(6) カレル・ハヴリーチェク Karel Havlí ek



 カレル・ハヴリーチェクは一八二一年にボロヴァー・ウ・プシビスラフ (ここからハヴェル・ボロフスキーのペンネームは由来している)に商人の子として生まれた。ニェメツキー――現在はハヴリーチュクーフ――ブロトでギムナジウムに通い、一八三八−一八三八年の期間にプラハで哲学を学ぴ、その後、神学部 

n~s~ semináY に籍をおいた。なぜなら、聖職者になれぱ広い民衆層と直接、接する機会がより多くあるだろうと思ったからである。そして彼は民衆のために、民族的、スラヴ的意昧において働きたいと願ったからだった。
 だが、神学部ですぐにわかったことは、カトリック教会がチェコの民族運動には極端に敵対的であり、支配体制にたいしては絶対的に忠実であるという、その意味において徹底的に若い神学生たちを教育しているということだった (教会の反チェコ的、反スラヴ的姿勢の典型的な代表者はゼミナールの部長であったアントニーン・ロスト Antonín Rost で、のちに読者にはハヴリーチェクのエピグラムのなかで「ロゼニュ神父」として有名になった人である)。しかし、考え方の面からもハヴリーチェクはセミナーの第一年目も終わらぬうちに、すでに教会とたもとを分っていた。
それというのはカトリックの信条のドグマティズムが彼には我慢ならなかったからである。ハヴリーチェクは、それゆえ、セミナーを去る決心をしたのだった。しかし、実は、それ以前にすでに――一八四一年の休暇のとろ――除籍されていたのである。
その後は、プラハで彼は個人的な勉強に没頭した。そして文学的キャリアに備えたのだった。スラヴ相互主義のコラ一ルの理想の影響のもとにスロバキア語と文学の体系的研究に没頭した。そして自分の体験からスロバキアの土地と民族を認識しようと決意した。そのための機会を彼に与えたのは、モスクワで教育的地位につくようにというP・J・シャファジークの仲介によってもたらされた誘いだった。
一八四二年の秋に、彼は任地にむけて出発したが、一八四三年一月まで旅券関係の処理のためルヴォヴァで(チェコの作家K・V・ザパ Zapa の客人として) 待たねぱならなかった。この期間に彼はポーランドとウクライナの状況を知る。そしてスラヴ相互主義の理想は、社会的対立のある世界では、また、一つのスラヴ民族が他のスラヴ民族を抑圧しているかぎりは (この場合はポーランドによるウクライナの抑圧) 実現しえないことを初めて確信した。――モスクワでハヴリーチェクはシェヴィレフ教授家の家庭教師として滞在した。シェヴィレフ教授は進歩的なスラヴィヤノフィルスキー slavjanofilský サークル<十九世紀ロシアの保守的スラヴ主義>に属していた。初めのうちハヴリーチェクは彼らから一方的な影響を受けていたが、間もなくその保守主義や封建的支配体制への忠誠心、抑圧されたスラヴ民族の解放運動をツァーの専制主義の利害に従属させようとする努力にたいして批判的となっていった。彼はロシアにおける革命的民主主義運動やその際立った文学的代表者 (たとえぱ、批評家ベリンスキー) を実際のところ知らなかった。しかし、その代わりに、彼はロシアの口承文学とN・V・ゴーゴリの文学作品に熱烈な注意を向けた。ハヴリーチェクのへーゲル哲学の研究もこのロシア滞在期にあたる。そしてこのへ一ゲル哲学の研究はその後の思想的発展に大きな影響を及ぼすことになる。
ハヴリーチェクは一八四四年の半ばにロシアからチェコにもどってくる。その後間もなく、彼は文芸批評家として公衆の前に登場する (ティルの『最後のチェコ人』 Poslední  ech にたいする批判)、そして一八六四年の初頭からフランティシェク・パラーツキーの推薦で「プラハ新闘」 Pra~ské noviny とその文学付録「チェコの蜜蜂」  eská v la の編集員となった。一八四八年の春には政治新聞「民族新聞」 Národní noviny を創刊し、彼が公職につく一八五〇年一月まで編集に携わった。その期間ハヴリーチェクは自由主義者、オーストリア・スラヴ主義者たち (パラーツキー、シャファジーク)の政治を単にジャーナリストとしてばかりでなく、民族議会のメンバーとして、また帝国議会の議員として弁護した。しかしオーストリアの絶対主義の強化により、ハヴリーチェクは急速に公然たる反休制的姿勢をとるようになった。そして一八四九年には、同年3月に発布されたオーストリアのいわゆる欽定 (要は、強制的な) 憲法違反に問われて、はじめて陪審裁判の法定に立たされたが、釈放された。
一八五〇年五月からハヴリーチェクはクトナー・ホラで (なぜなら、プラハでは彼には禁じられていたから) 雑誌「スロヴァン」 Slovan を発刊したが、週二回の発行だった。その誌上で、専制政府とカトリックのヒエラルキーにたいする反感を厳しく、容赦なく吐露した。こうして彼はチェコの広い民衆層の代弁者となったのである。
そんなわけで、政府はあらゆる手段を講じて彼を沈黙させようとした。「スロヴァン」は発禁になり、ハヴリーチェクのプラハ滞在は禁止され、一八五一年八月には「スロヴァン」の発行を停止せざるをえなくなった。その年の三1月には、再び陪審裁判にかけられたが (今度はクトナーホラで) またもや釈放された。それゆえ政府は公然たる強制に踏み切り、一八五一年十二月に警察の手によって強制的にブリクセン・フ・ティロリーフに身柄を移され、一八五五年までその地で監禁された。その間に妻は死に、やがて彼自身も結核におかされ、三十五歳にも満たない一八五六年七月二十九日にプラハで死んだ。彼の葬儀は専制的・ゲルマン化的弾圧に反抗する民主主義的力の一大マニフェストとなった。
ハヴリーチェクは新聞人として、また民族闘争の公の代表者として、すでに述ぺたように、初めから自由主義者の側に立っていた。そのことは「国民新聞」に掲載された彼の記事を集めた『国民新聞の魂』 Duch Národní novin (一八五一)という書物が証明している。しかし憲法制定の希望が挫折した後、彼は公然とオーストリア政府と戦った。その結果、かつての彼の敵対者、急進的民主主義者の立場にはっきりと接近した。ハヴリーチェクの新聞の記事は風刺的攻撃性と厳しく大胆な批判性、また同時に明晰で正確、そしてウィットに當んだ表現と文体によって抜きんでていた。このことは最も素朴な読者たちのグループに影響を与え、それによって民衆層のなかに反政府的感情の基盤を固めることを可能とした。彼はまたエネルギーの大部分を、専制支配体制の主な協カ者であり、支配者でもある教会ヒエラルキーと教権主義への戦いに注いだ。そのことはとくに「クトナー・ホラ信書』Epiatoly kutnohorské (一八五一)という「スロヴァン」から集められたハヴリーチェクの論文集が証言している。
一八四三年から一八四六年にかけて「クヴィェティ」「チェスカー・フチェラ」「チェコ博物館雑誌」  asopis  eská muzea に掲載された『ロシアの風景』 0brazy z Rus もハヴリーチェクのジャーナリスト活動の一部をなすものである (本としては Zd・トボルカが 一九〇四年にはじめて出版した)。これはもともとは、ハヴリーチェクがロシア滞在中に送ってきたレポルタージュだった。それらの作品の性格はかなりの程度で民俗学的、文化史的なものであった。しかし、ロシアの民衆にたいする心の底からの共感と専制的支配権力の誇示にたいする反感を表明するハヴリーチェクの社会的、政治的立場が常に浸透している。
ハヴリーチェクは詩の創作をロシア滞在中にすでにはじめている。この活動のためには彼はスラヴ民族の民衆の文学の徹底的研究をし、またいく人かの外固の作家やチェコの作家、とくにマルチアリス、レッシング、プーシキン、チェラコフスキーなどである。ハヴリーチェクにとって最も独自の詩的形態はエピグラムであった。そのなかで理性的鋭さ、簡潔な表現性一風刺的批判へのハヴリ・一チェクの傾向が援もよくあらわれている。二百編ほども書いたエビグラム(その一部は翻訳)を、彼は「教会、王、祖国、ミューズ、世界」に手向けている。こんなところからもすでに察せられるように、ハヴリーチェクはオーストリアの専制にたいしても、また、国内の政治的反動にたいしても、支配権力の代表者にたいしても、聖職者権力にたいしても同様の鋭い攻撃をあぴせたので、その風刺作品のもつ社会批判の衝撃が広範におよんだことは明らかである。
エピグラム的簡潔さはその後のハヴリーチェクの韻文作品にとっても特徴となすものであり、全体に鋭く風刺的で、しかも社会批判的性格を伴っている。まさにこの特徴のゆえにハヴリーチェクの詩が広い範囲において反響をうみ、そのなかの何編かはすぐに民衆のものとなった――その例は『ドイツ議会に関する新しい歌』 Nová píseH o nmeckém parlament で、一八四八年にフランクフルト・アン・マインで開かれる全ドイツ議会への招待をチェコ人たちが受け入れるようにと力説したオーストリアのジャーナリスト、フランツ・シュッセルカヘのパロディックな回答として設定されている。

シュセルカが手紙を書いて寄越した
それもドイツ帝国から
ドイッ人らが、腹をすかして
腹をグーと鳴らすように
手助けに、来るんだと。


そころで、不作法者のドイツ人め
わたしら、おまえさんと遊ぱない
あんたら、そちらで
刻んだものなら
どうぞ、自分で勝手に食ってくれ。


ドイツの国はあんたらのもの
だけどチェコはわしらのもんだ。
わしらのスラヴの粥を
フランクフルトから吹くなんて
大きなお世話もいいとこだ。


だけど、チェコのライオンが
たてがみ逆立て
しっぼをひと振りしたならば
フランクフルトはびっくり仰天
脱帽とくらあ。


ほーい、ゆっくり急げ出来たての議会さん!わしら、あんた方に下痢用の食事を用意したから思いっきり、ビリくそたれあがれ!

 ハヴリーチェクの風刺詩の大部分は教会とエズイット派に向けられた。ハヴリーチェクは彼らのなかに過去、現在を通して最大の悪を見出したのだ。ハヴリーチェクの姿勢は一八四一年、まだセミナールに在籍していたころ、すでに生まれていた詩に、その特徴的な例を見ることができる。

チェコの兄弟よ……

チェコの兄弟よ、黒い僧衣を脱ぎ捨てよ!その黒衣はローマの殺人者がコンスタンツでフスを焼き殺した者たちが着ていたのと同じ物だ。

チェコの兄弟よ、白い衣を踏みつけよ!エズイット派が着ている白い式服を彼らが、わが国の栄光に火傷を負わせたのだ。


 しかしハヴリーチェクの執拗な攻撃は国内の市民的「愛国者」にも向けちれた。彼らは表面上は愛国心を標榜はしていたものの、その実は反動的だったのである。『きみたち、わが兄弟よ!』 Tys bratr nás! の最後の一節を紹介しよう。この詩はチェラコフスキーの『社交の歌』 Spole ná píseH 一八三六一八三六年のパロディーである。

おのれの祖国のために、威勢よく、たらふくと飲み、食い、踊るものよそのあげく、プラハの喫茶店にたむろして全生涯を祖国に捧げるものよ教会のなかのどこかの台の上でうた歌うより家でケーキでも食ってたほうがましだと思うものよ、そんなおまえは、わたしらの仲間だ、それに、おまえはいいやつだ、ヘイ、ハー・ルム、ハールム、ミック、ミク、ミク!


 一八四八年以後、ハヴリーチェクの詩の、支配体制や国内の反動勢こ向けられた風刺の攻撃性は増幅されていった。それゆえ、これらの韻文作品の大部分は出版が許可されなかった。

『一八五〇年チェコの歌』 PíseH  echo r.1850 の土台となったのはブランデンプルクに関する古い歌の図式である。この歌は単なる風刺詩ではなくバッハ体制時代初期のチェコの雰囲気を極めてリアリスティックに、簡潔に描写している、この体制の指導的代表者はフリー一ドリヒとフェリックスのシュヴァルッェンブルク兄弟で、前者は最初のプラハの大司教で枢機卿、後者は一八四九年からオーストリアの首相になった人物である。その詩のなかでハヴリーチェクは国家および教会の権力がいかにチェコの人民を抑圧しているかを簡潔に表現してみせた。

なんて間の悪いことだい、おかあちゃん!
シュヴァルツェンブルクの兄弟がここにいるなんて、
その一`人が将軍で
そのもう一人が枢機卿、
なんて間の悪いことだい、おかあちゃん!


なんて間の悪いことだい、おかあちゃん!
シュヴァルツェンブルクの兄弗がここにいるなんて、
その一人はむちをもち
もう一人のほうはお祈りだ
なんて間の悪いことだい、おかあちゃん


なんて間の悪いことだい、おかあちゃん!
シュヴァルツェンブルクの兄弟がここにいるなんて、
一人が枢機卿ならぱ、
も1)一人のはうも悪党だ
なんて間の悪いことだい、おかあちゃん!


 ウィーンにたいする協力を決意したこれらの自由主義ブルジョア階級の代表者たち (たとえぱ、Fr・ブラウネルのような) にたいして詩『花束』Kytice は向けられた。ハヴリーチェクはここで『王宮写本』のなかの詩『花束』Kytice の図式を応用し、また引用している。

反動のそよ風が吹く
フランタがドナウ河のほうへ駆けていき
丸い帽子で水をくんでいる。
水の上を役所が流されてくる
黒と黄色で、美しい役所だ。
そこでフランタは役所をおっかけはじめた
ところが、落ちたぞ、役所のベンチ(便所)のあいだに。


脂肪ぷとりのお役所さん、もし、わたしが
あんたを捕えることが確かだとしたら
わたしは、貴族がたと手を組みますね。


脂肪ぷとりのお役所さん、もし、あんたが永久にわたしのものになるのならわたしは、民主主義なんてものに背をむけますね。

脂肪ぶとりのお役所さん、もし、あんたが
そのうちまたどっかへ行ってしまうとわかっていたら
わたしは、ほんとは、民主主義と握手したい!

 それにしても、ハヴリーチェクは、彼の最大の詩作品をプリクセンでの監禁の時期までに完成していたのである。その第一作は『聖ヴラヂミールの洗礼』 KYest svatého Vladimíra (彼の死後、一八七六年に初めて出版された)。その初めの部分はハヴリーチェクのロシア滞在の時期にさかのぼる。詩のヒントと幾つかのモティーヴをハヴリーチェクはネストル(Nestor: 十一世紀ロシアの年代記の著者) のクロニクルから得ている。作品そのものは――主要部分はちょうど一八四八年から1854年にかけて書かれている――もちろん、その時代と密接なかかわりをもっている。それはロシアやオーストリアの絶対主義と同時にカトリック教会、とくにエズイット派についての風刺詩である。詩のもつ民衆的表現、ユーモア、それと同時に攻撃的批判性はその詩をハヴリーチェクの風刺詩の最高作として、また同時に最もポピュラーな体品のなかに位置づけている。この詩が未完におわっているという事実はその評価をいささかも損なわない。
 ユーモラスで風刺的性格は一八五二年に書かれ、一八六一年になってやっと『人生の情景』 Obrazy 6ivota のなかで発表された『チロルの悲歌』 Tyrolské elegie も備えている。ハヴリーチェクはそのなかで、彼の逮捕やニェメツキー・ブロトからブリクセンヘの旅を描き、機知とアイロニーと鋭い批評性をこめてオーストリアの官僚主義を呈示し、極端な自己抑制をもって読者にたいして自己の内面的感情の領域を披瀝している。
一八五四年には、ハアヴリーチェクのブリクセンにおける最も重要な作品のなかの、三番目のものが生まれる。『ラーヴラ王』 Král Lávra である (ヴァーツラフ・ゼレニーによって編集されたハヴリーチェクの著作集のなかで、一八七〇年に出版された)。この作品の下敷きとなったのは、ロバの耳をもったモ様を主人公にしたアイルランドの童話で、ハヴリーチェクはそれをドイツ語の改作を通して知ったのだが、ハヴリーチェクはこの素材を絶対主義体制の批判に、王冠をいただいた頭にたいする潮笑に利用したのであった。被支配者にたいする絶対主義体制の「父権」的関係、支配権という威厳の下に隠された愚かしさや無知を皮肉ったのである。ここでもハヴリーチェクはチェラコフスキーとは異なり、単に田舎の民謡を取りあげたぱかりでなく、街頭でうたわれる歌をも取り上げた。つまり都会の民謡である。そして彼の風刺詩の独自の、個性的な諧調の幾つかの要素はまさにそのなかに根ぎしているのである。
ハヴリーチェクはオリジナルな詩やあるいは文学作品のすべては彼の翻訳家としての活動と密接に結びついている。その活動はおおむね彼の、とくにスラヴ文学のすぐれた作家への研究心から出てきたものである。ポーランド語からはA・ミツキェヴィッツのエビグラムを、ロシア語からはとくにN・V・ゴーゴリの作品、一つは短編小説(『旧世界の貴族』Starosvtská alechta、『鼻』 Nos 『外套』 Pláatý その他)、もう一つは長編ロマン『死せる魂』 Mrtvé duae (一八九四)を翻訳した。ゴーゴリ作品のチェコ語への最初の翻訳者はK・V・ザプ (Zap. が一八三九年に『タラス・ブーリバ』を訳している) だったが、それでもチュコの読者にゴーゴリの中心的散文作品を紹介したぱかりではなく、わが国の文学にロシア・リアリズムの浸透のための最初の大きな刺激を与え、それによって、それ以後のチェコ文学の全発展に影響を与えたということは彼の手柄であった。
その他にも、ハヴリーチェクは批評家としてチェコの作家に、現実にたいするリアリスティックな創造的態度を取るよう要求した。それゆえ、彼がJ・K・ティルの軽薄なロマンティックな小説『最後のチェコ人』を拒否した一八四五年、当然のことながらティルと対立した。リアリズムヘの要求はハヴリーチェクの言うところの、チェコ文学の社会的かつ民族的機能の概念と密接に関連している。彼はもはや詠嘆的に愛国心を表明するチェコ文学には満足できず、民族の力を積極行動 aktivizace に導くように要求したのである。ハヴリーチェクは「自己完結的芸術」"umní samo v sob ukon ené のうえに傾向的、つまり社会的に機能する芸術を置いた。彼は自己の見解の出所であるドイツの啓蒙主義批評家G・H・レッシングの精神において批評的主観主義を払拭し、科学的客観主義批評の確立に努力した。そのことはハヴリーチェクの基本的論文『批評についての章』 Kapitola o kritice (一八四六)からも明らかである。――ハヴリーチェクは彼のジャーナリスティックな活動と批評的関心を少なからず、チェコ演劇にも捧げた。彼は自由意思の醵金よる国民劇場建設の発起人の一人として実践した。そして演劇の教育的、社会的責任を強調したのである。



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