(4) マーイ派詩人たちのその他の作品



 その当時、最も人気のあった詩人の一人にアドルフ・ヘイドゥク Adolf Heyduk (一八三五―一九二三)がいる。出身地はリフムブルク(今日のポドフラディー)・ウ・スクッツェ・ナ・フルディムスクであるが、人生の主要な時期をビーセクで、実業学校のデッサンの教授としてすごした。彼はまたネルダの最も近しい友人としてアルマナック・マーイ・一八五八年版に参画している。そのご間もなく最初の詩集『詩集』 Básn (一八五八)によってデビューした。なかでも『ジプシーの旋律』 Cigánské melodie の章は特別の注目をあびた。それはヘイドゥクの最初のスロバキア旅行と当地の人々を知ることによってインスピレーションを受けたものだった。詩人の民主主義的姿勢によって加味されたこの詩集の理念的進歩性と、それらの詩句の歌謡性がその時代の幅広い反響を読者のなかに呼ぴ起こし、何種類かの作曲さえされるにいたった。(K・ベンドル、A・ドヴォジャーク)。
 こうしてヘイドゥクは五〇年代のおわりからネルダ世代の最も代表的な抒情詩人の列に加わることになり、創作力はひたすら高まっていった(彼は生存中に六〇冊の詩集を出版した)。しかし当時「オタワ川流域の夜鶯」と呼ぱれていた彼の作品も、今日の評価に耐えるものとしてはほんのわずかしか残っていない。その評価に耐えるものは何よりもまず叙事的抒情詩集『ツィンバロンとバイオリン』Cimbál a husle (一八七六)であるが、思想的にも形式的にも『ジプシーの旋律』につらなるものである。
この作品はスロバキアとその人々と、その言葉にたいするヘイドゥクの愛の効果的な詩的表現であり、ハンガリー化政策、社会的文化的抑圧に抵抗するスロバキア人の戦いにたいする連帯の証言である。そして抑圧は、その当時、頂点にたっしていたのだった。民衆詩にたいするヘイドゥクの密接な関係を思わせる詩の歌謡的形式、単純な言語表現にもスロバキア的特徴によって豊かにされた簡潔な言語表現、そしてもちろん、とくにこれらの詩に満たされている兄弟的友好の精神――これらのすべてがヘイドゥクの詩集をスロバキアが熱烈に迎え入れることを保証している。
 その実例として表題の詩『ツィンバロンとバイオリン』を紹介しよう。

ああ、あのツィンバロンと、バイオリンと
なんと、魅惑的なる響きよ!
あの音色を聞くものは、まさに
あこがれの気持ち、つのらさる。
その楽の音に、心臓は、かぱの木の
木の葉のように、うち震え
悲しみの吐息、すでに
喉もとを、通らず。


ああ、あのツィンバロンと、バイオリンと
それらが、永遠の魔力を織りなし、
感情には天空と
思い出には墳墓を、うち開く
胸のうちには、星の降るごとくに
それらのものの、怪異なる音のする
殺人者たちにむかって、ドスを構えたものが
彼の手から、落ちる!


ああ、あのツィンバロンとバイオリンと
それらの音の、こだまして鳴響くとき
突然、心臓と頭をつかみ
カルパチアの山に連れていく。
しかし、そこでは、哀れなあばらやから、またもや
絶望的な叫ぴがする。
一度、手から落ちたドスを
ふたたび、私は手に、にぎりしめる!


 ヘイドゥクのその他の多くの詩作品のなかで、最も価値あるのは私的抒情詩である。それはとくに家族的な感情関係によって触発されている。これらの詩のなかには詩人の生涯における幸福な瞬闘、悲劇的な瞬聞、また愛の陶酔、二人の娘を失った悲哀といったものが反映している。詩集『隠れ家で』 V zátiaí (一八八三)、『歌』Písn (一八八四)と『木の葉におおわれて』 Zaváté listy (一八八六)について、とくにそのことが言える。――ヘイドゥクのインスピレーションの重要な源泉は「自然」だった。とりわけヴルタヴァ川沿いの地域とシュマヴァの山麓であり、そのことを一連の自然抒情詩集が証明している。
 そのなかで最も重要な意味をもっているのが『森の花』 Lesní kvítí (一八七三)、『リンドウとケマンソウ』 HoYec a srde ník (一八八四)、『さすらいのなかで』 Na potulkách (一八九四)、『鳥のモティーフ』 Ptací motivy (1897) と『畑のなか』V polích (一九〇〇)である。
 詩集『新ジプシーの歌』 Nové cigánské melodie (一八九七)と『放浪歌手の日記より』 Z deník toulavého zpváka (一九〇四)において同時代の生活の社会的側面についての関心の高まりを見せている。――抒情的叙事詩『おじいさんの遺産』 Ddov odkaz (一八七九)は寓話的物語で、純愛を賞賛しており、ヴィーチェスラフ・ノヴァーク Vítslav Novák によって曲がつけられている。
 わが国の過去の文学遺産、とくにマーイ派の時代を認識するために価値があり重要なものはヘイドゥクの『文学的回想』 Vzpomínky literární (一九一一)である。
 ヘイドゥクの作品は極めて長い期間にわたって受け入れられている――詩集は今世紀の二〇年代にまだ出版されていた。したがってヘイドゥクは彼の世代がチェコ文学の発展のリズムを刻み続けていた時代を、同世代のもののなかで一番長く生きのびたことになる。
 マーイ派にはあまりにも早い死のために、その才能を十分発麗させることのできなかった詩人もいる。その一人がルドルフ・マイエル Rudolf Mayer (一八七三−一八六五)である。彼は宿屋の息子としてクラトフスコで生まれた。クラトヴァでギムナジウムを卒業し、ウイーンとプラハで法律を勉強した。一八六四年には博士号を得る。短期間、弁護土補を勤めたが、五〇年代の終わりからハーレク、ネルダの世代とともに積極的な民族的社会運動に参加した。彼の並はずれた才能にもとづく希望は結核によるあまりにも早い死によって空しくされた。
 マイエルはマーハに近いロマンチック詩人のタイプとして「アルマナック・マーイ・一八五八」で『永遠』 Vcnost、『夜のソネット』 Znlky nocní 『嵐のなかの歌』 Písn v bouYi などの詩の作者として紹介された。彼は次の創造的発展において内面的抒情詩の作者として(連作詩『不幸な女友だち』 NeYt'astné pYítelkyn)、また一方では理念的、社会的な広い視野からの詩人として最も個牲的な自己表現をした。次年度の「マーイ」やいろいろな雑誌(「ルミール」、「生活の絵」、その他)に発我された抒情的叙事詩と叙事詩において、時代の、特に民族的、社会的間題とのマイエルの密接な関係がより一層明確にされている。マーイ派と同じく、マイエルも民族社会の発展における民衆層の決定的役割を確信し、文学に社会批判的機能をつけ加えた。彼のあまり長くない詩作品の芸術的最高峰は『お昼に』 V poledne (一八六二)という作品である。この作品はわが国の詩において社会的バラードのタイプを先取りし、同時代の資本主義的社会の根ぶかい階級対立についての作者の意識を表現している。詩の核となっているのは工場労働者であるボイラーマンのモノローグであり、自分の不平等な地位を完全に自覚している。

うえのほうにいるあんたは、わたしの主人、あんたは裕福――わたしはみじめな悪魔、だれからも尊敬されず、はとんど知る人もない、あんたの地位と名誉は、みんなの認めるところ――わたしは、ののしりの言葉しか聞いたことがない、あんたの人生は、あらゆるきらびやかなもので飾られている――なのに、わたしの人生――それは、日々、新たなる貧困!


 今すぐにも復警する可能性は手の届くところにあるのだが、マイエルの主人公はその機会をわざと使用しない。それは主人にたいする同情からではない。むしろ個人的な報復は効果がないことを知っているかちである。

存分に飲食いするがいい――あんたは金持ち、あんたは主人!
わたしはここで頑張ってるが――実は、まったく、素寒貧!
でも、あんたはご存じですかい、わたしの片手のひと振りで
あんたは、わたしの法と権力のなかに落とされることを――
そして、あんたの美しい宮殿も打ち壊されるということを――
たとえ、今、貧民階層はあんたらの搾取にあってるが、
あんたらがどんなに苛酷か、みんなが気がつかないとでも思ってるのですかい?


[……]

おーい! ボイラーのなかの嵐は、なんとすごいぞ――渦まいているぞ
だが、もう、ひと息だ、
すると、おなじ破壊が、われらの心を落ちつかせる――
わたしの贖罪――だが、あんたのおかげ ――
だが、生きていろ! この世に暴君が一人いなくなったところで
すべてのものの贖罪になど、なりはしない!――
バルブを開き――静かに座る――
その蒸気の音を聞けば、御主人は顔青ざめるにちがいない?!


 ルドルフ・マイェルの詩は作者の死後、ヨゼフ・ドゥルディーク Josef Durdíkの手により一八七三年に初めて本になった。これまで手稿のまま残きれていたもののうち未出版のものをふくむマイエルの文学遺産の完全版は一九五〇年にフランティシェク・プリアーネク Frantiaek Buriánek によってまとめられた。

ジャーナリストで「マーイ」の初年度版の名目上の編集者ヨゼフ・バラーク Josef Barák (一八三三−一八八三)もハーレクとネルダの世代の重要人物である。五〇年代と六〇年代に散文と詩を発表していた(たとえぱ、散文作品として一八五八年度版「マーイ」に短篇『ペッチーンの丘の下の十字架』 KYí~ pod PetYínem がある)。パラークとネルダの後期の作品との類似性が文学史家オルジフ・クラーリーク OldYich Králík に当時、ヤン・ネルダがパラークの名で書いていたのだという誤った見解を発表させるにいったった。(O.Králík; 『ネルダの詩の十字路』 KYi~ovatky Nerudovy poezie, 1965 参照)
バラークの重要性は主として、彼のジャーナリストとしての活動と公的には政治活動である。この領域で彼はチェコ市民層の自由主義的進歩思想を代表していた。彼はなかでも「時」「声」「民族新聞」の編集にも参加していた(「国民新聞」では一八七四年からは主幹として活躍した)。絶対主義の終焉から彼の死にいたるまでのチェコの公的生活のなかでは最もアクティーヴな組織に属していた。こうして彼は、たとえぱ、一八六八年にはコストニツェ(コンスタンツ・ヤン・フスが宗教裁判にかけられ、生命の保証をされていたにもかかわらず焚刑の判決を受け殺された場所)への民族的巡礼を企画し、六〇年代には民族キャンプを組織し、政府や教会に反対を唱える雄弁家として登場し、また一連のその他のプロテスト行動に参画した。そのために彼はしぱしぱ警察に追跡された。一八六七年には聖職権に反対する雑誌「自由」Svoboda を発行し、一八七二年からは「労働者新聞」 Dlnické listy の編集にも携わり、そこで労働者の抱える社会間題を青年チェコ党の観点から解決しようと努力した。(「労働者新聞」の編集は後にJ・B・ペツカが引きつぐ)――没後、V・ジェズニーチェクの配慮で『J・バラークの思い出』 Vzpomínky J.Baráka; 1905) が出版された。
 チェコの最初の労働者詩人フランティシェク・フラーデク Frantiaek Chládek (一八二九−一八六一)の作品もまたマーイ派の時期に一致する。彼はラコヴニツコ Rakovnicko の貧しい織工の家庭の息子として生まれ、彼自身もはじめは織物を習ったが、後には毛刈り職人になった。一八五九年と一八六〇年にアルフレッド・ワルダがフラーデクの詩からの抜粋を「生活の絵」誌に掲載し、また彼はその何編かをドイツ語に翻訳した。フラーデクの最初の詩集本は一八八四年にオタカル・モクリー Otakar Mokrý の手によって編集された。 ――フラーデクの詩のなかにはわが国の抒情詩と四〇年代の政治詩 (とくにハヴリーチェク)の影響が顕著であるが、そのなかには社会批判的な彼固有の響きにも満ちており、そのことがフラーデクを理念的観点からすれぱ、わが国の急進的民主主義者の近くに位置づけている。
マーイ派の若い世代には詩人のヴァーツラフ・シコルツ Václav `olc (一八三八−一八七一)がいる。彼は芸術的傾向としてはハーレク、ネルダのグループの作家にもルフ派にも近い。ソボトカ Sobotka 生れのシォルツはプラハで哲学を学び、六〇年代には旅回りの役者として田舎ですごしたが、その両者の間を行ったり来たりしながら生活した。彼は唯一の詩集『桜草』 Prvosenky (一八六八) を出版したが、そのなかには愛国詩、恋愛詩 (チクルス『真珠の首飾り』 Z perlové aHorky)や社会詩 (叙事詩『お祖父さんのしわ』 Ddovy vrásky、バラード『路地の子供』 Dít z ulice、あるいはショルツのもっとも有名な作品、労働歌『まめだらけの手の歌』 PíseH o ruce mozolné) が含まれている。抒情詩人としてのショルツはマーハ的なロマン主義詩詩に連なっているが、叙事詩においてはリアリスティックな物語詩の創造を意図していた。彼の作品のなかに、時代的矛盾の増大を徐々に明確に意識してきていることの確証を見出だすのである。それは主に社会詩の領域にあらわれている。彼は民族間題も非常套的に、深く掘り下げて理解した。民族の自由のための戦いという思想も、彼はそれを孤立したものとして、きわめて国家主義的に理解するので はなく、抑圧された全スラヴ民族の人間解放の戦いへの団結の努力という意味に理解した。










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