(3) ヒネク・ス・ポジェブラット Hynek z Podbrad


  ヨーロッパのルネサンスによって豊かになったチェコのフス主義は、いくつかのオリジナルな作品や翻訳された散文作品(おもに、ボッカチオとポッジオの作品)からうかがい知ることができる。この作品領域で最もきわだった人物、そして長い時代をへたあとであらためて真に偉大な文筆家として認められたのはイジー王の息子で、重要な政治家であり外交家でもあったヒネク・ス・ポジェブラット(1452−1492)であった。
 「近来、わが国において、その卓抜せる才能と弁舌と、大事に際しての果敢なる行動においてヒネク公の上に出るものはなかった。しかしながら彼は絶えず処女を陵辱し、色事を重ねたことが、彼をしてすべての人にとって不快なる人物にしたのである。もし、彼がそのすぐれた天分を過度の淫蕩によってそこなわなかったならば、尊敬と重要なる地位にあるわが国の貴紳のなかにあって、最高の人物であったことを疑うものはなかったであろうに。それゆえ、この人物はすべての者から軽視され(おそらく、神の裁きによって)下品(げほん)の中に落とされたのだと、みながそう言っている。医者のなかの最もすぐれたイポクラテスは『(複数の)女と交わることは、いわば最も忌まわしい異常性であり、それにかかるのは病気である』と述べている」B.ハシシュテインスキーのこの言葉は――ヒネクの死後に書かれたものだが――信じがたいほど長い世紀にわたって、ヒネク・ス・ポジェブラットの人間評価ばかりか、作品の評価の出発点とさえなった。この点においても古代チェコ文学における、まさに「オリジナル」な事例ではある。それと同時に、その生涯はけっして誉められたものではなかったこの胆汁質の羨望家の口から出た評価であること、また自分の作品をチェコ語に翻訳することを禁じた高慢な(だから、この男はフルビーを”二本足のロバ”とさえ呼んだ)論争かの評価であることが気にかかる。しかしこのような性格として知られているハシシュテインスキーの口から出た評価とはいえ、チェコ・ルネサンスの発展の基礎を築き、二つの時代を結び付けている作品の作者、また詩人の流派発生の刺激剤ともなった作品の作者の人格を物語っているのも確かだろう。
  ヒネク・ス・ポジェブラットはルネサンスにしろ、重要な意義をもつ人間主義にしろ、最初に直に触れたのはイタリアにおいてだった。彼がマティアーシュ王の二番目の花嫁ベアトリーチェ・アラゴンスカーを迎えるために王の主要な随員としてイタリアを訪れたときであり、また、第二の機会はブディーンのマティアーシュ宮殿においてであった。この宮殿には著名な人物からなるアカデミア・コルビナという組織があり、新しく設立されたコルビナ図書館の何千巻という人間主義の文学を自由に手にしていたのである。ヒネク自身、プラハの幼年時代からすでに人間主義の基礎を有していたことは疑うまでもない。なぜなら彼の父親は息子たちの教育に気を配っていたからである。彼らがプラハ大学の学生でなかったとしても、プラハ大学の周辺にあった家庭教師をもっていた。彼のずばぬけた教育水準についてはヒネクの作品、所管、政治的性格の交渉までの彼の外交手腕などがそのことを証明している。
  ボッカチオの作品はヒネクの功績によって『デカメロンの十一の物語の翻案』として紹介された(底本はドイツ語)。収められた物語は生活感に満ち、聖職者や皇帝をも物ともしない機知にあふれ、また、当時の社会のあらゆる階層の色とりどりの人物たちがお祭りの行列のように次々と読者の目の前に登場してくるなど、翻訳者がルネサンスの性格を非常によく示した物語を選んでいることをこの選集は証明している。主題はほとんどが愛情問題であるがけっして暗い調子のものではない。ヒネクは賢い女性に共感を示しており、魅力的な奥さん方には心から、慇懃に敬意を表している。その一方、好色な僧侶や修道士など、神聖を生活の糧にするペテンにたいしてはフス主義的嘲笑を存分に浴びせ、金に物を言わせて社会の階段の最上段にはい上がろうと望む強欲な商人にたいしても思いっきりの侮蔑を表明している。そしてボッカチオ作品の翻訳のなかで、彼は最上層の宮廷の雰囲気や市民の環境についての知識ばかりか、チェコの農村での生活にいたるまでその実情をつぶさに知見していたことを証明している。
  イタリア小説の翻訳は彼の場合、けっして機械的な移しかえではない。つまり、構成が整理されており(個々の物語は独立しても読むことができる)、事件の場所はチェコに置き換えられ、人物たちはチェコ人の名前になっている。ヒネクは民衆の言い回しや慣用句によって物語に色彩を与え、民衆のものの見方から多くのものを自分の人生観のなかに取り入れていて、それが彼のオリジナルな詩散文作品にはっきり表われている。そぁそ人間は「善いことよりも悪いことが起こる」ほうをはるかに容易に信じるものだという何気ない指摘を見たりすると、ヒネクがただの軽薄な女たらしではなかったことをはっきりと物語っている。彼自身はそれを十分身をもって味わったのだ。しかも自分の好色のためばかりではなかった。
  なるほど彼の生涯には評価されたり、少なくとも理解されるよりは、非難されるべき理由のほうが多かった。たとえばカトリックへの改宗や財産争い、さらには彼の政治的姿勢などである。ヒネクの非難者は彼の行動の原因については問わない。彼の批判者は彼に着せられたいろんな罪状の審議を問いただそうとはしない。彼はすべての面であまりにも例外的な人物だったから、チェコの狭量な人たちは彼を「寛大に見過ごす」ことができず、また、当時すでに相当に容易ではなかったポジェブラット王の息子の生活を――とくに父王の死後は――いっそう苦痛なものにしたのである。ヒネク自身が身をもって体験した「幸福の女神」の奇妙な気まぐれにたいする苦々しいため息をわれわれは彼の詩『幸福と不幸との争い』 Boj atstí s Neat&#283stím のなかにも聞き取ることができる。その詩は、その他にもいくつかの実際の事件を取り入れている(マティアーシュ王の運命、ルネサンス期の芸術のパトロンとして有名なロレンツォ・メディチの暗殺)。それだけに、ヒネクの作品のなかに、たとえボッカチオの翻案であれ、オリジナルな作品であれ、ほのんどの作品に悲しみの影が見られるというのはまさに驚きに値することである。
  ヒネクの創作になるものとしては、ボッカチオを手本にして独自の小説を書こうとした試みがある。ボッカチオの作品は(いわゆるネウベルスキーの)写本集のなかにまとめられているが、ボッカチオの翻訳(サロメというなの美しいある夫人について、および、彼女にはきわめて似つかわしくない夫についての物語)のあいだにヒネクの作品が含まれている。ヒネクにはまた『幸福について』と『美徳と騎士と知恵』という二編の散文と、五編の詩(『結婚について』『幸福と不幸との争い』『愛人についての詩』『五月の夢』『結婚への憧れ』)もある。とくに詩作品は不完全にしか保存されていない。なぜなら、作品集のページがすべて乱暴に引き裂かれ、破り取られているからだ。その紙面には明らかに挿絵が描かれていた――詩集のなかの三枚の絵が偶然、16年前に発見された。それ以外は(大文字一字以外は)知られていない。しかし大部分の詩の規模は推量することができる(それは数百行におよぶ)。
  ヒネクの詩や散文『幸福について』『美徳と騎士と知恵』は中世の余韻が消えようとするなかにルネサンスが登場してくるという、いわば移行期の特徴を備えている。最初にあげた散文作品は内省的性格をもっている。この作品の主人公は自意識の強い若者である。彼は軽率に、前後の見境もなく幸福(の擬人化)の宮廷に押し入るが、最後には医師フドバ氏と意気投合する。この若者の物語をもとに作者は「もし、だれか幸福氏の館へ行くことがあったら、知恵と用心と公平と慈悲と美徳の忠告に耳を傾けるように。もし幸福氏の館でこのすべての人物に知己を得られなかったとしても、美徳と慈悲と公平とはできるかぎり面識をうるように」と教えている。若者が紛れ込む幸福の宮廷、つまり都市―世界のイメージは、実はコメンスキーの『ラビリント』を先取りしているのである。
 『幸福について』とまったく反対の調子を響かせているのが散文『美徳と騎士と知恵』である。美徳の擬人化である美しい処女の非難の言葉にたいして、天真爛漫で、かなり冒涜的な若者である騎士――おそらく、ヒネクの「本音」であろう――が答える。教会へは行きたくない。もし、仮に行くとしてもけっして信仰からではなく、教会には美女がたくさんいるからだ。お祈りをするくらいなら騎馬の槍試合をしているほうがいい。美徳の証(あかし)の旅に出るくらいなら、「デブ女」を女房にするほうがまだましだ。天国にいるみたいにして愛人と部屋のなかにいたほうがいい」――そして賢者がされに非難を続けようとしたとき、若者は次のように答えることで状況を切りをつける。
 「おれは長ったらしいお説教はご免だぜ! それでも、あんたの野暮な説教や詩に耳をかたむけなきゃならんと? そんなこと、おれはいやだね!」そう言うと「彼は美徳と知恵に背を向けて、機敏な牡鹿のように駆け去った。まるで、狩り立てられているかのように。こうして町を駆け抜けて、コートも脱ぎ捨て、上着だけとなって――一直線に酒場へ駆け込んだ」。
  彼の宗教にたいする関係、地上的生活の偽りなき喜び、生き生きとした情景、騎士の生きざまの描写、そして当然のことながら、作品の響き、これらによってヒネクはルネサンスノ文学者の中に加えられる。
  若者の夢のなかに現れた愛人に、ベッドに来て一緒に寝るようにと口説く様子を描写をしている最も有名な(そして最も非難の的となった)『五月の夢』という詩についても同様のことが言える。19、20世紀の一部の研究者の欺瞞的なお上品気取りが――依然として生きつづけていたハシシュテインスキーのヒネク評価とともに――『五月の夢』のゆえにヒネクの全文学作品が「最も不道徳、かつ不謹慎きわまりない」ものであるという偏見を定着させた。ところが同時に、これらの批評家はどうやら作品の全体を知らないらしいことも暴露している。ヒネクの『五月の夢』の出版が検閲に引っかかった。『緑山偽書』RKZの共謀者として有名なスヴォボダ-ナヴァロフスキー Svoboda-Navrarovský は『五月の夢』の「改善」に取り組んだが、その結果は? ヒネクの「健全なる官能」は、古代チェコ語に備わっていたはずの言語的無骨さなど気にもとめず、実際には19世紀ブルジョアの「不健康」で狡猾な両義性に置き換えられただけだった。
  恋愛の主題は『愛する男の詩』 Veraové o milovníku にもある。その主人公は恋する若者で、春の自然のなかに分け入るが、そこには生まれ来る生命が、恋人を思い悩む彼の心情と対照をなしている。この若者と出会った未知の夫人は、はじめは彼の恋の悩みに耳を貸しているのだが、やがて若者の恋を自分のものにしようと試みる――が、失敗して去っていく。ヒネクの愛の詩はいくつかの性格から、まだ中世に属している(愛の渇望、愛の奉仕としての恋愛の概念、自然の登場、その他)ものの、非伝統的要素も備えている。たとえば、娘が自分から恋する男性を訪ねていき、自分からその純潔を彼にゆだねるなどである。だから、とくに価値のヒエラルキーのなかで愛情の上に友情が置かれ、女性の永遠性、献身、自分の感情に忠実であることによって女性が男性の上に置かれている。それは現代にまで通じる思想である。
  すでに触れた哲学的―教訓詩『幸福と不幸の争い』も古代からの文学伝統に結びついている。この詩は中世の『精神と肉体の論争』にその先例を見る。人間は地上的なあらゆる物質以上に神を愛すべきであり、そうすることによって自分の地上的生活をコントロールしなければならないという思想から見ても両作品は近い。この教訓への帰結は詩『幸福と不幸との争い』のなかにおいて深刻に、あるいは、ヒネクの他の作品におけるいくつかの宗教的結論よりは――ヒネク・ス・ボジェブラットのような宗教的会議主義者にありがちな軽いアイロニーをもってではあるが――少なくとも深刻に述べられている。
  ヒネクの全作品のなかで現実を最もよく反映しているのは『結婚の憂鬱』で、この作品は大いにウイットを利かしながら、若い夫の思うに任せぬ倹約という日常風景をわれわれの眼前に描き出している。しかもこれによって「えいえんの」のタイプという中世的描写から遠のいている。たとえば若い夫は、自分の思い通りにならないと「本物のめんどりみたいにわめきちらし」夫の人生を苦しみ多いものにしている奥さんのことを次のように語っている。

さっきも、わたしが話したように
かわいい、かみさん、来たもんだ
(ところが悪魔の嫁と、きたもんだ!)
てなこと、口にしたからは
どんなに、ひどい結婚か
いい気晴らしだ、聞いてくれ。
やがて間もなく、高飛車に
ふくれっ面して、がみがみと
「あんたは何も、買ってくれない!
あたしは、はだしの召使い
服の一枚、ありゃしない
これじゃ、体も隠せない
恥ずかしいところも、オッパイも
いいみせしめに、泣いてやる
いますぐ買って、くれなけりゃ
だれかが買うわ、きまえよく
そしたら、あたし、いちばん得意なことして
そのひと、喜ばせてあげるわよ!」

  詩人としてのニネク・ス・ポジェブラットの評価は、彼のいくつかの詩にドイツ語の出典があるという指摘もあったことからも低められていた。しかし古代文学における原典の問題は作品の価値の決定的尺度ではない。それにヒネクは明確な独創性と完成度を持って作品を作り上げ、チェコ市の発展に貢献した。
  ヒネク・ス・ポジェブラットの作品のなかでは庶民的な表現要素と洗練された表現要素とが実に巧みに結合されている。作者は主人公たちをその発言や行動によって性格づけたばかりでなく、性格描写によっても彼らを立派に描き分けてみせたのである。だから、われわれの目の前に生きた任物が登場してくるのだ。それとともに彼はまた、場面の雰囲気をも見事にとらえることができた。たとえば『サロメ夫人についての話』 Rozprávka o paní Salomen のなかのカーニバルの馬鹿騒ぎである(この夫人は不運にも「このように美しい夫人にふさわしくないばかりか、善良な豚にさえ似つかわしくないモンスターのような男」の妻となったのである)。ヒネクの作品の多くの芸術的特徴は、彼の出現から百年も経ったいまも越えられていないし、有効に発展させられてもいない。
  ヒネクは同時代者から非難されたにもかかわらず、彼の文学作品の偉大輪は彼の死後、いち早く評価されたことは芸術面から彼の衣鉢を継ぐものとして二編の長大な詩が現われたことからもわかる。それは放蕩息子の生活を生き生きと、ウイットをもって描いた『怠け者の鏡』 Zrcadlo marnotratných と、赤子たちが自分たちをどのように育てて欲しいか、自分たちの家族に忠告する『両親への教訓』 Nau ení rodi om である。
  チェコ・ルネサンス文学を創造しようとしたヒネクの努力が結局無駄骨であったことはけっして彼の罪ではない。そしてこのような資質をもった作家がポジェブラットの宮廷のなかで見捨てられたまま死んだということはチェコ人にとってけっして名誉なことではない――もちろん、そのころ、すでに宮廷は彼のものではなかったけれども――彼はある手紙のなかで「そのどちらも彼には好ましく、楽しいものだ」と吐息をもらしているが、これはこの世間を知り、教養もある、謙虚な、しかもラテン語化された人間主義者たちがチェコ語とチェコ民族を軽蔑していた時代に、熱い情熱をこの二つに向けていた高貴の生まれの人物が、われわれの世紀(20世紀)の中葉にいたってやっと正当な評価を得たということとともに、まさに悲劇的な事実である。だが、ヒネク・ス・ポジェブラットにかんする放送用の劇を書いた Fr. コジークの功績により(1966年と1967年)、わが国の文学のなかの注目すべき人物も、いまでは多くの一般大衆の知るところとなった。







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