(5) カロリーナ・スヴィエットラー Karolína Svtlá



svetla

 カロリーナ・スヴィェットラー (一八三〇−一八九九) はマーイ派の代表者の先頭に立つ人であるばかりでなく、同時にわが国のリアリスティックな散文、とくに田園を主題にした作品の先駆者の一人である。結婚前の名はヨハンナ・ロットヴァー Johanna Rottová である。
彼女は裕福な商人の家庭に生まれた。父は純粋なチェコ人だったが、母はチェコとドイツの混血だった。スヴィエットラーも彼女の妹のソフィエ (後のポドリプスカー) も極めてドイツ流の教育を受けた。一八四八年になって彼女ははじめて民族的に目覚めた。それは、とりわけペトル・ムジャーク Petr Mu~ák のおかげであり、やがて彼と結婚することになる (一八五二)。たった一人の子供の死後スヴィエットラーは紳経を病み、夫の実家のあるエシュチェツコ Jeatdsko で養生する。彼女のペンネームはその村の名 (スヴィエットラー・ポド・エシュチェデム) から取られている。文学界には、妹のソフィエとともに一八五二年のアルマナック「マーイ」によって登場する、その後の彼女の作品は七〇)年代に絶頂期を迎えるが、それらの作品は決定的に、エシュチェツコに触発されている。
文学活動とともにスヴィエットラーはかなりのエネルギーをわが国の女性解放運動に費やした。彼女は民族意識の強化ぱかりでなく、とくに雇用された娘や婦人の社会的地位の向止に努める。この目的のために産業婦人協会 }enský výrovní spolek が貢献したが、この協会はスヴィエットラーのすすめで一八七一年に設立されたものである。
 彼女の個人的生涯において大きな意義をもつのは、数年間つずいたあと断絶するボジェナ・ニェムツォヴァーとの友惰と、短いが、深い、ヤン・ネルダとの感情的関係である。スヴィェットラーは創作の初期の段階ではヨーロッパのロマン主義文学、とくにルソーの作品の影響をかなり強く受け、これらの作品からこの若き女流作家は、なによりも自然の浄化作用と社会的道徳原理が個人の利益に優先するという確信を得たのである。後のスヴィエットラーのすぐれた作品は、とくにポド・エシュチェツコでの生活の実体験に基づいて産み出されたものである。しかし、それらの作品のなかでも、なおかなりのヨーロッパの影響、とくにフランス・ロマン主義的作品、とりわけ文学的にも思想的にもスヴィエットラーに近かったジョルジュ・サンドのロマンの影響が明瞭に見てとれる。
 スヴィエットラーの作品のなかで中心的意義を有するのは何編かのエシュチェツコ・ロマンである。それらのなかでは、おおむね愛憎と道徳的義務そして責任感とのあいだの内的葛藤を体験する若い女性人物が中心にすえられている。この葛藤は原則として個人的感惰を否定して、公共の利益の勝利によって終わる。
『村のロマン』 Vesnický roman (一八七六)では、結末は反社会的抵抗にアクセントが置かれている。愛してもいない女との緒婚にしばられているアントシュ・イーロヴェッツと村娘シルヴァとの愛は結局、因習的偏見というような、実は、それはど高度な社会的利害や道徳的規範ではないものによって破られるのである。当時のチェコ社会の偽善的道徳観念にたいする作者の厳しい批判的立場は、この作品で、彼女がヤン・ネルダとのあいだにある感情関係をもった時代の個人的体験によって強調されていることは明らかである。
 スヴィエットラーの最高の、そして文学的にも今日まで生命を保っているロマン『小川のほとりの十字架』 KYí~ u potoka (一八六八)では、若い妻エヴァ・ポトツカーはもはや偏見にたいしてではなく、夫の道徳的再生と救済のために自分の愛を犠牲にするのである。
一層明瞭に描かれてはいるが、文学的にはやや劣るこの主題の変奏は、短編小説『女教師』 Kantor ice (一八六九) のなかにも認めることができる。
長編小説『フランティナ』 Frantina (一八七〇) はその地方の伝説をもとに、持前のエネルギッシュなことと思慮深さによって村長に選ぱれる女のことを描いている。彼女は許婚者が盗賊の首領であることを知り、自分でその男に正義の制裁を加える。この物語自体の本当らしさや、文学的説得性といったものは、いずれにしても十分に消化しきれていない文学的影響 (ルソー、サンド、ラムネー) や、とくに主要人物をとおして哲学や、社会批判の意見を述べさせようとする努力によって、かえって損なわれており、それが作品の文脈のなかで異質な、嘘っぼい印象を与えることにもなっている。
同様の不完全さが、スヴィェットラーのエシュチェルスコ・ロマンのなかで最も成功しなかった最後の作品『不信心者』 Nemodlenec (一八七三) にも現われている。
スヴィエットラーはこれらの最後の数編のロマンよりも、何編かのエシュチェツコを題材とした短編作品やスケッチ風作品のほうがかえって成功しているといえる。そのなかの最良の作品は『エシュチェヂー・スケッチ』 Kresby z Jeatdí (1880) のなかに収められており、短篇『キス』 Hubi ka もこのなかに見ることができる。この作品はエリシュカ・クラスノホルスカー Eliaka Krásnohorská によってベジフ・スメタナの有名なオペラの台本の素材として用いられた。
 このような小品において、この女流作家は田園の現実のリアリスティックな描写に最も近づいた。そのことは、長編ロマンにおいて圧倒的だった文語調から解放され、よく聞きなれた民衆の言葉によるリアルな真実味のある田園の人物の個性を描き分けたことは、彼女の言語表現に反映している。
参考に短編『故バルボラ夫人』 Nebo~ka Barbora (『エシュチェヂー・スケッチ』より) の一部を紹介しよう。

 マッティーセクとバルカが一緒になりたがっている! という話はみんなの笑いを誘った。彼女はまるで天井にまで届きそうなくらいだったし、彼ときたら、これがまたテープルについたときなど、やっと頭が見えるか見えないくらいだったからである。彼女はまた日がな一日笑顔を絶やさなかったが、彼のほうはいつも渋い顔をしていた。
 ある時、思いもかけず彼女が十人ぱかりのプロシャ人のなかに引き込まれそうになったとき、彼はあわてて目をそらした。そして、もしかして誰かが自分を見ているのではないかと思って、顔を真っ赤にした。
 バルカはいつも何にでも満足していた。彼女にとっては何が起ころうと、なるようになるだけなのだ。たとえそれが最悪なことだったにしても、結局「ま、仕方がない!」でおわりである。そしてもうそんなことは水のなかに放り込んだみたいに忘れてしまう。
 反対にマティーセクはもういろんなことを、いつまでもいつまでもくよくよと心にとめていた。たとえ、それがほんのちょっとしたことだったにしても、「こんなひどいことってあってたまるかい!」と嘆くのである。
[……]
  踊りに行くときでも、娘たちのだれ一人としてマティー一セクと行きたいと言う娘はいなかった。娘たちときたら口さがない。彼は背が高くないし、見場もわるい。いつもしかめっ面をしている。その上、着るものといったら、死んだ親父さんのお古の短上衣(カザイカ)しかもっていない。その下からいつもチョッキがはみ出している。そのチョッキには拳くらいのボタンがついているとか、そりゃあもう彼の風采についての娘たちのあら探しといったら切りがない。そんなら勝羊にあら探しでもしてるといい。彼にしたって娘たちに気があるわけじゃないし、そんな娘たちがいなくったって彼はたっぷり踊ってます。
 バルカはマティーセクのためにいつも一人で踊りに来ていた。彼女が彼の両手を取ると、まるでお母さんが、上手にあんよができるだろうかと、一歳のわが子の手を取っているように見える。そして彼の息の続くかぎりバルカは彼と踊った。たとえ一晩中彼以外の相手と踊れなくても、彼女は彼だけで満足だった。
[……]
「いったい、なんであんな、ぶきっちょうな野郎とぱかり踊るんだい? おまえはステップがうまいし、おれたちだっておまえと踊りたいよ」
 若者たちはバルカに呼びかけるのだが、彼女のしかめっ面をさそうだけ。それが彼らへのご返事だ、だって本心からでないことはわかっている。それに、そのなかの誰かさんが彼女を踊りにさそったとしても、自分の愛人に恥をかかせ、怒らせることになる。そんな犠牲を払ってまで、誰がバルカをさそうものか。
 それにしてもバルカは、いつもかなり手ひどい返事をしたものだ。
「あんたたちは好きな人と踊れぱいいのよ、あたしはマティーセクを離さない。それにあの人を馬鹿にするのも許さないわ。そりゃ、誰かさんに寄ってたかってちやほやしてもいいわよ。やせこけ女と踊ろうが、ふとっちょ女と踊ろうがかまわない。でも、たかが美しいからといって、天井に頭をぷっつけたり、手で岩を砕いたりすることはないわ」
 こうしてバルカはマティーセクとまたも踊りの輪にくわわった。すると、ニ人の前から頑として動こうとしない者がいた。彼女はその男の腕を掴むと、輸の外に放り出した。その男にはまったくのところ、自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのかわけがわからないくらい、アッという間の早技だった。このみごとなお手並みにマティーセクはすっかりバルカが気に入って、今度は誰をつまみ出そうかと、息が詰まりそうなくらいクスクス笑いながら、小声でささやいた。やがて一緒に家へ帰る道すがら、エルサレムの町を全部くれると言われたって、他の女とはいやだとか、たとえ花嫁たちがプラハから何人迎えに来るようにと言って寄越そうが、おれはおまえさんのところにとどまるよと語るのだった。


 エシュチェツコを題材にした散文作品のほかにスヴィエットラーはプラハを主題にした長編小説<ロマン> あるいは短編小説を書いた。そのなかで今日まで興味をつないでいるのは『プラック・ジャック』  erný PetYí ek (一八七一) であるが、それは作者の若いころのプラハの雰囲気の巧みな描写と、個々の人間タイプのデッサンの的確さのおかげである。
その反対にプラハの近過去、大過去を題材とした内容的にも比較的規模の大きい作品はスヴィェットラーの文学遺産のなかで、もっとも生気を欠いた部分となっている (たとえぱ『最初のチェコ女』První  eaka, 1861、『夜明けに』 Na úsvit, 1864、『最後のフロホフスカー夫人』 Poslední Paní Hlohovská, 1870、『鈴の女王』 Zvone ková královna, 1872)。
スヴィエットラーは創作の末期になると、意図して芸術的プランを全社会的目的に従わせ、民族的権利と社会的正義を求める戦いの先頭に立って文学活動をおこなった。スヴィエットラーは自分の生涯と文学的体験について二冊の本を書いたが、それらはわが国の十九世紀回想文学の最高の価値をもつ作品となった。それは『回想』 Upomínky (一八七四) であり、十九世紀三〇、四〇年代の典型的なプラハの市民家庭の生活の物語である。そして『文学的私生活から』Z literárního soukromí (一八八〇)はマーイ派世代の登場過程を述べている。







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最終更新日:02年11月25日