(5) 市民文学の開花


  この時期は16世紀30年代から17世紀20年代までに相当する。政治的発展の視点からいえばその範囲は一方の境界が1526年、チェコの王座にハプスブルク王家が就いたとき、そしてもう一方が「白山の会戦」(1620年)である。
  ハプスブルク王家の登場によって、チェコ国土は多民族国家の一部となり四百年のあいだ外国のくびきを取り除くことができなかった。ハプスブルク家の絶対君主たちはカトリック派の上級貴族と、都市と対立する教会を基盤にしていたため、諸都市と小貴族の外国支配に対する反発は宗教的形を取った。なぜならチェコ民衆の絶対的多数は聖杯派(反カトリック)に帰依していたし、それに加えて宗教的関係では友愛団の存在とともに、チェコの土地にもドイツからのルター主義が浸透しはじめるという事情もあった。もともとルター主義は自らフスの後継者を標榜しており、一部の聖杯派はルター主義に賛同していたのである(いわゆる新聖杯派 novokalianíci )。だから非キリスト教徒との戦いに神の戦士としてエズイット派を派遣したということも驚くにはあたらない(1566年)。外国王家の到来とともにチェコ領内には改めてドイツ的要素が増大し、それによって民族関係が複雑化し、新しい矛盾が起こってきた。
  これらのことはすべて文学生活のなかにも顕著に現われた。文学は次第に生活の実用を目指すようになり芸術的文学は減少したが、教育水準の向上とあいまって文学作品の意義は増大した。支配階級はその点を意識し、一方において強圧によって(1547ン年の反ハプスブルク毛の反乱が不成功に終わったあとには、一時的に印刷所を閉鎖する)、他方ではカトリックの印刷物を保護し、上級階級や君主一門の政策に適応する作品の普及に努めるなどした(『ハーエク年代記』)。
  この時代になるとプラハ大学も知的教養にたいするかつての保護者の意義を失い、保守的な聖杯派によって指導される大学派人間主義思想に不向きであった。それゆえにわが国のインテリゲンチャの進歩派は、いまや外国の大学、とくにドイツのルター派の大学で豊かな教養を身につけたのである。これらの大学の卒業生たちは祖国にもどると人間主義思想を教養人のサークルのなかに広めた。こうしてこの思想は部分的にプラハの大学のなかにも浸透していった。16世紀の70年代から人間主義は同様に広い階層のあいだに広まり、文学作品は休息に質的に成長した。
  文学、そして文化全般にわたって二つの発展段階を考えることができる。その最も有名な代表者によって、その二つの段階をブラホスラフ時代およびヴェレスラヴィーン時代と呼ぶことができるだろう。








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