Z 文学と現実生活との接近 [十九世紀三〇年代末から五〇年中葉まで]



(1) 四〇年代とバッハ反動体制化における社会と文学
(2) ロマン主義の終焉
(3) カレル・ヤロミール・エルベン
(4) ヨゼフ・カイエタン・ティルとその時代の作品
(5) ボジェナ・ニェムツォヴァーと田園小説
(6) カレル・ハヴリーチェク




(1)四〇年代とバッハ反動体制の時代における社会と文学



 オーストリアの内部における民族の権利と市民の自由の抑圧は四〇年代になって徐々に反体制的力を増大させてきた。それは若い、発展しはじめた市民層の側からも、また、新たに生まれきつつあったプロレタリアートの側からも起こったのである。とりわけ過去数十年にわたる再興運動が民族の民主的かつ社会的権利をめぐってウィーンの専制支配権力と戦うべき土壌を培ってきた、チェコ領土において、このことは当然のことであった。
 わが民族社会における指導的地位への市民階級の登場は、意見の対立を生む原因ともなり、その対立は40年代にすでに急速に増大し、激しいものとなっていた。プルジョアジー内部でもウィーン支配権力にたいする関係のもちかたに続一性はなく、民族意識に無関心な保守主義層がある一方で、民族内により大きな権威を確立しつつあった自由主義者のグループが勢力を増大させていたのも確かな事実である。
 それというのも、そのグループの中心には F.パラーツキー、P・J・シャファジーク、K. ハヴリーチェク、F・R・リーゲルや、その他大勢のチェコを代表する著名人が参加していたからである。それに加えて、自由主義者たちの綱領はチェコとウィー一ンとの間の対立課題の妥協的過程による解決というチェコ市民層大部分の願望に応えていたからである。パラーツキーが提唱していたオーストリア封建化の思想が前提としていたのは、同等の権利をもつ民族の結合体としての公平な、なんらの強制にもよらないオーストリア帝国の体制であり、それによって、同時に、オーストリア内のスラヴ民族が将来にわたって、ゲルマン化の脅威から、またロシア帝国の強大な影響からも守られるだろうということであった。
 もちろん、このような考え方はチェコの急進的な民走一主義者たちのサークル内部で反発を招いた。彼らの大部分は市民階層に属するものたちであると同時に、しばしば学生たちであることもあった。裕福なものたちも、プロレタリア層の者たちもいた。彼らはドイツの急進的な民主主義者と協力して、秘密の革命的団体「Repeal」(独立を求めるアイルランドの合併撤回運動にちなんで名づけられた〉を組織した。その後、一八四八年の春から彼らク)組織によって新しく設立された「リーパ・スロヴァンスカー」 Lí slovanská が起こった。このリーパの目的は基本的権利の防衛であった。チェコの急進派のなかにカレル・サビナ Karel Sabina、ジャーナリストのエマニェル・アルノルド Emanuel Arnold (一八〇〇―一八六九)、ヴィンツエンツ・ヴァーヴラ Vincenc Vávra (一八二四―一八七七)、ヤン・クネドルハウス-リブリンスキー Jan Knedlhaus-Liblinský ,また最後には若い詩人ヨゼフ・ヴァーツラフ・フリッチュ Josef Václav Fri を見いだすことができる。急進派にたいして共感を示したのはヘーゲル派の有名な哲学者アウグァルネリすチン・スメタナ Augustin Smetana (一八一四―一八五一)である。


 急進派たちはあらゆる手段――公然たる闘争をも含めて――を通してオー一ストリア旧体制と戦うことの不可避性、また、チェコ政府のウィーンからの完全な離反 (国家的独立にいたるまでの)、そして究極的にはチェコ国内における社会間題の完全な解決という確信で一致していた。空想的社会主義の学問によって理論的に教育された急進派による、この最後の綱領的ポイントは、四〇年以後、チェコの社会のなかでプロレタリア階級がいかに重要な地位を占めはじめたかを、彼ら(急進派)が自由主義者たちよりも、はるかによく意識していたということを証明している。プロレタリア階級は単に数をふやしただけでない。搾取にたいする反抗や闘争によって――穀物騒動やその他のデモンストレーションによって――社会的新時代の到来と、それに伴って新しい複合的社会問題の発生を否応なしに認知させたのである。
 チェコ市民階級の主要な両翼の立場の相違が一八四八年にいたって鮮明になってきた。一八四八年三月十一日のスヴァトヴァーツラフスケー・ラーズニェにおける記念すべき集会ですでに対立するにいたったのである。その集会で急進派たちは皇帝への請願書のなかに、労働の権利の要求を盛りこもうとしたが無駄だった。白由主義者たちは国民議会におけるその決定的地位をよりどころにして民族の政治的方向を決定したのだった。
 そのことは特にスラヴ民族国会に関してあらわれた。自由主義者たちはそれにたいして、いわゆるオーストリア・スラヴ思想 (コンセプツェ) を押しつけた。このことにより連邦化の基盤に立って、オーストリアのスラヴ諸民族が帝国内の他の民族と平等の権利をもつというかつての意図が当然念頭にあったのだろう。
 一八四八年六月、プラハで聖霊降臨祭の暴動が起こったとき、急進派はすぐきま軍隊にたいして武力抵抗を組織しはじめた。それにたいして、自由主義者たちはその衝突を押えつけようとやっきになった。そして彼らは体制べったりの政策によって急進派との距離を保った。この両派の隔たりは、いわゆる五月の陰謀 (急進派によって目論まれていた反政府暴動) が発覚した後に、その一味が投獄され、追放された一八四九年には、その隔たりはさらに大きくなった。――その一味のなかには、とくに、K・サビナ、J・V・フリッチュ、K・スラトコフスキー、V・ヴァーヴラ、Em・アルノルト、クネドルハウス-リブリンスキーなどがふくまれていた。
 自由主義者の陣営のなかには、その当時公の生活から身をひいていた人たちもいたが、もちろん例外もあり、その人物はK・ハヴリーチェクである、かれは50年代にはかっての急進派の敵たちに、単に運命によってばかりでなく、つねに非妥協的な反政府的姿勢によって接近していたのである。
 自由主義者と急進派との相違はチェコースロバキアの関係という、重要かつ、当時においては特別に現実的な問題のなかにあらわれた。一八四七年のスロバキアの分離の後に、急進派たちはシュトゥール主義者たちの努力にたいして、自由主義者たちよりもはるかに大きな理解を示した。だいいち、自由主義者たちはスロバキアの間題を単にチェコの民族的闘争の観点からのみ見たし、またスロバキア語の言語的独自性を求めるスロバキアの努力の意図を低く評価していたのである。


 革命の時代はなるほどチェコ文学にとって、詩や散文や戯曲などのあらゆる範囲の作品にたいして刺激やよりどころを与えはしたものの、いくつかのティルの戯曲作品、ハヴリーチェクの詩作品をのぞいては、将来にわたって評価に耐えるような、つまりこの高揚した時代の公の行動に直接触発されたような作品を見出だすことはできない。
 解放されたこの短い期間は特に急速かつ豊かなチェコのジャーナリズムの発展をうながした。政府系の「プラハ新闘」Pra~ské noviny はハヴリーチェクの編集 (一八四六― 一八四八) チェスカー・フチェラ  eskáv era という付録版とともに) のもとに徐々に水準を高めながら世論をわかせる新聞へと変貌していった。ハヴリーチェクによって発行された「国民新闘」 Národní noviny (一八四八―一八五〇) と「スロヴァン」 Slovan (一八五〇― 一八五一) は中心的、全民族的意義を獲得した。ハヴリーチェクの風刺的な「ショテク」 `otek (一八九四)も大きな大衆的人気を呼んだ。重要性と、かつ大衆的人気も博したのは、やはりJ・K・ティルによって編集された新闘であった(「プラハ報知」Pra~ský posel)、「農民新聞」Sedlské noviny 、一八四七)、急進派の機関紙は Em・アルノルトの「市民新聞」 (一八四八― 一八四九)、クネドルハウス-リブリンスキーによって設立され、編集された「プラハ夕刊紙」Pra~ský ve ern&iacite: list (一八四八― 一八四九)、「スラヴ菩提樹」紙 Lípa slovanská (一八四八―一八四九)と「スラヴ菩提樹の新聞」 Noviny Líslovanské (一八四九)ははカレル・サビナとヴィンツェンツ・ヴァーヴラ (筆名、J.Slavomíl Hastalský (一八二四― 一八七七)である。――ジャーナリズムの波はモラヴァにも及んだ。ブルノではフランティシェク・マトウシュ・クラーツェル Frantiaek Matoua (一八〇八―一八八二)とヤン・オヘーラル Jan Ohéral (一八一〇― 一八六八)が新しく設立した「モラヴァ新聞」 Moravské noviny (後に「モラヴァ国民新聞」 Moravská Národní noviny に改名。一八四八― 一八五二)と週刊紙(一八四八― 一八四九)。これらは時代の民族的努力を支えるために、そして自由な精神のなかで人民の教養を広めることを意図した。ボジェナ・ニェムツォヴァーの友人で、オモロウツ大学の自然学の教授、後にプルノ工業大学の教授となった医師のヤン・ヘルツェレット(一八一二― 一八七六) はオモロウツで「農民新聞j(一八四八)と「ホロモウツ一般大衆新聞」 Prostonárodní holomoucké noviny (一八四八― 一八四九)をI・J・ハヌシュ Hanua と共同で)編集した。


絶対主義の再建を求める諸状況の強化は、もちろん自由思想のジャーナリズムの急速な一掃となってあらわれた。オー一ストリアに忠実な詩人であり、ジャーナリストでもあったヴァーツラフ・ヤロミール・ピツェク Václav Jaroír Picek (一八一二―一八六九)が編集をゆだねられていた政府系の新聞「プラハ新聞」とならんで、ウィーンでは敗府に支持された「ウィーン日日」Vídenský deník (一八五〇― 一八五二) が刊行されていた。この新聞はチェコ国内におけるデモクラティックな理念の影響に対決すべく意図されたものであり、そんなわけでハヴリーチェクの「スロヴァン」を特に目の敵としていた。――他には五〇年代のチェコの出版物や文学はほんのわずかな数の雑誌に制限されていた。ほんのささやかな形で文学的目的に仕えたのは「チェコ美術館雑誌」  asopis  eské muzea であり、詩人V・B・ネベスキーによって一八五〇年から出版され、かなり保守的な意図をもっていた。その証拠はこの雑誌に発言の場を提供されたのが、革命期のチェコ文学に対する攻撃である。それらの筆写は、とくに批評家のヤクプ・マリーであったが、彼はハヴリーチェクの敵対者であり、後の「マーヨフツィ」 Májovci であった。
 この時代の唯一、実際上、文学的かつその上、価値ある雑誌は「ルミール」 Lumír であった。この雑誌は劇作家F・B・ミコヴェッツによって創刊され、編集された(一八五一― 一八六二)。「ルミール」は外国文学の翻訳を数多く発表した。そして彼らはそれらのよき鑑定家だった。しかしそれとともに、ここには国内の、とくに特に若い才能のある作家もチャンスを得た。ハーレクもネルダも彼らの最初の詩が掲載きれたのはこの雑誌だった。
 一般的知識を与え、教育的性格をもっていたのは「地平」0bzor であり、『J・ユングマンの生涯』の著者であるヴァーツラフ・ゼレニー・(一八二五― 一八七五) によって編集されていた。この雑誌にはK・J・エルベンも協力者として加わっていたが、純粋に保守的な精神によって導かれていた。
 出版の可能性の不十分さが、著作者の様々な集団によって出版された一連の年鑑(アルマナック)を生み出すことになった――それらのなかには保守的なものもあれぱ進歩的なものもあった。「チェコの真珠」Per1y  esk&eacut; と称するアルマナックの組織者たちは前者に属する。このアルマナックはアントニーン・ヤロスラフ・ヴルチャーク antonín Jaroslav Vrt'ákの編集により出版された(一八五五)。この作品集それ自体はまったく意味のないものだが、ここでエルベンの童話『のっぽとデブに千里眼』 Dlouhý `rok6yacute; Bystrozraký とB・ニェムツォヴァーの物語『カレル』 Karel を生み出したことによって注目に値する。 チェコ文学における新しい進歩的傾向の表現となったのは、若い世代によって出版されたアルマナックである。ニェムツォヴァーとフリッチュの友人で若い詩人ヴァーツラフ・チェニェク Václav  enk Bendl(一八三二―一八七〇)はプーシュキンの『エフゲニー・オネーギン』のチェコの最初の翻訳者だったが、ファビアーン・チョチュカ Fabián  o ka のペンネームで一八五五年、四巻の詩集『ロケット花火』Rachejtle を出版した。そして、それを彼自身のユーモラスで風刺的スケッチや友人の寄稿によって満たした。ここにはB・ニェムツォヴァーに献呈された『コーヒー一仲間』Kávováspole nost という著者名の記されていない物語を読むことができる。フリッチュの一派は一八五五年のアルマナック『ラダ―ニオ一ラ』Lada-NIóla (この名はスラヴ民族の覚醒をうながすぺきリトアニアの女神にちなんで名づけられた) によって登場した。その著者の仲間のなかに、ふたたびB・ニェムッォヴァーを見出だす。
フリッチュによって編集されたアルマナックはチニェコ文学における新しい進歩的方向を求める著者たちの課題追求の努力の記録として興味がある。フリッチュ自身このなかで、短編小説『祝うべき人生』 }ivot sváte ní においてチェコ文学の民主化への要求を強調し、記述文学の口碑文学への接近と、人生からかけ離れた実りなきロマンティシズムからの離反を表明した。萌芽的形態において、ここには一八五八年マーヨフツィ世代が文学に登場するさい、彼らの特徴となっていたいくつかの思想が表現されている。
四〇年代から五〇年代にかけての期間にチェコ文学におけるロマン主義の波は沈静化し徐々にリアリスティックな傾向のほうへと向かっていった。この傾向徐々に増大する、文学をその時代の現実へ結びびつけようとする要求にもとづいたわが国の民族的な社会発展の状況によって、とくに条件づけられている。その上、当然のことながら芸術的傾向としての、また方法(メソード)としてのロマンティシズムは(いぜんとして余韻を響かせていた古典主義が自分なりの課題を満たしていたのと同じく)わが国の文学の過程においてその課題をすでに果たしていた。形式の観点からロマン主義は徐々にステレオタイプにおちいり、しかも、かつて生気あふれた感情主義 emocionalita は、いまや感傷主義へと変化していった。
 この状態はその時代のわが国の具体的文学状況のなかにあちわれた。古典主義―ロマン主義の世代は、確かに読者の関心を自分に集中させ、また、十分な権威を誇りはしたものの、背景に身を引いた。とくに、ヤン・コラールとFr・L・チェラコフスキーについてそのことが言える。彼らの作品は四〇年代にすでに完結していた。コラールは五〇年代の初めに『スラーヴァの娘たち』のソネットの数をふやしはしたが、新しい創造的価値はすてにもたらさなかった。かくして古典主義とロマン主義は今日では、時として完全に忘れ去られた、あまり意義を有しない作家の作品のなかにのみ生き残った。
四〇年から五〇年における、わが国の文学の重要人物はK・J・エルベン、J・K・ティル、B・ニェムッォヴァー、およぴハヴリーチェクである。ティル、ニェムツォオヴァー、ハヴリーチェクの作品のなかには、チェコ文学の現実のリアリスティックな描写という決定的な時代傾向があらわれている。したがって、エルベンの作品には民衆詩、民衆伝統への質的に新しい接近の証拠である。そしてエルベンはこれらの民衆詩や伝統から、もっと広い民族層の感惰と密接に結びつき、また、最高の正義と、民族のよりよい未来への信仰を表現する作品のための刺激を吸収したのである。
 かくして四〇年代から五〇年代にかけてのチェコ文学のすべての進歩的流れは、時代の現実と文学との結合を助け、わが国の祉会の民主化、ならびに、民族的自覚の強化へ寄与したのである。




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