(6)アンタル・スタシェク Antal Staaek





アンタル・スタシェク

 マーイ派の活動領域のなかで、さらに二人の作家が育ったが、その主要作品はリアリズム文学の発展と関連して、主に次の時代になってあらわれる。つまり、マーイ派の散文と次の世代との橋渡しをするのである。その二人とはアンタル・スタシェクとヤクプ・アルベスである。 アンタル・スタシェク(一八四三−一九三一)、本名アントニーン・ゼマン Antonín Zeman はスタノヴァ・ウ・ヴィソケーホ・ナド・イゼロウ Stanova u Vysokého nad Jizerou の古くからの農家に生まれた。その家庭には村の「聖書代読者」 písmák の伝統を受け継いでいた。すでに学生のころから一八四八年の革命運動の理想に感化されてスラヴ世界に傾倒していた。ポーランドのクラコフでギムナジウムと法律の勉強を終え、七〇年代の中頃をロシアで家庭教師としてすごし、その後もロシアヘもどっている。
 ポーランド的媒介物とロシア的媒介物との接近がスタシェクの創造の発展に持続的影響を与えた。ポーランドのロマン主義詩人 (たとえば、スウォワツキ Slowacki) やロシアのリアリスト (とくにツルゲーネフ) は最も強い影響をスタシェクに与えた。一八七八年から一九一三年までのあいだ、セミリで弁護士として働き、そこで北チェコ国境地帯の民族的、社会的間題に触れ、また法律家としてドイツ (後にはチェコ) の工場経営者にたいしてチェコ労働者の利害を守った。
 これらの体験がスタシェクの文学、とくに散文文学の基本的原動力となった。一九一三年から息子のイヴァン・オルプラフト Ivan Olbracht や女流作家のヘレナ・マリージョヴァーとともにプラハ郊外のクルチュに住んだ。彼は死ぬまでチェコ作家の最も進歩的な層に属し社会的正義のためのチェコの労働者の闘争をあ支援し、社会主義十月大革命の理念に傾倒した。
スタシェクの文学軌道の比較的長い初期段階はほとんどすべて詩作品で満たされている。「花」の一八六六年版に掲載された最初の詩は生れ故郷のクルコノシュ山麓地方の民衆の生活環境から受けた感動に刺激されたものであった。スタシェクの次の詩作品はバイロンやポーランドのロマン主義詩人の作品を読んだことに影響されているが、一八四八年の自由思想の理念をかなり大胆に表現している (たとえば『ヴァーツラフ』Václav 一八七二、『詩集T』 BásnT、『詩集U』 BásnU 一八八〇)。叙事詩作品『ターボルの時代から』 Z dovy táboru (一八八四) のなかでスタシェクは一八六〇年代におけるチェコの農村生活とその政治的生活のありようを呈示している。
 しかし、スタシェクの最も固有の文学表現となったのは散文であった。そのなかではじめて、この作者のクルコノシュ山麓の環境での生活体験と、彼の民衆的登場人物たち、資本家勢力の代表者たちの生活描写能力が十分に生かされているのである。その最初の徴候は短編小説『靴職人マトウシュ』avec Mtoua (一八七六)のなかに見ることができる。その後間もなく、スタシェクの最初の長編小説『未完の絵』 Nedokon ený obraz (一八七八) はこの作者の際立った散文的才能を一挙に証明した (ヤン・ネルダからも肯定的な批評によって受け人れらる)。性格的に相反する二人の男が田舎娘への愛をめぐって争うという悲劇的物語は、ロマン主義義的色彩をまだ色濃くただよわせている。とはいえ、田舎の生活や村人個々の描写の背後には将来の現実主義者の影がほの見えている。
ロマン主義から田舎の現実のリアリスティックで、批判的な観察へとむかうこの作家の発展過程の次の段階は二部からなる短編小説の連作(チクルス)『わが山村の迷信者たち』 Vlouznivci naaich hor (1895年、雑誌掲載は一八九二年)、個々の物語は人物たちがクルコノシー山麓地帯の共通の精神圏のなかに属しているということで緩やかに結ばれている。
スタシェクは民衆の神霊信仰 spiritisumus を本質的に社会現象と見る。つまり社会的希望のなさ、救いのなさからの逃避である。その例が『シモン氏』 Pan Simon のなかにある。この作品は、教養はあるが内面的には矛盾した農村の人間を描いている。彼は自分の考えに従って人生を創造していくことも、また自分の人生の拠り所となるものも発見できない。そんなわけでスタシェクの小説のこの消極的人物は遂に神霊主義のなかに心の安らぎを求めていくのである。
『シモン氏』とともに『わが山村の迷信者たち』のなかで一番長く、一番重要な作品は『山の二人の少女』 Horské dv dívky である。この物語はタイプの異なる対称的な二人の少女と、彼女らの異なった性格と運命とを描いている。この小説の最後も悲劇的結末を迎える。そしてこの作品にもロマン主義の影響がしみこんでいるが、同時に社会批判の調子も強めている。
 一九〇〇年にスタシェクは三部からなるロマン『暗い渦巻きのなかで』 V temných vírech を出版したが、この作品は彼が社会間題にたいして一層関心を増大させてきたことを示す次の発展段階の証拠ともなっている。ロマンの事件は十九世紀末のクルコノシュ山麓の村で起こる。その町にはドイツ系企業が進出してきて、いろいろと新たな、激しい社会矛盾を持ち込んでくる。
スタシェクはこの作品の基本構想にたいするヒントを一八七〇年に起こったスヴァーロフのリーピヒ工場におけるストライキの記憶から得ている。企業家リービヒ、後に男爵 (彼の父は昔、密輸業者だった) は十九世紀の半ぱからクルコノシュ山麓地帯を経済的に支配し、容赦ない搾取者であり、チェコ人民のゲルマン化政策推進者でもある。そして苛酷な状況をおしつけて工場にストライキを起こさせてしまう。だが残酷に鎮圧させる。
 スタシェクはこのロマン『暗い渦巻のなかで』において多くの不正手段を講じて地位を手に入れ、最後にはチェコ人労働者の搾取者になる工場主シュヴァルバッハ男爵の経歴を描いている。その工場主にたいしてチェコ人の技師ベンダが立ち上がり、労働者の権利を守ろうとする。彼は感情的には社会主義的意識をもっているが社会間題を解決する可能性については不明瞭な意見しかもっていない人物である。他の何人かの労働者たちと同様にペンダもまた多少なりとアナーキーな時代思潮におかされている。もちろん彼はそれによって一層社会的現実を見る目をぼかされている。彼は作者の批評の対象ではなかったとしても、このロマンのなかで労働運動の先頭に立つことのできないインテリゲンチャの証拠、ないしは実例として引き合いに出されているのは確かである。スタシェクは決して労働者層の代表者を理想化しているわけではない。しかし、ベンダの人物像においてなしえたよりもはるかに大きな成功と説得力をもって――独力で他からの援助なしに資本主義的搾取者階級が労働者たちを追い込んだ状況かちの解決策の発見に努めるごく普通の人々のリアルな人物像を描き出している。
スタシェクは多数の労働者の個々人の運命やアナーキーな活動、組織的ストライキなどの手段によって自由を獲得しようとする彼らの努力を描き、労働者の貧困と資本主義的な裕福さとの対照を浮き彫りにし、とくに効果的な手法によってチェコ人労働者にたいするオーストリア官憲の陰謀をえぐりだしている。例を少し挙げよう。

 町の長老会は非常招集をして緊急事態にたいしてどう対処すべきかを討論した。みなは心のなかで暴徒たちが商品をいっぱい並べた商店を襲い、邸宅を略奪する様子を思い浮ぺていた。強い酒に酔っぱらった暴徒は街路の隅々にまで満ちあふれ、豊かな市民の家々にむかって、無産者の歌をうたって気勢をあげるだろう。[……]しかし彼らはたがいに自分の不安を隠し、弱気を見せるのを恥じた。ただポルプ氏だけは言った。
「こっちには、まだ、軍隊が来ていなけれぱいいが」
 すると、他の連中は困惑したように書葉を続けた。「もちろん、来ていますよ」
 銃剣をもった憲兵たちが通りを歩きまわっていた。秘密行動隊の一隊は直ちに準備を完了した。彼ちは相互に見分けられるように、狩猟家がかぷるような羽根飾りを斜めに刺した縁色の帽子をかぷるか、または濃い青色の眼鏡をかけて四方に分散して組織的な行動を開始した。警察は組織をあげて警戒におこたりなく身がまえ、牙を研ぎ、網を広げて民衆に恐怖をひき起こそうとしていた。
 彼らは軟体動物のような腕を暗闇の陰からのぱして、そこらあたり一帯を覆っていた。そして部下たちを広場に、街に、酒場に、村に、なにか怪しげな動きがあると思われるところには、どんな隅っこにでも潜りこませた。この連中は目を引きつらせ、聞き耳を立て、一言半句たりとも聞きもちすまいとして、またどんな動きも見落とすまいとしていた。そして一定の場所にそれぞれがつかんだ情報を持ち寄り、こうして集められた切れぎれの、小さな惰報をつぎ合せ、張り合わせ、重ねあわせて、この近辺を騒がせている張本人の全体像を描き出そうとしていた、この絵はグロテスクな、奇妙な絵だったが、それでも絵にはちがいなかった。

 スタシェクの大きな構想をもったロマン(長編小説)は構成的に十分計算された有機的全体というよりは、個々の人間の運命やエビソードのモザイクといったほうが合っている。しかし、この作品にかんして言うならぱ、その長所は、作者がクルコノシュ山麓地帯の町に住んでいたころの個人的見聞や体験を作品に豊かに書き込んでいるということ、そして、この作品全体が作者の知見にもとづいた、この土地のプロレタリアートの社会的正義獲得の困難な戦いの文学的な証言となっているということでゐる。
だからスタシェクはアルベスの『捺染工たち』 `trajchpudlíci 以後、最も重童要な社会ロマンを創遺したのであり、また社会間題が二十世紀のわが国の散文文学に休系的に浸透するようになる、その端緒を開いたという意味でも大きな貢献をなしたのである。
スタシェクはその後の多くのロマンや短編作品の題材を北チェコの国境地帯から取っている心ロマン『境界線』 Na rozhraní (一八〇八)では国籍をめぐる抗争に焦点を当て、ロマン『幻覚』 PYelud (一九一八) ではチェコ少数民族の民族的かつ社会的権利をめぐる空想的社会主義者の抗争を描いている。短編『飢えと戦争が激しくなったら』(一九二四) と長編『過去の影』(一九二二年に雑誌に、本としては一九二四年に出版) は読者を第一次世堺大戦下のクルコノシュ山麓地方の生活環境のなかに引きこむ。そのなかに読者はロシアの革命運動にたいする理解から生れてくるスタシェクの進歩的な政治への志向の証拠を、この時期にすでに見出だすのである。
スタシェクは生れ故郷のスタノフについての思い出から、晩年の作品の一つである長編小説『靴職人とその友人たち』 O sevci a jeho p%átelích (一九二七年に雑誌に掲載、一九三二年に本として出版) が生まれた。現実の事件と実在する人々の運命にもとづくこの作品は、一八七六年の『靴職人マトウシュ』を根本的に改作して拡大したものである。長編化されたこの作品のなかでスタシェクは一八四七年から一八五一年にかけての時代のクルコノシュ山麓地帯のチェコ人たちの運命を描いているのである。
靴職人マトウシュ・シュチェパーネクは思慮ぶかいチェコの地方人の一タイプである。彼は興奮と失望をもって当時の社会的事件を体験する。そして、多くの同時代人との違いは、民族社会のより善い未来を求める努力を決して放棄しないことだった。一八四八年のあの残酷な体験でさえ彼を打ちのめしはしなかった。そのとき彼は戦うプラハを助けに駆けつけようとして、命を失いそうになる。個人生活での失望のあとでも、決して悲嘆に打ちひしがれてしまいはしない。
彼はさらに世俗と教会とを間わず支配権力にたいして、また、発展しつつある資本主義の抑圧のシステムにたいしても戦った。カレル・ハヴリーチェクの崇拝者であるこの愛国者は徐々にプロレタリア意識に目覚めていく。友人たちや革命家ヴォイチェフ・ぺハルに助けられて『共産党宣言』にも親しむようになり、警察に追われ、投獄され、最後には国外に逃亡する。
ロマン『靴職人マトウシュとその友人たち』はスタシェク作品のなかでも文学的に最も重要な作品であり、同時に作者の思想発展の最終段階を示す証拠でもある。ここでは作中の人物ぱかりでなく作者自身もコミュニズムにたいする公然たる告白にたっしている。したがってスタシェクはこの作品において単なる批判的リアリズムの境界を踏み越えて、わが国の社会主義的リアリズムの先駆者たちの間近にまで迫っているのである。
スタシェクは彼の思想発展の自らの証言をその著書『回想』 Vzpomínky (一九二五)のなかに残している。文学形式によって同時代の社会間題について発言しようとした最後の試みは長編小説『残響』Dozvukyである (一九三一年に雑誌に発表され、イヴァン・オルプラフトによって完結された。本としては一九六〇年に出版された)。






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