 素朴なチェコ民衆にたいする視線を、もう一人のエズイット派の教授フェリックス・カドリンスキー Felix Kadlinský (1613-1675) の作品のなかに見ることができる。そのことはドイツのエズイット派詩人フリードリッヒ・フォン・シュペーの歌集の翻訳の上にはっきりと現われている。この作品はチェコ語では『ズドロスラヴィーチェク』(1665年 および 1726年)として出版された。カドリンスキーはドイツの詩集をチェコ的風土になじませた。たとえば、シュペーが自然描写のなかで、自らの美しさによって神を称えている草花をまったく偶然に選んでいるときにも、カドリンスキーは明らかに、目のまえに、かぐわしい香りを放つラヴェンダーやスミレやマンネンロウやカーネーションの花でチェコ風の小屋を飾る庭を思い描いている。カドリンスキーはまた、民衆詩の手法をよく心得ていたから、彼の詩のいくつかの行から民衆の詩の響きが聞こえてくる。

おお、ノロジカよ、かしの木に
朝から、掛けられて、おまえは
血をたらし、心はすでに空ろなり
もはや、打つ術もなし!
すでに、血は尽き、魂も
血とともに、押し出され
血はすでに、草や木や
大地までもが、吸っている!


いたるところ、色は赤
もう、おしまいだ、おまえの寿命
青春のときも、ここで終わるのだ
時がすぎ、おまえがついに果てるまで
おまえの目の前で、死神が踊りつづけるだろう。

 カドリンスキーはほとんど田舎で生活したから、田舎の人と同様に自然に親しんですごした。しかし、ミフナやブリデルと異なるところは、彼の自然にたいする関係の相違である。ミフナは田舎の人たち独特のやり方でチェコの自然にたいする喜びを表明し、ブリデルは自然のなかに地上的「むなしさ」を見出した。あるいは、せいぜい――より強い表現のための――メタファーや比喩などを引き出したにすぎない。しかし、カドリンスキーの詩からは自然の美にたいする感情が直接語りかけてくる。彼は自然に感嘆し、自然のなかに自然の叙情ばかりでなくメタファーの霊感を求めている。そして自然現象はしばしば、まったく「近代的な」方法によってすでに擬人化され、独創的な指摘情景を描き出している。このことは彼の詩がすでに近代の自然抒情詩にきわめて近いことを示している。

すでに森は、明るく輝き
冬の間に、脱ぎし衣を
装いも、新たに
目も鮮やかな、身づくろい。
ダイアナは、森の女神
美しさを、ふたたび加え
お仲間の森の精ドリュアードたちも
すでに、髪の形を変えている。


はや、かぐわしきそよ風も
ふたたび、翼をひろげ
はや、激しい嵐も
いまは、風袋をすぼめて収め
はや、音楽は、恵みにみちた
森のなかにはじまる。まるで
バイオリンを奏でるかのように
木々はゆるやかに揺れている。

 自然現象は人間の悲しみをも物語る。「枝は悲しみに重くたれ/地面につかんばかり/せんだってまで、青々としていた木の葉も/すでに、色あせて落ちていく」 そして同様のことは喜びの感情についても言える。「悲しみの冬は過ぎ行き/喜びの夏がはじまる/悲しき嘆きは、ついえ去り/闇のなかに希望がともる」 カドリンスキーの熱情もし自然によって独創的な詩的表象として表現されている。これはドイツ語の原点には見出しえないものだ。「風は・・・・・・おどり/美しく、さわやかに/太陽の登場を導き/緋色の衣に包まれて戯れる」 また別のところでは、夜明けを次のように表現している。「闇に手折られし夜は、太陽の前に身を引く」などである。
 使い古された表現におちいらないための努力、また、神秘的エロティシズムの作品においても、現実的、世俗的体験に基づく主観的関心を表現しようとする努力によって、『ズドロスラヴィーチェク』のカドリンスキーの訳詞は、ミフナについても言えると同様に、近代的愛の抒情詩へ通じる家庭の出発点に立っている。つまり、神秘的エロティシズム作品の解釈を一義的に(すなわち、宗教的に)することができないように、複雑な語義の遊びをしている。このことはミフナも同じで、当世風の世俗的恋愛詩を手段として用い、古代的要素を巧みに適用し、世俗的感情を前面に押し出している。その感情の真実感あふれる独創的描写を読むと、これは翻訳者の実際の世俗体験が織り込まれていると思わせさえするのである。


 神秘的エロティシズムの作品にとって、重要な意味をもつのは『ソロモンの雅歌』である。そのいろいろな形の強い反響を、十七、十八世紀の多くの作品のなかに聞くことができる。その作者はミフナやカドリンスキーのように名を知られた作者のこともあれば讃美歌集や市場歌集の小冊子に保存されている匿名の作者の場合もある。また、カトリック系の作者にも、非カトリックの作者(こちらのほうが多い)にも『雅歌』の影響を認めることができる。

チェコ・バロックの言葉の芸術の代表者たちに付いて言うならば、きわめて顕著にしかも意図的に、音楽と使途が接近しているところを指摘できる(ミフナ、ブリデル、カドリンスキー、その他)。その理由は、むしろバロック芸術全般の目的――最大限の表現性――達成の努力に根ざしている。その目的達成のためには、ある作品におけるあらゆる芸術的手段の選択や配列といったもの下位に置かれるのである。

自然と愛の要素を備えた宗教詩が、バロック時代にすでに現代への過程をたどっていたというのに、世俗詩のほうは遅れていた。ヴァーツラフ・ヤン・ロサ ( Václav Jan Rosa; 1689年没)の膨大な詩篇『悲しき騎士リュピロンの遍歴:または、愛について』 Discursus Lypirona, to jest smutn&eacyte;ho kavalí, de amore aneb o lásce (1651) がそのことを証明している。作者はこの作品――騎士たちや嘆きや、恩寵のリボン、貴婦人や名声、満足や嘆願などが、いろんな今はやりの言い回しによってごっちゃに寄せ集められている詩――によってヨーロッパの、いわゆる、当世流行(アラモード)の知識を示してはいるが、感情は口先だけ、ステレオタイプな言葉の実にとどまっている。
当世風の恋愛詩――1600年ごろ、西・中部ヨーロッパで主導的地位を占めていたロマネスク風の、とくにフランス風の文化現象――の本質は、大量の外来語や流行語、あるいは、社交的関係の優雅さを表現すべき言葉、そういった言葉を貴族の館から市民のサロンに移し変え、空虚に「華美に」表現したことにあった。会話言語の理想はできるかぎり抽象的な言語表現であった――つまりもっとも生活感のない真実性の希薄な言語表現であった。したがって、そのことは当世風の方法で創作された作品の内容にも通用する。
ロサについても同じである。単純なテーマすなわち、恋するリュピロンが心に思う婦人を甥、自分の思いを告げるべきか否かの問題が三千二百七十二行に及ぶ詩のなかにくどくどと展開されているのである。もしこの作品の枠を形成し、本質的な構成要素としてのリュピロンの逸話を物語る二十四の歌の叙事的要素がなかったとしたら、憂鬱なる騎士のハムレット的優柔不断はよりいっそう退屈なものとなっただろう。生き生きと描かれているのは、彼に愛を失わせ、また勇気を取り戻すというような、リュピロンに具現された諸性格をを描写するエピソードや、恋慕の心情を胸いっぱいに満たして慰めと安住とを求めて自然に帰るといった部分の詩句である。この作品のなかには処女アンナ・ヴィタノフスカーにたいして未知の崇拝者が愛の詩集のなかにあったのと同様に、愛の告白の様式化や、うんざりするほどの慣習があり、世俗的恋愛詩が中世からバロックにいたるまで、あまりにも変化がなかったことを示している。
ロサの名前――とくに、彼の言語学的労作(ラテン語で書かれたチェコ語文法書  echoYe nost は1672年に出版ん)――はいわゆるチェコ語における新語運動 NovtaYení と結びついている。この新語運動は「白山」以後、わが国に流入してきた外国人とともに、チェコ語のなかにも大量に進入してきた外国語の氾濫に対するリアクションであった。その傾向が最高潮に達するのは十八世紀の後半である。しかし芸術文学や民衆の文学は新造語に汚染されなかった――そのことをもっともよく証明しているのが、ロサ自身の詩作品である。たとえば、ノソチストプレナ (noso istplena 鼻をきれいにする布=ハンカチ)、ゼレノフルプカ(zelenochrupka サラダ)、ウスミーフカ(usmívka 小さな微笑=アイロニー)その他が悪影響を及ぼしたのは、むしろ半大衆的文学の領域であり、それも完全にではなかった。良識ある先人たちが何世紀もの長い年月をかけてはぐくんできたチェコ人の言葉はこれらの無機的な新造語の圧迫に抵抗しえたのである。それはまた民衆的肝要のなかではぐくまれた言葉に負うことも明らかである(このような状況下の言語文化をもっともよく証言しているのが、「白山」以後の讃美歌集であり、それは何より、人民に奉仕したし、説教の役にも立った)。したがって、この面からもその当時を「暗黒時代」と呼ぶことはできない。


 半民衆的文学 pololidová literatura の領域は「白山」後の最初の十年間に、公認の芸術作品<訳注・チェコでは文学もまた芸術という名称で呼ばれる>と民衆的<口承的>文学とをつなぐ中間領域として形成された。その生活的特徴は、登場する民衆的主人公たちが支配者階級の視点からも、純粋に民衆的な視点からも描かれていないということである。作者たちは通常、民衆の環境を熟知しており、また比較的真実性をもって捉えようという努力は見て取れるものの、しばしば民衆的英雄が戯画化されている――それはおそらく、作者が一般民衆よりは社会的にほんの少しばかり高い位置にあったという理由によるものであろう。この種の代表的なものがインテルルディア interludia (intermedia) と称する短い笑劇 fraaka <ファース>であり、もっとも盛んであった時期は十七世紀中葉であった。それは長い劇のあいだに挿入されたが(ここから「幕間」芝居という名がおこる)、その大部分は小市民層に向けて書かれたものだった。主題は変化に乏しく、独創性にも掛けていた。要するに、愚かな百姓、くどき、酔っ払い、やぶ(または逆に「名医すぎる」)医者などである。 これらの作品の作者のなかで比較的名前の知られているのはヴァーツラフ・フランティシェク・コツマーネク Václav Frantia kocmánek (1679没)だけである。彼は学校の先生であり、回想録を書き、小学生のための劇や、三十年戦争の時代に否かの人々を襲った窮乏を詩に綴った連作詩 cyklus も書いた。そのなかには、いわゆる、「百姓の祈り」 selský ot enáa も含まれている。その構造は、各「節」<または「連」>のおわりの言葉が一緒になって、一つの「祈り」の言葉を構成するような言葉で終わるというものだ。(近代になってヴルフリツキー Vrchlický がこの形式を自由に模倣している。参照・原書281頁)










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