(3) カレル・ヤロミール・エルベン Karel Jaromír Erben
時代的に見て、マーハとマーイ派とのあいだの最大の詩人はカレル・エルベンである。一八一一年、ポドクルコノシュのミレティーニェの貧しい職人の家に生まれた。フラテッツ・クラーロヴェーのギムナジウムを卒葉して、プラハで哲学と法律を学び、そこで裁判所の職員として働いたむ後に、王立チェコ科学協会 Králova
eská splole
nost nauk の職員となり、チェコ博物館の書記 sekretáY となり、一八五一年からはプラハ市の古文書保存員、そして最後には(一八六四年以後)プラハ市の付属機関の所長となった。――学生時代にエルベンはK・H・マーハと交際し、Fr・パラツキーとも知合い、彼とは後に一緒に仕事をし、彼の政治思想に絶えず影響をうけた。――彼は「プラハ新闘」 (一八四八―一八四九)と 「地平」 Obzor (一八五五) を編集し、国民議会のメンバーにもなり、プラハのスラヴ民族会議にも参与した。一八六七年にはチェコの代表団の一員となりモスクワヘ行った。だが、それ以外には、極めてまれにしか公のことには参加しなかった。そして一八七〇年にプラハで没した。
チェラコフスキー、ハンカ、その他の同時代者と同様にエルベンも民衆詩の収集にとりつかれた。グリム兄弟的発想にもとづいて、彼は口承文学のなかに古い宗教神話の反映を探し求めた。それは時代の流れとともに変貌し、ときにはおおい隠されがちな民衆の願望であり、伝統である。そして、それはさらに、このロマン主義的理論によれぱ、民衆詩、あるいは伝説の根源的内容でもあった。(エルベンはこのスラヴ民族の神話の間題に学者としても観察の目を注いだのである。たとえぱ、一八四七年には彼の研究の成果は『妖精と運命の女神』 ViIy
ili Sudice となってあちわれた)
エルベンの収集家としての活動の結果は『チェコにおける民族の詩』 Písn národní v
echách (一八四二 一八四五)の三巻であり、それに一連のメロディーや重要な研究論文 『民族の詩に関する一文』 Slovo o písní národní を加えている。改訂され一層充実された版は一八六四年に『素朴な民族の小歌とわらべうた』 Prostnárodní
eské písn a Yíkadla として出版された。そのなかには二千二百以上の歌詞がふくまれ、主題によって分類され、詐細な解説が加えられ、他のスラヴ民族の同種の歌詞と比較されている。
『花束』のなかの挿絵"Kytice"1943年版
エルベン自身の文学作品は彼の収菓家としての活動と密接に関連している。そのことは詩にも散文にもいえる。エルベンの詩集は一八五三年に 『民族伝説の花束』Kytice z povsti národoních というタイトルで初めて出版された。二度日は広範な改訂のもとに(機会ごとの歌詞の分類をくわえ)『K・エルベンによる詩の花束』 Kytice z povst básní K.J.Erben というタイトルで一八六一年に出版された。この詩集の核をなすのは民族の伝説部門の十二編の詩である。そして、そのまえに『花束』の序詩が、それに先だって置かれている。そのほとんど全体が、スラヴその他の民族の様々な伝説にもとづいて作られたバラード風の作品である。この詩集の詩は三〇年代の後半から五〇年代の初頭にかけて生まれたものであるが、それにもかかわらず芸術的にも思想的にも一貫性をもっている。
この詩集の最初の詩『ザーホシュのベッド』(盗賊の名――良心の良心の呵責の比喩)をエルベンは一八三六年に書きはじめた。スラヴ民衆の詩の他にも国の内外を問わず、その時代のあちゆる表術的詩がエルベンに影響をおよぽしている。チェラコフスキー、ハンカ、またJ・J・ランゲルは言うにおよぱず、ミッキエヴィッツ、ゲーテ、ビュルゲルにいたるまでである。しかし『ザーホシュのベッド』ではK・H・マーハの影響まで読みとれる。つまり、未知のなかに歩をすすめる巡礼者のシンポル、夜の風景の暗示的表象などは『マーイ』の詩人との関連性を思い起こさせはするが、決してエピゴーネン的な意昧でではない。それどころか『ザーホシュのベッド』には、同時にマーハとの、そして『マーイ』の主人公の反社会的反逆についての隠された理念的論争も含まれている。――それは決して高邁な意思への反発ではなく、謙虚と改悛がエルベンにとって人間救済の道なのである。――この確信はやがて他のバラードをも貫いてくる。
われわれの誰もが、ある何らかのより高い規範に従っているのである (エルベンによれぱ、それはある時は世間的道徳であろうし、あるときは自然、ある時はキリスト教である)。そしてこの規範を犯せぱ即刻罰がくだされるのである。
その例は『宝物』 Poklad という詩のなかにある。自分の財宝に隷属していた母親が、ある瞬間、自分の子供よりも財宝のほうに重きをおく。そして子供との一時的な離別によって罰をうけるというのである。
『昼霊』Polednice は激怒のあまり自分の子供にたいする復讐のために超自然的怪物を呼ぴ出した母親が、そのためにもっとひどい報復をうける。
『花嫁衣装』 Sváte
ní koaile のなかの娘は、聖母マリアを冒涜し、許しを請わないかぎり破滅せずにはすまされない。
その他の詩のなかで、罪は、認識可能な人間の世界と人間には近づきがたい不可知的な秘密の領域との間の境界の単なる侵犯といった性格のものである。
『柳』Vrba では若い妻が夫の無意識で犯した罪のために生命をもって償う。
『クリスマス・イヴ』 `tdrý den では、二人の娘によって暴かれる予定された運命が前もって暗示される。
『河人(かっぱ)』 Vodník では若い女が禁止されているにもかかわらず、母親を抱いたとき、神話の掟を破る。そして子供を失うことによってその罪の償いをするのである。
具休的な、意図的な罪によって罰されたり、またその罪が暴かれたりするのはほんの数例にすぎない (『ザーホシュのベッド』、『鳩ちゃん』Holoubek 、『金の糸車』 Zlatý kolovrat 、『ユリ』 Lilie)。 一つの例 (『娘の呪い』 DceYina kletba) では、結局、罪の暴露の物語は本質においてリアルな性質をもち脱神話的物語となっている。『花束』の序の他に非バラード的性格をもっているのは最後の断片的な『巫女』Vatkyn だけである。これは愛国心の鼓舞を意図して創作されたチェコ民族の過去の歴史の場面の連続である。
エルベンの詩的手法はバラード的作品のなかに最もよく認識されるように、まったく特殊な性格をもっている。チェラコフスキーと同様にエルベンも民衆詩! lidová poesie の研究から成長してきたのである。そして民衆叙事詩のいくつかの約束ごと postup をとり入れた。エルベンはその詩的表現を、彼自身が熟知していた民衆の言葉によっており、その語彙とその意義的価値を最高度に機能的方法によって詩的に使用することができた。
しかしチェラコフスキーとの違いは反映理論を否定したことであった。彼は伝説の発生的原型とともにその普遍的意昧を探求した。それゆえに時間的、場所的特定化を排除し、同時に、各々の人物の個人的性格特徴を、それらの普遍的典型化のおかげで弱め、あるいは完全になくしてしまったのである。――最大限の簡潔な叙述、表現の完壁ともいえる正確さ、対話の決定的働き、そして事件の急激な結末はエルベンのバラードにドラマチックな性格を与えている。これらの特徴のすべてを、たとえぱ『金の糸巻』は備えており、そのなかで特に対話の作用と劇的簡潔性というエルベンの技法が明瞭にあらわれている。
森をとりまく、野や畑
来たぞ、ほら、来た、一人の紳士
黒き悍馬に、打ち乗って
ひづめの響き、軽やかに
小屋をめざして、まっしぐら
小屋のまえで、馬から飛ぴおり
小屋の扉を、コツ、コツ、コツ
「さあ! 開けたまえ、みなのもの、
いち早く、わが目のまえに
わが喜ぴを、示したまえ!」
いで来たりし老婆は、骨と皮
『こりゃ、なんと、貴人のお出まし?』
「おまえの家には大変化
所望いたすぞ、わが嫁に
おまえのうちの、まま娘」
『これは、たまげた、旦那さま!
正気でそれを、お望みで?
そりゃ、大事なお客だ、大歓迎
とはいえ、あなたは、どなたさま?
そもそもわが家に来られたは、なにがゆえ?』
「われ、この国の王にして、領主なり
偶然、昨日、選ぱれた
おまえに、銀でも金でも遣わそう
おまえの娘、くれるなら
かわいい、糸つむぎの娘をぱ」
『おお、なんと、これは王様、おったまげ
こんなこと、誰が夢にも望みましょう?
たとえ、あなたさまの慈悲深い
思し召しとは申せども
わたしどもは、それに値するものではありませぬ!』
『それでも、しかし、ご進言、どうかお承りくださいませ。
よその娘はやめにして――わたしの娘、さしあげます。
それはそっくり、瓜ふたつ
お顔の両の目、そのように――
その糸、紡ぐは――絹の糸!』
『ぱぱよ、そなたの進言、怪しからぬ!
余が命ずるままに、するがよい!
明日、日が高くなるまえに
おまえの、まま娘をぱ連れて来い、
王の城まで、わかったな!」
エルベンは詩の創作やスラヴの民衆歌謡の収集のほかに、長い年月にわたる体系的な関心を民衆の寓話、とくにスラヴ民族の寓話の研究に注いだ。その記録は『スラヴのその起源の方言による素朴な民族童話と伝説百編』 Sto prostonárodních pohádek a povstí slovanských v NáYe
ích povodních (一八六五) という彼の編纂である。これは『スラヴ例文集』 ítanka slobanská というタイトルでも知られている。チェコ語への翻訳と小規模な選集の形で一八六九年に『スラヴ系他民族の寓話と伝説の選集』 Vybrané báje a povsti národní jiných vtví slovanských というタイトルで改めて出版された。――
しかし、チェコの寓話の出版の準備にエルベンは一番大きな努力を払った。個々には四〇年代の半ぱからすでに出版されていた。しかし本としての出版はすでに彼一人の力では実現不可能だった。一九〇五年になって初めてエルベンの『チェコの寓書』の巻は出版された。この版はヴァーツラフ・ティッレ Václav Tille が編集した。
エルベンは韻文の民衆叙事詩にたいするのと同様に、寓話にも接近した。スラヴの民話 bájesoví の比較研究と民衆文学の神話的基盤に関する理論から出発した。それゆえ、彼自身の民衆の語り物 vyprávní の改作によって、伝奇読物 bachorka の想像しうる原形を明らかにしようと努力した。そして、そのなかにはしぱしぱ盛り込まれた暗愉的意昧を発見した。こうして『長くて、広くて、千里眼』 Dlouhý $#353;iroký a Bystrozraký という物語においては、冬にとらえられた夏の女神の解放についての神話の比喩を発見した。また『金色の髪の三人の全知老人』 TYi zlaté Vlasy Dda-V$#353;evda という話では太陽神話の痕跡を見出だしている、またその他の物語 (たとえぱ、「火の鳥」Pták Ohnivál 「赤毛の狐」Liška Ryaka 「金髪の娘」Zlatovláska 「生き水」 Zivavoda) のなかには魔法の主題が優勢で、これらの主題は物語の暗喩性の下に隠された神話的土台を明かそうとするエルベンの努力に十分こたえうるものであった。 それゆえにエルベンの寓話はそのほとんど大部分が (彼のバラードと同様に)、場所、時間の特定を排除している。このことによって彼の寓話は B・ニェムツォヴァーのものと区別される。
ニェムツォヴァーにおいては、反対に、具体的生活環境や状況がはっきりと描きだされている。――エルベンは寓話的素材をもとに創作するとき、完全に考え抜かれた構成的設計に従って進めた。そしてその構想にたいして民衆の語り物の傾向としての即興性を従属させた。彼の書語表現は極端に無駄のない、同時に含蓄のあるもので、方言の使用を排除している (エルベンは自作の民話、伝説、小話でのみ方言をもちいているが、それもホド地方の言葉にかぎられている)。
エルベンが民衆文学の神話的起源にかんする時代思潮に導かれて、童語においても運命的なモチーフを提示しているとはいえ(たとえぱ、『金色の髪の三人の全知老人』)、 これらの童話が運命にたいする諦念を表現しているのではないのは確かである。むしろその反対である。そのなかでは肯定的生命力や生命の価値についての確信があちわれている。たとえぱ、悪にたいする善の勝利。不義にたいする正義の勝利などである。この基本的意昧においてそれらの作品はチェコ民話の精神と思想的意図の忠実な表現となっているのであり、それゆえに、また、まさしく――B・ニェムツォヴァーの童話とともに――わが国の童語文学作品の古典としての評価を得ているのである。
エルベンの編纂者として翻訳者としての活動もまた極めて豊かで、大きな功績を示すものである。したがって、彼が出版したもののなかでも、とくに『シュティートネーホの六巻の小冊子』 `ítoného Kní~ky aestery (一八五二)、『フスのチェコ語の著作集』
eské spisy Husovy (一八六五―一八六四、三巻よりなる)および『古代ロシアの二つの歌』つまり『イゴール公とザードンシュティン公の遼征について』 O výprav Igorov a Zádonatina (一八六九)の翻訳などである。