(5)ボジェナ・ニェムツォヴァーと田園小説




 ボジェナ・ニェムツォヴァーはエルベンが詩において占めていたのと同様な地位を、散文の領域において占めている。彼女の田園小説は時代の現実をリアリスティックにとらえることを目指していたが、わが国におけるこのジャンルの発展にとって草分け的意義を有している。
 ニェムツォヴァーは作品のための刺激をチェコ並びにスロパキアのありとあらゆる地方の田園的環境にもとめ、その地方の生活の外見的形式ばかりか、人々の思想や感情に密着し一体となることができた。それゆえ、彼女の作品は民主主義と人間主義の精神に貫かれている。そして民族運動の諸目的の実現への努力や社会的罪悪を改める努力を表現している。 彼女は社会間題の研究に体系的な努力を注いだ。その社会問題に刺激されて『フランティシェク・マトウシュ・クラーツェルの政治文書』 Listy politecké Frant$#353;ka Matoua Klácela が生まれた。この本は現在では『社会主義と共産主義の起源についての友人から女友だちへの手紙』(単行本として出版されたときの書名) として知られている。彼女の音頭とりによって、クラーツェルの人間主義的使命をもった団体「チェコ−モラヴァ友愛団」の試みも生れた。ニェムツォヴァーの文学作品――特に、彼女の童話や小説、なかでも『お婆さん』 Babi ka が新時代のチェコ文学の基本的作品集に加えられるや、たちまち広い読者層に知られることとなった。そして最も価値あるものの一つとなったのである。
 ボジェナ・ニェムツォヴァー――娘名、バルポラ・パンクロヴァー Barbpra Panklová――は一八二〇年二月四日、ウィーンで未婚のチェコ人の召使いテレジエ・ノヴォトナーとオ一ストリア在住の貴族の御者ヨハン・パンケルの子供として生れた。両親は子供の誕生後に結婚した。そしてチェスカー・スカリツェ近郊のラティボジツェに移り、ザハンスカー公爵夫人 vévodkyH Zahanská の召使いとなった。
 ニェムツォヴァーの幼時の教育に最も強い影響を与えたのはお婆さんのマグダレーナ・ノヴォトナーであり、彼女は孫たちに道徳的規範ぱかりでなく、素朴な人々にたいする敬意と、民衆詩にたいする愛を教えこんだ。同時に、成長する娘に貴族の生活も影響を与えた。この世界との持続的な接触は、一方では彼女の早期教育に寄与したが、その一方で若いころから社会的差異の存在を知ることもできた。彼女はごく基礎的な学校教育を受けただけであったが、急速な精神の長をもたらした。これは教養あるドイツ人の執事ホッホ・ヴェ・フバルコヴィツィーフの家庭に住んだこともその面での成長をうながした。 この家庭でドイツ文学、とくに、フリードリッヒ・シラーの作品に接することができた。十七歳のとき財務監杳院の調査官のヨゼフ・ニェメッツと結婚した。十五歳年上の夫とは精神的にも性格的にも大きな隔たりがあったが、それでも彼のおかげで民族意識に目覚め、プラハでは(一八四二 ― 一八四五)最も進歩的な知識人のサークルと接触した。彼女はティルやカレル・ハヴリーチェクと知合い、また、後には、チェラコフスキーと織婚したアントニエ・レイソヴァー Antonie Reisová、翻訳家のヨゼフ・R・チェイカ、学者のカレル・スラヴォイ・アメリング Krel Slavoj Amering、さらに詩人のヴァーツラフ・ボレミール・ネベスキー Václav Bolmír Nebeský などと交流を結んだが、とくにネベスキーの影響のもとに文学的創造をはじめた。
彼女の才能の発展に寄与したのは、ホツコへの滞在である。そこに夫とともに一八四五年から一八四八年まで住んだ (ドマジュリツェ Doma~lice とフシェルビ V#erby)。ニェムツオヴァーはここで民衆の風習や風習や民衆の物質文化、口承文学を学んだ。同時に生活のなかで理解をもって、その地方の生活の社会条件に興味を示した。
 一八四八年以後、ニェメッツは熱烈なチェコ愛国者として段々ときびしく追求されるようになった。ボジェナ・ニェムツォヴァーの文学活動もお役所の不快感を呼び起こした。夫妻は――当時すでに四人の子供がいた――最初にニムブルクへ、その後リベレッツへ移往を余儀なくされ、一八五〇年にはすでにそこからハンガリーへ転居させられた。ニェムツォヴァーと子供たちはプラハヘ出た。そしてそこで苦難に満ちた残りの十二年間を過ごした。しかし、創作面では実り多き年月であった。 彼女の最年長の息子ヒネクが死に、彼女も病に犯された。その上、やがてニェメッツが役所を解雇されて物質的窮乏が一層くわわった。しかし、まさにちょうどその時期に、ニェムツォオヴァーは彼女の最高傑作、とくに『おばあさん』、を書きあげたのである。――一八六一年の秋にリトミシュルにおもむき、そこでA・アウグスタ出版社で自作の出版の準備をしたが、病気は進行し、すでにその計画を実現することはできず、プラハヘ運ぱれて間もなく一八六二年一月二十一日に死亡した。
 ボジェナ・ニェムツォヴァーの最初に発表された文学作品は雑誌に掲載された詩 (たとえぱ、『祝いの朝』 Slavné ráno 、『チェコの女性たちへ』 }enám  eským で、愛国的−スラヴ的、恋愛的、フェミニスティックな内容だった。これらの韻文作品はニェムツォヴァーの作品のなかでは大きな意昧はもっていないが、ヴァーツラフ・ボレミール・ネベスキーの刺激と影響によるものだった。 ニェムツ才ヴァーの創作の軌跡の本当の始まりは『民族の童話と伝説』 Národní bachorky a povsti (一八四五−一八四七)とみなすべきであろう。この作品のなかで彼女はその類いまれな芸術的才能の証拠を示した、彼女は童話の素材を一部はホツコで、その他をチェコの東北部で収集した。しかし民衆の物語の単なる記録では満足できなかった。彼女にとってはまさに自己の創造の、そして童話的対象への取組みの出発点であった。彼女の童話は社会的平等の理念で貫かれており、その作品のなかには当時のチェコの田園の親密さが反映しており、また――いくつかのロマン主義的な特徴の他にも――田園の風物をリアリスティックに描き出そうとする意図が読みとれる。 童話のなかには文学作品の読書の名残りがしみ込んではいるものの、その他の作品では外的な刺激や異質なモティーフは全く見られない。むしろ、はるかに大きな関連はその後の作品『スロバキアの童話と伝説』 S1ovenské Pohádky a Povsti (一八五七― 一八五八) において民衆のお手本がしめされている。この童話集のための素材やアイディアは五〇年代のスロバキアヘの何度かの旅行を通じて汲み取られた。
 民衆層との密接な接触、とりわけホツコにおける接触はニェムッォヴァーをジャーナリスティックな作品の創作へと導いた。そのための場所を彼女は『クヴィェティ』『チェスカーフチェラ』『モラヴァ新聞』その他の紙面に得た。ニェムツォヴァーの著作活動は一八四〇年代においてはかなり民俗学的性格をもっていた。だが、同時にそのなかにはアクチュアルな政治的視点に貫かれていた。彼女の『ドマジュリッツ周辺の風景』0brazy zokolí doma~lického (『クヴィェティ』に一八四五年に、『チェスカー・フチェラ』に一八四六年) とホツコ滞在中の期間のその他の寄稿――彼女は病気治療のため、たまたまフランティシュコヴェー・ラーズニェに滞在したことがある――は民族的なものにたいする関心ぱかりでなく、さし迫った間題、とくに都市または農村の人々の社会間題にたいする新鮮な感受性を証明している。民衆層にたいする率直な共感と小市民層にたいする批判的な関係は、彼女にたいするドマジュリツェの市民社会のあけすけな反感を呼ぴ起こした。だが「チェスカー・フチェラ」紙のカレル・ハヴリーチェクは小市民層の非難中傷を厳しく拒否し、完全にニェムツォヴァーと連帯した。
 民族的にも、かつまた社会的にも進歩的な作者の立場は一八四八年の春にとくにはっきりと現われた。『農民の政治』という論文において、ブルジョア民主主義革命の目的の限界を徹底的に示した。つまりニェムツォヴァーの信ずるところによれぱ、この革命は労働者の地位を解決はせず、彼らを貧困のなかに放置するというのである。
『奥さん、ちょっとお耳を拝借』Hospodyn na sloví ko! という随想のなかでは、召使の娘たち、そして彼女らの社会的権利を弁護している。――ニェムツォヴァーのジャーナリスティックな著作活動の第二の波を呼び覚ましたのは五〇年代の数年間にわたるスロバキア滞在であった。このとき書かれた研究論文 studie ――たとえぱ『ハンガリーへの旅の思い出』 Vzpmínky z cesty po UhYích (一八五四)、『ハンガリーの町(ジャルモティ)』Uherské m"sto (D'armoty)(一八五八)、あるいは『スロバキア生活からの数場面』 Obrazy ze ~ivota slovenskho (一八五九)――これらの文章は社会的側面を強調した民俗学的性格のものであり、同時にチェコとスロバキアの接近に大いに寄与した。この点は時代的に見てもきわめて重要なことであった。なぜならこの時期にスロバキア語の正字法が独立の過程を進みはじめたところであり、それがチェコ地域における不理解ばかりかスロバキア人そのものにたいする反感を呼び覚ましていたからである。
 ニェムツォヴァーの田園小説の撮初の試みもまた相当に民俗学的色合いの濃いものであった。それはドマジュリツコの風物であった。『家のなかの病』 Domácí nemoc (一八四六)、『ながい夜』 Dlouhá noc (一八四六)、『村の風景』 Obrázek vesnický (一八四七) などの作品がそうである。次のボジェナ・ニェムツォヴァーの小説作品――原則として一人の女性人物の運命の描写に絞られているが――作者の急速に成熟する文才の証拠であり、文学創造による風紀改良と社会的平等へのたゆまぬ努力の証左である。ここに属する小説は『バルシュカ』 Baruaka (一八五二)『姉妹』Sestry (一八五四)、または『ロザールカ』 Rozálka (原題は『高貴な魂の記念碑』) Pomnnka alechetné duae (一八五四)である。
ニェムツォヴァーの芸術的手法はやがて『カルラ』 Karla (一八五五)、および『奇妙なバーラ』 Divá Bára (一八五六)において深められる。彼女の田園生活の描写は段々とリアリスティックな要素を強め、描かれた人物は強い性格と心理的な真実性を加えてくる。
 息子ヒネクの死後、ボジェナ・ニェムツォヴーの個人的生活における危機が頂点に達したとき、彼女の最高の作品『おばあさん』 Babi ka が創作される。その根源となる衝動を彼女に与えたのは、ラチボジツケー・ウードリーにおける幼時の、そしておばあさんの思い出だった。これらの思い出のなかにニェムツォヴァーは落胆のなかの慰めを見いだし、物質的な窮乏と専制主義的反動の重圧からそこへ逃避したのたった。幼時の調和のとれた世界への逃避の願望は、結果として『おばあさん』のなかに描かれた田園の風物の描写をある程度理想化したものとした。リアリスティックな観.繁眼と現察の芸術的描写の完全な能力をもっていたニェムツォヴァーは、当時の社会全体が抱えていた間題や矛盾が彼女の幼時にすでに田園の環境のなかに投影されていたことを知っていた。そのことは『おばあさん』のなかにいく度となく触れられている。とくに、民衆や貴族階級の代表的人物と接触をもつような場面においてそうである。しかし、ニェムツォヴァーは尖鋭化する田舎の社会的問題性を矛盾対立という形で顕現させることには成功しなかった。
 彼女が示そうとしたのは、民衆層の倫理的強さや性格的純潔さが貴族たちの利己心や浅薄な性格よりも優越しているということであった。チェコ民衆にとって最も肯定的な民族的性格は、この本の中心人物である「おばあさん」が具有している。――それは倫理的な理想像であり、同時に教育的手本でもあり、単に身の回りの者ばかりでなく、貴族の世界にも影響をおよぱしているのである。しかし、この教訓的意図は決して作品の芸術的効果を損ってはいない。要するに、その教訓は幾世代にもわたる経験と知恵を蓄積してきた古い民衆の伝統の体現者としての『おばあさん』の完全な性格からごく自然に、有機的にあふれてきたものなのである。それゆえにこそ、田園社会や貴族社会との接触が彼女に持ち込んでくる様々な難題を運よく解決することもできたのである。彼女はあっちこっちで尊敬と権威を認められる。彼女はその素朴さと、賢さと、率直な振舞いによって領主夫人さえも自分のほうに引きつけることができる。そして夫人の助力で若い許婚者の生涯の幸福を守った。また同様に、ホステンシエ Hostensie 伯爵夫人をさえも助け、彼女自身の手本や忠告によって周囲のすべての人々に影響を与えたのである。


「そりゃあね」おぱあさんは言いました。「……どこかの誰かさんにしてみれぱ、どんなに嬉しいことでも、どんなに悲しいことでも、世間さまに向かって、こう自慢してみたいのかもしれませんね。ところが、それができないとなると、その人は幸せな気持ちになれないんでしょう。そうでない人は一生それを胸のなかにしまいこんで、墓場にまでもって行くんです。そんな人に向かって何かさせようたって、それは無理な話です。
 でもね、愛は愛を産むものです。人々はあの草花と同じに、愛をわたしのところにもってきてくれます。愛を探そうなんて遠くへ行くことはありません、どこにでもあるんでございますよ。どんな野っぱらにも、どんなあぜ道にも。でも探すとなれば森の陰に行かなくちゃなりません。そして葉っぱの下を探すのです。わたしには、愛は山のてっぺんや、岩の上をはいまわって、やっとこさ、見つけだすものであってはならないし、行手をさえぎる茨や棘のなかを探しまわるものであってもいけません。そのために草花は何百倍もわたしに、お礼をするでしょう。
山からやってくる薬草売りの婆さんが、香り苔を売りに来るとき、いつも申すんでございます。「苔をこれだけ見つけるにゃ、そりゃあ、たんと苦労をせにゃいかんが、それだけのかいはあるもんじゃ」とね。
この苔はすみれのように香るのです。そしてその香りはみなに春を思い出させます。奥さま、どうかお許しください。わたしとしましたら、いつもつまらぬことぱかり申しあげまして。ただ、このことだけは申しあげておきたいのでございますよ。お嬢さまもきっとご希望がおありだったから、ご陽気でいらっレやいましたのでしょうが、今はねえ、それをお亡くしになった。だからこそ今になって二倍にも、その愛をお感じになっていらっしゃるのですよ。
昔からそうでございます。もっているときには、そんなもの気にもしませんがね、それがなくなったときになって、はじめてそのありがたみに気がつくんでございますよ」――「おぱあさん、どうもありがとう、本当のことを教えてくれて」奥方は言いました。「もし私が恋をしていて、それを自分のものにできたら、それで幸せになれるのだとしても、気がつかないというわけね。おまえに感謝しなくてはならないわ。おまえがいなかったら。正しい道を進めたかどうかわからないものね」

     作品の外面的な枠組は、民衆の風俗習慣の絶間ないくり返しを伴う田園生活の四季の推移である。「日常スケッチ」の手法 metoda "obrazu ~ivota" は当時の田園的現実のリアリスティックな表情を広く示してくれる個々の物語やエピソードを自由に配列することを可能とする。不幸なヴィクトルカのバラード風の物語は、語り口の静かな流れのなかで対位法のような効果を示す。そしてこの物語のなかで現実は民衆の神話と混然一体となっているのである。大人の世界は絶えず子供の世界と接触をたもっている。それは調和的な接触であるが、これは何よりもおぱあさんのお手柄であった。彼女は子供と民衆が語り伝えた詩や話について語り、自然への愛と信頼を教えるのである。
おぱあさんの性格は作品のなかで、直接的に描かれるときもあれぱ、また、おぱあさんのいろんな思い出という、間接的な手段によって描きだされることもある。ここでは、いたるところで道徳的な高潔さが、矛眉と不正に満ちたこの世の中で最後には勝利を得るのだという作者の楽天的な信念の見本として内面的に堅固な性格としてあらわれる。そのことを象徴するような表現は伯爵夫人がおぱあさんの遺骸を墓地へ送るときの「この人はなんと幸せだったのだろう!」という書葉である。
この作者の言書語的芸術性は『おばあさん』のなかで質的に最高の水準に達している、その時代のほとんどの作家とは違ってニェムツォヴァーは、文学創作に際して、決して文語を用いず、民衆の言葉を用いた。その言葉の躍動性、豊かさ、鮮やかさを、彼女はまさにこの「おばあさん」のなかで最高の芸術的効果をもって彼女の文学表現の基盤とした。だが、しかし、その際 (会話のなかにおいてさえも) もとになる言語素材の圧力に屈することなく、むしろ統一的な、そして独自の創造的な手法をもってそれを使いこなしている。たしかに、彼女はその地方の方言を熟知するところから出発するのを常としたが、それでも『おぱあさん』では――彼女の他のいくつかの作品とは異なり――方言的要素の使用をできるかぎり控え目にし、暗示的な、ほとんど目立たぬくらいな、庶民的環境の地方的雰囲気の呈示にとどめた。だから、この作品では原則として、言語手段は全国共通のわほうを、とくに用いるようにしている。
ニェムツォヴァーは彼女の最も重要な作品として、長編小説的規模をもつ物語『山辺の村』 Pohorská vesnice (一八五六)をあげている。彼女はこの作品のなかに、自分の人生経験のほとんどと、民衆の習慣、とくにホツコやスロパキアの研究から得た知識の多くを注ぎこんだ。『山辺の村』は一種の「テーゼ」小説である。高潔な伯爵ハヌシュ・プジェゼンスキーと彼のスロバキアの友人――鋳かけ屋――たちの物語は、社会的正義とチェコとスロバキアの相互理解、あるいは民衆の教育といったテーゼがそのなかで提示され主張されるべく作られている。
次の長編小説『館の内外』V zámku a v podzámku (一八五六) においてもニェムツォヴァーは貴族階級と人民階級とのあいだの関係の問題に取り組んでいる。そのなかで彼女は貧しいものと豊かなものたちの生活環境をリアリスティックな批判をこめて描き出し、貴族階級の思い上がりとエゴイズムを断罪している。しかしながら『山辺の村』におけるのと同様に、ここでも人間の性格の善的な核と社会的矛盾の妥協的秩序づけの可能性の信仰の表明として調和を求めようとする傾向が頂点にまで達している。
この信仰はニェムツォヴァーのつぎの一連の小説のなかに1も浸透しており、そのなかの中心人物となっているのは、原則として「善人」 dobrý  lovk といわれているタイプの人間で、その人間性や倫理観が他の人の手本となるような人物である。(『貧しき人々』 Chudí lidé 一八五六、『善人』 Dobrý  lovk 、一八五八。『山辺の家』 Chy~e pod horami 、一八五八。『先生』 Pan u itel 、一八五九)。
しかし、その後のどの作品も、代表作『おばあさん』の偉大さを凌駕することはできなかった。この作品はわが国において最も多く読まれている本の一つとなったぱかりでなく、ヨーロッパやヨーロッパ以外の多くの国の言葉に翻訳され、外国においても知られ、愛読されている。

 ニェムツォヴァーの生涯と作品に取り組んだ研究者たちのなかでヴァーツラフ・ティッレ Václav Tille が作者の伝記および作品、特に小説の起源についての詳細な解明という点で大きな成果をもたらした。彼の研究論文 monografie『ボジェナ・ニェムッォヴァー』 Bo~ena Nmcová (一九一一)は基本文献の意義をもっている。後年の版では、ミロスラフ・ノヴォトニー Miloslav Novotný が補足した。彼は一九五一年から一九五九年にかけて、六巻からをる記録資料『ボジェナ・ニェムツォヴァーの生涯』 }ivot Bo~eny N"mcové を出版した。――ボジェナ・ニェムツォヴァーの人間性と作品は (研究者たち、とりわけ) ズデニェク・ネエドリーの注意を引きつけた。彼は『ボジェナ・ニェムツォヴァーとラティボジツェの谷』 Bo~ena Nmcová a RatiboYické údolí (一九二二)および『ボジェナ・ニェムツォヴァー』(一九二七、一九五〇)の著者である。ユリウス・フチーク Jurius Fu ík の研究『戦うボジェナ・ニェムツォヴァー』(『三つの研究』 TYi studie に収録)は一九四〇年に書かれ、この女流詩人の多面的意義は言うにおよぱず、マルクス主義的方法によって新たな評価を加え、その作品の持続的にアクチュアルな価直を高めた。

 ボジェナ・ニェムツォヴァーの時代に、同様にチェコの生活、たとえぱモラヴァの村に注意を向けた作家たちのなかで、その芸術的意義において『おばあさん』の作者に迫ったものは一人もいない。同時代の読者の比較的大きな人気を博したのはヴォイチェフ・フリンカ Vojtch Hlinka (一八一七 ― 一九〇四) である。彼はカトリックの神父で、フランティシェク・プラウダという名前で著作した。彼はインジフー・フーフラデッツ近郊のネクラシーノの出身で、生涯の最も長い部分をスシツェの近くのフラーデクで過ごした。彼は田舎の人々と親しく交わり、彼の作品のなかに実録的な真実性をこめてその人々を描いた。それはいい意味で時代のリアルな細部を描きえている。彼は物語の中心に通常、田舎に特有の人物をすえ、その人物の特徴的な固有性の一つを詳細に描くことによって性格づけている。彼は農村の環境にある問題性、特に社会的矛盾を知ってはいたが、カトリック的倫理観にもとづき、それを不可変の現実とみなし忍耐と寛容を説いた。幾冊かの本として出版された彼の小説のなかで最も成功したのは『ヴァーヴラ・クジャーク』Vávra KuYák,、『仕立雇フォルトナート』 Krej í Fortunát 『悪漢マチェイ』 Matj Sprost'ák および、『シュチェパーンのとこのヴィートは司祭になる勉強をする』 atpánov Vít se u í na kn"ze である。
 六〇年代に田園小説を出版したのは若い世代の、そして、ボジエナ・ニェムツォヴァーやフランティシェク・マトウシュ・クラーツェルの友人でもあるレオポルト・ハンスマン Leopold Hansmann (一八二四−一八六三)である。彼はクヴァシツェ・ナ・ハネー の出身で、ブルノでは「週刊誌」Týdeník でクラーツェルの同僚となり (一八四八)、その後は『モラヴァ新聞』 Moravské noviny 編集者となった。詩や戯曲までもふくむ彼の文学活動のなかで意昧をもつのは小説だけである。そして、それは本来、モラヴァの田園小説のはじまりを意味する。ハンスマンは『モラヴァ国民新聞』 Moravský národní list (後に「モラヴァ新聞」 Moravské noviny となる) にAntoa Dohnal のペンネームで書いた。プラヴダと異なりハンスマンは田園環境の物語を道徳化することに重点を置かなかった。彼はハナー地方の田舎者たちの生き生きしたリアリスティックな人物像を描き、ハナーの田園生活の陰の部分をもふくめた情景、その場にいる人の目に見られているかのような情景を呈示した。彼はまた同時に民俗学的、方言的知識を十分に使いこなした。ハンスマンの小説作品のなかで――作者の生前は雑誌に掲載されただけだったが――最も成功しているのは『わたしはいかにして自作農になったか』 Jak jsem dostal pollán (一八六〇)、『戦場のフランタ』 Franta na voi\jn (一八六一)、『麻加工場』 Na pazdern (一八六三)である。――単行本としてはハンスマンの作品が最初に出版されたのは一九〇六年、『最初のハナー地方小説』 První povídky hanácké というタイトルでヤン・カベリーク Jan Kabelík によって出版された。一九四〇年の新版は『ハナー地方小説集』Hanácké povídky となっている。


 口承文学の収集にかんして、とりわけエルベンやニェムツォヴァーの注いだような関心をモラヴァにおいては、何人かのわが国文学の、また、わが国民族生活の代表的担い手たちが同様の収集家的努力という形で実現した。その実例の一つがフランティシェク・スシル Frantiaek Susil (1804−一八六八)である。彼は民族意識をもった神父で、ラテン語の詩の翻訳者であり、愛国的宗教詩のあまり成功しなかった作者でもあった。チェラコフスキーの先例に倣い、また園小説を元にモラヴァ地方の民族詩の体系的収集に尽力した。その結果は千編をも数えるほどの膨大な『モラヴァの民謡』 Moravské národní písn (一八五三−一八六〇)という刺繍になった。――スシルの作品について詩集『新モラヴァ民謡集』 Nové moravské nov nasbírané (一八八九,一九〇〇、一九〇一)の出版者であるフランティシェk・バルトシュ (一八三七−一九〇六)が引き継いだ。その上、スシルの例はモラヴァにおける童話の収集をも刺激した。ペネシュ・メトト・クルダ Benea Metod Kulda (一八二〇−一九〇三)は神父としてモラヴァの各地を知り、前世紀の五〇年代にロジュノフスコ Ro~novsko 周辺のモラヴァの民話および伝説』 Moravské národní pohádky a povsti okolo ro~novského (一八五四、増補版、一八七九、続巻一八九二と一八九四) という本のための資料を集めた。

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