(2) ヤン・ネルダ Jan Neruda



 マーイ派世代の作家のなかで最大の文学的意義を有するのはヤン・ネルダである。そのことは詩についてぱかりでなく、散文についても当てはまる。もちろん彼の作品はかなり長い間、評価を維持していた。――とくにネルダの詩作品は彼の同世代人に評価されていたばかりでなく、ネルダの死後も高い評伽を得ていた。たしかにその評価は当然といえば当然である。なぜならネルダは同世代の詩人のなかでは、それまでのチェこコ詩の伝統や公認の評価基準といったものを最少限にしか引き継いではいず、しかも最も大胆な方法で独自の道を切り開いたからである。彼は詩人としては晩成であり、厳しい自己批判においても抜きんでていた。それだから生前にはたった五冊の詩集(しかも長い間隔をおいて)しか出版しなかったのだ。だがこれらの詩集は――没後に出版された『受難金曜日の歌』 Zpvy páte níとともに――チェコ詩のなかでも最も持続的評価に耐えている作品である。それにまた、それ以後のわが国の詩の発展に与えた啓発的影響は、その痕跡を現代にまでたどることができるのである。
ネルダのジャーナリスティックで散文的な作品そのものは、彼の詩作品よりもはるか以前に、しかも容易に読者に通じる道を発見していた。同時代人の意識のなかにネルダは、なによりも「民族新聞」Národní listy における定期的な記事の筆――とくに、論説や小説の――として刻み込まれていた。彼はこの新聞の主幹であったから、この新聞に一八六五年から、死の一八九一年まで(大部分はかの有名な△記号の署名で) 書いていたのである。散文家としてのネルダはわが国の批評的リアリズムの第一の先駆者であり代表者の一人であった。長年にわたる彼の文学およぴ演劇批評家としての活動はわが国の文字文化に絶えることのない影響を残した。この批評活動は――ネルダの全文学作品におけると同様に――とくにその時代の進歩的、民主主義的、かつ、社会的理想の精神においてチェコ民族社会に積極的に働きかけ、それによってできるだけ文学作品を時代の現実に密接に結びつけようとする努力によって貫かれていた。
ヤン・ネルダは一八三四年にプラハのマラーストラナ(小街区)で生れた。当時、父親はナポレオン戦争の退役軍人だったが、ウーエズド通りの兵営内で酒保を経営していた。母親はその手助けをして稼ぎを足していた。全体的に家計は相当に苦しかった。その後ネルダの父親はオストルホヴァー(現在のネルドヴァ)通りでタバコ屋を出すことができた。ヤン・ネルダはここで幼年時代と青年時代を過ごし、多くの人生知識と経験と、さらに文学的刺激をいっぱいに詰め込んだのである。
 ネルダは最初にドイツ系のマロストランスケー・ギムナジウムで学んだが、一八五〇年にチェコ人のギムナジウム・アカデミツケーに転校した。そこで彼は多くの学友と出会い、文学的関心や民族意識が彼を学友たちと結びつけた。そのなかには、例えぱ、ヴィーチェスラフ・ハーレク、グスタフ・プフレゲル、ヴァーツラフ・チェニェク・ベンドル、ボフミル・ヤンダや、フランティシェク・ヴェンツェスラフ・エジャーベクなどがいる。 演劇評論家V・K・クリッツペラが校長をしていたこのギムナジウムは絶対主義的パッハ体制時代において、ドイツ当局の攻撃目標となり、一八五三年には強制的にゲルマン化させられた。卒業後ネルダは、初め法律を学び、短期間、軍の経理で働き、その後、哲学科に入り、一時は実業学校の補助教員になり、やがて最後にジャーナリストという職業に腰を落ち着けることになる。
初めは(一八五六年から)「ポヘミア日報」 Tagesbote aus Boemen の地方通信員として、一八六〇年からは日刊紙「時」 as (Al.クラーサ によって発行されていた) の協力者として、一八六二年には日刊紙「声」Hlas に移り、一八六五年、最終的に「民族新聞」 Národní listy の編集部の一員となった。
この新聞は若いチェコ人の代表的出版組織であり、彼は死ぬまでこの新聞にとどまった。――ネルダは新聞人としての活動のほかに、雑誌の編集も手がけ、幾つかの定期刊行物を共同で発行した(「生活の絵」 Obrazy ~ivota 一八五九−一八六〇、「家庭目記」 Rodinná kronika 一八六三−一八六四、「花」 Kvty 一八六五―一八六七、「ルミール」 Lumír 一八七三)。
一八五八年のアルマナック「マーイ」Máj の準備段階における彼の編集者的役割も重要であった。また単行本形式による「詩の集い」 Poetické besedy を創刊して編集に当たった。この本は出版者の Ed. ヴァレチェク Vale ek によって出版され、そのなかにはとくに若い詩人たちの詩が掲載された。
ネルダはマーハ以後最初の、プラハに生れのチェコの大詩人である。それにまた彼の全生涯と作品を通してプラハと結ばれていた。彼の比較的多い外国旅行のなかでは、とくにフランス、ドイツ、バルカン、イスタンブールやエジプトヘの旅行が文学的な意昧をもっている。――生涯独身で終わったネルダの個人生活にも、多少の感情的なかかわりがなかったわけではない。しかもそれは大なり小なり彼の文学作品に反映した。その最初のものはアンナ・ホリノヴァーとの長期にわたる関係であり、次には短かったが純粋な友情に生れ変わるカロリ・ナースヴィェットラーとの関係、その死によって果せなかった若い娘テレスカ・マハーチュコヴァーにたいする恋、そして最後に、老いらくの、突如として自制したアニチュカ・ティハーにたいする熱情であった。
しかしこれらの関係よりさらに強固だったのは母にたいする愛だった。そのことについてはネルダの詩編のなかに、その証拠を見いだすことができる。
詩人の生涯の最後の年月は重い病によって特徴づけられる。だが、それにもかかわらず芸術的創造の姿勢の厳しさはかえって強まった。そしてあらゆる公の事件にたいする関心も衰えることを知らなかった。彼は民族運動の進展や社会正義を求める労働者階級の闘争を喜ぴをもって見守った。この戦いとの連帯を彼は何度も表明したが、その究極の決定版とも言えるのは一八九〇年五月一日の有名な論説においてであった。一八九一年、彼はプラハで死んだ。
ネルダは文学的キャリアをミコヴェッツの「ルミール」への詩の寄稿をもってはじめた。この誌上で彼の最初の詩作品『死刑人』Obaenec を (ヤンコ・ホヴォラ Janko Hovora の筆名で)一八五四年に発表した、この作品は K.J.エルベンの影響をはっきり見せている。一八五七年に最初の詩集『墓地の花』 HYbitovní kvítí を出版した。この詩集はたしかにネルダのその当時のいくつかの文学的お手本(たとえぱ、ハインリヒ・ハイネの詩) への部分的依存の痕跡をとどめているものの、それにもかかわらずそのなかには、すでにこの詩人独特の才能が明瞭にあらわれている。『墓地の花』は同時代の現実、とくに社会的な現実へのネルダのかかわりを反映している。
 バッハ絶対主義体制時代は民族的抑圧だけでなく社会的弱者層の差別が強化されていた。裕福な市民層の代表者に指導されていた当時のチェコ社会のなかで、「生きたまま葬られた」現状をくつがえし、展望に満ちた希望の明日を切り開くことのできる力を思い浮べることができなかった。このペシミズムは「墓地」というシンポルによって表現されている。つまり「墓地」は人間的な痛みや苦しみが鎮静され、平安を得る唯一の場所である。だが、それでもネルダの若々しい詩集は単に受身の、絶望の表現にとどまっていない。貧しい人々の苦しみを心の底からの痛みをもって感じながら、支配者層が貧しい人たちにたいして犯している社会的犯罪を指弾し、市民階級の利己主義と欺瞞的倫理とを暴き、チェコ国内の不健全な社会関係のあらゆる症状にたいするアイロニカルな攻撃に、その詩行のかなりの部分を費やしている。そして同時に、目下のところ未来は単なる地下の「巨大な槌音」と定義する者たちに属するという確信を隠そうとしない。
『墓地の花』はほとんどの批評家や一般社会の無理解に遭遇した。しかもそれは保守的な連中や、ネルダにたいする偏見をもつ者たちだけではなかった。ネルダの過剰でこれ見よがしな懐疑主義、同時代の生活現実への肯定的態度の欠如、とりわけハインリヒ・ハイネのお手本への依存が非難されたのである。しかし、すぐ後に続く世代はすでに『墓地の花』を別様に把握していた。アンタル・スタシェクの言葉によれぱ、この詩集は「ライフル銃から発射されたかのように、50年代の真っ暗闇のなかに……」突如としてあらわれたのである。そして同じくヤロスラフ・ヴルフリツキーは、わが国の詩の発展においてネルダの処女詩集『墓地の花』のもつ意義の重要性を説いたのである。
 ネルダは次の詩集を一八六八年になってやっと発表した。その詩集は『詩の本』 Knihy verao で、実際には主に五〇年代末から六〇年代前半までの作品のなかから選ぱれた。ネルダはその本のなかに『墓地の花』からの抜粋も収めた。この詩集は三巻からなり、それらはそれぞれ『叙事詩の本』 Kniha verao výpravných 、『抒情詩とその他の詩の本』 Kniha verao lylrických a smíaných 、『時折々の詩の本』 Kniha  aspvých a pYíle~itých と名づけられた (この詩簾の第二回目の増刷版は一八七三年に出版されている)。
叙事詩を収めた第一巻は社会的主題がどのように発展するかという点で『墓地の花』と有機的に結びついている。そして全体が、とりわけ、社会間題に集中されている。同時代世界の社会秩序にたいする批判的拒否の関係が維持されているぱかりか、むしろ尖鋭化すらしている。同時代の生活実態とネルダとの連結の表現となっているのは、とくに彼の社会的バラードである (たとえぱ、『藁の花輪』 Slamný vínek 、『心やさしき人々の家の門前で』 PYed fortnou milosrdných 、『おじいさんの皿』 Ddova mísa) である。
ネルダはたしかにエルベンのバラードの手法を受け継いでいるが、葛藤の動機づけは運命的ではなく、むしろ時代の社会生活の状況から生み出されている。これらの詩の何編か (たとえぱ、『二千年とさらに何年かあとの最後のバラード』 Poslední balada z roku dva tisíce a jeat nkolik ) のなかには、ネルダのお手本のなかにはエルベンだけでなくカレル・ハヴリーチェクもいることを思い起こさせる風刺的な調子が貫いている。――詩集の第二巻にはとくに重要な、身近な主題の連作抒情詩の『父へ』『母へ』そして『アンナヘ』がふくまれている。これらの詩の基本モチーフは父親にたいする内面的な強い関係、母親にたいする暖かい愛情、そして「永遼の花嫁」アンナ・ホリノヴァーにたいする関係のなかでの恋の魅惑と失望である。この巻のそれ以外の詩のなかで最も重要なのは、『わたしはすぺてのものでありたかった』 Vaím jsem rád (第二版でくわえられた) である。この詩は、彼の全力を民族全体の繁栄のために捧げるという決意の表明である。ここで初めて、この詩人の同時代の現実にたいする肯定的関係がその批判的拒否に打ち勝っている。もちろんネルダは民族の概念を民主的な意味で広い人民層を支持基盤とする共同体としてとらえている。
第三巻――『時折々の詩の本』――はとくに政治的かつ愛国的詩 (『生きて葬られた者たちの時間より』Z  asu za ~iva pohYbených 、『チェコの詩』Ceské verae 、『カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーへ』 Karlu Havlí kovi Borovskému )を取り入れている。詩『スロバキアヘの伝言』 Poslání na Slovensko と『ペシュトのゴルコタの丘で』 Na peat'ké Kavárii 詩はスロバキアにたいする愛を表明している。しかし、チェコとスロバキアとの未来の関係にたいする不安も示されている。自由を求める人民の戦いにおけるスラヴ民族の大きな使命についての確信が『日昇の輝きのなかで』 Ve východní aáYi という詩から響いてくる。
『詩の本』の出版に続く十年間に詩人として、人間としてのネルダは厳しい試練の年月を過ごすことなった。彼は芸術家として低く評価され、人間としては民族意識の欠如を非難されたぱかりか、民族の裏切り者の烙印を押されさえした (彼は一八七一年、ウィーンの「モンタークスレヴエ」にプラハの政治的裏側の秘密情報を送ったという嫌疑をかけられた)。政治的にも社会的にも状況が著しい転換を示していた。七〇年代にはチェコの民族社会また社会的闘争が尖鋭化した。なぜなら、一八六七年のオーストリアとハンガリーの対等化はチェコ国内での中央集権化への圧力を高め、急速に進む工業生産は労働者階級と支配的プルジョアジーとの間の相克を一層深めたからである。この状況にたいしてネルダは次第に頻繁に自分の詩作品で反応するようになり、この手段を通して彼は民族社会における決定的役割は人民の力にあるということをくり返し表明した。そして徐々にその人民の力に自分を一体化させていった。
 この民衆性と民主主義の精神によって次の詩集『宇宙の歌』 Písn kosmické (一八七八)によって保たれている。この詩集にたいする表面的衡動をネルダに与えたものは、新しい天文学的発見によって急に高まってきた宇宙の間題にたいする関心の波であった。内面的衝動は人間の生命を宇宙の存在と対決させ、近代人類の可能性と使命について瞑想しようとする努力であった。

われらもまた死ぬだろうという
予言者たちの永久に鳴りやまぬ声
そうとも、そうとも、われらも知っている――
われらはいたずらに地上の生活に綿々とはしない!


咲きいづるもの、それは散り
嚇えいづるものも、また、消え去る
そして人類の満ちた、この地球も
白いバラがしぼむのと、おなじこと


だが、死の思いに駆られて
心臓を突き刺しはせぬ!
われらは生を謳歌し、全うする
そして世にその範を示すのだ。


あるとき、われちは世の起源を知り
あらゆる力の根源を知った。
あるとき、時間の底に下り行き
泄の群れを足し合せる。


いかなる、いかなる神秘の前にあろうとも
決して、背を屈めることはない。
天の果てにある、穹窿を
われらの息で、鳴り響かせよう!


われらは死ぬ、だがその前に
自分の墓を、栄光によって建てておこう
全世界は、その墓のまえに
脱帽して、立たねばならない。


 宇宙はネルダにとって神秘の世界ではない、そしてもはや宗教的連想を呼び起こす「超現世的」世界でもない。ネルダの視点は反対に唯物論的見解に極めて近い。星の世界は彼にとって物質の絶えざる運動と変化の証明である。時間のはかなさの意識はネルダの確信によれぱ諦念の原因であってはならず、むしろ反対に行動への刺激でなくてはならない。宇宙の秘密は永遠的でもなけれぱ、不可知なものでもない。

われらは来た! われらの精神は高空に伸展しそして血管は、熱望に脈打つ世界への熱病のような願望ではなんと、心臓は脈打たない!

われらはさらに近づくわれらはいろいろな天体とまみえよう。われらは檻を打ち、魂を解き放てそして、檻を打ち砕こう!

 星の世界への視野は民族社会の未来についての楽天的な信仰でネルダを満たした、しかしその信仰は、この未来が戦いによって得られなけれぱならないという意識に支えっれていた(『優柔不断な者の死にざまはみじ!』 Kdo mkkým je, ten bídn mYe!)。
これらの反省的、プログラム的詩、これらの詩のためにネルダは、あるときは民衆歌謡の単純な形式を用い、また別のところでは反対に宗教曲的な複雑な形式をもちいていたが、これらの詩と並んで『宇宙の歌』 Pís kosmické にとってはユーモラスな詩の一群が特徴的である。そのなかでは結果として現れてくるのは、それが人間の小ささ、視野の狭さにたいする善意の嘲笑(『沼のなかの蛙』 Sedly ~áby v kalu~i) であれ、天体の擬人化からくる単なる微笑ましい描写 (『月はハンサムな若者』 Msí ek, pkný mládenec) であれ、つまりは宇宙と人間の地上的営為との衝突であった。――ただ一つ内面的モティーフをもった詩がある。しかしそのなかにこそ、まさにネルダの芸術性が最も明瞭な最も個性的な形であらわれるのである。

天頂の緑の星よ
陽気に、陽気に輝け!
私が、時として、思い起こすときには、
私らが、いかに古くからの友だちであったかを!


何年も前のこと、おまえは私の声を聞いたはずだ、
歓びにみちた喚声を
それは恋する乙女を、はじめて
この胸に抱きしめたときだった。


何年も前のこと、おまえは私を見た
怯えて、青い顔の私を
それは死せる彼女の可愛らしい手を
わが唇のほうへ引き寄せたときだった。


それは人生のなかの小事にすぎぬ
泉の泡にすぎぬかもしれない
人間は年月のすぎゆくままに、その小事を
そんなふうに、ふと、と思い出すのだ。


私らは、歓ぴも悲しみも、越えてきた。
私らは、なにもかも、踏みこえる!――
だが、なんのためだろう、この涙は――
そんなものが私を、もう、苦しめるはずもないのに!

「詩の集い」 Poetické besedy の第一号としてネルダの詩集『バラードとロマンツェ』 Balady a romance が一八三三年に出版された。ネルダはそのなかである程度『詩の本』の叙事詩を継承しているものの、主題の範囲を広げ、自分の作品とチェコ民衆の小叙事詩 ba1adika の伝統との関連を一層はっきりと示している。ここでは聖徒伝 legendaや神語 mythus、 歴史といったものの素材を用いてはいるが、詩全体はその思想の内容と意義からも現代に重点を置き、また、それを目指している。レゲンドとミートゥスは『バラードとロマンツェ』のなかに民衆的な、とくにユーモラスな形と様式化によって蘇っているが、また他方では深刻な提示もある (『三王の物語』 Balada tYíkrálová、『クリスマスイヴ物語』 Romance atdrove erní、『カナーンの婚礼物語』 Balada o svatb v Kanaan、『山の物語』 Balada horská)。これらの主題の翻案 interpretace はしぱしぱ民衆の素朴さに近いが、宗教的ニュアンスはおろか、神秘牲を匂わせるものさえも完全に排除している。この点でネルダの一物語詩」 balada はエルベンのものと根本的に区別される。
 それに続く幾冊かの詩集は、たとえそれが古典的に端正な『古い―古いバラード!』 Balada stará―stará ! にしろ 、社会悲劇の音調を響かせた、あるいは、革命を志向した詩『イタリアのロマンツェ』 Romance italská 、または『一八四八年春のロマンツェ』 Romance o jaYe r.1848、にしても、現実生活とその時代の抱える問題との関連をとくに強調した。この二つの詩のなかでネルダは同時代の世界にたいするラディカルな関係の必要性と、わが国はじめヨーロッパの社会の発展に及ぼした一八四八年という革命の年の不変の影響と意義とをはっきりと表現している。『チェコのバラード』 Balada  eská も『カレル四世のロマンツェ』 Balada o Karlu W も反省的性格をもっている。この詩は両方ともチェコ民族の好ましい基盤と未来についての確信を希望的に表現している。『子供のパラード』 Balada dtská は悲劇的調子を響かせているが、これはネルダの友人アドルフ・ヘイドゥクの娘の詩に霊感を受けたもので、この詩集のなかで最も成功した詩の一つとなっている。ネルダのパラー一ドやロマンツェは正当に十九世紀チェコのバラード風叙事詩の第二の頂上としてエルベンの『花束』とともに並び称されるものである。
『バラードとロマンス』(一八八三) と同じ年にネルダの詩集『簡素な主題』 Prosté motivy が出版された。この本は最も内面的な抒情詩の詩集で、年老いていく詩人の男性的で、非感傷的な告白である。そしてその詩人の上にだんだんと孤独の重みがのしかかってくる。季節に即して四つの部分から構成されたこの詩集は、ある程度まで『宇宙の詩』のなかの内面抒情詩を継承している。このなかでは回想的主題が偏重され、そこから感傷が響き、懐疑主義と諦感がくわわる。しかしネルダはそれらのものに抗して、とくに自然のなかに、そしてその永遠の回帰のなかに慰安と救済を見いだしている。ネルダは自分自身の老化と自然の春の再生との対比を自虐的ユーモアをもって呈示し、同時に、感惰的内面をも暴露した。それにまた、愛と友情の思い出、最後の愛の告白、だがなによりも生の使命を全うしたという確固たる意識が聞きとれる。この詩集の特徴は直截な言語表現と詩行の規則的なリズムであり、幾つかの詩編は彼流の音調による民衆詩を思いおこさせる。

庭のまえの柳の老木
すでに老骸をさらすのみ
ただの残骸、ただの立ち枯れの――
切り倒すのはいつがいい?


春になって、枝が残っていたら
蘇って、花をさかすだろうか?
夏には、たとえ老いさらぱえていても
陽に、その身を焼くだろうか?
それとも、冬にはどうが? そのうちに眠るだろうか?
それすらも感じぬか?
老木と老人は
眠りはわずかでよいものなのに!

 ネルダの最後の詩集は作者の没後、一八九六年になって『金曜日の歌』というタイトルで出版された。出版に際してはヤロスラフ・ヴルフリツキーが監修に当たった。この詩集は十編の詩からなり、その大部分は賛美歌的な性格と愛国的内容をもっている。カルヴァリ<=ゴルゴタ>の丘の上のキリストの受難とその母の悲しみという「聖金曜日」の象徴によって表現された民族―祖国の受苦は、ネルダにとっては、民族が自己の未来を購う代価なのである。ネルダの愛国主義は決して感傷的でも顕示的でもない。それは強い民主主義的感情と、民族の将来は人類社会の発展を阻むものすぺてにたいする戦いによってのみ保証されうるのだという意識との上に築かれている。

私たちは知らない、未来が何を私たちに与えてくれるかを――しかし、チェコの戦いの神はなおも生きてあり、しかして、新たなる大勝利のために今でも、このチェコの広野は十分な広さがある!そして、もし神が、いつの日か、新しい戦いを課そうと欲するならぱ――私たちは合唱をフス戦争の戦士の声で歌えぱ足りる地中にはよい剣を作る鉄が十分あり、血潮のなかにも鉄がある――さあ、進め、前進だ、(「詩『さあ、進め』より)

 民族運動への同様の呼びかけは『わが色は赤と白』 Moje varva  ervená a bílá にもある。これは八〇年代の民族抑圧と社会矛盾の深刻化の新しい波にさらされた民族の自意識を強化しようとするネルダの決意の表現である。この詩集のなかの次の数編でネルダは過去のチェコ民族の苦しい運命を思い起こしている(『母の七つの苦しみ』 Matka sedmibolestná 『この人を見よ』Ete homo)。しかしチェコ史の輝かしい側面にも目を向ける (『獅子の足跡に』 Ve lví stop )。熱い、だが男性的な飾り気のない感情に満ちた、次の『愛』 Láska という詩のなかでは、祖国や民族にたいする彼の関係が告白されている。
ネルダの詩的遺産のなかには一連のエピグラム(警旬)も含まれているが、それらの作品を著者自身の手で本の形での出版することはできなかった。そのなかで彼は同時代の民族、政治、文学、その他の間題に風刺的評言をくわえている。――本として出版された詩集の他にも、さらに何編かのネルダの詩が残っている。とくに、ユーモラスな「バラードとロマンス」(例えぱ、『聖書風ロマンス』Romance biblická)やマラー・ストラナについての随想とでもいえる『夏の思い出』 Letní vzpomínky などである。
ネルダの詩言語の性格について、ざっと触れた。そのなかにも――ネルダの詩的作品のすべての構成要素のなかに見られるのと同様に――作者の個性と芸術的独自性があらわれている。書語表現の直截と簡潔さ、これは『簡素な主題』に特徴的だが、他のネルダの個人的、内省的抒情詩の大部分をも性格づけるものである。『墓地の花』にしても、まさに彼の粗削りな、同時代者には不快な音調をもった表現のゆえに、なかなか理解されなかったのだが、この表現こそ、ハーレクのメロディックで、軽くただよう詩とはっきりと区別されるところのものである。
このことはネルダが、どんな言語手段を用いるかという間題よりも、詩の基本的思想をいかに正確に表現するかという間題のほうに重点を置いたことの結果である。このような思想は抒情詩のなかにも常に見いだされる。このことは比喩<メタファー>の使用の控え目なこととも関連するが、ヴルフリツキーのメタファーの豊當さと比べると、そのことがとくに目立つ。ネルダの場含、最も個人的な感情の表現はいつもちょっとした暗示程度にとどまっている。それは情は深いが外面的には、むしろ閉じこもりがちだった彼の生活態度に通じるものである。だが彼がひとたぴ詩人として、全民族の名において語るとき、彼は情熱的な言葉を発見し、その詩の表現は彼の愛国的熱情を、こめた賛歌的作品にふさわしく、描写の絵画性を一層豊かにしていくのである。
ネルダは韻文作品と平行して散文作品も書いた。そして、そのことは著者のジャーナリスティックな活動と密接に関連している。『アラベスク』 Arabesky (一八六四) と呼ぱれる最初の散文の本のなかには、五〇年代の終わりから六〇年代の初めにかけて書かれたネルダのプラハの生活を描いた小説やスケッチや情景といったものが収められている。
この本のタイトルはネルダ作品のもつ独特なジャンル的性格を言いあらわしている。つまりこれらの作品のなかでの観察の主眼は、物語の主題の発展ではなく、むしろ特徴的人物の性格化 (ハープ奏者ヨゼフ、愚か者コーナ、フランツ) や日常生活のなかの特異で、異常な状況をとらえ、色彩豊かな「体活の絵」を摘出すことなのである。
『アラベスク』のなかの幾編かには、いぜんとしてロマン主義の影響がしみこんではいるものの、この本全体として見るならぱ、リアリスティックで社会批判的な要素が決定的な役割を演じている。その最も成功した例が、巻頭の自伝的小説『彼は悪党だった』 Byl darebákem である。作品集『いろいろな人たち』 Rozní lidé (一八七一) も『アラベスク』と同じような性格をもっている。
 この本は習作と小品を集めたものであり、そのなかでネルダは特に外国で出会った人々の性格や運命をとらえている。後にネルダはこの作品集を『アラベスク』集の独立の一巻にくわえた。
七〇年代に出版された五巻からなる作品集は、ネルダの評論と紀行文を集めたものからなっている。つまり『習作、短かいものともっと短いもの』 Studie, krátké a krataí (二巻、一八七六)、『冗談、楽しいものと残酪なもの』 }erty hravé a dravé (一八七七)、『小旅行』 Menaí cesty (一八七七)、『外国の風景』 Obrazy z ciziny (一八七九)である。――ネルダはこの作品集の第一巻に『浮浪者』 Trhani (一八七二) という短編を収めているが、それは芸術的に最も重要な彼の散文作品の一つである。この作品は鉄道建設の労働者の生活の観察であり、何人かの主要人物の性格描写が鋭い。
『プラハの風景』Pra~ské Obrazy も社会的間題性に鋭敏な感受惟を示している(一八七二年、『習作、短かいのともっと短いもの』にも収められている)。紀行文的評論のなかでは『プラハの風景』がとくにおもしろい (一八六四年、後に『小旅行』に収められた)。
 ネルダ散文文学の最高傑作は『マラー・ストラナ物語』Povídky malostrannské (一八七八) である。ネルダはこのなかで彼の記憶と体験にもとづいた、一八四八年以前のマラー・ストラナ(小街区)周辺の旧世界的環境を見事な一幅の絵に仕上げている。そしてその環境とはまるで外部の世界から切り離されたような、独自の平和な生活を営んでいる環境だった。しかしこの牧歌的な情景も単なる見せかけにすぎなかった。人間相亙の関係はこのマラー・ストラナにおいても、物質的成功という利害で損なわれており、ここでも富める者が貧しい者のうえに位置するという階級が存在していたのである。
ネルダはマラー・ストラナの社会とそこに住む大人物や小人物たちをその性格の善も悪もひっくるめてユーモアと威厳とをもって描いているのである。彼は小説的にまとめられた話という形式を最も多く用いている。この種のものでは、たとえぱ『リシャーネク氏とシュレーグル氏』Pan Ryaánek a Pan Schlegl、『あわれな乞食』 PYivedla ~ebráka na mizinu 、『ヴォレル氏はどのようにしてシャウム(海泡石)・パイプをくゆらせたか』 Jak si nakouYil pan Vorel pnovku など)
だが別のところでは、彼の物語はマラー・ストラナの日常生活の幾つもの小場面から構成されている(『静かな家の一週間』Týden v tichém dom 『人物たち』 Figuruky)。何編かの小説はネルダの幼年時代の世界を詩人的能力でユーモアをくわえながら再現している(『聖ヴァーツラフのミサ』 Svatováclavská mse、『一八四八年八月二〇日、午後〇時三〇分、なぜオーストリアは敗北しなかったか』 Jak to pYialo, ze dne 20. sprna roku 1849, o pol jedné s poledne)。 ロマンティックな音調を響かせる愛の物語『三本のユリのそばで』 U tYí lilií は自伝的というよりは文学的な発想から来ているが、この作品集の他のすぺての小説は素材的に時代の現実に根ざしている。そして芸術的手法の観点から言えぱ、それらの作品はチェコの批評的リアリズムの基礎を築いている。
ネルダは何本かの戯曲の作家でもある。最初に観客の喝釆を博したのは状況の喜劇『腹をすかした花婿』 }enich z hladu (一八五九) と『売られた恋』 Prodaná láska (一八五九) によってであり、そのなかで彼はクリッツペラにつながるチェコ喜劇の継承者の一面を示している。しかしダンテの『地獄』からのモチーフをもちいて書いた悲劇『フランツェスカ・ディ・リミニ』 Francesca di Rimini (一八六〇) の失敗は以後永久に劇作家として公衆の前に立つ勇気を彼から奪ってしまった。以後、演劇とは劇評家としてのみ結びつくことになる。
実際、批評は――単に演劇のみならず――ネルダの重要な活動領域である。彼は自分と同世代の芸術創造と、そのプログラムを、保守反動派、とりわけヤクプ・マリーにたいして防衛する必要にせまられて五〇年代の終わりから六〇年代の初めにかけて、この批評領域に引き込まれていったのである。ヤクプ・マリーという人物は、マーイ派たちの登場後、若者たちの民族文学の伝統にたいする整合性の欠如、そのコスモポリタニズム、また同時代の社会にたいするペシミスティックな視点を非難したが、その実、彼の非難の本当のねらいは、理念的に進歩的潮流を若者たちがチェコ文学のなかへ導入するのではないかという危機感であった。マリーとの論争においてネルダは (カレル・サビナとヴィーチェスラフ・ハーレクによれぱ) マーイ派の主導的スポークスマンになったのである。
『生活の絵』に寄稿した論文 (たとえぱ、『今』 Nyní、『退廃的な傾向』 #kodnivé smry 、『J・マリー氏への最初にして最後の言葉』 První a poslední slov o P.J. Malému) のなかでネルダはチェコ文学は今後単に民族性を保持するという機能のみでは満足しないと述べた。チェコ文学をヨーロッパ文学に近づけ、それを現代の現実の間題によって満たすことが不可欠である。つまりこの間題の性格はもはや単に民族的なものにとどまらず、より一層社会的である。文学は本当に、民族の相違にかかわりなく、現代の現実をとらえなけれぱならない――というのがネルダの確信する文学の基本的使命であった。ネルダはこの考えを批諦家として、彼がチェコ文学の民族的に特殊な性格に、だんだんとより大きなウエイトを置くようになっていくそれ以後の時代にも、守りつづけたのである。それだけでなく、著作者の主要課題は同時代社会の「完全な生活の絵」を呈示しその社会の内面的状況や間題に注目する、そして社会の民主的発展と社会的に正当な秩序づくりに寄与することであると常に確信してやまなかった。
 ネルダの批評的論文のなかで、とくに価値があるのは、同時代のチェコの作家たち――ルドルフ・マイェル Rudolf Mayer、ヴァーツラフ・ショルツ Václav `olc、カロリーナ・スヴィィットラー Karolína Svtlá、スヴァトプルク・チェフ Svatopluk  ech 、J・V・スラーデク Sládek、ヤロスラフ・ヴルフリツキー Jaroslav Vrchlický 、その他に触れたものである。
演劇評論家としてのネルダは、とくに「暫定」劇場 Prozatímní divadlo の活動の時代と結ぴついている。彼は舞台の上にも同時代の世界の真実の、クリティカルな「絵」を提示する新しい近代的な芸術を実現させようと努力した。はじめはこれらの理想実現を最も新しいフランス劇の上演のなかに見出だした (たとえぱ、サルドゥー Victorien Sardou、オクターヴ・フュイエ Octav Feuillet 、小デュマ Alexandre Dumas fils の戯曲)。しかし、その後、徐々に北欧の劇作家 (ビィョルンソン Buornson、イプセン Ibsen) やロシアの劇作家(A.N.オストロフスキー Ostrovskij)へと移っていった。古典のなかでは特にシェークスビアを推奨した、反対にシラーやゲーテのチェコ演劇への影響はむしろ制限しようとさえした。国民劇場 Národní divad1o 建設の功績もまた、ヤン・ネルダの演劇批評活動とベジフ・スメタナ BedYich Smetana の作品を世に認めさせる戦いと結びつく。しかし、ネルダ自身は決して国民劇場を訪れようとはしなかった。
ネルダの芙術批評もまた決して無価値ではない。それはヴァーツラフ・レヴィー Václav Levý Václav Levý やヨゼフ・ヴァーツラフ・ミスリベクJosef Váckav Myslibek、ヨゼフ・マーネス Josef Mánes 、ミコラーシュ・アレシュ Mikoláa Alea の作品をチェコの公衆に接近させることに寄与したからである。





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