(2) 第一世代の人間主義者たち Humaniste


  人間主義 Humanismus はことばとしては、すでにカレル四世時代にあるが、その後『リパニ」のフス派の敗北のあとに、改めてヤン・ス・ラブシュテイナのペンで表明された。そして、最終的に重要な意味をもつようになるのは15世紀80年代の終わりになってからである。その時代の最初のこと言葉の支持者はラテン語派の人たちであり、彼らはこの新しい運動をほとんどが外国での研究か、あるいは私的なサロン――それは民族文化の生きた肉体から切り離されていたものだが――で知った。その当時、チェコの人間主義の作品は個性的価値観を形成し始めていたが、市民層がその点に関心を抱くのはおよそ16世紀の30年代に入ってからである。
  チェコのラテン語派の人間主義者たちはしばしばヨーロッパ的名声を獲得した。たとえばボフスラフ・ハシシュテインスキー・ス・ロプコヴィッツは詩人であり、散文家、アウグスチン・オモロウウツキーは詩論家、あるいは、ジクムント・フルビー・ス・エレニーはパシレイ市<スイス>で個展の批評的出版者であった。これらの人間主義者のいくつかのラテン語作品は内容的にチェコの環境と無縁ではなかった。ハシシュテインスキーはチェコ人の道徳観念について風刺詩を書いたし、ヤン・スカーラ・ス・ドウブラフキはスミルの『新提案』をラテン語に翻訳した。またラツェク・ドウブラフスキーはダリミル年代記の伝統をふまえながら娘の戦争を描いた。だがこれらの作品のすべてが民族の文化に寄与したわけではない。たとえば、ハシシュテインスキーの場合はチェコ民族にたいして侮蔑に近い高飛車な態度でのぞみ、毒をふくんだ非難の塊をチェコ文化の代表者に投げつけた。もちろん、それは必ずしも常に自分の祖国の道徳観念の未熟さへの本心からの異常な思い上がりやもうもくさではなかったが。
  発展的に見てより重要なことはいわゆる民族的人間主義、つまり市民的かつチェコ語でかかれた人間主義の創造であった。「私はチェコ人であることを自覚しながらも、ラテン語を学ぶことを望む。だが、チェコ語で記し、語ることもしたい」そして「他の者がラテン語で新しい書物を著わし、ローマの言葉を、海へ水を流し込むように広めるのなら、それもまたよいであろう(わが国にはそのような人はあまり多くはないが)。しかし、私は豊かな人に感謝もされない粗末な贈物をささげて、媚び、軽蔑され、馬鹿にされるよりは、いにしえの真に善良なる人々の書物や文書をチェコの言葉に移しかえて、貧しい人々を豊かにすることを望む」とヴィクトリン・コルネル・ゼ・フシェフラット(1520年ころ没)はヤン・ズラトウースキーの『罪人の更正の書』 Kniha o napravení padlého の翻訳の序文に記している。そしてこれによってチェコ人間主義のプログラムを表明しているのである。彼は人間主義を受動的に受け取ることに満足しないわが国最初の著述家であった。そればかりかその人間主義の挑発力を自分の民族の要求にマッチさせようと努力した。新思想の表現手段としてのチェコ語を選択したことによって、彼は文化の民衆化というフス主義の伝統に結びつき、人間主義の民衆化の方向を示したのである。
  フシェフラットが方向づけをしたチェコの、いわば民族的人間主義の中で重要な位置を占めるのは田舎の小貴族ジェホシュ・フルビー・ス・エレニー(1514年没)である。知られているかぎりでは、フシェフラットが教会の神父や古いキリスト教の作家の作品などを翻訳したのにたいして、フルビーは重要な一歩を踏み出した。彼はキケロの作品をはじめて翻訳するなど「異端」の作家にも注目したのでそれによりチェコ文学はいっそう豊かになったのである。そして同時に(コナーチュやヴェレンスキーと同様に)「たとえそれが不道徳で、みだらで、厚顔、破廉恥、下品であるとしても、まじめな人間ならなんら害を受けることもない」テーマ、つまりエロチックなテーマを弁護した。彼はまた翻訳によって同時代の人間主義者、たとえば、ペトラルカ、エラスムス・ロッテルダムスキー、ラウレンチウス・ヴァッラ、その他の人物をチェコ文学に紹介した。フルビーの原典にたいする姿勢、つまり作品の選択それ自体――彼のような例はほかにないから――倫理的側面においても、彼はハシシュテインスキーよりも高いところに位置している。フルビーにかんしてまったく依存なしに言えることは、彼は自分の読者大衆と一体となり、彼らのために翻訳したこと、上流意識など彼には無縁であったということである。彼は個人の利害などまったくかえりみず、翻訳者として献身的に市民階級の需要に応えたのである。そして自分の教養を市民階級に惜しみなく与え、翻訳した作品が市民たちの政治的闘争の助けとなるように、またその戦いの先頭に立ち、その方向づけに役立つようにと彼の活動を意図したのである。

昔も今も、さらに、ほとんどあらゆる国々のいたるところで、すべての人間的力、名誉、高貴といったものは、本来、自然から<人間の意思とは関係なく>ましてや王侯の意思とも無関係に、神の摂理によって都市において形成され、都市に集中されるのだ。ころを疑うものはいま一度イタリアや、わが国以外の周辺の国々をよく見るがいい。またギリシャ語やラテン語の年代記、それどころか聖書のなかの神の言葉を読むがいい。そして、もし権利や秩序や自由をもった都市よりも名誉と高貴と賞賛と偉大さを見出せるなら、予は予の最愛のものを取り除かれることをも辞さぬ。

  しかし、彼はこのような活動だけで満足しなかった。彼の功績は次の点にもある。つまり、当時の宗教的軋轢の政治的背景を見抜くことができたこと、しかも、けっして口をつぐんではいなかったことである。チェコの聖杯派<フスの信仰の流れを汲むチェコの新教の一派>とローマ教会との抗争は単に市民層の問題にとどまらず、下層人民の利害にもかかわっていることを見抜いたフルビーの鋭い観察眼には今日でも感嘆させられる。彼は、その時代にもなおいうべき言葉をもつ古代作家の翻訳という活動を通じて、これらの階層に奉仕した、つまり、彼は解説を書きはじめた。そしてそれによって古い主題に現代的意義をもたせたのである。それはチェコにおける人間主義の民衆歌への意識的一歩であった。しかも何よりもまずフスの名に結びついた伝統の意識的前進と発展であり、健全なる民族意識へつながると同時に、民族の利害防衛にもつながる全民族的文化向上への努力であった。
 「聖人」フス、「神が人間に遣わされた神の杖」ジシュカ。この両者にたいする崇敬の念はフルビーの作品のなかから聞こえてくる。フスから百年後のその作品のなかに、われわれはおなじみの文章を読む。その文句は再三にわたってくり返し強調されフルビーの時代にもなお生命力を失わず、現実性をもっていたのである。人間を、独自の思想を、人間の自由を尊重するということに時代の偉大さがあったその時代に、フルビーは「自分の著作によって、貧しき者たちの保護に役立つようなことに奉仕したい」との願望を表明し、よき「指揮官は貧しいものの虐待を許すべきでない」と警告している。もし、百年をへてもなお、ほとんどなんらの変化も見られなかったのだとしたら、それはまさに、あらゆるフス主義の努力の収支決算がいかに惨めなものであったかの証拠である。
  フルビーの社会的弱者への共感は、民衆の奴隷的常態を排除しようという思索のなかにも示されているが、残念なことにわれわれはそれを確かめることができない。なぜなら貧者の救済のために提案した方法が「これまでそうであったように、貧者をさらに大きな苦境に陥れることに」悪用されるのではないかと著者が恐れて自分で処分したからである。人間主義が声高に叫ばれていた時代は、全体として人間主義に乏しい時代だったのだ。フルビーは人間主義がもたらした理想を、チェコの同時代者のなかでも最も徹底的に思索し、それらをためらうことなく実践した。それだけにフルビーの功績は大きなものといえる。
  フルビーは真の人間主義者であった。そして人間の愚かさに反抗して戦った人々の側に立った。エラスムス・ロッテルダムスキーの『愚神礼賛』 Chvála bláznovství のチェコ語への翻訳はエラスムスの作品をチェコ民族の言葉に訳した最初のものである。だが、それは人間主義者たちのあいだでは共感の波を呼び起こしたものの、その主要な攻撃目標となった教会の内部では脅威の大波をまきおこした。それは禁書リストに入れられていた作品の翻訳だったからである。しかし、それはまたきわめて高い教養によって叙述されていると同時に、きわめてアイロニーに満ちた自画自賛であり、それを擬人化された愚神が人間の愚かさにたいして、とりわけ、教会のヒエラルキーにたいして放ったものだった。他国ではエラスムスの風刺はラテン語に熟達した教養人にしか近づけなかったのだが、チェコでは――フルビーの翻訳のおかげで――大勢の一般大衆がその風刺に接して大いに腹を抱えることができたのである。そしてまた、翻訳に際しては、もちろんこういう人たちのことも考えて、「平凡な教養のない人々でも熱心に何べんも読み、そこに盛り込まれた事柄を十分考えることで、多少は役に立つ知識を得られる」ようにもと配慮したのであった。その上、フルビーは翻訳にたいして原文そのものよりも大量の解説までつけた。そのなかで当時、彼がすでにエラスムスの偉大さを認識していることを――もちろん、それによってフルビー自身の偉大さも――示しているのである。フルビーは『愚神礼賛』の翻訳の序言に必要以上に謙遜しながら、「私の浅学とチェコ語は、エラスムスのこの膨大な巨匠的構造物からきわめて多くの機知と雄弁を取り逃がしてしまった」と述べている。とはいえ、フルビーがエラスムスの作品について評価したものすべてを的確に表現しているそのみごとさは、今日でもわれわれを驚嘆させるのである。「厳粛な信実に満ちた意味、または才気、またはジョーク、だじゃれ、語呂合わせ、また、反対の意味に理解すべき嘲笑的な言葉、そしてそれらの言葉はほとんどいつも、多くの異なった言葉で装飾されながら、また鋭い機知や、自家薬篭中のものとなった知識とあいまって生き生きと躍動している」。そしてまた、いかに複雑なラテン語の文章をこなしているかというフルビーの翻訳の芸術にもわれわれは驚嘆する。なぜなら、今日の読者にとってさえフルビーの翻訳を読むことは困難ではないからである。著者は常に彼の翻訳の広い範囲の読者層を念頭に置いていた。そしてわかり易い表現に心を砕いたのである。事実、彼は同時代の誰よりもきわめて翻訳技巧にたけていた。チェコ語のエキスパートとしての彼は、あえて自分の母国語の問題について批判的な意見を述べた。それは、たとえば、エラスムスの作品の翻訳にたいする序言(上に引用した)のなかに述べている。それでも彼はチェコ語はラテン語に匹敵しうるものだが、そのためにはチェコ語を適切に育てなければならないと信じていた。彼はまさにそれを自分の翻訳技術によって実行して見せたのである。
  ジェホシュ・フルビー・スエレニー、それは独自に考え、思索する能力の化身であり、高い権威の衣に隠された愚鈍と狭量に面と向かって真実を述べ、妥協することなく抵抗する勇気である。また、自分の学識と能力による民族への無報酬の奉仕である。それは世界の民衆歌を推進する文化の決定的力とそのための文化の協力の必要性に対する信念である。フルビーの個性のなかでチェコのフス主義とヨーロッパの人間主義が手をにぎりあっていたのである。







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