(7)ヤクプ・アルベス



 ヤクプーアルベス(1840-1914)は十九世紀最後の二十五年間のわが国散文文学の重要な代表者の一人である。彼のロフマン主義的創作技法が時代現実のリアリスティックな描写へと変化していく様をその作品のなかにたどることがでできる。アルベスはネルダの文学的弟子として文学キャリアの最初から (六〇年代の後半) 時代精神また時代社会の動きをとらえようとした。彼は人間の生活も社会の体活と同様に決して運命的な要因ではなく、理性の力が決定的な尺度となると確信していた。彼の合理主義は一方では自然科学および技術の専門研究から、また一方では彼の社会に接する姿勢から生まれてきたものである。アルベスの作品から究極的に響いてくるのは、わが国およびヨーロッパ資本主義の搾取の仕組みに対決し、広大な社会領域の主導権を引き渡すことなく、むしろ反対に彼らにたいして戦いを挑み、社会主義の登場のための土犠づくりをすることが必要であるとの主張である。
ヤクプ・アルベスの創作の手法や社会観はある程度まで幾つかの文学的刺激に影響されている。彼の比較的短い散文、いわゆる「ロマネット」には一方にはネルダの作品、他方にはE.A.ポーの作品の影響が見られるのは確かで、社会ロマンではゾラのいわゆる実験主義ロマンの影響がしみ込んでいる。しかしアルベスの芸術的、思想的発展にたいする本質的な意義は作者自身の運命、また経験にあるのであ。アルベスはスミーホフの靴職人の息子として生れる。幼年時代、少年時代の彼はプラハの労働者の大部分を集中した工場地区に含まれた田園的郊外地域が、いかに急激に変化したかの目撃者である。
プラハ往氏のプロレタリア化と一八四八年の革命運動の印象はアルベスに持続的影響を与えた。プラハのミクランツカー通りの実業学校に学んでいたころすでに彼のなかには、教師のヤン・ネルダの支援もあって、ジャーナリズムと文学にたいする関心が芽生えていた。若いアルベスはそのとき、ネルダとの、その後永く続く友惰を結んだのである。アルベスもまたその時代に民族意識に目覚めたのである。
 実業学校での勉強の後、彼は工科大学に通いはじめたが、間もなく全面的にジャーナサリズムの仕事に打込むことになる。バッハ絶対主義体制崩壌後の時代は、書論の自由の可能性にたいする希望をもたせた。それでアルベスは民族の権利獲得と目にあまる社会悪の排除のための戦いを開始した。「民族新聞」の編集責任者として表現の自由が単なる机上の空論にすぎないことを直ちに見抜いた。彼はくり返しくり返し迫害され、監禁され、反政府活動の罪で陪審裁判にかけられ、ついにドイツの陪審裁判で十三カ月の禁固刑の判決を受けた(一八七三年)。この精力的な反政府活動の報酬として一八七七年末にユリウス・グレーグルの「民族新闘」を解雇された。青年チェコ覚の指導勢力はその当時すでに、どちらかというと、ウィーンとの関係において外交的順応に傾いており、要するにアルベスの急進主義とはだんだん折り合わなくなったのである。
「民族新聞」からの追放の後、アルベスはまさに『生存志願者』 Candid&aacute;t existence になった。彼はフリーの作家、ジャーナリストとして苦しい状況のなかに生き、第一次世界大戦勃発前夜のころ生れ故郷のスミーホフで死んだ。その当時、わが国の近代文学の発展は、外見上アルベスのこのライフワークを忘却の彼方へと押しやっていたようであった。だからこの作品の正当な価値は、チェコの中編小説<ノヴェラ>やチェコの社会小説<ロマン>の成長にとってのこの作品の恩恵を大いに受けるべき時代がすぎたときになって、やっと認識されたのである
。 アルベスは、師であるヤン・ネルダと同様に、文学活動をジャーナリストとしてはじめた。彼の中編小説<ノヴェラ>は主題の領域でも恩想の領域でもチェコ文学に新しい要素をもたらした。彼は原則として素材を同時代のプラハの生活のなかから選んだ。物語のはじまりでは、一見、説明のつかない、非常識とも思えるような状況を呈示する。この怪奇で、ロマンチックで、空想的な、こんがらかった状況は最後には合理的な過程をへて解決され、謎は科学的認識の冷たい光のなかに解消する。もちろんこの「科学的認識」も十九世紀の最後の十年間にヨーロッパ文学のなかに強く浸透していた科学的空想<ユートピア>に近いこともしばしばであった。それゆえ、アルベスの作品の多くはチェコのいわゆるサイエンス・フィクションの初期段階と評価することも可能である。この小説のテクニックはある程度までE・A・ポーに負っている。しかし、だからといってこれらの作品に表現上の個性、思想的意昧がないと断定することはできない。
 アルベスのこの種の中編作品<ノヴェラ>形式はこれまでわが国に知られていた文学ジャンルのどれにも完全に合致するものはなかったが、ヤン・ネルダはこれにたいしてロマネット romaneto という名称を与えた。『拷問台上の悪魔』 D'abel na skYipci と題する最初のロマネット作品が一八六六年に発表きれると、続く十年間のあいだに次々に書かれた。『聖クサヴェリウス』 Svat&7acute; Xaverius (一八七三)、『灰色の目の悪魔』 Sivook&yacute; d&eacute;mon (一八七三)、『磔にされた女』 UkYi~ovan&aacute; (一八七六)、『ニュートンの脳』 Newtonov mozek (一八七七)、『生存志願者たち』 Kandid&aacute;ti existence (一八七八)、『エチオピアのユリ』 Ethiopsk&aacute; lilie (一八七九)である。アルベス自身によってロマネットと銘された最後の二つの作品は、その規模や性格からいってむしろロマン(長繍小説)と呼ぱれるにふさわしい。『生存志願者たち』はアルベスの一連の社会小説の最初の作品ということができる。『生存志願者たち』の思想的性格はこの作品の出生の年そのものからしてかなり特徴的である。こめ作品が書かれたのはアルベスが「民族新聞」からの解雇をユリウス・グレーグルに申し渡されたときであり、同時に『生存志願者たち』が書かれた時代はもちろんチェコの労働者たちが自分たちの組織の基盤作りの努力がつずけられていた時代として特筆される時代であった。チェコスロバキア社会民主党が誕生したのもこの年であり (一八七八)、チェコの労働者のこのような努力の二つのピークでもあった。
『生存志願者たち』においてアルベスは文学者として初めて近代社会における資本の役割、労働者と工場主との関係といった間題に取り組んだ。アルベスの社会思想は『生存志願者たち』においても、その後の作品においてもマルクス以前の社会主義の枠を越えてはいない。サンーシモン、フーリエ、プルードン、ルイ・ブランなどのユートピア社会主義の認識にもとづいているのである。しかし、社会的テーマをもったアルベスのロマンおよびロマネットのすぐれた点は、具体的な社会環境についての完全な知識である。アルベスはその社会環境を厳しい批判的な、リアリスティックな目でとらえ、しぱしぱロマンティックに構想された物語の筋と対比させていることである。『生存志願者たち』のなかでアルペスは空想社会主義的イメージに即した企業経営の新しい方法実現の試みを描いている。その試みは失敗する。なぜなら、工場主の社会改革の熱意よりも利益追求欲のほうが大きいからである。アルベスはここに二つの社会階級の利害の根深い対立を示している。そしてその描写から、彼がこの対立の溝を埋める可能性についていかに懐疑的に見ているかがうかがわれる。
 チェコ市民階級の資本力が急速に成長しているころのプラハの企業家の世界に向けた批判的な視線が、この『近代の吸血鬼』 Modern&iacute; up&iacute;Yi (一八七九) というロマンをも生み出した。この作品は「プラハの商業活動の情景」というサプタイトルがついている。資本家の後継者である若い世代は先輩たちにたいして容赦ない。人間の相互関係も金銭的利害によって、きわめてゆがめられており、息子は自分の父親を企業の競争相手としか見ておらず、父親を破産に追い込むことさえ、あえて辞さないほどである。だからといってアルベスは父親たちに同情の目を向けているわけではない。彼らを破滅させる非情さは、彼ら自身がおかした罪にたいする運命的報復にすぎないのである。
 社会的主題をもったこれまでの作品はある程度、大ロマン創作のための準備だった。アルベスはその大ロマンのなかで、十九世紀の二〇年代から三〇年代にかけての、つまり、わが国でもプロレタリアの階級意識が芽生える時期の、プラハの労働者たちの生活の広範な画像を提供しようとしたのである。この作品は六部からなるチクルスとして構想されたが、第一部『捺染職人たち』 `trajchPudl&iacute;ci (一八八三) だけが世に出た。「花」(一八八〇) に掲載されたときの最初の題名は『エピキュリアン』 Epikurejci になっていた。作者はこのなかでスミーホフの印刷労働者たちの環境のなかに読者を案内する。そして彼らの生存競争と彼らの置かれた社会的差別を描く。たとえこの物語の筋がロマン主義の痕跡をとどめているにしても、アルベスの現実を見る目は本質的にはすでにリアリスティックである。この作品にたいして――プフレゲル・モラフスキーの『小世界から』 Z mal&eacute;ho svta とともに――チェコの社会小説の発展において創始者の名誉を与えるのは正当である。
同時代にたいする鋭い批判は『メシア』 Mesi&aacute;a (一八八三)と『平和の天使』 Andl&eacute; m&iacute;ru (一八八九)というロマンにおいても余韻を響かせているが、しかし――以揃のアルベスの作品よりもさちにショッキングである――構成の不確かさや性格描写に見るべきものが少ないのが欠点である。
 文学活動とともにアルベスのジャーナリストとしての活動も重要な意義をもっている。新聞記者としてのアルベスは世間の出来事と絶えず接触をもっており、民族の権利擁護と社会悪排除のために根気よく戦った。彼のジャーナリストとしての発言を集めた書物『一八四八年のエピソード』 Episody z r.1848、『チェコ王国の涙または新しい迫害』 Pl&aacute; korny  esk&eacute;ho nebo NOv&aacute; perzekce (一七八〇、第二普及版『チェコ王国の涙または一八六九−一八七三年代におけるチェコ人民への迫害』Pl&aacute; koruny  esk&eacute; neboli Perzekce lidu  esk&eacute;ho v l.1869-1873, 一八九四)およぴ、『“聖"ヤン・ネポムツキーにかんする真偽』 Le~ a pravda o "svat&eacute;m" Janu Nepomock&eacute;m (一八七〇) である。 彼はまたジャーナリストとしての活動の非常に大きな部分を文学と二演劇にかんする問題にも当てた。チェコや世界の文化史に大きな足跡を残した偉人たちが彼を引きつけたのである。アルべスのこれらの研究の連作は『不思議な性格者たち』 Z&aacute;had&eacute; povahy (一九〇九)、あるいは『不死の酔払いたち』 Nesmrteln&iacute; pij&aacute;ci (一九〇六)、『詩人たちの精神の工場より』 Z duaevn&iacute; d&iacute;lny b&aacute;sn&iacute;ko (一九一五) のタイトルで出版された。国内の人物のなかで最も彼を引きつけたのはK・H・マーハ、フランティシェーク・クルムロフスキーとカレル・サビナであった。 ヨーロッパの労働運動の歴史についてのアルベスのジャーナリストとしての仕事も重要である。それらはJ・スヴォボダの筆名で『民衆の貧困の根絶のための戦いから』 Z bojo o lidsk&eacute; b&iacute;dy (一八九二)と『最初の社会革命』 Prvn&iacute; soci&aacute;ln&iacute; revoluce (一八九二)のタイトルで出版された。







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