(6) ブラホスラフ時代 Doba Blahoslavova


  文学作品はこの時代でもラテン語とチェコ語とによって平行して書かれていたが、文学発展の情熱は完全にチェコ語による創作の領域に移っていた。ラテン語による人間主義作品にかんするかぎり、新しく著わされた作品が質的にすぐれているからという理由で市民層のあいだに広まったという例はなかった。量的に増加したのは確かだが、室がそれに十分応えたとは言いにくい。まず最初は韻文のラテン語が時代の風潮となったことがことがとくに目立つ。折節の詩(冠婚葬祭など)がラテン語で作られるケースが一番多かった。それらの作品は慣例的性格のもので芸術的(文学的<訳注・チェコでは文学も芸術ジャンルの一つであり、日本語では「文学的」というところを「芸術的」と言っている>)にはあまり価値がない。大きな意味をもっているのは学校教材のためのラテン語作品だけである。
 ラテン語作品が停滞している一方で、チェコ語の文学は大いに発展した。チェコ語文学の目的は前の時代と同じである。つまり、つちかい育てるということであるが、それに加えて、できるかぎり明確な客観的知識を得ようとする努力があった。その最前列に歴史的なもの、また地理的なものを題材とした作品が来る。だがその他にも学問的にもきわめて重要な作品、とくに言語学的作品がある。人間主義時代に言語学が学問の領域の一つとして形成されはじめ、古典や聖書の翻訳においてその成果が生かされ、また、辞書編纂、言語理論(最初の文法書)、詩歌論にまで影響をおよぼした。
  歴史書のなかで最大の反響を呼んだのは『チェコ年代記』であり、それは発表された時代だけでなく、そのあとも長いあいだ読まれた。その著者はカトリックの僧ヴァーツラフ・ハーイェク・ス・リボチャン Václav Há z Libo (1553 没)で、彼はその作品で貴族とカトリック教を賛美しようとしたのである。かれは豊富な資料を駆使したとはいえ、それらを改変し、自分の目的にあわせようとしたため、結果として作品は多くの虚構と不正確さに満ちたものとなった。それにもかかわらず、この作品の肯定的な点は民間伝説と祖国愛について熱心に語ろうとした努力である。ハーエクの年代記はその後何十年ものあいだよまれ、再興期においても新版が出版され、その時代の歴史散文文学に影響を与えた。
  16世紀後半に、古代チェコの紀行文学の最も代表的な作品の一つが現われた。それは『プラハからヴェニスへ、そこから今度は海を渡ってパレスチナへの旅』 Cesta z Prahy do ben&aacutek a odtud potom po moYi a~ do Palestiny と言う作品である。作者はオルドジフ・プレファースト・ス・ヴルカノヴァ OldYich Prefát z Vlkanova (1565 年没)で、広範な教養、とくに自然科学に造詣の深い人物であった。プレファートはプラハに物理および数学用器具の政策向上をもち、彼の学問的興味と、できるだけ客観的に認識しようとする努力が彼の紀行のなかにもはっきり読みとれる。しかしこの作品によると、彼はすぐれた語り手の才能と、豊かな語彙と音響にたいするすぐれた感覚の持主であり、たとえば、海の嵐というようなたびの劇的瞬間を描写した個所に、とくに、それが表われている。
やがて海と天のあいだに、恐ろしげなる暴風か吹きすさび、マストに張った綱を何が何でも、力にまかせて引きちぎろうとして荒れ狂う。そうかと思うと、激しい斬り合いでもしているかのように、ヒューヒューとすさまじい音を立てている。空もまた恐ろしげにおおいかぶさり、人の心に恐怖を満たす。不吉な黒雲が天空を過(よ)ぎり、まるで真夜中のように周囲を曇らせ、光をさえぎり、暗黒をもたらす。

  文学の急速な発展とともに言語文化にたいする要求が強まり、文法体系化の最初の試みが起こってくる。この試みは、とくに、新約聖書のチェコ語訳の経験が生かされた。言語の鋭敏な観察者として、また、その関心の多様性と広さによって典型的なルネサンス的人物としてヤン・ブラホスラフ Jan Blahoslav (1523―1571)が現われた。彼は司教であり、友愛団の記録者であり、16世紀のわが国の文化の主導的人物である。
  ブラホスラフはその著『チェコ語文法』 Gramatika  (1571) で主に語彙 (slovn&iacut;k)、用語法 (frazeologie) 構文 (skladba) ニ注目したが、これはオリジナルな著作ではない。もとはベネシュ・オプタート、ペトル・クゼル、ヴァーツラフ・フィロマテスが共同して書いた古い文法書にたくさんの注釈をつけ、補足したものである。ブラホスラフが最も力を注いだのは母国語の言語表現の高い文化を育てること、それによってフシェフルト (Vahrd) の遺産を普及させることであった。彼の尺度は言語の美学チェコ語にかんする的内容であった。この観点から彼は方言についても判定を下している。これらの方言はハンドブックのなかに記されているが、このようなことはわが国においてははじめてのことであった。そのほかブラホスラフの文法のなかにはスラヴ系の諸言語にかんする短い感想が述べられている。
  その後の言語学の発展、とくに「白山」以後のものに比べると、チェコ語にかんするブラホスラフの判断がいかに鋭いもので。あったかがわかる。つまり彼は会話体言語や方言の形態を用いることを好まなかったとはいえ、後代の美文家の奇態と極端におちいることはなかった。彼はとくに言語の精神に注意した。すなわち、言葉の不変の技法についてである。そして外来語も拒否しなかった。むしろ言語にとってそれは必要であり、古代後でさえもそうだったとみなしたが、あまりにそれに執着することはすすめなかった。彼は言語をその当時形成されつつあった規範の範囲のなかにとどめておくことを重視したのである。ブラホスラフは彼の同調者マチェイ・チェルヴェンカ Matj  ervenka が収集した『格言集』 Sbírka PYí を自分の文法書につけ加え、さらに自分でもそれに補足した。『格言』のついた文法書は説教師たちの手助けもするはずであったから、しばしば格言の起源とその意味を解明する説明が加えられたばかりでなく、その用例はある格言の意味を理解させる短い小話にまで発展した。

『豚を儲けようとすればミハルのようになる』
この格言には、ヴァーツラフ・チェコ王の時代に、魔法使いのジタから大きな、みごとな豚を安く買ったミハルの逸話が意識されている。その後、彼が豚どもを川に追い込むと、豚たちはわらの束になって、水に流されていった。
『なでる者はうまくいく』贈物をする者は、より確実に思いをたっすることができる。贈物は賢者の目をも曇らせる。
『飛び越えるまでフイというな』<フイ=喜びを表わす間投詞>
モラヴィア地方では「プフ」と言う。
『大鷹はめんどりに学ぶが、めんどりにはいい迷惑』
新米の医者 medicus indokutus について言われる。なりたての医者は、さいしょの三回は背を丸めて墓場のもんをくぐらなければならない。そのあとで、やっと経験をつんだいい医者になる。だから医者に感謝するのは悪魔に感謝するようなものだそうである。

  言語に関する理論的論文は、ブラホスラフの場合、この分野における実践活動から、とくに彼の「新約聖書の翻訳」から生まれたが、それに際して、彼はすでに出店を紹介する場合の正確さという点で、近代的原則にすでに適っている。彼の翻訳は友愛団の学識者集団が携わった聖書全編の翻訳への刺激となった。その結果は言語的にも磨きぬかれた記念碑的な作品となり、民族の話し言葉と、十分練り上げられた言語とを合体させている。この作品が、すなわち『クラリツカー聖書』 Kralická である。(その名は出版された場所にちなんで命名されたが、その場所で1579年から1594年までのあいだに出版された。また、聖書は六巻本として出版されたために『六巻本の聖書』または簡潔に『六巻本』と呼ばれている)この本は言葉の基準と目された。(それというのも、この書はすべての友愛団の家庭で読まれたからである) 長いあいだ大きな文家的役割を果し、スロバキアではクラリツカー聖書の言葉は十九世紀の中葉においても、なお福音伝導派 evangelík の人々の書き言葉であった。
  専門的課題にたいして近代的取り組みの姿勢を示していたブラホスラフは、言語学的正確の労作においてばかりでなく、歴史の領域においてもその学識の豊かさとその正確さとを証明している。そのことは友愛団の歴史にたいする出典資料を記録していることにもうかかわれる。こうして六巻からなる『友愛団の記録』 Acta unitatis Fratrum (友愛団の記録および文献)を編んだのである。このなかで、宗教歌の作者およびその文学的性格について解説を記しているが、それによって文学史にも寄与している。
  ブラホスラフは実践的にも理論的にも、同様に詩と音楽の領域にも登場した。彼は一連の宗教歌を編纂しその他の歌にも手を加えた。そして主に『福音伝導派の讃美歌集』 Písn duchovní evangelistské (1561年)という形で友愛団の歌集の集大成を出版した。この歌集は出版された土地の名によって『シャモトゥルスキー讃美歌集』 (kancionál aamotulský とも呼ばれている(この歌集は検閲のおそれからポーランドのシャモトゥリで出版され、その後わが国のイヴァンチツェでも出版された)。この讃美歌集によってブラホスラフはまさに長い期間にわたって影響をもった友愛団の讃美歌の規範を作ったのである。友愛団の概念では、元来、讃美歌は全生活を含みこんでいる。したがって、狭い意味での教会の歌ではなく――今日の目で見れば――夜明けから夜まで働く人間につき添う叙情歌なのである。友愛団の讃美歌は非常に愛好され大きな反響を得たため、カトリック派にも讃美歌集の編纂をうながすほどの刺激を与えた。
  宗教歌にたいする関心との関連でブラホスラフは『ムジカ』 Musica (1558および1569年)と題した歌手たちのための音楽理論の著作も出版した。この書の第二版に彼は歌手の表現法と、すでにあるメロディーに歌詞をつける場合の要領についての意見やヒントをつけ加えている。実はこのとき、彼は最初のチェコ語の韻律の法則を打ち立てたのである(つまり、韻律構成の法則である)。
  非常に教養豊かな労働者として(ブラホスラフはレベルの高かった友愛団の学校で学んだ後、ウィッテンベルクへ留学し、さらにクラーロヴェッツとバシレイでも学んだ)彼は当然のことなたら友愛団のメンバーができるだけ高い教養を得られるようにという要求権獲得のために戦った。この努力の文学的表明としては有名な『高等教育の敵に講義する』 Filipika proti misiomusom がある。これはキリスト教徒にとって高等教育は無用であるどころか、有害であるという見解にたいして猛烈に反対して書かれた実に巧妙な論争の書である。これによってブラホスラフは地上的生活の評価に目を向けたのである。彼の論理は普遍的な文化的意義をもっつに至った。それというのも、彼は知識や教養一般のもつ力を明確にすることに意を注いだからである。
  教育の普及に大きな寄与をしたのは、1562年にクラリツェに設立され、ブラホスラフ自身によって指導された友愛団の印刷所の活動であった。近年のクラリツェ教会の再建の際、また、地域の古代史研究によって、この印刷所の遺跡とともにたくさんの活字とヨーロッパ特有の針などが発見された。その数は数千におよんでいる。
  ブラホスラフという人物の重要性はその同時代者が認識しており、死亡告知に次のように記されている。ブラホスラフは「当団の父であり、神への導き手であった。彼はまた偉大にして卓越した人物であり、きわめて敬虔にして、若年の頃より労働にはげみ、すべての人々に親切であった。彼の名声は広く諸外国にも喧伝され、わが団の偉大にして高価な宝石であった」。しかしまた彼は、全民族の「宝石」だったのである。なぜなら彼は民族の進歩と、誰にでも手の届く民族の教育に気を配ったからである。彼は理論においても実践においても学者であり、同時に芸術家であった。彼の批判精神と絶え間ない新しい道の発見は、科学研究と芸術作品の基礎を築くのに。貢献し、次の発展のために例外なく刺激となる活動を助けたのである。芸術的表現にたいする彼の柔軟な感受性とオリジナルな芸術創造への努力は、わが国においてはせいぜい外国の原典の翻訳と改作にとどまっていた時代に、ルネサンス精神の意味において芸術家の個性と独自性を生かす道を開いたのである。ブラホスラフの多面性と関心の広さ、徹底性と批判精神はコメンスキーの先輩として自らを位置づけたのである。


  娯楽文学は時代の文学活動の背景にあった。関心は社会批判的な作品、とりわけ一人の主人公をもった連作(チクルス)形式で集められた短いオはなしにむけられていた。たとえば、「イソップ」、放浪職人「エンシュピーゲル」その他である。その主人公の高貴な精神により娯楽文学として最も価値のあるのは『イジー王の道化、われらが兄弟ヤン・パレチェクの物語』 Historie o bratru Janovi Pale kovi, `aakovi krále JiYího である。この未知の編作者は語り伝えられた物語を取り入れているのは明らかだ。したがって十二の物語の改作は民間に伝承された物語と加工された文学の融合の貴重な証拠である。パレチェクの道化稼業はけっして自己目的なものではなく、その目的は貧しいものたち、身を守る術をもたぬ者たちを助けることにあった。主人公の中には能動的な兄弟愛的なヒューマニズムと万人の病棟の新年が彼のなかに日課されている。したがって、これらの物語のなかには(数多くの時代的な、具体的な示唆にかかわりなく)時代の、とくに、チェコ的情況のもつ思想的かつ社会的問題性が示されているのである。
  つい最近まで、。様々な宗教団の讃美歌がその当時の唯一かつ最も価値のある詩作品の証拠とみなされていたのだが、今世紀の60年代になって16世紀中葉に生み出された歌集の断片が発見されたことから、この時代にも「世俗的愛の歌」が存在していたことが証明された。しかし、このなかに収められた歌は純粋にルネサンス的とは言いがたい。それは時代の変わり目にあり、ルネサンスに近いというよりは、むしろ前フス期の愛の抒情詩、ヒネク・ス・ポジェブラットの愛の詩のほうに近いといえる。ただ、そのなかで唯一の作品が例外的に民衆的要素を響かせている(「おお、バラよ、おまえは、どうして色あせるのだ?」 O ru~i ko. pro vadnea 。
  人間主義の劇作品のなかにも響いている。その一つは古代の劇作品(たとえば、テレンティウス、プラウトゥス、セネカの作品)の再生であり、他は宗教的主題を持った人間主義の精神に満ちたラテン語による新しい劇の創作である。古代劇作品は教育の一要素であり、学生たちはそれらを翻訳して、上演もしたのである(30年代から)。エズイット派の劇も発展した。最も大きな意義をもったのはチェコ語が用いられた劇である。んぜなら、それらが一番広範な観客を得たからである。それらの作品の市民層、民衆層への浸透は同時に、劇の世俗化への前提を形作った。チェコ語による最初の聖書劇はすでにあげたようにコナーチュが書いていた(『ユディット』 Judith )。






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