第八章 民族的関心から、全人類的関心への文学の発展  [一八五〇年代後半から七〇年代半ばまで]






 (1) 六〇年代における文化生活の発展――マーイ派 ・ Májovci




 一八四八年の革命運動の暴力的弾圧によってオーストリアではふたたび絶対主義が権力の主座についた。このことはあらゆる庶民生活を圧迫し、またそれによるチェコの民族的努力を麻痺させることを意味した。一八四八年の暮れにオーストリア王位についた若い皇帝フランティシェク・ヨゼフはオーストリアにおける最も保守的を政治勢力――とくに、教会ヒエラルキー――に支持基盤を置いていた。したがって一八四八年以前のメッテルニッヒの時代に結びついていたのである。  政治勢力の大部分は内務大臣アレクサンダー・パッハを信任していた。彼は厳しい検閲制度を敷き、それによってオーストリアにおける自由な出版活動、自由な書論表現一般が、チェコにおいては特に厳しく弾圧された。書物の出版は著しく制限され、チェコ演劇の上演は極端に圧連された。チェコ民族の生活と同様に、チェコの学校制度もゲルマン化に従わせられた。つまり風族的抑圧は同時に社会的抑圧と平行して実施されたのである。
 しかし、それにもかかおちず、バッハ時代のオーストリア絶対主義は一八四八年の革命運動が方向づけた歴史的発展的流れを逆流させることはでできなかった。初期資本主義時代に特徴的な工業生産の成長はドイツ化された諸都市にチェコの民族的活力の流入をもたらし、その結果チェコの知的階層のものだけでをく、教養のな一い広範な民衆層にまで民族的にも社会的にも自覚を強めさせた。
帝国内の経済不況と外交政策の失敗、特に北イタリアにおける軍事的失敗は五〇年代の終りにアレクサンダー・バッハの更迭と絶対主義の没落へと導く。こうしていわゆる一八六〇年の「十月勅令」で皇帝はオーストリアの人民に立憲体制の制定と、それとともに市民権の回復も約束した。一八六一年に発布された憲法はチェコ民族にたいしても適用され、満たされた期待はほんの一部分でしかなかったとはいえ、それでも社会生活に大きな解放をもたらし、チェコの民族社会の新しい発展を可能にした。
チェコ社会のなかで、これまで抑圧されていた内面的差別を強化する特徴が、やがて間もなくあらわれてきたのは当然である。表面上は民族の統一党であったものの (そのなかには、主にかっての自由主義者たちや、一部の過激派たちも含む) が一八六三年に老チェコの保守派(指導者はフランティシェク・パラーツキーとフランティシェク・ラディスラフ・リーゲル) と若いチェコの比較的進歩的党派 (カレル・スラットコヴィーとユリウスとエドヴァルト・グレーグロヴィー兄弟が指導者する) とに分裂する。若いチェコ人たちは自分の自由主義的、民衆的な綱領のゆえにチェコの労働者層をも取り込もうとした。しかし、それはブルジョア政策とだんだん離れていき、独自の政党の設立を準備するにいたった。つまりチェコ・スラヴ社会民主党である(一八七八)。
チェコの国家主権を求める闘争はオーストリア・ハンガリー対等化により、完全な失敗におわる(一八六七)。その結果は、わが国にたいするウィーンの中央集権化の強化をまねくことになる。そのころから民族党の両派のあいだに緊張が高まり、一八四七年青年チェコ党は組織的に独立し、徐々にチェコ・プルジョア政策の主導者となり、同時に、その進歩性をだんだん弱めていく。
 チェコ文化生活の代表者たちは絶対主義の没落後に開かれた新しい可能性を、とくにチェコージャーナリズムの再建と一連の新しい文化組織の設立に利用した。一八六一年にはユリウス・グレーグルが大きな代表的な日刊紙「民族新聞」 Národní listy を創刊し、短期間ではあるが青年チェコ党の主要な論壇としての役割をはたした。
やはり自由民主主義的目的意識をもった新聞に、アロイス・クラーサ Arois Krása によって発行された日刊紙「時間」 as がある。この新聞の編集に携わった人たちにはJ・ネルダ、V・ヴァーヴラ、J・クネッドルハンス−リプリンスキー、K・スラトコフスキー、その他の進歩的ジャーナリストがいる。彼らはやがて、出版者の政治的方向の変化ののちに、「声」Hlas 紙(一八六二−一八六五)に移る。――ブルノでもまた、新しい日刊紙――すでに発行されていた「モラヴァ新聞」 Moravské novinyと並んで――が発行された。一八六三年から発行された「モラヴァの鷲」Moravská orlit 紙で、きわめて保守的な精神で維持されていた。
 雑誌 (定期刊行物  asopis) のなかではミコヴェッツの「ルミール」Lumír (一八五一−一八六一) が重要で、一八六三年からはヴィーチェスラフ・ハーレク Vítzslav Hálek によって編集された、しかし若い世代は一連の独自の雑誌を発行した。ヤン・ネルダは「生活の絵」 Obraz &ivota (一八五九−一八六〇)と「家庭年代記」Rodinná kronika (一八六三−一八六四)を編集し、ヴィーチェスラフ・ハーレクは「黄金のプラハ」 Zlatá Praha (一八六四−一八六五)を、そしてネルダと共同で「花」 Kvty (一八六五−一八七二)と新編集になる「花」(一八七三)を発行したが、間もなくこの雑誌は若い世代の代表者の役をはたすようになった。一八五七年からはJ・R・ヴィリーメク Vilímek が「ユーモア新聞」Humoristické listy を出版し、その寄稿者のなかにはJ・ネルダもいた。マーイ派の周辺外の定期刊行物のなかではFr・スクレイショフスキー Skrejaovský によって発行された「世界観」Svtozor (一八六七−一八九九)が注目すぺき人気を博した。
幾つかの新企画による文学全集はチェコ文学の大衆化に貢献した。こうして一八六七年にはEd・グレーグルが大衆的廉価本叢書「大衆文庫」 Matice lidu を出版しはじめた。それ以上に大きな意義をもつのは「世界の詩集」 Poesioe svtová で、一八七一年にハーレク、ネルダ、Ferd・シュルツ Schulz によって編纂された。
 大規模で有意義な出版は『百科事典』である、Fr・L・リーグルの監修のもとに、出版者のイグナーツ・L・コベル Ignác L. Kober が出版した (最終の第十一巻は一八七四年に出版された)。
チェコの社会的かつ文化的生活の再興と発展にたいして、新たに設立された多くの団体や協会が貢献した。こうして一八六一年には歌手の団体「フラホル」 Hlahol が生れ、一八六二年には体育団体「ソコル」Sokol が設立された (その生みの親は哲学者で美学者のミロスラフ・ティルシュ Miloslav Tyra である)。一八六二年には (Fr・パラツキーの提唱により) チェコの作家を物質的に支援する団体「スヴァトボル」が創立され、一年遅れて「芸術会議」Umelecká beseda が生れた。これは作家、造形芸術家、音楽家を結集し、民族の芸術と文化活動をあらゆる方向へ発展させる努力をするものであった。
 チェコ民族の生活のなかで特別の意義が、再興期の時代から演劇にたいして置かれていた。チュコの民族的努力の代表者たちはプラハに自分たちの常設の劇場のないことを常々痛感していた。したがって彼らはチェコ人の最初の「石造り」の劇場の建設が最緊急の課題だと考えていた。それは新しい時代の始まりにおいて実現した。大急ぎで建設された「暫定劇場」Prozatímní divadlo は一八六二年十一月十八目にヴィーチェスラフ・ハーレクの歴史劇『ヴカシーン王』Král Vukaaín で初目の幕を開けた。その後、一八六八年五月には「プラハ国民劇場」の礎石がすえられた。この祝福すぺき事件は民族運動と民族的力の偉大なマニフェストとなった。


 チェコ文学の上にバッハ反動体制の圧力が重くのしかかってきた。もちろん、急にはそれを圧殺することはできなかった。五〇年代の初めに、たとえぱ、エルベンの『花束』が出版され、それから少し遅れてB・ニェムツォヴァーの『おぱあさん』やその他の彼女の重要な作品が生まれた。しかし総体的にはチェコの文学活動は徐々に沈滞していった。 すぐれたジャーナリストや作家は拘禁されるか、投獄され (K・ハヴリーチェク、J・V・フリッチュ、K・サビナ)、出版の可能性は主として体制に忠実な作家のみが得た。――つまり大部分が二流、三流の作家たちであった。教会や世俗的機関は自由思想の理念の広がりを厳しく追求した。とくにへ一ゲルの哲学がそうであった。これが原因で司祭であり哲学者であったアウグスチン・スメタナは教会から破門され、『心理学概論』Nástin duaevdy (一八四八)や『トマーシュ・ゼ・シュティートネーホの哲学の研究』 Rozbor filozofie Tomáae ze `títonéhoの著者イグナーツ・ヤン・ハヌシュ(1812−1869)は大学教授の地位を奪われ、 同様の運命がフランティシェク・マトウシュ・クラーツェルを襲った。彼はヘーゲル主義者の嫌疑を受け、ブルノの哲学科の教授の地位を放棄せざるを得なかった。
しかし、チェコ文学の希望的未来、そして同時に新しい時代の最初の閃光がきらめいたのも、まさに反動が最も徹底したこの時期であった。詩人でかつ出版者のヨゼフ・ヴァーツラフ・フリッチュは革命運動にかかわった罪で長年のあいだ投獄されていたが、一八五四年にプラハにもどってくると、チェコ文学活動の組織者、あるいは、むしろ救世主となった。彼の努力の結果はアルマナック『ラダ−ニオーラ』 Lada-Niしada-Nióla (一八五五年版として一八五四年に出版された) であり、これに参与したのは――ポジェナ・ニェムッォヴァーの他に――大勢の若い世代のものたちで、とくにV・C・ベンドル Bendl B・ヤンダ、J・V・フリッチュ、アンナ・サーザフスカー Anna Sázavská、J・E・ソイカ Sojka であった。(この参加者のなかに、未来のマーイ派の名前や、その他の間もなく著名となるネルダの世代の若い作家の名前をすら見いだせないということからも明らかなことだが)、このアルマナックの芸術的意義は確かに大きくはないが、しかし重要なことは、ここの大部分の寄稿者の民主的かつ構極的な精神と、チェコ文学を社会的活動と理念的進歩性へ導こうとするプログラムに示された決意であった。
 フリッチュのアルマナックはある程度まで五〇年代末からの若い詩人世代の一斉の登場の刺激となったのは事実である。その主な代表者である詩人のヴィーチェスラフ・ハーエクとヤン・ネルダは一八五八年五月に「アルマナック・マーイ」を組織し出版した。
二人はこのアルマナックに、古い世代からはK・J・エルペン、B・ニェムッォヴァー、K・サビナ、J・V・フリッチュに、若い世代からは、とくにアドルフ・ヘイドゥク Adlf Heyduk、ルドルフ・マイエル Rudolf Mayer 、カロリーナ・スヴィエットラー Karolína Svtlá、ソフィエ・ポドィプスカー Sofie Podlipská に呼びかけた。そして「マーイ」の編集長として、出版者で詩人のヨゼフ・バラーク Josef Barák が招かれた。
それが創立者の直接的意図ではなかったとしても、このアルマナックは比較的明確なプログラムをもった華々しい世代の登場を結果としてもたらした。このアルマナックにつけた名称によって見ても、若い世代がいわゆる民族詩の性格や機能についての因習的な観念を最大の勇気をもって打破した詩人としてのカレル・ヒネク・マーハに、いかに共感をもっていたかがわかる。マーハと同じく、ネルダやその仲間たちもまた民族防衛的機能の文学を排し、自己の世界のイメージを表現しようと望んだのである。彼らの多くのものにとって、マーハのロマン主義的性格は手本となったが、同時に彼らのなかには現代精神によって新しい文学を満たし、文学によって新しい時代の現実を表現しようとする努力の最初の徴候があらわれたのである。
若い世代は仲間の古い世代から一八四八年の理念を引継ぎ、反社会的闘争の詩人たち――たとえぱ、G・G・バイロン、とくにH・ハイネ――を身近に感じ、多くの点で「若いドイツ」の詩人たちに親近感を覚えた(たとえぱ、優秀なジャーナリストのルードヴィヒ・ベルネ Ludwig Boerne、文学者のカルル・グツコウ Karl Gutzkow とハインリヒ・ラウベ Heinrich Laube など)。そしてそれは特に自由民主的意昧での文学の社会現実への接近 aktivizace にかんする彼らの努力のゆえであった。
 マーイ派の芸術手法のなかには、まだ多少のロマン主義的特徴が尾を引いているが、同時にそのなかにはリアリスティックな傾向も明らかに見てとれる。マーイ派の文学創造のアクチュアルな志向は文学とジャーナリズムとの境界を取り払った。そのことは、文学はジャーナリズムと同様に自己の視野のなかに同時代のあらゆる問題をふくみ込んでいなけれぱならないという若い作家たちの確信と結びついている。当然のことながら、ここから近代文学の関心の範囲は民族的領域だけに限定されないという結論になる。とくに、社会正義を求める努力、近代人を宗教のドグマから解放するための戦い、現代世界の在り方を決定する行為への参加一このすべてがマーイ派の概念における文学に超民族的、全人類的機能を与えたのである。 いずれにせよ「アルマナック・マーイ」からはっきり見えてくるこれらの理念は、まさに保守的な批評家たちの攻撃にさらされた。とくにヤクプ・B・マリー Malý (一八一一−一八八五) は彼らのコスモポリティズムのゆえに若者たちをしぱしぱ攻撃したのである。だが、K・サビナ、ネルダ、ハーレクらはマーイ派の立場を全面的に擁護した。そして民族意識の不足にたいする批判を否定した。
 アルマナック「マーイ」は一八五八年以後にも、なお三回(一八五九、一八六〇、一八六二)出版されたが、それはヴィーチェスラフ・ハーレクの編集によるものだった。だが、その後の年鑑(アルマナック)はもはや最初のものほどの大きな意義はもたなかった。マーイ派の登場によってチェコ文学の発展における再興期後の新しい時代が始まった。その時代の第一段階はまさにハーレクとネルダの世代の理念(プログラム)と活躍によって性格づけられる。この時期は七〇年代後半に終わる。つまり、V・ハーレクの死によりマーイ派は決定的に衰退する。一方「ルホフスコ−ルミーロフスカー」 ruchovsko-lumírovská という新しい文学世代が、わが国の文学活動の前面にあらわれてくるのである。マーイ世代の代表者たち――とくにネルダとスヴィェットラーは、もちろんその作品の意義において背景に退くということはなかった。むしろその反対に十九世紀の最後の四半世紀のチェコ文学の現実形成にたいして最も著しい作用を及ぼすのである。
 以後の記述においてネルダとハーレクの詩作品をつぷさに考察し、また散文作家からはスヴィェットラー、スタシェク、アルベスらについて特に注目し、その他の作家については簡単にその特徴について触れることにする。




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