(2) ロマン主義の終焉


 文学の主要人物に目を向けるまえに、今日ではすでに忘れられてしまったが、その作品のなかに古い傾向の余韻を響かせてはいるものの、それでも所々に進歩的努力もかいま見られる作家たちのことを思い出してみよう。
 四〇年代には、実は古典主義の余韻をその作品のなかに響かせている何人かの作家がいぜんとして創作していた。とりわけヴォツェルとヴィナジツキーがそれに属する。――ヤン・エマジム・ヴォツェル Jan Emazim Vte1 (一八〇三― 一八七一) はプラハ大学の考古学の教授だったが、韻文叙事詩『プシェミスル王朝』 PYemydlobvci (一八三九)、『剣と杯』 Me a kalich (一八四三)、『スラーヴァの迷宮』 Labyrint slávy (一八四六)を書いた。これらの詩はスラヴ愛国主義 vlastenecko-slovanský の精神に貫かれており、詩人というよりは学者といった面影をただよわせている。――カレル・ヴィナジツキー Kare1 Vina&#345icky (一八〇三― 一八六九) はおそ蒔きの古典主義者で、新しい文学の潮流にたいする反対者だった。彼はそれを風刺的な『動物議会』 Snmy Zví&#345at (一八四一,一八六三)のなかで表明している。彼のこの作品の手本となったのは、スミル・フラシュカの『新提案』だった。(本書訳文「十四世紀の風刺」の章中の
引用文を参照)
 ヨーロッパ・ロマン主義詩のエピゴーネンはヤン・プラヴォスラフ・コウベク Jan Pravoslav Koubek (一八〇五― 一八五四)であり、『滑稽英雄譚』 smanohrdinský epos 『詩人の地獄への旅』Básníkova cesta do pekel (一八四二― 一八五二)とエレジーの本『スラヴの詩人たちの墓』 Hroby básníko slovannských (一八五七)の作者である。
 マーハの若い同世代者のなかには、マーハの影響のもとにありながら、個性的な才能を欠いた作者が何人かいる。このことはパラード『遺書』 kaaft (一八四二)の作者ヨゼフ・ヤロスラフ・カリナ(Kalina 一八一六― 一八四七)や、反ハンガリー的『ハンガリア戦争についての歌とバラード』 Písní a balad z valky uherské (一八五〇)やチクルス『セピア色の和声と絵』 Akordy a Malby sepiové(一八七四) の作者でブルノ出身のヴィンツェンツ・フルフ Vincenc Furch (一八一七― 一八九六四) にあてはまる。
 スケールの点でもう少し大きい作家ではヴァーツラフ・ボレミール・ネベスキー(V&aacite;cIav BolemÍ Nebeský (一八一八― 一八八二)であろう。彼は三〇年代四〇年代においては高い評価を得ていたチェコ詩人の一人だった、ネベスき一の詩の『詩人会議』Poetické besedy の出版者である(一八八六) ヤン・ネルダは一八八〇年代においても彼の詩を肯定的に評価していた。ネベスキーは抒情詩とともに叙事詩をもっくり、そのなかでもっとも有名なな作品は大規模なロマン主義的一哲学的詩である『対立者たち』 Protichodci (一八四四)である。ネペスキーは文学批評家としてもすぐれており、世界文学にたいする広い視野をもっていた。そして B・ニャムツォヴァーの文学活動の初期に影響を与えた。
 ニェムツォヴァーの親しい友人サークルのなかにもモラヴァ人フランチシェク・マトウシュ・クラーツェル Frantiaek Matoua Klácel がいる。彼は詩人としてはロマン主義者というよりは古典主義者であった。重要な作品は彼の『抒情詩集』 Lyrické básn (一八三六)や『詩集』 Básn (一八三七)よりも、専制支配に矛先を向けた風刺的政治詩集『スラヴの森でとれた野いちご』 Jahodky ze slovannských lesu (一八四五)である。
 しかしクラーツェルは本当の意昧での詩人ではなく、それゆえに、彼はわが国の文学史のなかでは際立った出版者、そして特に彼の『杜会主義および共産主義の起源にかんする女友達への友人の手紙』 Listy pYítel k p&#345ítelkyni o povodu socialismu a komunisumu (一八四九) によってとくに注目を引く。そしてB・ニェムッォヴァーにフランスの空想的会主義について教えた。
 再興期ロマン主義詩の一部をなしていたのは「社会詩」と「朗読(デクラメーション)」で愛国心の鼓舞にも、また純粋な娯楽の目的にも仕えた。そして一般に民衆詩の伝続に結合している。この領域での達人(mistr) はヨゼフ・ヤロスラフ・ランゲルであり『チェコのクラコヴァーチュキ舞曲』 Xeské kraková ky (一八三五)の作者としてすぐにも思い出される。彼の作品にはフランティシェク・ヤロミール・ルベシュ(一八一四― 一八五三) の名前が結びつく。彼は共同出版者で、わが国最初のユーモア雑誌「親指」 Pale ek (一八一四―一八四七)の実際の生みの親だった。ルベシュは彼の時代では最もポピュラーな社会的韻文作品の作者であり、そのなかの多くが音楽化された。愛国詩『われはチェコ人、これ以上のものはない!』 J´ jsem  ech a kdo je víc? は異常なまでの人気を博した――ルベシュの作品集『広告文と歌』 Deklamovanky a písn は一八三七年から一八四七年までに6巻まで出版された。
 ルベシュは小説家としても、入気を博した。彼のユーモア物語『田舎の図書館員、または小説を訪ねる旅』 Pan amanuensis na venku aneb Putování za novelou (一八四二)は当時席巻していたロマン主義的紋切り型とはことなり一一彼自身一連の散文の情景描写ではそれに忠実に従っていたが――1848年(ウイーンにおける二月革命の年)以前の小市民の現実、その雰囲気、当時の人間のタイプまたは性格を、真実に、説得的にとらえていた。彼はディッケンスの手法にならって場面転換を可能とし、同時に最もふさわしい人物を選択可能とする、いわゆる旅行小説と称する便利な方法を選んだ、40年代と50年代のわが国の文学における特殊な地位を占める二人の作家がいる。この二人にとっては彼らの文学祐動が広範な公的社会活動のほんの一要素にすぎないという点で特徴的である。
 その二人とはK、サビナとJ・V・フリッチュである。二人は詩人または散文家としてはいぜんとしてしっかりロマンキ義に根づいてる。しかしながら二人の場合(少なくとも彼らの最艮の作品においては)同時代の人生の現実性、とりわけ彼ら自身の杜会的進歩の戦いの反映がロマン主義的創造の過程に、また習憤のなkに浸透している。これらの作品のなかにはロマン主義のエピゴーネンとは異なり――生活の現実そのものが芸術的インスピレーションとなっている――。それゆえ、サビナとフリッチュを後期ロマン派の代表者としてばかりでなく、同時に「マーヨフツィ」によって代表される、わが国文学の新しい発展段階の前衛としてとらえる必要があるのである。言いかえれば、ネルダの世代が登場するや、直ちにそれと並んだ場所をこの二人の作家は発見したのである。革命的闘争から起こる諸現実は彼らにとって、まだ生々しい四八年の伝統をマーヨフツィの世代に引き継ぐことを可能にしたし、またかれらの空想社会主義にかんする知識は疑いなく、若い世代に芸術的創造と、社会主義を求める時代的闘争とのあいだの関連性の認識を呼び覚ますのに与って力があった。
  カレル・サビナ Karel Sabina (一八一三― 一八七七)はプラハで私生児として生まれた。まずしい労働者の家庭で育てられ、法律を学んだが途中でやめた。若いころからマーハと交際し、抒情詩や短編小説を書き、文芸批評家として活動した。革命期には「リピール」の仲間に属し、急進派の先頭に立っていた。ハヴリーチェクの後をついで「プラハ新聞」と「フチェラ」を編集し、一八四九年には「ノヴィ二・リーピ・スロヴァンスケー」も編集し、急進的民主的新聞「プラハ夕刊紙」こも協力した。一八四九年には逮捕され、国家にたいする反逆計画への参加のかどで死刑の判決をうけたが、刑は一八年の監禁に減刑され、一八五七年に恩赦をうけた。
彼はマーヨフツィの登場に加わり「芸術議会」のもっとも活動的メンバーの一人であり、労働者運動においても、また青年チェコ党 Mlado eská strana においても活動した。一八七二年、彼はオーストリアの官憲の協力者 konfident であると公表された。彼は公に抗弁したが、無駄だった。彼は貧困のなかに死に、忘れられた。一九一八ねんになって、オーストリア警察の古い文献を見ることが可能になったとき、サビナにたいする嫌疑は証明された。
サビナは詩や散文や戯曲を書いたが、いくつかの注目すべき作品を残したのは散文においてのみであった。そのなかにはマーハの影響をうかがわせるロマンチックな中編小説『墓掘り人夫』 Hrobník (一八三七)や短編集『十四、十五世紀からの風景』 Obrazy ze 14. a 15. vku (一八四四)があり、そのなかには歴史的テーマを現代の社会思想と結ぴつけようとする努力が見られる。短編『村人たち』 Vesni ané (一八四七) のなかでは観念的な描写を排し、田舎の社会のもつ現実的間題性に狙いをつけたチェコの田園の風物を提示している。長編小説『荒野にて』 Na pouati (一八六三) は一八四八年以前の革命へと盛りあがっていくチェコ社会の風物詩となるはずであった。この作品の性格は部分的に自伝的である。この作品の構成の混乱と性格描写の皮相性がこのロマンの評価を低めているのだが、そのなかにもいくつかのところで四〇年代の雰囲気が興昧深くとらえられている。同じことがドイツ語で書かれたサビナのロマン (Leo Blass のペンネームで出版された)『一八四八年三月以前のオーストリアにおける革命の予兆』 Sturmvogel der Revolution in Osterreich vor dem Marz 1848 (一八七九年版、チェコ語では一九二七年になってやっと PYedbYeznoví revolu ní bouYliváci vRakousku というタイトルで出版された)。
 サビナの最も成功した文学作品は短編『生きかえった墓』 O~iven hroby (一八七〇)である。この作品は作者自身の投獄された時代の体験をもとに構成されている。オロモウツの監獄でいろいろな国籍の革命家たちと出会う。当時の政治的思想の状況を反映する彼らの会話や思考はこの作品の意味的重心となっている。成功しているのは人物たちの性格設定と監獄の情景描写である。サビナは戯曲作者としても多作であったが、なかでも『広告』(一八六六)は大いに人気を博した。サビナの戯曲は今日ではすでに上演されていないが、それにもかかわらず、チェコσ)演劇史のなかに、それらの作品の作者は絶えず記録され続けている。それはスメタナのオペラ『チェコのブランデンブルク人』 BraniboYi v  echách (一八六二)や『売られた花嫁』 Prodaná nevsta (一八六三)、さらにはヴィレーム・ブロデクのオペラ『井戸の中』 V studni (一八六七)のリブレットの作者としてである。 サビナは文学や演劇史の領域でも多数の労作を残した。大急ぎで書かれ、それゆえに皮相な『古代および中世チェコスロバキア文学史』 Djepis literatury  eskoslovenské s star$eacute; i stYední doby (一八六〇― 一八六六)とドイツ語の著作(レオ・ブラスの筆名による)『十九世紀初頭までのボヘミアにおける劇場およびドラマの歴史』 Das Theater und Drama in Bohmen bis zum Anfange des 19. Jahrhunderte (一八七七、グスタ・フチーコヴァーのチェコ語訳により、一九四一年に『チェコ演劇の始まり』 Po átky  eského divadla の題名で出版)とがある。――より重要なのは批評的な、社会理論的な労作である。彼はマーハの作品の意義をわが国において初めて理解し、その出版を計画し、出版をはじめた。サビナの二つの研究は今日にいたるまでマーハ文学研究における基本的意義を有している。『マーハ評価の手引き』 Úvod povahopisný (一八四五)はマーハの作品の準備版のために書かれたし、『マーハ回想』Upomínka na K.H.Máchu はアルマナック「マーイ」の一八五八年版に発表された。
サビナのマーハにたいする関係はたえずマーハの研究者たちの注意を引きつけている。そして、そのことは特にマーハのテキストの信憑性かんする疑間について言える。たとえぱ、オルジフ・クラーリーク OldYich Krárík はマーハの作品の死後の版のいくつかはサビナの作品であるかもしれないと、近年になって何度か発言している (最近の研究による著作『マーハを解明する』 Demystifikovat Mách, 1969 がとくにそうである)。
サビナは『民主的文学』Demokratická literatura (一八四八)という論文の中で、急進的民主主義的イデオロギーの観点からの文学概念を開陳している。彼は文学の社会的機能を強調し、民族の民衆層の関心を表現するように要求していた。――同様の意味で彼は五〇年代末のヤクプ・マリーにたいする「マーヨフツィ」の論争に参加した。文学と人生との接近を彼は『ロマンの一般的意味とチェコ特有のロマンについて』 Slovo o roman vovec a o  eském zvláat (一八五七)というエッセイで主張している。
社会的テー一マを扱った作品では『精神的コミュニズム』Duchovní komunismus (一八六一) が関心を引く。著者はここで近代社会におけるプロレタリアートの基本任務を指摘している。っまり働く者の社会的諸権利の有効化の過程を教育の民主化と労働者の文化教育のなかに見ている。ズディエニェク・ネイェドリ Zdenk Nejedlý は『構神的コミュニズム』の一九二八年版の序言のなかで述べている。「サビナはまだ社会主義の厳格な尺度をもって計ることはできない。彼は急進的な民主主義者ではあるが、コミュニストではない。だが、サビナは当時の自由主義的愛国主義者であったチェコの社会にとって、これまではまったく存在したかったような間題に目を向けさせたという意味においてこそ、まさに注目に値する精神的コミュニストであった」と。
サビナの人格と作品は、膨大な数の専門的労作といくつかの文学的仕事に緒びつけられる。サビナの裏切りの歴史そのものが一連の研究と反対意見を刺激した。基本的意義をもつのは、とくに『サビナの裏切りについて』 O Sabinov zrad (一九四〇)というフチークの研究である (現在では『三つの研究 TYi studie のなかにおさめられている)。 サビナの運命はヴォイチェフ・マルチーネクのロマン『民族への裏切り』(一九三六)の題材にもなっている。エドゥアルト・バス Eduard Bass は『四八年についての物語』(一九四〇) のなかで、それをセミド・キュメントの手法でとらえている。――ミロスラフ・ヒーセク Miloslav Hýsek は一九三七年に『K・サビナの思い出』 Vzpomínky K.Sabiny を編集し、出版している。
 ヨゼフ・ヴァーツラフ・フリチュ Josef Václav Fri (一八二九―一八九〇)は弁護士で、自由主義的、愛国的市民層の前衛的代表者の一人だった。ヨセフ・フリッチュ博士の息子としてプラハに生まれた。十七歳のとき良心の了解もなく外国へ行った。そしてロンドン、パリに滞在し、パリでは陸軍学校に入学し、ポーランドの亡命者たちと接触した。プラハに帰ってからは熱心に革命運勤の準備に加わった。そして「リピール」のメンバーとなり、バリケードで戦い、革命の失敗後はウィーンヘ逃れた。ザグレプで生活し、スロバキアではハンガリーに抵抗して戦い、負傷してプラハヘもどったが、国家反逆罪ですぐに逮捕され、十八年の刑の判決をうけたが、一八五四年に恩赦をうけ、警察の保護監察のもとにプラハですごした。彼はアルマナック「ラダ-ニオーラ」 Lada-Nióla の出版の準備にとりかかり、一八五八年のアルマナック「マーイ」Máj に積極的に参加した。再逮捕の後、一八五九年にオーストリアから追放された。彼はロンドンに渡り、そこでロシアの革命的出版者であり著作者でもある A・I・ゲルツェン A.I. Gercen と接触し、パリ、ベルリン、ペスト。ザグレプ、ペトログラード、その他の地で生活した。そしていたる所でオーストリア打倒、チェコの独立という自己の確信に従って熱烈な政治活動をおこなった。彼は無数の書物を編集し、出版した、例えぱ、「チェコの声」La voix de Boheme (一八六一年、ジェノヴァ)である。
フリッチュの文学作品はその大部分が、彼の政治的意見と社会的姿勢たたいする意思表示である。もちろん、その他にも何人かの代表的なロマン派詩人への畏敬の念を表明している。とくにバイロンやマーハ、クラシンスキにたいしてである。バイロンの影響はフリッチュの青年時代の抒情詩『精神の論争』 Rozpravy duae のなかに明瞭だし、その後、一八六一年にジェノヴァで出版された『詩選集』Výbor という詩集のなかに収録されている。さちにバイロンの詩の影響は、フリッチュのロマンチックな詩『吸血鬼』 Upír (一八四九) のなかにも色濃くあらわれている。これらの作品よりもさらに重要なのはJ・V・フリッチュの政治詩である。彼はそれを亡命の地で書き、『要塞からの詩』Písn z baatyという詩集のなかに集められている。その詩集は一八六二年にすでに完成されてはいたが、存命中には出版されなかった。この詩のなかの主導的思想は反オーストリア闘争を強化することだった。
 戯曲の作家としてのフリッチュはほとんで成功していない。テーマとし選んだものはその大部分が歴史的なもので、そのなかで比較的大きな反響を呼んだのは戯曲『イヴァン・マゼッパ』(一八六五) だった。フリッチュの最も重要な作品は四巻からなる『回想』Pamti(一八八四― 一八八七)であり、特に一八四八年と一八四九年の事件、またその後日譚と五〇年代の文学状況、とくにネルダの世代の登場について詳細に記述している。



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