(4) ヨゼフ・カイエターン・ティルとその時代の劇作品



Tyl

 K ・ J ・ エルベンが大部分、公の<社会的、政治的>活動から遠ざかった人間として、主にその文学的作品によって貢献したのにたいして、J ・ K・ ティルは反対にその全活動を時代の民族的事件、愛国主義的騒擾の真っただなかにすえた。そして三〇年代およぴ四〇年代のチェコ文学の、そしてわが国の全文化生活の最も際立った人物の一人となった。
 ティルは一八〇八年にクトナ・一・ホラに生れた。彼の父は本来はその地の軍楽隊の楽士であったが、仕立屋で生計をたてていた。一八二二年から一八二七年までのあいだ、ティルはプラハのアカデミツケー一ギムナジウムで学んだ後、プラハを去ってフラデッツ・クラーロヴェーに移った。それは、そこでギムナジウムの教授をしていたヴァーツラフ・クリメント・クリッツペラに親しく学ぶためだった。
 当時、ティルはすっかり演劇の虜になっていた。それで一八二九年には旅興行の一座に俳優としてくわわるためにフラデッツ・クラーロヴェーを去ることになる。一八三一年にプラハにもどり、軍の経理部の下級職員の地位についたが、同時に演劇活動にも精力を注いだ。そして俳優、翻訳家 (とくに、シラーとシェークスピア) あるいは劇作家として「スタヴォフスケー劇場」におけるチェコ語劇に参画した。


 一八三四年から一八三七年まで、ティルはアマチュア劇団を主宰した。そのメンバーのなかには K・H・マーハや K・サビナ、J・J・コラール、ヤン・コシュカなどがおり、その活動の本拠地――いわゆるマラーストラナの「カイエターン劇場」――はその時代の国民生活の中心となった。同時に、ティルは一八三四年から一八四五年まで J・H・ポスピーシルによって出版されていた雑誌 「花」 Kvty の編集をし、一八四〇年から一八四二年までは「愛国者」 Vlastimil の編集をした。
 一八四六年にはティルはスタヴォフスケー劇場のチェコ語公演の文芸員<ドラマトゥルク>になり、その同じころ、雑誌「プラハ報知」 Pra~ský posel を出版しはじめ、一八四九年には「農民新聞」 Sedlské noviny の発行もはじめた。
 チェコの政治の自由主義的傾向の一員として一八四八年と一八四九年には積極的に公の活動にくわわった。民族組織の会員のほかに、一八四八年には国家会議の代議員となった。――オーストリアにおいて絶対主義の再興へむかう諸状況はティルにたいして特別重くのしかかってきた。彼の雑誌は発行不可能となり、スタヴォフスケー劇場でのドラマトゥルクの地位さえ剥奪され、この劇場でのチェコ劇の上演は五〇年代のはじめには停止した。
 政治的不穏分子として彼には演劇の免許が与えられなかったから、旅回りの劇団を率いるために内緒で他人の免許を借りなけれぱならなかった。彼の物質的状況は多くの家族の面倒を見なけれぱならない必要から逼迫していた。彼には七人の子供がいたが、その母親は女優のアンナ・フォルフハイモヴァー Anna Forchheimová (芸名はRajská) で、彼の本妻マグダレーナ・フォルフハイモヴァーの姉妹である。ティルは一八五六年にプルゼニュでの巡業中に四十八歳で死亡した。
 ティルの多方面にわたる芸術活動のなかで、基本的かつ永続的意昧をもつのは劇作品あり、彼は30年代のはじめにすでにそれらの創作をはじめている。一八三二年、彼の戯曲 『VyhoH dub』 がスタヴォフスケー劇場で上演されている (この作品は一〇〇四年のポーランド人のチェコからの追放をあつかったもので、『王宮写本』に題材を得たものである)。この戯曲はティルが破棄したためにわれわれには知られていない。保存されているティルの最初の戯曲作品は『春祭り、または、今日はみんなで無礼講』 Filova ka abeb }ádný hnv a ~ádný rva ka (一八三四)で、楽しい復活祭の巡礼とプラハの靴職人の祭りとのあいだにおこる、プラハの地方色ゆたかな笑劇である。劇には歌が挿入されており、フランティシェク・シュクロウプが音楽を書いた。彼の歌の一つが 『わが祖国はいずこ』 Kde domov moj であり、当初から大きな人気を博し、大衆化され、最後には国家になった。――今日にいたるまで人気を得ているティルの戯曲は『マリャーンカ夫人、連隊の母』Paní Marjánka, pluku (一八四五)である。この劇のなかでティルは三月革命前の田舎の社会をリアルに描写することにつとめ、彼の民主主義的思想をを表現した。
同時代の生活を素材として劇化したものは『プラハの酔払い』 Pra~ýský flamendr (一八四六)、『放火犯の娘』Pali ova dcera (一八四七)、『破産者』 BankrotáY (一八四八)、『あわれなペテン師』 Chudý kejklíY (一八四八) であり、このうち最も成功し、今日まで最も多く上演されているのは『放火犯の娘』である。この戯曲は純潔で意思堅固な娘と小市民的環境との葛藤をもとにして出来ている。ロザールカとその父と、後家のシェスターコヴァーという人物たちのなかに、ティルは彼のすぐれた性格化の技巧とリアリスティックでドラマティックな人物を創造する能力を証明している。
 しかし、ティルの演劇遺産の本当の核となるのは、童話的また歴史的題材の戯曲である。第一のグループに属するものは『ストラコニツェのバグバイプ吹き、または、奇妙な女たちの宴会』Strakonitcký dudák abeb Hody divných ~en (一八四七)、『頑固な女』 Tvrdohlavá ~ena (一八四九) 『イジークの幻覚』 JiYíkovo vidní (一八四九) それに『森の乙女、または、アメリカへの旅』 Lesní panna aneb Cesta do Ameriky (一八五〇)である。
このなかでチェコの舞台で最も人気を博したのは『ストラコニツェのバグパイプ吹き』で、この作品はチェコの田舎の人々のなかの典型的な人物たちを芸術的に表現している。また、リアルな性格づけのゆえに、また、詩的アレゴリーの魅力のゆえに、また、なによりもその基本にある愛情の、そして同時に愛国的モティーフの感情的な作用のゆえにであった。まさに,それゆえに『ストラコニツェのバグパイプ吹き』は民衆の、そして民族の戯曲とみなされ、わが国の劇場の主要なレパートリーのなかで不変の地位を占めているのである。
 劇の単純な事件の構造は童話的性格をもっている。シュヴァンダの母親、森の妖精コソヴァは息子のバグパイプが魔法の力を得るように祈る。有名な音楽家として世界中を放浪しているシュヴァンダは世間の誘惑に屈して、ドロトカにたいする自分の恋を拒否する。母親の自己犠牲とドロトカの献身によって最後に悪女たちの魔力から解放され、正しい道にもどる。
バグパイプ吹きのシュヴァンダは、富への願望と同時に、自分の故郷の地方根性への反発から外国へ旅だつのだが、ティルはこの人物の牲格のなかに、恋人や祖国を愛してはいるが故郷にいては落着かない、そして外国に行ってはじめてその不安な感情が洗われ、安定するというチェコ人のひとつの典型を描き出した。生れ故郷にたいする忠誠という基本理念は、この戯曲のなかで、とりわけ金銭にたいする願望によって決定づけられる対立的姿勢とたえず対決させられている。このような姿勢の具現化の一人が傲慢な軍人シャヴリチュカであり、他の一人は老いさらばえた世界旅行家のヴォツィルカである。
『ストラコニツェのバグパイプ吹き』においてティルは人物の性格づけの技術を最大隈に発揮した。彼は方言を使わずに全国民的タイプの言語手段を完全に機能的にもちいて、その個々の性格の違いを表現することができた(それらの人物たちのなかで最も成功したのは、シュヴァンダとともに、ヴォツィルカと旅音楽師のカラフナである)。
 ティルのこの技巧の実例としてシュヴァンダとヴォツィルカとの最初の対話を見てみよう。(第二幕、第七場)


 ヴォツィルカ: よう、親愛なる楽士くん――あんたの手にキスをして、心から歓迎いたしますぞ。
 シュヴァンダ: い、いや、離してください――なんのつもりです!
 ヴォ: わたしは、もうずっとまえから、この瞬間を待ち望んでおったのです。わが高名なる同郷人にたいして、この心の底からのご挨拶のできますことをな。
 シュ: (生き生きとして) あなたはチェコ人ですか?
 ヴォ: そうですとも――正真正銘! 国じゃあ、連中、わしには我慢ならんじゃと、で、ちょっとばかり世界ちゅうもんを見てこいというわけじゃ。 シュ: ところで、今、何をなさっておられます?
 ヴォ: あんたの尻にくっついて、その妙なる楽の音に聞きほれてござるよ。おかげで、わしは、つまりじゃ、いわば最後の靴をはきつぶしとるのよ。――すべては芸術への純粋な愛よりいでしこと。
 シュ: なんて無分別な。
 ヴォ: むろん――だがな、いまどき、こんな音楽ばかが、たくさんござりますぞ――今じゃ、それはもうコレラのようなもんじゃ。それに、お見受けしたところでは、あんたには、身のまわりのお世話をする人もいなさらんようじゃな。音楽会を取り仕切り、批評家先生に招待状を送ったり――もし、あんたのこの様々の雑事を片づけるために、身どものしがない奉仕をば、提供させていただけますならば、身にあまる幸せと思いますぞ。
 シュ: それは、きっと大変な仕事だと思いますよ。
 ヴォ: それこそ、わたしの望むところ。しかるべき人物には、誰にでも、秘書というもんがございます。あるいは召使い、腹心、あるいは、まあ、なんという呼び方をされようとかまいはしませんがね――このような人間は、その方にとっては、極めてありがたい賜物でございますよ。
 シュ: それで? ――わたしはこれまで自分ひとりでなんとかやってきた――そうでないときは、酒場から召使いを借りてきた。もちろん、いろんなことは、わたしを疲れさせた。まったく、その通りだ――
 ヴォ: ほうらね、思うに、そいつら、どうせ小僧っこだったんでしょう! 悪党だったんだ! しかし、今や、そのすべての苦労はおしまいです。――わたしがあなたの側にいるからには、大いに人生を有効にお使いなさい。――あらゆる苦労とはおさらばだ。わたしはあんたのために旅の世話から、音楽会、宿の世話まで面倒を見ますよ。なにもかもです! ほら、ごらんなさい。とたんに、すっかり気が楽になったでしょう。
 シュ: なるほど、そう思いますか…あんたがわたしと一緒にいられるとしたら。少なくとも、もう、寂しくはありませんよ。
 ヴォ: おお、あなた。心からあなたに.感謝します。
 シュ:しかし、あなたは止直なひとですか?
 ヴォ:やれやれ、なんてことだ、いったい、わたしをどう御覧になっているのです、わたしは正直そのものですよ。わたしの体を真っぷたつに裂いてごらんなさい。正直の塊だってことがわかりますよ。――もし、あなたがわたしに敬語なしでお話しになるなら、わたしは光栄に思います。
 シュ:わたしにしても、同じです。――でも、あなたのお名煎は?
 ヴォ:バンタレオン・ヴォツィルカです。
 シュ:すぱらしい名前だ。
 ヴォ:英語の名前です――あんまり美しいとも言えませんが、それでもわたしは、誇りにしています。


 ティルのおとぎ語には通常、韻文の詩句が挿入されている。そして、それは原則として童話的存在の語りのなかにある。それに挿入された対句(クプレット)もまたこの種の芝居に特徴的である、そして、その目的は舞台と客席とを積極的に緒びつけることである。 ある時など――『頑固な女』 (一八四九)では、ティル劇のなかでももっとも明瞭に、一八四八年の事件にたいして反応している――この対句のなかに作品の理念的意図を盛りこんでいる。その例として第三幕の歌から一部を引用してみよう。

古き風衆のくびきは砕かれ
かくして、あらゆる街の隅々から叫び轟く。
さあ、今こそ、一挙に立ちあがり
よろこびに、舞い狂おう
われらの自由を、謳歌しよう、


だが、一^方で歓声があがれぱ
他の一方で、嘆きの声だ。
やれやれ、なんたる混乱、
おお、古き時代よ、もどって来い。
たしかに、昔は、安らぎがあった。
自由は神の炎
すべての至溜、純潔な炎
自由の息吹に、暖まりしものは
その流れに、洗われしものは
永遼に力を得る、


ただ、下劣なる精神のみが、不平をこぼち
大砲が、その精神と、二重唱を吹き鳴らす
そして、泉を濁すところでは
大きな石を、放りこめ
そいつをすぐに、やっちまえ。

 社会批判的内容と意図をもった作品を、ティルは他にもは書いている。一八四九年の劇『イジーの幻覚』で、この作品本来の意図はそれほど教訓的なものではなく、怠け者の使用人をこらしめる童話をもとに作られたもので、新しい社会矛盾が大きくなり、欺瞞と搾取が横行しはじめた革命以後の杜会関係を断罪するようなものでもなかった。
ティルの童話劇の最後の作品『森の乙女』(この作品に先だって一八五〇年に書かれた B・ニェムツォヴァーのおとぎ話を題材とした、不成功に終わった戯曲がある) は『ストラコニツェのバグパイプ吹き』に通じる中心思想がある。ティルは故郷を捨て、海の向こうに幸福と存在の場を得ようとする当時の時代的傾向にたいして論を構えている。つまり、祖国のため、民族のために働くことこそ、ひとえに、満たされなかった革命後の社会関係を変えることに寄与できると信じたのである。 『森の乙女』のなかでティルは三月革命前の民族の自覚のプログラムヘの回帰を基盤にすえている。それは何よりもチェコ民族の発展とチェコ演劇のすでに乗り越えられた段階の表現として、なにゆえに時代批評が演劇を受け取ったのかの理由である。――この戯曲はティルの最もすぐれた劇作品の範疇には入らないが、それでも今日までわが国の劇場において上演されてきた。
 ティルの歴史劇もまた同時代の民族社会の生きた間題を指向している、それらは四〇年代の後半に書かれた。この当時、チェコの歴史はまだ体系的に調査され、また専門的に研究されてもいなかった(パラツキーの作品がやっと公にされたぱかりであった)。それゆえ、ティルは学問的文献の助けを十分得られなかった。だが、それにもかかわらず――いずれ、それを読めぱわかることだが――ティルがチェコの歴史を十分正しく把握していないとか、彼にとって歴史的事件は純粋に現実的な意図と目的をもった舞台の物語のための舞台装置の役しか果たしていないというのは間違いである。こうして間もなく、歴史的題材をもつ最初の戯曲――『残酷裁判、または、クトナー・ホラの坑夫たち』 Krvavý soud aneb kutnohorský havíYi (一八四八)――は歴史的事実にもとづいて創作されている。
ティルは古い文献 (たとえぱ、ミクラーシュ・ダチツケーホ・ス・ヘスロヴァの『回想記』 Pamti)  からばかりでなく、彼の生まれ故郷の町に語りつがれていた実話から知ったのである。そして同時に、なんら力むこともなく、しかも思想的にも劇的にも最高に効果的な手法をもって観客にヴラディスラフ・ヤゲロンスキー王の時代 (十五世紀末、ポーランド王朝) の搾取にあえぐ坑夫の悲劇と、十九世紀四〇年代の、耐えがたい社会状況がチェコのプロレタリアートを飢餓暴動やストライキまた工場襲撃に駆りたてるチェコ労働者との間の基本的な相互関係を暴いてみせたのである。たとえティルが描いた解決策は、民族的かつ社会的対立の妥協的な均衡という自由主義的民主主義的理念だったとしても、それでもクトナー・ホラの坑夫たちの客観的印象は社会革命的なものであった。
 したがって戯曲の上演はまた――一八四七年春には書きあげられていた――オーストリアの検閲によって禁止された。そして一年後に革命期の一時的に統制のゆるんだときに上演することができた。
『クトナー・ホラの坑夫たち』は歴史悲劇に関する再興期の (その後の時代においても) チェコ人の試みの数すくない成功例の一つである。劇の構成的な力点の置き方、古典的五幕構成の劇的機能性、それにリアリスティックな内容と大部分の人物の性格描写はクトナー・ホラの坑夫たちから、十九世紀のわが国のドラマ発展における基礎的な意昧をもつ作品を作りあげている。
一八四八年の革命期の芸術的反映となっているのは、次のティルの歴史劇『ヤン・フス』(一八四八)である。これは五幕からなる韻文劇でフスの活動の最高の段階の事件からフスの死にいたるまでを描いている。この劇の基本的意図は数世紀間を通じて抑圧され、カトリックのプロパガンダが悪意をもって汚してきたフスの生きた遺産に観客の注意をひきつけることであった。
フスの理念的プログラムをティルは劇のなかで、一八四八年の後半以後の自由思想運動の精神に翻訳した。フスの教会にたいする戦いは一人間の個性の解放を求める近代的な運動として把握され、民族性のモメントも激しく強調された。いくつかの個所では、まるで四八年の民主主義的理念が直接的に語られ、同時代者の民族意識を覚醒させている。

フルム: ……われは間わん、いかなる理由ありて
この国で外国人がまるで己れが召使に言うがごとくに命令するのだ。すでに、われわれは彼らのくだくだしい言葉を久しく聞いてきた。そのけたたましさで怯えさせようとするのだろうが、波は岸を砕きはせぬものだ。
ペットル: おまえは誰だ、この生意気な男は、え……
フルム: われわれは自由なるチェコ人。しかし、自由なる民族の名において、いま、われは発言するのだ! われはチェコ人。あえて言おう。ここはわが祖国――しかして客人の権利がなんじにはあるのみ。つまり、なんじはこの地の主ではないのだ。
ペットル: 教会の名においてもか――
フルム: その隠れ蓑を取るがいい、すでに
長年にわたり、ただひたすら、己れのありのままの姿を覆い隠さんがため
まとい来たりしもの。だが、われらは見抜いている
おまえらのゆえに、よそものの支配者の意思に
束縛されはしない。おれらは力つよき民族なり
自由のためには、己れの血を流そうとも
いといはせぬ――われらが自由の権利を、よそものの
手が収奪したがゆえに、もう十分すぎる年月のあいだ、われらは
己れの血を流してきた。だが、もうこれ以上、そうはさせぬ
絶対に、されはせぬ……


 この劇の初演――一八四八年十二月二十六日におこなわれた――はプラハではかつてない政治事件となった。ティルの伝記作者J・L・トゥルノフスキー Turnovský はこのことを次のように記している。「嵐のような喝采の声は劇場内はおろか、劇場に入れなかった群衆が街顛にあふれ、一幕ごとに劇の進行の報告をうけた……警察も舞台の内外の情景をつぷさに報告していた」と。
 ティルの第三の歴史劇は『血の洗礼、または、ドラホミーラとその息子たち』 Krvavé kYtiny  ili Drahomíra a její synové (一八四九)だった。この劇のなかにも、これ以前に書かれたティルのドラマと同様に、それが書かれた時代の間題性を反映している。それは、わが国における再興された反動が登場してきた時代であり、市民階級の最も保守的な代表者たちが改めて優位をかち得ようと努カし、それを支配者や教会に追従することによって確かなものにしようとした。このような日和見的な時流に反抗して、ドラホミーラを主人公とした偉大な愛国的ドラマをひっさげて登場したのである。
この女貴族は伝統的に――チェコ歴史の教会概念の意味において――ネガティーヴな人物として理解されてきたのであるが、ティルは彼女を悲劇の主人公として描き出した。彼女はルドミラや意思薄弱なヴァーツラフとは異なり、ドイツ教会の圧力にたいして反抗の気概を示す。そして民族意識を抱き、すべてのスラヴ民族の団結に骨身を削る。ヴァーツラフがキリスト教的忍耐と献身の権化として描かれているのにたいして、年少の息子ボレスラフは彼女の意図と性格を共通にする、それゆえティルの劇においてはボレスラフの犯す殺人は貴族の地位を欲する彼の個人的願望によって動機づけられるのではなく、彼の相反する政治的理念によるのである。
『血の洗礼』はティルの戯曲のなかでも比較的シェークスピアの大悲劇の近いといえる。とはいえ、決してエピゴーネン的性格の作品ではない。それどころか、この作者特有の創造性をも有しているのである。一般に知られたこの劇の筋は(たとえ、それが前世紀の四〇年代未のわが国社会の時代状況に由来するものであるとはいえ、後の時代においてさえも思想的観点からも刺激的である。だからこそチェコ演劇の不変のレパートリーでありつずけたのである。
 ティルの他の歴史劇もまた擡頭してくる反動にたいして民族の民主的権利の防衛という理念によって導かれているが、それらの芸術的意義はすでに小さい。
『トロツノフのジシュカ』}i~ka z Trocnova (一八四九)、『市民と学生』M$#353;t'ané a $#353;tudennti (一八五〇)、『スタレー・ムニェストとマラー・ストラナ』Staré Mst a Ma;á Strana (一八五一) などがそれである。これらのなかで最も成功したのは最後の作品で、そのなかでティルはインジフ・コルタンスキーの支配する時代 (十四世紀の初頭) の物語にもとづき、チェコにおける支配者にたいする民衆の反抗の始まりを明ちかにしている。こうしてバッハの反動支配体制の擡頭期におけるチェコ民衆層の自意識を目覚めさせているのである。


 ティルは小説の作者としても同時代の読者の人気を得た。そしてそれらの作品は雑誌に掲載され、さらにそれらのなかから『心のかけら』 Kusy mého srdce と題する作品集が一八四四年に編纂された (ここでは同時代からのテーマをもった散文作品が収められている)。ティルは例外なく小説のなかの愛国的行為の実例を盛り込もうと努めている。そして同時代者たちがその範例に見習うように導こうとしたのだった。その方法として、とくに読者にたいする情緒作用を利用した。したがって作品は本質的に愛国心をあおる傾向性の強い散文となった。それらは当時のドイツ文学を通して知られていた、いわゆる感傷小説の形式に近かった。(たとえば、それらの作品の作者としては、アウグスト・ラフォンテーヌ August Lafontaine、クラウレン Clauren――本名カルル・ホイン Karl Heun――あるいは、カルル・ヴァン・デル・ヴェルデ Krl van der Velde). この領域のティルの個性を示した作品は、とくにあげるなち、『音楽の冒険者たち』 Hudební dobrodruzi (一八三三)、『詩人の恋』 Láska básníkova (一八四〇)、『悩む人』 Rozvranec (一八四〇、マーハ的ロマン主義者タイプにたいする批判とカリカチュア)、『祖国と母』 Vlast a matka (一八四四)、長編小説『最後のチェコ人』 Poslední  ech (一八四四)などである。この最後の作品は一八四五年、カレル・ハヴリーチェクの有名な批評の対象となった。彼はこの作品の感傷的、愛国調を拒否し、そして確信をもってわが国における感傷的、愛国的小説のこのジャンルのすぺての作品の芸術的かつ理念的非創造性を指摘した。
 いくつかの散文作品のなかでティルは当時の社会間題にも敏感に反応を示した。彼は都市や地方の労働者の窮状をあからさまに描き出して(『貧しい人々の生活より』Ze ~ivota chudých (一八四九)彼らにたいする同情を呼び覚まそうとした。ここではまだ真の社会小説と言ううわけにはいかないが、ティルは少なくともわが国における社会小説の先駆者の一人に数えらることは確かである。
現代小説とともにティルは、いくへんかの歴史的題材をもった小説も書いている。彼が手本としたのは、一人はV・K・クリッツペラであり (とくに、彼の短篇小説『トッチュニーク』)、他の一人は英国の文豪ウォルター・スコット (一七七一―― 一八三二)であった。
しかし、ティルは散文作品のこの頒域では表術的に重要な成果を得ることはできなかった。彼の小説の背景は時代と状況の特徴的性格をとらえようとの、取り立てて言うほどの努力もされず、お手軽に描かれている。物語の思想的響きは原則として明確にアクチュアルである。このことは、たとえぱ『クトナー・ホラの勅令』 Dekret kutnohorský (一八四一)にも言える。このなかでティルはチェコの民主的な民族の権利を描き出しているが、一方、『チェコ国内のブランデンブルク人』 BraniboYi v  echách (一八四七) では十三世紀の文学的情景描写を介して、同時代の庶民階級の社会的圧迫を描き出している。――『ロジナ・ルタルドヴァ』Rozina Ruthardova (一八三九)もまた民族教育的傾向をもっている。この作品の歴史的枠組みはヴァーツラフ二世統治の時代の政治的事件であり、生れ故郷の町の美しい裏切り者の女についてのクトナー・ホラに伝わる伝説を素材としている。


ティルの批評活動は広範である。それは文学の領域ならぴに劇場の領域である。そしてこの批評活動はティルの他のジャーナリスト活動と一体となってかかわっており社会における最もアクティーヴな芸術の機能の必要性についての彼の信念を表明している。ことに劇場は生活現実と密接に結びつくように、そして生活現実から出発し、生活現実に帰ること求めている(「劇場は人生であり、人生とともにある」 "Divadlo je ~ivot a ide zase do ~ivota")。
それはティルが批評かとして広言したぱかりでなく、彼自身が自己の創造活動によって遂行した要求であった。それゆえにこそ、リアリズムをめざすわが国の十九世紀の演劇の発展をかくも見事になしえたのである。


 ティルと同じ時期に演劇創造の領域で二人の若い同時代者であり、理念的には敵対者がいた。J・J・コラールとF・B・ミコヴェッツである。彼らはティルの劇場の民主化と社会的機能、リアリズム的傾向への努力と反対し、大きな、そしてその大部分は歴史的ドラマ理念を提唱した。そしてそれらの劇のなかには非凡な個性の感情と理念とが描かれるはずであった。ミコヴェッツにとってもコラールにとっても、その主な手本はシェークスピアとシラーであり、二人はこれらの完全な熟知者であった。
 コラールもミコヴェッツも同様にチェコ演劇の発展的可能性を民族的防衛闘争の限界の向こうへ広げ、わが国の戯曲や演劇をヨーロッパ的コンテクストのなかに組み込む必要性の確信から出発した。しかし彼ら自身が自分の演劇作品によって本質的にこの目的達成に成功することはできなかった。彼らの戯曲はわが国の舞台ではすでに忘れ去られている。それらの作品には芸術的オリジナリティーと個性とがあまりにも乏しいのだった――たとえ一二人の作家が彼らの活動の他の領域において際立った個性として存在していたとしてもである。
ヨゼフ・イジー・コラール Josef JiYí Kolar (一八一二― 一八九六、ほんとうの名は KoláY) は「暫定劇場」 Prozatímní divadloのすぐれた俳優であり、演出家であった。そして、特にチェコの舞台に単に上演者としてぱかりではなく、翻訳者としてシェークスピア劇を紹介したことにおいても功績を残した(とくに、『ハムレット』『マクベス』『ベニスの商人』など)。この他にも、シラーの主な戯曲、ゲーテの『エグモント』『ファースト第一部』を翻訳した。――彼は多くの戯曲を書いたが、そのほとんどが、あまりにもロマンティックな歴史悲劇で、そのほとんどすぺてが外国の原典に基づいたものであった。そしてそのことはすでに同時代者(ハーレク)が厳しく指摘しているほどであった。
コラールの主要作品は『モニカ』 Monika (一八四六)、『ジシュカの死』 ~i~kova smrt (一八五〇)『マゲローナ』 Maglóna (一八五二) およぴ『プラハのユダヤ人』 Pra~ský ~id (一八七一)である。この最後のドラマはわが国の劇場のプログラムのなかに一番ながく残ったものである。それは一つには、チェコの愛国的ユダヤ人という中心的人物の性格がうまく描かれていたこと、他の一つは、「白山後」期の迫害時代の場面の描写がセンセーションを巻きおこすほど派手であったことにもよる。
フェルヂナント・プジェティスラフ・ミコヴェッツ Frant$#353;ek BYetislav Mikovec (一八二六 ― 一八六二)はジャーナリストであり、また広い視野と深い学識をもった演劇批評家で、理論家であった。そしてシェークスピア作品を大いに推賞することによってチェコ演劇のレパートリーを向上させようとつとめた。彼自身、作家としてはシェー一クスピア作品の影響を受けたが、そのことは二つの彼の作品が証明している。『プシェミスル家の没落』 Záhuba rodu PYemyslovco (一八四八)と『ディミトルイヴァノヴィッチュ』 Dimitr Ivanovi (一八五五、部分的にシラーの断片を用いている)。この二つの劇は当時の観衆にとっては、彼の愛国的にアクチュアルな傾向と、人物と場面の構成が比較的うまくいったおかげで、成功を収めた。だが全体としてみると、これらの二作品の劇的性格は単に表面的でロマン主義的仕来りが過剰で、したがって――作者の善意に反して――四〇年代、五〇年代のチェコ演劇の発展における新しい段階を指向しているというよりは、むしろすでに超克された段階へ向っていたといえる。



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