(6) わが国文学発展過程の重要な担い手としての民衆の文学



「白山」後の第一世代が退場すると芸術文学はほとんど沈黙し、文学発展のパトスは民衆的想像の領域に移った。この時期はざっと見て十七世紀六〇年代から十八世紀七〇年代にいたる期間に区切られる。
 三十年戦争の結果、すでにわが国の球状は相当なものであったが、十七世紀後半以後さらにひどくなった。国土の三分の二は世俗と宗教の両封建領主によって所有されていたが、それでもなお放棄された農園を吸収してさらに増えつづけた。人口はいまや戦争前のおよそ半分に減り、さらにトルコ戦争がおこって減少し、再封建化の過程は進み(土地への拘束、搾取労働と租税の強化)、またチェコの民衆と零細市民層にたいする民族的抑圧も進んだ。
 真実、驚かされるのは、あらゆる面で抑圧されてきたチェコの田舎の住民たちが、国内各地で起こった蜂起の力を良くぞ保持していたものだということである。たとえば、一六七九年から一六八〇年にかけての大蜂起、一六九三年のホド族の「謀反」、そして十八世紀前半において続発した反抗から一七七五年の農奴の大蜂起と反乱である。
 十八世紀の全体を通して資本主義的生産関係がより一層明確にその性格を浮き彫りにしはじめた。手工業生産の大工場が封建領地内に成長し、のちには都市にも出来た。十八世紀の全般から新しい生産関係は政府によっても支持された。この変化はわが国の経済生活にとってばかりでなく、文化的、国民的発展にも起こった――古い封建社会の解体と入れ替わりに民族再興が起こったのである。
 好ましからざる文化生活の意図的な圧迫は、禁書一覧表の作者であり、熱狂的エズイット派のアントニーン・コニアーシュ(1691-1760)の悪評高い行為と結びついている。一七二五年の勅令によるとカトリック教徒でないということは、国家への反抗の罪とみなされた。公認の「文化」は自由に考えることを禁じ、迷信を広め、奇跡を強調し、疑うものは地獄によって脅かした。一七二九年にプラハで大げさな祝祭とともにおこなわれたヤン・ネポムツキーの聖者叙列式やマリア信仰の隆盛、派手な説教に伴われた巡礼団の組織といったものは、いつまでも民衆に崇拝されているフスやジシュカの記憶を抹殺する役にたつはずだった。しかし民衆はただ自分の悩みについてだけうたっているのではない。彼らの唇のあいだからもれて出てくるのは、またも、反抗の歌だったのである。

チェコ人よ、勇気を出して、準備しろ
どうして、信仰を弱めるのだ、言ってみろ!
軽く見られたチェコ人よ
外国人が、おまえたちを苦しめているんだぞ


エズイットに立ち向かった、あのジシュカはどこにいる
彼らの葬式の花輪を、鎚矛で打ちつけただろうか
ふたたび、彼は立ち上がったぞ。もう、その声がする
坊主どもは、いまに、新たな大騒動をやりだすに違いない。

 そして、早くも民衆の口から、貴族たちに向けられた呪いの言葉が響いてくる。

そうとも、やつらのなかに
雷を、百個といわず、放り込め
あのくそったれの、貴族どものなかへ!


神よ、お許しください、彼らに一撃くらわすことを
彼らが、悪巧みのゆえに、
永久に、地獄にありますように!

 チェコ人は地獄からはあまりたいしたものを作り出してはいない。部分的に反改革(奇跡や巡礼の地についての歌など)に手を貸した市場詩集は、恐ろしい殺人が起こったとか、子供のかわりに怪物が生まれたというようなことを語ったばかりではなく、それとともに、どこかの放蕩貴族を悪魔がどんな具合に地獄へ引っ張っていったかを、適切な挿絵入りで語っている。
 いくつかの宗教的主題は民衆のなかに浸透していくうちに世俗的主題に変貌していったが、それはかなり注目すべき現象である。こうして、花婿―キリストを待つ五人の賢い娘と、五人の愚かな娘の聖書的寓意は、本物の花婿を待つ本物の花嫁の世俗的な結婚式の歌となり、ミフナのクリスマスの子守歌『おやすみなさい』 Chtíc aby spal も結婚式の歌となり、『主キリストは生まれたまえり』 Narodil se Kristus Pán は嘲笑的な世俗歌謡『若き靴屋は生まれたまえり』 Narodil se mladej avec や『仕立屋の親方は生まれたまえり』 Narodil se krej í pán が出来上がった。
「娯楽」文学のなかでは大衆的読物の本が人気を博したが、これらの読物は「白山後」期に実際上、大衆的読物となったのである。そこで十六世紀にすでに出まわっていた『メルジーナ』『フォルトゥナート』『ファウスト』の物語があらためて出版された。これらのテーマのいくつかは叙事的な歌 píseH に改作された。
 公認のイデオロギーは説教壇から、また賛美歌作品をとおして民衆のあいだに広がった。説教も賛美歌も当時の民衆の文化水準がけっして低下していなかったことを証言している。いま、名前を挙げるとするなら、D・ニッチェ、B・H・J・ビロフスキー、T・X・ラシュトフカなど、讃美歌集のなかからは、V・K・ホランによって編纂された歌集やJ・J・ボジャンの歌集をとくにあげることができる。それと同時に興味をそそるのは説教の多くはウイットもわすれていないこと、そして非カトリック信者にたいする攻撃においては全体的におだやかであるが、無教養な金持ちにたいしては攻撃の手を緩めていないということである。たとえば、ボフミール・ヒネク・ビロフスキー(一七二五年没)であるが、同時に、社会的平等の思想や富者の神にたいする責任にも論及している。「この地上の世界において、国家とはいかなる人物か?」とビロフスキーは問い、すぐに答えている。

 この地上なる「国」とは貧しき人々、奴隷、隣人、惨めな小作農、貧乏な職人たちである。金持ちや権力者は貪欲な鬼のように、これらの哀れな人々を踏みつけて、足を踏ん張って血を吹き出させる。おお、カインの一族の者たちよ! 覚えておくがいい、この貧しきものたちの血はキリストの血であることを、そしてその血は侮蔑された土地から、そうとも、踏みつけにされた土地から、そして流された血は、おまえたちに向かって反抗の叫びをあげるだろう!

 説教の「職人」芸、つまり、聴衆を引きつける言葉とウイットの使い手としての真骨頂を発揮するビロフスキーの説教の能力は、次の「たとえばなし」からも明らかに伝わってくる。

 ある学校の先生が幼い子供の兄妹に「ピエターテム・アマー」(peitatem ama=敬虔なるものを愛せよ)問いウラン典後の文章を覚えさせようとしていた。ところが子の小さな子供たちは、読むたびごとに「ピエ・タータ・イ・マーマ」(pije táta i máma =パパもママも酒を飲んでいる)と発音する。
 ところで、もし、父さんと母さんが一日じゅう酒を飲んでいるとしたら、かかるチェコ人の尊厳などというものは、まさに子供たちが発音した真実のなかにこそある。この親にしてこの子あり。父が酒飲みならば酒飲み息子(pijá ek)、酒飲み娘(pijavka=蛭)となる。また母親が酒飲みならば(pivonka=ぼたんの花)、娘は酔っ払い女(bumbalka=pijá ka) となる。

(訳注・この部分は余計な注釈なしにも面白いが、ただ、チェコ文学の翻訳の難しさがこんなとろろにもあるということを知ってもらうために、あえて「駄注」をつける。pije は pít (飲む)という動詞の三人称単数形であり、いわゆる語幹は pij である。これから piják, pijá ek, pijá ka(女性形), pijávka(女性形)という言葉が派生してくる。また母親の pivoHka はこれはむしろ pivo(ビール)から派生したものだろう。ただし、ここで気をつけなければならないのは、酒(ビール)飲み女という意味は現代の辞書にはなく、辞書に出ている意味は「牡丹」(花)のことで、チェコでも美人の喩えにされている。とはいえ、バーなどで太った酔っ払い女に「君はぼたんのようだね」といって、ぶん殴られなかったら幸いなのかも知れない。このように辞書には正式な意味として書いてなくても、潜在的な意味として有効な場合もあるのである)。


 社会的平等の思想はエズイット派の劇作品のなかにも現われる。たとえば『ラコヴニークのクリスマス劇』 Rakovnická váno ní hra である。作者のリベルティンは、イエスは誰のために生まれたかという羊飼いと王との論争を、イエスはだれかれの区別なくすべての人のために生まれたのだという妥協によって解決している。この劇は同時に、前述したE・F・ブリアンの民衆組曲の一部をなしている(『われらのものが、おまえたちのものか?』 Je nás nebo vá? )。 弾圧強化にたいする民衆の抵抗は、亡命者たちによって活力を与えられた。彼らの著作は「小型本」 apalí ky として知られている本としてひそかにチェコに持ち込まれていたのである。これらの本は圧倒的に讃美歌集や祈祷書が多かったが、その出版者や伝播者としてもっとも有名なのはジタヴァの教授クリスチアーン・ペシェクとリトミシュルの農夫出身のヴァーツラフ・クレイヒである。これらの作品は芸術的には大きな意味はなかったとはいえ、亡命することのできなかったチェコ民衆のイデオロギーの支えとなったことに、その意義がある。
 この時代に特別の意義をもたらすのは民衆の文学である。われわれはこの文学のなかにあらゆるジャンルの登場を見るし、その主題の範囲も相当に広い。その場合、たとえおとぎ話的、空想的な要因が豊富に利用されているとしても、その状況のなかで人間関係が現実のありように則して本質において描かれていた。おもしろいのは民衆の文学と印刷された公認の文学との関係である。民衆の作品のなかには公認文学をパロディー化して、テーマやモティーフに正反対の意味を与えたのもある(たとえば、悪魔は人を脅かす人物ではなくなり、むしろ滑稽な人物になっている)。そして、もちろん、おとぎ話は民衆がそのなかに長年培ってきた知恵を描いているばかりでなく(社会階級の上層に位置する人々にたいして、正真正銘の愚かさによって勝利をもたらすホンザの人物像)、その物語によって、民衆は貧困のなかに置かれていながらも、なお、自らを慰めたのである。
 同様にある種の伝説の類も慰安的性格をもっていた。たしかにそれらのものは、栄光ある過去に題材を求めたり(ブルンツヴィーク、ダリボル)近い過去や現代から物語の題材を取ったり(コジナ、クバタ、山賊たち)あるいは、よりよい時代を期待して未来を見つめた(エチュミーネクの王たち)のである。民衆の創作としてもっとも個性豊かなものとしては、ジシュカ伝説とブラニーク伝説がある。この物語はチェコの国土が最悪の状態におちいったとき、ブラニークに待機する軍隊が聖ヴァーツラフに引き連れられて助けに駆けつけるという希望によって、窮状のなかにあった人々を勇気付けたのである。
 ドラマは大きな人気を博したが、主に復活祭劇とクリスマス劇である。民衆のあいだには「小規模な」劇的な上演(キリスト生誕を扱ったものや、クリスマス・キャロルを伴ったものなど)があったが、同時に「大きな」劇もあり、そのなかでは百人もの俳優が登場し、あるものは十九世紀にまで引き継がれ、今世紀の六〇年代には職業的舞台にも取り入れられた。
 民衆的と半民衆的ドラマの領域におけるヨーロッパ的特殊性を示したものは歌つき民衆劇である。それは明らかにバロックの城館におけるプライヴェートな劇場(ヤロムニェジツェ・ナド・ロキトノウ、プラハ、ククス、チェスキー・クルムロフ、他)においておこなわれたオペラとの関連において起こったものである。これらの劇は館の礼拝堂で働いていたチェコ人の教師たちの働きにより(そしておそらく館における上演には所属の領地内の村々から来たよい歌い手たちが演じたことにもよろうが)、この歌入り芝居は民衆のあいだにも広まり、民衆オペラが生まれた(それはしばしば方言によっておこなわれたため、たとえば、ハナー・オペラといわれた。<ハナーはモラヴァ地方の川の名>)。また他方では、もちろん「芸術的」音楽も民衆の音楽と接触し、そのいくつかの要素。たとえば、メロディーを得たり、取り込んだりした。
 歌つき民衆オペラとして現実的な事件(チェコ特有のもの)を主題とした作品が作られた。一七七五年の農民一揆である。この世紀のおわりには、これらの演劇のなかに幕間劇の典型的主題(たとえば、結婚仲介)が取り入れられたが、またルネサンス劇、つまり「文学的」演劇の伝統も盛んであった(サリチュカ参照――カーニバルのころに上演された『尻尾をつかまれた浮気』の民衆的改作)。
 新しい形態としては人形劇がある。この最も古いレパートリーは国際的な題材のものである(ファウスト、ドン・ジュアン)。十八式のおわりに常設の舞台がプラハに出来ると、人形師たちはプラハの舞台に掛けられた芝居をもって地方巡業に出た。もっとも有名なチェコの人形師はマチェイ・コペツキー Matj Kopecký(1847没)で「白山後」期と再興期とを結ぶ掛け橋となった人物である。
 地方において民衆歌謡がさかんであったように、都市においても市場詩集が人気を博し、それはある意味で今日の新聞の役割をはたすものであった。それはもちろん地方においても知られていた。市場詩集の出版は当時の流行の詩や、賛美歌の歌や官許の詩人、その他の作品を広める役割もはたした。ある市場詩集の断片の中には『ソロモンの雅歌』の改作さえ含まれていた。市場詩集の作品は何人かの重要なチェコ・バロックの形式を再興期へ、そしてさらに十九世紀へ、途切れなくつなげるのに大きな意味をもっている。これらの歌にたいする関心は二十世紀になっても絶えることがなく、ヴォスコヴェッツとウェリッヒ(Voskovec a Werich 一九二〇年代に活躍した二人組みのキャバレー芸人、V&W という通称でも呼ばれる)の場合には、それが「芸術的な」形態をもってあらわれた。また個人的にみても(文学、音楽において)いくつかの作品では、J ・ シュリットル、J ・ スッヒーなどの作品はそこ(市場詩集)からインスピレーションを引き出している。市場詩集の原曲は、j ・ トラクスレルの「チェスキー・スキッフル」のメンバーの口から響いてくる。
 口承的創作と純文学との中間にあるのが、民衆のなかの文学愛好家であるピースマーク písmák <田舎で読み書きの出来る人:語源的にはチェコ語の文字=ピースモ písmo から来ている>の著作である。彼らは一方では気に入ったものを(たとえ古い時代の作品であっても)改作したし、また、一方では自分自身の創作をも試みた。これらの人に含まれたのが、たとえば、執事であり羊飼いでもあったイジー・ヴォルニー、ミルチャネー部落の名主だった Fr. J. ヴァヴァークである。彼らの作品は部分的にはすでに再興期に属している。文学愛好家のなかには文学的著作をしようとつとめている小インテリゲンチャもいる。たとえば、第一に、地方の学校の教師たちである。一例をあげれば、地方の人々の生活をよく描いたコイェティーンのトマーシュ・クズニークである。
 文化的生活はチェコの最下層の市民たちのあいだでも完全に死に絶えていたわけではなく、そのありようは十六、十七世紀における彼らの文化生活に類似していた。民衆の本は常に流布しており、それらのなかのあるものは改作された。関心は中世とルネサンスの題材に向けられ、また町を流れる風聞も書き留められた。
 文学ディレッタントの作品のなかで特に注目に値するのは、職人の生活を扱った二編の膨大な韻文作品である。それらの作者たちは相当な教養人だったが、また職人の環境に極めて近い人物であった。その最初のものは『四つの職業についての風刺』 Stira na  tyYi stavy で、およそ九千行の詩からなっているが、残念ながら全部伝わっているわけではない。その主要なモティーフは「ああ、親愛なる永遠の神よ、永らえばさらに悪くなる」というため息である。それは個々の職人たち、またそれぞれの地位の人間の一連の訴えとして構成されており、彼らの困窮をマロムルフ Malomluv がスプロスチャークをけしかけてアイロニックに言わせている。そのなかで風刺的非難はインテリゲンチャ(神学者、医者、弁護士、哲学者)も免れていない。たとえば医者はこんな具合だそうである。

脈拍や熱から
五官の麻痺や異常を見つける
清浄を命じ
浣腸をし
何かを混ぜ、量り、暖める
短時間のあいだに、サソリの黒焼き
湿布をしたり、冷やしたり
君の悪い脂肪、それも蛇の油を
塗りつける、得体の知れぬ強い酒
カルシューム、鉄分、ブドウの
汁に、letvaYe 、万金丹
粉に、丸薬、タバコまで
五体の血管、口をあけ
命のほうは、店じまい。

またもや、患者の行列だ
駆けつけるみんなは、青い顔
それには、またもや強壮剤――
亜麻の油の、なんとやら
高価な薬味、ひとつまみ――
自分の見立てに、ご満悦
患者がそれに、従うように
医学の恩恵、こうむるように
なだめ、すかして、あげくのはては
患者の気に入るような、治療する
どうしてよいか、わからぬときも
病気の原因、すぐわかる
呪いか、魔法、かかっている
それとも、ほろ酔い、二日酔い・・・

 そして最後には、いずれにしても「神のおそばに、みかまる」ことになる。というのは、この医者どもは財布を「治す=太らせる」ことしかできないからだ。この風刺詩は女性にも襲いかかり、最後には領主の布告人にさえ矛先を向ける。しかし、作品の結末は失われている。
『菓子パン職人の詩』 Verae o pernikáHství の作者もまた文学的才能を示している。この作品も同様に全体は残っていないが、内容は『四つの職業についての風刺』に近いものである。『菓子パン職人』の二十の章は、生姜入りパンの製造を扱っている。そして章は常に『年期奉公讃歌』と散文の「寓話」で締めくくられている。それにまた、菓子パンの値段の計算についての指導も挿入されており、作者はこの作品によって学問的著作をパロディー化し様としていたものと思われる。この両作品は筆者本によって残っているに過ぎないがそれにもかかわらず「白山後」期の都市文化の水準の高さを証明している。
 文学ディレッタントの作品は小範囲の浸透力しかもっていなかった。そして単なるプライヴェートな出来事として、ないしは、小さな友人グループ内の事件としてとどまっていた。しかし、十八世紀の文学作品と次の文学発展とを結びつけているのは市場詩集と讃美歌とともに、民衆の歌なのである。
 民衆の歌はたしかにチェコ文学生活の全期間にわたって育てられてきたものではあったが、しかし、まさにこの「白山後」期において、後代の収集家が記録したような形で発展したのだった。収集家のなかでとくに上げるべき人物はエルベン(後出参照)スシルであり、彼らの収集によって、民俗学的事実が文学的事実となったのである。それらはほとんどが、田舎の民衆の歌であり、文字通り、いたるところで聞かれたものだった。そして再興期が初期の完成度の高い詩の創作をはじめるまでの詩歌の不足を市場詩集の歌が十分補っていたのである。それらの歌は、その形式と精神によって、汲めども尽きぬ泉となった。のちの詩人たち、たとえばヘイドゥク、ネルダ、スラーデクをはじめ、今世紀の詩人の多くがこの泉の水を汲んだのである。
 民衆の歌の主題の豊富さはよく知られているとおりである。歌は仕事のときにも民衆の道連れとなり、民衆の愛情、自然との交感、社会問題を表現し、また同時代の事件にも触れ。またバラード(『孤児』『おぼれた娘』)のなかではリアルな情念を燃え立たせた。とくにその率直さ、碑文調の簡潔さで効果を示し、後任のバロック死のいくつかの作品のような定式化した過剰な言いまわしと対極をなすものであった。それはまた、その芸術性のゆえに作曲家(クジーシュコフスキー、マルチヌー)ばかりか、画家たち(マーネス、アレシュ)のインスピレーションの源泉ともなったのである。







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