(3) ヴィーチェスラフ・ハーレク Vítzsav Hálek




 ヴィーチェスラフ・ハーレクは一八三五年にドリーネク・ウ・ムニェルニー力 Dolínek u Mlníka で生まれた。両親はその村のレストランの雇われ経営者だった。彼はムニェルニークのいろんな場所で幼時をすごした。一八四七年からプラハのアカデミツケー・ギムナジウムに学び、卒業後はプラハ大学の哲学科で学んだが卒業はしなかった。その代わり文学とジャーナリズムに専念した。彼は中等学校の生徒だったころ、すでに雑誌に詩を発表し、五〇年代の終わりには若いチェコ詩人のなかで最も人気のある作者となっていた。そして間もなく、わが国の全歴史のなかでも傑出した権威を獲得するにいたったのである。
 一八六一年から死ぬまで、彼は「民族新聞」 Národní listy の編集部の一員であり、この新聞に論説や、文学や演劇の批評、論争的エッセイ、紀行文などを書いた。彼は多くの全集や雑誌を編集し、コベル出版社内に「スラヴ会議」 Slovanké besedy のロマンやノヴェルのオリジナル作品、翻訳作品の叢書を企画して(一八六一)、その編集に携わった。またアカデミー協会でも活躍し、協力して芸術会議を設立し、その文学部門の部会長となった。
 ハーレクはそのジャーナリスティックな活動の当初からチェコ民族の民主的権利、ドイツの影響からのチェコ民族の文化的離脱、また、わが民族生活全体のスラヴ的方向づけのために戦った。彼自身まさにスラヴ民族の世界をできるかぎり徹底的に認識しようと努力した。そのために彼はスロバキアやポーランド、ラウジッツ(ドイツ領内)のセルビア人集落、それからまた彼がとりわけ愛した南方のスラヴの国々へ旅行した。そのほかにはコンスタンチノープルやギリシャの島々をも訪れ、それらの旅の休験を一連のエッセイのなかに収めた。
ハーレク個人の生活は、なによりも彼の幸福な結婚によって決定づけられた。その結婚とは彼が一時家庭教師をつとめたプラハの裕福な弁護士の娘ドロトカ・ホラーチュコヴァーとのものである。彼はずっとプラハに住んでいたが、内面的には常にチェコの田舎と自然に結ばれており、そこで彼の詩や散文作品の主要な刺激や主題を得ていた。一八七四年クルコノシュヘの旅行のあと肋膜炎にかかり、そのご間もなく死んだ――それは三十九歳という、人生のうえでも、芸術のうえでも最も力の充実を見た時の死であった。
 ハーレクは1854年にミコヴェッツの「ルミール」にバラード『未洗礼幼児の魂』 NekYtncova duai ka を発表して詩人としてのスタートを切ったあと、バイロン的精神のなかで抒情・叙事詩的物語『アルフレット』 Alfred (一八五八) を出版し、続いて同様の性格の作品『美しいレイラ』 Krasná Lejka (一八五九)、『メイリマとフセイン』Mejrima a Husein (一八五九)を出版し、それからさらに『ゴアル』Goar (一八六四)、『黒旗』  erný prapor (1867)、『白山の継承者たち』Ddiécové Bíléhory(1869)を発表した。
これらの作品はすべてバイロンのほかマーハその他のロマン主義詩人に霊感を得ているが、チェコ文学に「全人類的」人間性と高い倫理的使命の理念に導かれた超民族的作品をくわえようとするハーレクの努力の証拠でゐる。当時の彼の考え方の方向、それはとくに『詩一般との関連で見たチェコの詩、人生の絵』 Básnictví  eské k básnictví vovec. Obrzy ~ivota (一八五九)において述べられているが、このかんがえに従って、わが国の詩を民族的伝統という狭い枠から解放しようとしたのである。だが著者たちの敵である保守主義者たちは若い詩人世界の思想的、創造的飛躍を伝統という名のもとに抑えようと努めた。
 しかし超個人的、超時間的間題を表現しようという努力は、時間的、場所的、民族的リアリティーを弱めたぱかりでなく、民族的、社会的背景を欠如した人物や行為の表現において生じる全休的なあいまいさ、非具象性にハーレクを導くことになった。個性的音調はただ数編の自然の――通常、山や海の――描写において響いている。このことはハーレクの芸術性と創作の基本的資質は抒情性にあり、バイロン的ロマン主義の進路とは別の方向を示していたことの証拠である。
そのことはハーレクの最初の抒情詩集『夜の歌』 Ve erní písn (一八五九) がはっきりと証明してくれる。この詩は若い詩人ハーレクのドロトカ・ホラーチュコヴァーにたいする幸福な愛の詩的反映として生まれた。そのなかでハーレクは彼のすべての感情的陶酔をうたい出している。
愛は彼にとっては人間の人生を浄化する泉であり、それは詩とともに人間が自然から与えられた最大の贈物である。

偉大な歌手の例にならって、おまえの玉座を
わたしの歌で作ってあげよう
干笏にはわたしの心臓をあげよう
王冠にはわたしの名声を


わたしの掟は、愛だと宣言しよう
わたしの歌で、おまえの日々を祝福しよう
おまえの魂には愛の喜びを、そして
おまえの夢には、甘い渇望を注ぎ込もう。


おまえのために、鳥たちの歌を呼び寄せよう
おまえの足下に、五月は花をし敷きつめる。
わたしは、天の星に命令しよう、そして
わたしは、世界中を天国にしよう。


わたしは、すぺてのものの心を、おまえに服従させよう
楽園を墓場のなかからもう一度、おまえのために、わたしの歌で取りもどそう
そして、おまえを女王様と大声で言いふらそう
この果てしない世界の果てまで、聞こえるように。


 しかし、この詩集のなかの詩から、私たちは詩を贈ることから受ける詩人の愛の幸福と喜び以上のものをしぱしぱ読みとるのである。これらの詩行のなかには人間関係すぺての調和を求める詩人の願望の表出をも見出ださずにはいない。ロマン主義者たちと同様、ハーレクにとってもこのような調和のお手本は自然であった。ひたすら自然に密着することによってのみ、現代の人類は自分の抱える間題を解決できるのであり、この自然のなかにこそ、人間行為の道徳的規範をも発見することができるというのである。
このあとに続くハーレクの抒情詩集の思想的流れの基調は、すでに、ここにはっきり示されている。他の詩のなかでハーレクはチェコ詩人の民族社会にたいする高邁かつ責任ある使命についての確信を表明している。まさに『夜の歌』のこれらの詩こそ、ベジフ・スメタナを触発し、そのなかの五つの詩に作曲させたのだ (そのなかの最も有名な曲は『予言者に石を投げるな』Nekamenujte proroky 、『金の糸を奏でる術を知るものは』Kdo v z1até struny zahrát zná である)。
ハーレクの詩集は新しい抒情詩の清らかな水を湧き出させる泉のようなものとして、その時代に影響を及ぼした。その抒情詩はオプティミズムと率直な感備表出によって、当時のわが民族の生命力、つまり当時のわが国の若い世代の歓喜に満ちた高揚を十分に歌いあげたのであった。そしてまたその若い世代は高邁で高貴な感情的基盤のうえに築かれた新しいヒューマニスティックな人間関係の宣言者をハーレクのなかにまさしく見出だしたのである。そこから急速な、広範な『夜の歌』の大衆性が生み出されたのだが、それにはさらにハーレクの詩の旋律性も大いに与かって力があった。
ハーレクの第二の抒情詩集は三部からなる連作『自然のなかで』 V pYírod (1874) であるが、生れ故郷ムニェルニツコの体験と印象、また一方ではズブラスラフ近辺の風景にもインスピレーションを得ている。ハーレクの意味する自然とは人間にとっても、また全社会にとっても理想とすべき手本であり、実例である。自然と調和しないものは減ぷべく運命づけちれている。ハーレクにとって自然はすべての詩の源泉である。それどころか自然そのものが最も美しい詩であり、詩人はその歌手なのである。ハーレクは「詩を奏でるヒバリとしての役割、つまり「適切なとき」に適切な歌をもって生命の美を賛美することしか知らない歌手としての自分の役割に忠実に従ったのである。

わたしは、まきに、そのバラ
わたしは、まさに、初夏のヒバリ
わたしの葉は、徐々に、落ち
わたしの歌は、秋へ、飛び立つ。


しかし、夜うぐいすが、白分の時をもつようにそして、パラが、香りに満ちて、成長するようにわたしの心も、自分の時に、音を発し心にあるものを、音に託す。

適切な時に、メロディーを口ずさむだけで
わたしには、こと足りる、
そのメロディーに、こころ浮き立ち
なんの悲しみもなく、やすらぎを得る。


やがて、わたしの墓場の芝生のうえで
風が舞うなら、舞わせておこう、
わたしの時、わたしのバラの花のときに
わたしは、たしかに、夜うぐいすだったのだ。


 この詩集の幾つかの詩から、そのころハーレクや彼の仲間たちが、わが国の当時の民族の生活の向上と環境浄化を目指して進めていた理念的闘争の痕跡さえも読み取ることができる。ここにはハーレクの民主主義的理想や人聞の自由と平等への願望が宣言されている。(この目的にたいしてさえ、このお手本を自然のなかに見出だしている)。ここから世の権力者たち、とくに貴族階級や教会ヒエラルキーの高い階層にたいする反発さえも引き出されている。
この詩集『自然のなかで』は疑いなくハーレクの抒情詩作品の最高の傑作であるぱかりでなく、この詩人の文学遺産のなかでも不変の評価をたもつ作品でもあり、十九世紀全体のチェコ抒情詩の礎石の一つでもある。
六〇年から七〇年にかけてハーレクの叙事詩的作品も書き続けられ、さらに発展した。上記のような生気のない大期模な作品とともに、ハーレクはこの時期に小さな叙事詩を書いている。とくにバラードやロマンスであるが、そのなかで彼はだんだんと初期の影響や文学的手本 (たとえぱ、エルベン、マーハ、ハイネなど) から解放され、より一層独日の芸術的表現に達している。それは彼が小さな物語作品のヒントや素材を、彼が常日頃から熟知している田舎の現実生活のなかに求めたことの好結果である。この田舎の生活こそ、個性的な大小の人物たちの、それも、真面目あり、ふざけありといったぐあいの選りすぐりを提供してくれたのである (愚かなヤノウシェク、タムボル、カリナ伍長)。その他には――例外的にではあるが――歴史的題材にも手を伸ぱしているが、それは民族の誇りと戦いへの決意への実例を示すためであった (『イジー王と教皇使節ファンティン』 Král JiYí a legát Fantin)。ハーレクのバラードとロマンスは雑誌に掲載されたが、彼の生前には単独の詩集としては出版されなかった。ただ、一八五四年から一八六一年にかけて発表されたものだけが、一八六二年にプラハのJ・L・コベル出版社から出版された『ハーレク著作集』の第一巻のなかに収められた。
没後間もなくして出版されたハーレクの最後の詩の本『わが村の童謡』 Pohádky z naaí vesnice (一八七四) はバラードとロマンスの線に連なるものである。この詩集は彼の叙事詩の発躍において新しい段階、いわぱ、田園生活の現案をリアリスティックに描写するという方向を示すものである。
ハーレクはここで一八四八年以前の時期のチェコの田舎の色彩豊かな情景を描き出し、その間題の多面性を示し、田園の性格的特徴とそのタイプの多様牲をとらえている。田園の現実に向けられたハーレクの視線は田園ののどかな生活の裏面を暴き出すとき、とくに鋭さをまし、その研ぎすまされた視線はしぱしぱ杜会的間題性とらえた。(『競売』 Dr~ba、『石切り場にて』 V lomech、『ホディェラ』Chodra、『イーラ』 Jíra)。しかし、その他の何編かの詩も――たとえ、それが反聖職者的な『墓堀人ペトル』 Petr hrobaY、『神聖冒涜者』 Rouha であろうと、軍隊を題材にしたもの(『募兵』 Rekruti、『歩哨』 Na stá~i 『母』 Matka〉であろうと――詩人の若いころのチェコの田園生活を賞賛する証拠というよりは、むしろ批判的な証言といえるものである。これらの作品は童話的性格にはほど遠く、それだけ一層本のタイトル自体が深い、ともするとアイロニカルな意昧さえくわえてくるのである。そしてこれらの詩において、まさにハーレクはわが国の当時の詩のなかではチェコの農村の最も真実な、そして文学的に最も説得力のある情景を呈示したのである。
 ハーレクが詩人として彼の生きていた時代にかくも大きなポピュラリティーを得たということは、彼の詩的表現の性格にもその理由があった。彼の抒情詩、そしてまた、しばしば叙事詩的小品にしろ、それらの歌謡的、小歌的音調は大部分規則的なリズムと、詩行の滑らかなイントネーションの線はハーレクの詩を覚えやすくするのを助け、それによって一層、その時代の民族社会の広い層に急速に浸透することにもなった。
 ハーレクの作品のなかで詩作品が中心的意義を有するとはいえ、その大部分がノヴェラ(novela、中繍)やポヴィートカ (povídka、短編)である散文作品も彼の作品の重要な一部をなすことに変わりはない。これらの作品にたいする構想や素材をハーレクは最初、同時代のプラハの生活のなかに見いだした。最初の散文作品(例えぱ、『スヒー氏は世間にたいしてどのように怒ったか』 Kterak se pan Suchý hn na svt、『若い未亡人と老青年』 Mladá vdova a starý mládenec、 『初恋』 První láska)は小市民的『愛国心』、スノビズム、文化的偏狭さの風刺的画像を描き出している。同時に新しい若い世代の性格的特徴を描き取る努力もしている。この方向を目指したものとしては、とくに彼の唯一の長編小説の試みである『コメディアン』 Komediant (一八六一)がある。このなかでハーレクはゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』に範を得て、また自分自身の体験にも従って、その主人公ヤロミール・スシル Jaromír SuaiI にたいして、その個人的成長と芸術的成熟に寄与するところの経験や葛藤によって主人公の人生の軌遺を進めている。
 しかしながら、ハーレクの散文の才能はプラハを主題にした作品よりも、生れ故郷ムニェルニツコやプラハの周辺の田舎を題材にした短編作品においてはるかによく発揮されている。初期の最も成熟した作品『音楽家リドゥシュカ』 Muzikantská Liduaka (一八六一) のあと、ハーレクは十九世紀半ば――すなわち、わが国の農村がかっての家父長制的生活様式から資本主義的社会制度へと完全に移行しようとしていた時期――のチェコの農村生活の最もすぐれた文学的表現者として、60年代から70年代にかけて急速な成長を見せていた。
 彼の最もすぐれた小説――たとえば、『うちのおじいさん』 Náa Dde ek (一八六三)、『農場と田舎の家で』 Na statku a v chaloupce (1871 )、『条件つきで』 Na vejminku (一八七三)、『荒涼たる山のふもとに』Pod Pustým kopcem (一八七四)、『学生クヴォフ』 Student Kvoch (一八七四) など1――において、ハーレクはこの社会的変化が個人の性格のなかにいかに現れてくるか、またその性格をどのように形づくり、どのように損なうか、そして善きにつけ悪しきにつけ彼らの人間牲の形成と発展にどのような作用を及ぼすかを示してくれた。
 彼は物質欲があらゆる人間関係にもまして高まる農民たちのタイプを鋭く批判的に描き出した。その反対に最も素朴な人たちの道徳的高潔さと献身とを強調する。彼の小説のなかで不正と罪悪にたいして勝利するのは、いつもこれらの素朴な人たちである。同様のことは、プラハ近郊ポツカリーの物語『廃材運搬人ポルディーク』 Poldí rumaY (一八七三) についても言えるが、この作者の性格描写の最もすぐれた例である。


 ハーレクの劇作品はほんのかりそめの意義をもつにすぎない。それらの作品は作者の存命中にほんの短い生命を舞台の上に生きたにすぎない。ハーレクはシェークスピアないしはシラーを手本とするチェコの劇作品を復活させようと望んだ。彼が大抒情的叙事詩において試みたのと同じように、戯曲においても「時間を越えて」評価に耐えうる詩、そして「普逓的人間」性をもった人間を創造しようと努めたのである。ハーレクの戯曲の弱点はオリジナルでないこと (特にシェークスビアに依存している)、内面的演劇性の不足と、行為も人物もあいまいであるということにある、これらのなかで相対的に最も重要なものはチェコの中世を題材とした悲劇『ザーヴィシュ・ス・ファルケンシュテイナ』 Závia z Falkenatejna (一八六〇)である。この作品は同時代者には大きな成功を収めた。一八六二年にはセルビアの歴史から題材を取ったハーレクの作品『ヴカシーン王』 Král Vukaaín 「暫時」劇場町のこけら落とし公演として上演された。
 ハーレクのジャーナリスト活動も重要である。「民族新聞」の編集者として彼は何百本の政治、文学、演劇、旅行記、自然観察、その他の論説 (fejeton) を書いた。そしてネルダとともに六〇年代、七〇年代のわが国の進歩的ジャーナリストの先頭に立った。文学また演劇の批評家としては、彼自身のかつての「全人類」の芸術の必要性という見解といちはやく訣別し、わが固の文学と演劇を現実のリアリスティックな描出と、同時代の杜会的間題にたいする受け入れの姿勢へと導いた。世界の作家のなかでは、わが国の読者の注意をゴーゴリとツルゲーネフに向かわせた。それらの作品のなかに彼は近代的リアリズム芸術の模範を見出だしたのである。


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