(8) その他の散文作家の作品から



 リアリズムヘ向かうおが国の散文文学の発展にとって重要な意義をもっている作家がネルダ世代にあと二人ある。世代の先頭に立つ代表者として彼らを位置づけることはできないまでも、それでも彼ちの作品のもつ幾つかの独質によって彼らの世代の全体像を補完していると言える。その二人とはグスタフ・プフレゲル・モラフスキーとアロイス・ヴォイチェフ・シュミロフスキーである。 グスタフ・プフレゲル・モラフスキー Gustav Pfleger Moravský (一八三三−一八七五) はビストジツェ・ナド・ペルンシュテイネムの近くのカラシーナで生れ、一八四三年からプラハに住み、カカデミツケー・ギムナジウムに通った。若いころから肺結核を患い、そのことが彼の意図に反して俳優としてのキャリアに専念することを不可能にした。彼はプラハのチェコ貯蓄銀行の職員となり、短期間ノヴォムニェスツケー劇場チェコ語上演のドラマトゥルク(文芸部員)をつとめ、いろいろな雑誌に、とくに劇評を寄稿した。彼はさし迫った時事的課題、とくに社会的な間題を文学のなかに投影しようとする努力によってマーイ派に近い立場にあったが、しかし、またその一方で彼の政治的保守性と幾つかの文学観によってマーイ派と一線を画している。
プフレゲルの詩作品は多分に外国の手本に依存しているところが少なくない。恋愛抒情詩(『ドゥムキ』 Dumky、一八五七、『糸杉』 CypYice、一八六一) にはマーハやチェラコフスキーの影響が見られ、『ヴィシーンスキー氏』( Pan Vyaínský 一八五九)はプーシキンの『エウゲニ・オネーギン』の焼き直しである。これは膨大な叙事詩的作品ではあるが、その芸術的寄与は小さい。わが国の文学史の視点から見れぱ、詩形式によるチェコ最初のロマンとしての意義がある。
プフレゲルはまた戯曲の作家として通そうとする努力もしていた。彼の歴史悲劇 (たとえぱ『最後のロジュムベルク』 Poslední Ro~mberk 一八六二年、後に『デッラ・ローサ』 Della Rosa、一八七一 の題名に改作された) はシェークスビア・タイプの大型チェコ・ドラマの創作という時代機運に乗って書かれた芸術的失敗作のなかに含まれる。同時代の観客に大喝采を博したのは幾つかの喜劇である。たとえぱ、『電報』 Telegram (一八六五)や、『章・T.U.V.』 Kapitola T.U.V.』 (一八六六)で、当時フランスの大衆的喜劇作者ユージン・スクリーブの影響のもとに書かれている。
文学史の観点から最も大きな興昧を引くのはプフレゲルの幾つかのロマン(長編小説)である。プフレゲルはそれらの作品のなかで十九世紀四〇年代五〇年代のチェコの一般生活の幾つかの特徴を描くことに比較的成功している。ロマン『失われた人生』 Stracený ~ivot (一八六二)がそれに当てはまる。その反面、通俗的なロマン主義的パターンに従って構成されているが、バッハ体制期の雰囲気、著者たちのあいだの革命熱がうまく捕えられている。
 ロマン『小さな世界から』 Z malého svta (一八六四、一八七二年に改作) はG・プフレゲルの最も重要な作品である。彼はこの作品で、わが国のロマン作家として、はじめてチェコ労働者の生活の描写にカを入れている。物語の時代は一八四八年以前のこと、そして工場主にたいするプロレタリアートの反抗がプラハで頻発し始めたころ、さらには機械の導入によって大勢の労働者が一斉に失業してしまったころのことである。プフレゲルは自分自身の目を通してプラハの労働者階級の生活状況を知っていたから、プラハの貧しい人々の生存のための環境も、プラハの貧民街の幾つかのタイプも本物のように、リアルに描写することができたのであり、また、被搾取者としての労働者と工場主とのあいだの社会的対立、またその対立の民族的視野 (チェコのプロレタリア対ドイツの資本家) をも含めて捕らええたのである。労働者たちが自分たちの貧困の原困とみる工場内の機械を破壊する場面は効果的である。だが、このロマンの葛藤それ自体もまたその解決もきわめて常套的な理想化に終わっている。社会的な矛層は完壁な妥協によって癒されるが、それにはさちに血族内の秘密の暴露と、両者の階級に属する者同士の愛の結合も寄与する。プフレゲルの第三のロマン『工場主夫人』 Paní fabrikantová (一八七三) は心理主義ロマンの方向を目指しているが、際立った文学的成功は収めていない。


 アロイス・ヴォイチェフ・シュミロフスキー Alois Vojtch `milovský (一八三七−一八八三) は「生活の絵」の協力者としてチェコ文学に足を踏み入れた。一八五九年、この雑誌に短編『ビェトゥシュカ』 Btuaka を発表するが、その後の彼の文学的発展のなかでマーイ派から離れていく。シュミロフスキー――本名 Schmillauer――はムラダー・ボレスラフで生れクラトヴィとリトミシュルで中学校の教師となり、後にこの土地で郡視学となる。彼が勤務した両地で、文化および社会生活の発展に功績を残した。(リトミシュルではテレザ・ノヴァーコヴァーやアロイス・イラーセクと協力)。
シュミロフスキーは非常に多作な作家であり、詩、散文、劇を書いたが、成功したのは散文の領域だけだった。中編、長編作家としての彼は資本主義時代の社会関係に批判的立場から出発した。そしてその基本的欠陥をほぼ正確に描き出した。ただマーイ派と違うのは、現在する状況を脱け出するための方策を過去の理想への回帰のなかにしか見出せなかったということである。それゆえ、同様の理想の持主である人間タイプを好んで描き、高く評価し、その行為や意見を――ときには過剰なまでのでのお説教を加味して――同時代人にたいするお手本として提示した。
このようなものの例が長編(ロマン)や短編(ポヴィーデク)のなかにある(シュミロフスキーの場合、本質的にその両形式のあいだの差はない)。『名付親ロズメッツ』 Kmotr Rozumec (一八七二)、『ドジェヴニツキー隊長』 Setník DYevnický (一八七二)、『うめばち草』 Parnasie (一八七五)、『マルチン・オリヴァ』 Martin Oliva (一八七四)、『大麦仲買人クレヲファーシュ』 KrupaY Kleofáa (一八七五)、『原生代の哲人』 Starohorský filosof (一八七七)などである。
シュミロフスキーの小説作品のすぐれた点は人物の巧みな性格描写とその時代の小市民的、また田園的生活環境の忠実な描写である。この特質はシュミロフスキーの最も人気を博した作品『朝焼けの空』 Za ranních  ervánko (一八七五) にもはっきり出ている。この小説は今日まで生命力を保ち、読者に訴えるものをもっている、作者はそのなかでチェルニーヌー  erníno 領内、クラトヴィ近郊のフデニツェでのヨゼフ・ドプロフスキーの生活を描き、その土地の民衆との交流と、そのなかでこの大学者が啓蒙運動の成果に確信を抱くにいたる過程を描いている。。





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