(9) マーイ派時代の劇場と劇作品




 バッハ反動体制下でのチェコの演劇活動は他の文化全般と同様に弾圧されていた。四〇年代にティルやパラツキー、リーグル、ハヴリーチェクといった人物たちが考えていたような自分(チェコ人)たちだけのチェコ語の劇場を運営するという計画は、ほとんど実現不可能であった。チェコ語劇の上演は週に二回、スタヴォフスケー劇場でおこなわれていたが、その後一八五九年からはノヴォムニェスツケー劇場でも上演された。
この劇場は木造の夏期間用の円形劇場で他の目的にも使用された。このような状態をチェコ文化活動の代表者たちが満足のいくものとは考えなかったのは当然である。だからオーストリアで新しい憲法が制定されると、直ちに独自の「石造建築」劇場の建設計画に取り掛かったが、いきなり犬国民劇場の建設にとりかかるべきかどうかで意見が分れ、結局、Fr・ラディスラフ・リーグルが、とりあえずの「暫時」劇場建設構想を提示した。それは国民劇場の前段階となるべきものであった。建築は一八六二年五月にはじまり、同年の十一月十八日にハーレクの『ヴカシーン王』のこけら落とし公演によって「暫時劇場」 Prozatímní divadlo は開場した (場所は現在の国民劇場があるところ)。最初、ここでは週に三回の上演であったが、後には毎日上演されるようになった。この暫時劇場は一八八一年に国民劇場が開場するまで、わが国チェコ演劇活動の中心地となった。
この劇場に込められた希望のすぺてがかなえられたわけではなかったが、それでもこの劇場の意義はけっして小さくない。ベジフ・スメタナもここで働いた(しかし彼は後に個人的また政治的陰謀によってここから去ることを余儀なくされた)。 ここではウィリアム・シェークスピアやロシア、フランスの演目も上演されたが、おもにチェコの作家のものが取り上げられた(J・K・ティル、J・J・コラール、Em・ポヂェフ、Fr・V・エジャーベク、F・B・ミコヴェッツ、F・F・サムベルク、カレル・サビナ、J・V・フリチュ、G・プフレゲル・モラフスキー、ヴィーチェスラフ・ハーレク、その他)。
暫時劇場のドラマトゥルクはエマヌエル・ボヂェフであり、その彼と並んで目覚ましい活躍をした芸術家は演出家で俳優のイジー・コラールであった。ここでは大勢のすぐれた俳優たちが活躍したが、とくに名を挙げれぱ、悲劇女優のオティーリエ・スクレナージョヴァー−マラー、ヨゼフ・シュマハ、F・コラール、カレル・シマノフスキー、インジフ・モシュナなどである。
暫時劇場時代、チェコの創作劇は依然としてシェークスピアの大歴史悲劇のお手本の影響下にあった。このことはF・B・ミコヴェッツについても、V・ハーレクについても(上記参照)、J・J・コラールの劇作品のかなりの部分に当てはまる。この時代の劇作家のなかで最も個性的な人物が二人ある。彼らは――たしかに全く異なる方法によってではあるが――チェコ戯曲の、思想的にも形式的にも新しい方向を探求した。その二人とはF・V・エジャーベクとE・ボヂェフである。この二人とともに記憶に値する作家は、プラハの地方性を豊かにもりこんだ大衆的笑劇(ファルス)と喜劇の作家F・F・シャムベルクである。


フランティシェク・ヴィェンツェスラフ・エジャーベク Frantiaek Vncelav JeYábek (一八三六−一八九三)ソボドカに生れ、プラハの女子高等学校の教師をつとめた。彼はマーイ派のサークルの外にいたが自分なりの努力によって時代的目標を目指していた。ネルダ世代と同様に彼もまたチェコの新しい言語芸術が、わが国の同時代社会の進歩的動向と社会的間題性を適確に表現するように望んだ。しかしマーイ派が質的に新しいチェコ・ドラマを作り出そうと望んだにもかかわらず、そのためには力不足だったのにたいし、エジャーベクこそは近代チェコ劇文学の基礎を築いた人物だったのである。彼の最も重要な作品は『自分の主人の召使』 Slu~ebmík svého pána (一八七〇)である。
この作品は工場と労働者をとりまく環境というふうに状況設淀がされており、チェコ最初の社会劇の試みとして重要である。このドラマの形式や思想の構成に多少の欠陥があるにもかかわらず、作者はここでわが国の資本主義の初期段階においてすでに存在していた階級的矛盾の深刻さを、十分納得のいくように暴露してみせている。エジャーベクは労働者と工場主との間の葛藤の本質を明確化することはできなかったが、それでも資本主義によってもたらされた新しい社会関係に特有の幾つかの惟格を暴き、資本主議の搾取者的特徴を指摘しえている。――その他のエジャーベクの舞台作品のなかでは、その当時最大の成功を収めたのはジャーナリズムの世界を題材とした喜劇『世論の旅』Cesty veYejného mínní (一八六六)である。


劇作家エマーヌエル・ボヂェフ Emanuel Bozdch (一八四一−一八八九) は七〇年代に戯曲作品によって大きな大衆的人気を博した。彼はプラハに生れ、ここで大学に学んだ。そして暫時劇場のドラマトゥルクとなり、後には編集者、批評家、フリーの小説家として活躍した。一八八九年、謎の失踪をした。世間では彼の仕事にたいする不当な評価 (劉窃の嫌疑をかけられていた) に苦しみ、また重い病氣が自発的な人体からの退場に導いたのだと判断した。
ボヂェフがわが国の戯曲文学と演劇にもたらした最大の賜物は歴史喜劇である。ポヂェフはこれらの作品においてわが国で初めて、軽妙なユーモアをもち、ピリッとした対話に導かれる会話喜劇の一タイプを生み出すことに成功したのである。彼はそれを、とくに当時の近代フランスの…』道徳喜劇の名匠ユージン・スクリープに学んだ。ポヂェフ劇の基本構造は大部分が、偉大な歴史上の人物の生涯のプライヴェイトな、しぱしぱ滑稽な側面を見せる小話的な筋書きである。したがってこの劇作家は、これらの人物たちの決心や行動を小さな諸原因の大きな結果として提出している。 ボヂェフの戯曲は素材のほとんどすべてを外国の、それも大概はフランスの生活環境から取っている。喜劇『コティリヨン舞踏の時代から』 Z doby kotilionov (一八六七) は七年戦争終結後の一七六三年のヴェルサイユにおけるルイ十五世の宮廷社会でおこる。もつれた愛が上級貴族の生活環壌のなかに設定されるが、ボヂェフは貴族たちの愚かさや不遺徳をユーモアをもってではあるが、同時に批判的に描いている。一幕物の『政治家の試練』 Zkou~ka státníkova (一八七二)では事件の中心にパリ駐在の外交官ヴァーツラフ・コウニッツ伯爵と女帝マリア・テレジエ、それに夫のフランティシェク・ロトリンスキーを置いた。老練な外交官コウニッツは偉大な人物の人間的琴糸に触れる能力を発揮して反プロシャ的政治構想を実現させる。思想的に強調されたいくつかのポイントはその当時、切実なものとして受け止められ、この劇の人気を高めた。それは一つにはコウニッツ伯爵のチェコ人気質を強調したこと、また一つにはフランスにたいする明らかな共感のゆえであり、ボヂェフはそれによって最近の普仏戦争後の大多数のチェコ大衆の考え方を代弁したものだった。これはボズヂェフの最も成功した芝居であり、その成功は心地よいイロニーと批判的大局観をもって描かれた人物たちの見事な性格づけ、それに、磨きぬかれた対話によってもたらされたものでもあった。そして作者はこれによって舞台言語独特の性格にたいするセンスを証明したのだった。
ボヂェフのその他の歴史劇のなかで成功を収めたのは、とくにナポレオンー世の私生活から題材を取った二本の喜劇『普段着の世界の主人』 Svta pán v ~upanu (一八七六)と『軍隊なしの将軍』 Jenerál bez bojska (一八八九年、遺作)である。――喜劇『冒険家たち』 Dobrodruzi (一八八〇) の素材はルドルフニ世の時代から取られている。ボズヂェフの唯一の悲劇『ゲッツ男爵』 (一八六八) は十八世紀初頭のスエーデンで起こる。そのタイトルの人物はカレルニ世に仕える野心家の大臣である。彼は国家の繁栄よりは、むしろ個人の利益を大いに追及する。この劇はオーストリアにおける同時代の政治事情のアクチュアルな批判とも感じられる。ゲッツ男爵なる人物はチェコ民族の民族的願望を今まさに阻止しようとする者の化身と理解された。ボズヂェフの劇はわけても市民階級の間で人気を博した。それというのも、それらの市民階級社会では社交生活や会語の「サロン」様式が形成されつつあったときであったからである。だが、これらの劇が大きな反響をかち得た理由は単にそれだけではなく、時事的な事件や状況にたいするその劇のかかわり方そのものにもよる。そして、もはや今日では舞台にかけられることはまれにしかないにしても、それでもチェコの近代劇の発展における大きな意昧は失われていない。それはとくに作劇技法いわゆる会話喜劇を発展させたことによる。


フランティセェク・フェルヂナント・シャムベルク Frantiaek Ferdinand `amberk (一八三九−一九〇四)のほとんどの喜劇作品は「暫時」劇場時代に書かれた。彼はスタヴォフスケー劇場、「暫時」劇場およぴ国民劇場の人気俳優だった。彼は自作の喜劇や笑劇 <ファース> のなかで当時のプラハの生活環境にたいする完壁な知識をもとに、大小さまざまな典型人物を選ぴ出し、台本には音楽や時事小歌、いわゆるクプレなどをふんだんに盛り込んでいる。彼の戯曲は大部分が状況の喜劇性の上に構築されている。そして大なり小なりネストロイ風のウィーン笑劇の個性豊かな亜流である。また、フランスの近代社会コメディーの影響がはっきり見てとれることもあった。その反面、わが国のティル的な伝統との関係は、作者自身はその点を強調していたにもかかわらず、単に外面的で、本質的なものではない。シャムペルクの喜劇のなかで最も成功したのは『十一番目の戒め』 Jedn&aacute;ct&eacute; PYik&aacute;a&aacute;n&iacute; (一八八一)、『ポドスカリーの人』Podskal&aacute;k(1882)、『パラツキ一・クラス・二七』 Pal&aacute;ck&eacute;ho tY&iacute;da (一八八四)などであり、これらの作品は現在でもしばしば舞台にかけられている。




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