(10) 学術的著作の中から

 六〇年代と七〇年代の文学状況を完全に述べつくすには、文学批評、美学、歴史の領域について、さちに簡単に触れておく必要がある。なぜならこれらのものも、概して、文学の発展にそれなりの影響を及ぼしているかちである。
マーイ派時代のチェコの評論、美学の特に際立った代表者はジョゼフ・ドゥルディークJosef Durdík (一八三七−一九〇二)である。もともと彼は中学校の数学教師であったが、のちにプラハの大学で助教授となり、その後教授になった。彼はドイツ哲学者で美学者のヨハン・フリードリッヒ・ヘルバルト Johann Friedrich Herbart (一七七六−一八四一)の信奉者だった。その学説の趣旨にのっとって彼は美学研究また文学批評において、とくに芸術作品の形式の個々の構成要素相互間の関係の研究に力を注いだ。哲学史にかんする多くの労作とともに、『普遍美学』 Vseobecná estetika ( 一八七五)や『詩芸術の美学としての詩学』 Poetika jako~to estetika umní básnického (一八八一)などの論文を出版した。彼は同時代の文学活動と密接に結びつき、できるかぎり積極的に芸術会議 Umlecká beseda の文学部門の仕事に関与し(そこでの講義から『バイロン卿の詩と性格について』 O pesii a povaze lorda Byrona,1870 が生れた)。批評家として体系的に同時代の文学作品を見つずけた。文学の批評的研究をまとめて『批評』Kritika (一八七四) という書物を出版した。鋭い分析的観察力の持主であるにもかかわらず、ドゥルダの文学論文は多少硬直した見解と先見主義に冒されている。彼はしぱしぱ芸術作品をあらかじめ作られた、そして本質的には不変の美的規範(ノルム)に従って判断し、作品がその規範に適合しないかぎり、彼はその作品にたいして拒否的態度を示した。彼がハーレクの『自然のなかで』 V pYírod を理解できなかった理由はここにある。だから、後年になってドゥルディークがだんだんとわが国の芸術の発展についていけなくなるのは当然で、八〇年代、とくに90年代になると彼の権威はすでに著しく低下していた。そしてチェコ美学の中心人物は、彼にかわってオタカル、ホステインスキーになるのである。
ハーレクとネルダの同世代者たちのなかで文学批評を育んだ人は、他にフェルヂナントシュルツ Ferdinand Schulz (一八三五−一九〇五) がある。彼は「民族新聞」の編集者としてハーレク、ネルダ両詩人と同僚だった。彼の責献によって短命ではあったがレベルの高い批評雑誌が創刊された。「文学新聞」 Literární listy (一八六五)と「チェコ文学地平線」  eský obzor literární (167−一八六八)である。
 シュルツは同時代の文学について数多くの評論で論じ、現実世界のリアルな形象化と真実昧のある人間性格の描写という原則を擁護した。しかしその彼ですら近代文学の発展とともに歩みつづけることはできをかった。八〇年代には (F・ザークレイス Frantiaekákrejs によれば) すでに新しい文学潮流に反対するものの旗頭の一人だった。なかでも、とくに自然主義を厳しく拒否し、その保守的な見解によって十九世紀末にはわが国の若い文学にたいして完全に見切りをつけていた。
シュルツはまた多作な作家でもあった、彼の作品のうち今日まで生命を保ちえているのは『ラテンのおぱあさん』 Latinská babi ka (一八八三)であるが、この作品は作者自身のムラダー・ポレスラフの町での学生時代の思い出にもとづいている。
 四〇年代五〇年代のわが国の文化、そして民族の生活全般にわたって重要な役割を歴史家がになっていた。それは、とくにパラツキーの功績に負うところが大きい
(第六章第九節参照)。彼は一八四八年に記念碑的著作『チェコおよびモラヴァにおけるチェコ民族の歴史』の出版を開始した。第一巻はまだ大部分がドイツ語の原典からの翻訳であったが、篤二巻以後は全く独自の著作としてチェコ語で構想された。―ーバラッキーは三〇年代の初めから生涯の終わりまでこの『歴史』の著作に力を注いでいた。そしてその決定版は彼の死の年一八七六年に完成した。この著書チェコの歴史をその発端から一五二六年のハプスプルク家のチェコ王位の戴冠までを包含している。
 周到な専門的準備、広範な古代文献の研究がパラツキーにこの困難な事業を可能とさせたのである。この業績はその価値において、再興期の学術におけるユングマンの『チェコ―ドイツ語辞典』にその類比を見るのみである。しかもパラーツキーはユングマンと同じく、学術研究に携わる場合、常に同時代のわが民族社会の生活と間題性とを意識していた。彼は単に過去の絵解きを作るというだけでは満足しなかった。たとえ純粋に客観的歴史研究の必要性を重視したとしても、民族意識を目覚めさせ、理念的にも現実性を加味するという著作の意図をおろそかにはしなかったのである。
パラツキーのチェコ歴史の発展概念は、民族史研究の際、超民族的、全人類的観点の必要性を強調するドイツの哲学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルデル Johann Gottfried Herder の思想にもとづいている。後のパラツキーにはへ一ゲルの影響も認められる。つまり、対立の相克によって実現される社会発展の弁証法にかんする学問が、チェコ史の性格についてのパラツキー自身の見解に含致したのである。彼はチェコの歴史をスラヴ的活力とゲルマン的活力との、また民主的原理と封建的原理との絶えることなき葛藤として捕えたのである。この葛藤の頂点をフス主義の時代とみなし、彼の『歴史』においても最大限の注意をこの時代に向けたのである。フスの先行者からイジー・ス・ポヂェプラットの支配にいたるまでの時代を収めた諸巻がこの著作のなかで最も価値のある部分である。逆に、『王宮写本』と『緑山写本』の信憑性を信じて書かれたスラヴ原初時代のパラツキーの著述は今日では学間的価値を失っている。
パラツキーの『歴史』は尊門的意義よりもはるかに大きな意義をもっていた。ずぱぬけた様式化の水準、大衆読者にも理解できる明確な表現、過去の事跡や人物を効果的に思い浮べさせる能力――これらすぺての要素はパラツキーの労作を学間的文献としただけでなく、文学作品としても位置づける。だが、第一にチェコ人の読者はパラツキーの『歴史』のなかに民族の未来にたいする信仰を力づけ、呼び覚ましてくれるものを常に発見する。しかも、それはとりわけて民族の危急存亡のときにである。最近では、それは策二次世界大戦のときにはっきりとあらわれた。
理念的に反対の立場にあるのがヴァーツラフ・ヴラヂヴォイ・トメク Václav Vladivoj Tomek (一八一八−一九〇五)である。彼は法学者で歴史家であったが、もともとはパラツキーの弟子で、協力者だった。しかし、バッハ反動体制時代にプラハ大学の歴史の教授として最も保守的傾向と意見の代弁者、代弁者となった。彼の思想はその歴史的著作にも浸透している。彼はフス主義をわが民族発展のプレーキとみなし、反対に反革命を正当化した。――最も重要なトメクの労作(それらの寄与はなによりも新資料の豊富さにある) はげプラハ大学史』 Dje university pr~ské (一八四九)と『プラハ市史』 Djeppis msta Prahy である。後者は著者のライフワークと言えるもので、十二巻からなり、一八一五年から一九〇一年までの間に出版され、一六〇九年までのチェコの歴史を書き上げている。







次章に進む

本章の頭に返る

タイトルページへもどる

トップページへもどる




最終更新日:02年12月02日