(10) 十四世紀の風刺
(11) フスの先駆者たち
(12) 十四世紀文学と民衆との関係




(10) 十四世紀の風刺


 十四世紀後半の文学には、中世的イデオロギーにたいする批判とならんで、社会的、経済的関係への反抗にたいする潜在的恐怖にまで先鋭化された厳しい批判の声が鳴り響いている。その批判は革命的事件を予告するものであった。この批判は六十年代に、いわゆる一連の『フラデッツ写本』と呼ばれるもののなかに現われる。特徴的なことは詩人が、神と人間との関係よりも人間相互の関係のほうに強い関心を抱いているということである。とくにまた、もっともしばしば批判の対象となっているのは社会秩序と社会的不公正である。この姿勢は『神の十の戒め』 Desatero kázánie のなかにも、上記の写本の職人や市参議にかんする七つの風刺的小品のなかにも現われている。
『神の十の戒め』(全1196行)のなかには、戒めとその戒めを風刺する犯罪という形で構成されており、詩人はいつも実例として戒めを犯す「三人の人物」を登場させ、だから「大罪をおかしたのだ」と解説する。「第七の戒め」(「汝、盗むなかれ」)では、詩人の批判は次のような言葉になって示されている。

貴族方も修道士も
尼さん方も坊さんも
どうか、みなさん、心して
貧乏人にはおかまいなさるな!
自分の割り当て、その上に
貧乏人から取り上げるとは
神のご意志に、そむくこと
あなたの魂、汚すこと



愚かなことと思わぬか
オス蜜蜂の生きざまを。
多かろうが、少なかろうが
他人の苦労を徒食する
夏が終われば
不幸な季節
メス蜂こいつら追い出して
一緒の家には住まわせない

『十の戒め』は罪と警告の無味乾燥な羅列ではない。そうではなく、そのなかにある批判には色彩豊かな情景も描かれていて、たとえば、「第六の戒め」(「汝、姦淫を犯すべからず」)にあるように、その時代の社会風俗もとらえられていて、中世の尻軽女やその衣装、振る舞いといったものが生き生きと描かれている。

安酒場だか盛り場か、女が
着飾り、すわってる。
やれやれ、眉を吊り上げて
ヴェール、気にして、直してる
スカート、リボンを縫いつけて
袖なしコートは黄色に染めて
その裾にまでレースの飾り
その飾りのレースは絹にした



懐剣、財布に、きれいなベルト
歌をうたうは澄んだ声
それに見とれる愚か者
神の戒めうわのそら
甘い言葉に耳傾ける
それも、優雅に響くから
だから、そんな言葉にひっかかる

ときには罪の実例は小話(アネクドート)や風刺的な短編の形で示される。たとえば悪い隣人の話しとか、あるいは「おいしいケーキ」と引き換えに、未亡人に恋慕する若者に仲介の約束をしたので、その「貞淑な未亡人を惑わして不貞をそそのかす」悪賢いやり手ばばあの話しとかである。
日常生活のいろいろな場面や物語によって時代の情景を描いたり、また、人物の心理的特徴を呈示して見せたりする詩人の技巧は『十の戒め』よりも『職人と市参議にかんする七つの風刺』においていっそう発揮されている。各々の風刺はおよそ百行からなる韻文であるが、そのなかで作者は靴職人、市参議、蹄鉄職人、麦芽商人、床屋、肉屋、パン屋などを槍玉にあげている。これらの風刺の共通分母である主な非難(顧客から金をだまし取ることにたいする)とともに、「金を出す者は成功する」式の原理で万事を取り仕切る収賄参議の行為や、職人たちの無責任な仕事ぶりも批判する。作者は叱責の言葉を多彩にするために場面を、たとえば、酒場に設定する。そこでは無教養の靴屋が市場の儲けで上機嫌に酒を飲み、サイコロ賭博で負けてしまう。最後には酒場のお楽しみをやめさせようと駆けつけたおかみさんとももみ合いになる。おかみさんは靴屋からサイコロを取り上げると、ごりごりのやせ男に悪態をつきながら家へ追い返す。家に帰ると靴屋は「藁のまんなかに寝ている横着な犬のように、かまどのそばで丸くなって寝てしまう」。このような日常生活場面のなかに作者のユーモアのセンスと、ユーモラスな場面を活写する腕前を証明している。
風刺のなかでは中世特有の宗教的束縛のゆるんだところが、すでにあちこちに見られる。作者の批判は世俗的にも宗教的にも鋭さを加えてくる(その大部分は不正直な行いにたいする地獄による脅迫である)。『フラデッツ写本』のなかでは、すでに市民層や貧民層の利益の問題がうったえられている。この作者は聖職者の知識人に属し、年や地方の事情に詳しく、おもに貧しい人の側に組しているようにおもわれる。もちろんその時代的枠組みのなかから抜け出しえているわけではない。それというのも、とくに、私有財産を守り、当時の社会の各々の身分相互間の調和を壊すことを好んでいないからである。この作者の批判精神には封建主義全盛期の社会悪の本質、つまり財産分配の不平等を的確に抑える視点が欠けている。
この不明の作家は作品、とくに『十の戒め』の基盤をその当時の説教の中に見いだした。そしてこの説教こそ来るべきフス主義革命運動を準備したものであった。この作者と六〇年代から登場してきた説教者たちとの接点は、攻撃の対象としての社会悪の選択にある。いくつかの悪人の規定(カテゴリー)の点で『十の戒め』の作者はシュテシートニー(後出)(神の十戒について書いた小冊子)やフス(『信仰解説』 Výklad viery ) とも一致している。『十の戒め』の人気は――たしかに人間の一番痛いところを突いているからだが――保存されているいくつかの写本やいろいろな改作が証明している。
『七つの風刺』は『十の戒め』とおなじ状況を芸術的(文学的)描写によって表現しているが、批判の矛先はただ市民層にしか向けられていず、しかも、その場合でも『十の戒め』ほどには鋭くない。それは裕福な資産家たちが見逃されているからだ。作者が貧者をかばうのは、いさかいの調停に賄賂を要求する市参議たちを風刺するときだけである。『フラデッツ写本』の『十の戒め』と『七つの風刺』は同時代の出来事にたいしての見解を低い民衆層の視点から表現しているだけでなく、また、その目的のために民衆の言葉をも用いている。――作者が表現をいかに会話体に近づけようと苦心したかを、とくに、その言葉の選び方や文体に見てみよう。

第三組の連中が、踏み越えようとしています
尊い神の戒めを。罪を犯そうとしています
うわき男に、しりがる女、
悪魔が地獄へ案内します。
実は、ほんとの、百姓むすめ
すごい腕利きの、繕いおんな。

ここで注目すべき点はもちろん話し言葉の「速記」的記述ではなく、一定の目的に合わせた会話体の芸術的様式化である。したがって『十の戒め』と『七つの風刺』の作者は物語の内容、狙い、また形式の点からいっても『ダリミル年代記』にはじまり、『聖プロコプ伝』に受け継がれ、フス主義時代の作品へとつながる現実的で攻撃的、かつ民衆的文学の流れに属するものである。



韻文の話し言葉による風刺の次の発展段階は、より若い世代の作品『馬蹄と学生』(十四世紀末)が示すように、必ずしも直線的ではなかった。おそらく、あらゆるあらゆる古代チェコの作品のなかでも、とくに、

鞭で脳天、どやされて
耳のあたりで、音がする

というような、中世の大学の教室でもてはやされたような二行詩の形で、広範な読者の潜在意識のなかに最もよく残っていたものとおもわれる。しかし作品は、馬丁(宮廷の使用人)と学生との社会的身分の優劣について議論を戦わす酒場の場面の生き生きとした劇的な描写によっても注目に値する。作者は主人公たちを巧みに紹介しているので、中世の学生と宮廷の使用人の典型を目の当たりにするような思いがする。

長衣は、すり切れ、ねずみ色
頭巾は、おまけに、みどり色
使い古しの、おんぼろだ


首に下げたる、ずだぶくろ
なかに入れたる、必需品――
書物ばかりか、パンまでも――


腰には、書き板、ぶら下げて

そして、宮廷の使用人の馬丁は

やや、年かさに、思われる
ひげをしごいて、座したまま
上着は、ぴったり、短めで
コートは、かなり、疲れ気味


さすがは、宮廷風の、身づくろい
靴はと見れば、どたぐつで
おまけに、かなり、大きすぎ
穴のまわりだけは、完璧だ

これらの実例は、作者のユーモアばかりか風刺のセンスも証明している。馬丁は宮廷のしきたりにしたがった身なりはしている――擦り切れた上着に、がばがばのドタ靴だ。ところがその靴はあちこちに穴があいている。でも、まあ、靴であることにはちがいないというわけだ。両人物の対話も、結局、馬丁も学生と同じように貧乏なんだということをわからせるようにすすめられる。しかし、作者は悪意をもって嘲笑しているのではなく、両者の貧しさにたいして理解を示している。とはいえ、そこには『フラッツ写本』の風刺に特徴的であった社会攻撃の毒舌は欠落している。作者の自分の詩によって楽しませようとしているが、仲間の連中の惨めな状態の原因を批判したり、追求しようとはしていない。しかし彼の作品は文学の世俗化への道程を一歩前へ進めている。『フラデッツ写本』の作品とは反対に、『馬丁と学生』では世俗的テーマが中心となっているからである。
『馬丁と職人』の詩人は『アレクサンダー大王物語』や『フラデッツ写本』の作者と同様に、陣部豚血の心理状態をとらえようと努力している。つまり対話の進展とともに人物たちの心理状態は緊張喉を強め、作品の終わりではとうとう言葉による論争のわくをはみだして、腕力による決着にまで発展し、詩に劇的効果と展開の意外性を与えている。たとえば、馬丁は最初は「すわったまま、誇らしげに話している」だけだったが、しばらくすると、もう「怒って叫びだし」、「かんしゃく玉を破裂させ」、ついに学生に向かって「立ち上がると、怒りのあまり頭を震わせて、右手を差し出し脅かす」。そうなると中世的悪口雑言も飛び出してくる。学生は軽蔑して断言する。やせた馬丁たちは「骨が未成熟なのだ」とか、みんな「ばかなやつだ」とか、「やせた下僕」は学生の敵だとか、学生が司祭に任命されて、金のミサ服を着ていたら、「ぽかんとして」たっているだろう、と。馬丁にしても売り言葉に買い言葉で、「パンの薄い切れ端め」とか、「こぞうっこのくせにごろつきめ」とか、「やせこけたキューピーめ」などの称号で敬意を表する。そうなると、あとは脳天にごつんと一発食らわせるしかなくなる。どちらの側も相手をやりこめるだけの言葉が思いつかなくなったところで、口論は取っ組み合いとなっておわる。そこで作者はこれはただの「居酒屋での事件」の顛末、こんな話しはざらにあると述べて、この風刺詩を締めくくっている。
この世紀のおわりには、まだ、高位の保守的貴族階級の声がこだましている。それをスミル・フラシュカ・ス・パルドゥヴィッツが『新提案』という韻文作品のなかで代弁している。これは獣や鳥たちの夢についての話しである。新しく王位についたライオン―王が鳥獣どもを召集する。いかに治め、実生活のいろいろな場面でいかに振舞うべきか等々について忠告してくれというのだ。ある提言はまじめに、またあるものはアイロニカルにのべられている。つまりそのことがこの作品を今日にいたるまで新鮮さを失わず、読むに耐えるものとしているのである。忠告者のなかの何人かは寓意的人物になっている(たとえば、ライオンはチェコ王を象徴し、鷹はモラヴァの辺境伯を、など)。この詩は文化史の上からも最上の記録となっている。なぜなら、議員たちの発言から、当時の上層社会の生活について多くのことがわかるし、また、中世のキリスト教の支配者や国家理念がいかなるものであった化をかいま見ることができるからである。スミルのユーモアの例として、
野ウサギの発言を読んでみよう。

ウサギの本性、おずおずと
他の面々も、及び腰
「王さま、気配り忘れぬよう
戦ごとなど、構えぬよう
されど議論は、尽くすよう
ジャンプに身構え、するように
鎧(よろい)、剣など、ご無用に
されば逃げ足、速かろう
武器の錘(おもり)がないならば
駆けっこ早いは、あたりまえ

この詩に大きな生命力を与えたのが、スミルの詩的技巧と機知であることは疑うまでもないが、作品のなかには政治的理念も描かれており、そのことがこの作品に長い生命力のもとになっている。十五世紀の後半にもなってもこの詩はいぜんとして知られていた。ヴシェフラットはこの詩によって触発され、またドゥブラヴィウスによって自由にラテン語に改作された(一五二〇年)。






(11) フスの先駆者たち




『新しい提案』はもちろん、政治の現実にたいして本質的な影響をおよぼさなかったし、また、およぼすこともなかった。いわば『新しい提案』がかかれるずっと以前から、フス主義を先取りした進歩的神学者や大衆的説教者たちが、協会に依存して成立していた階級の堕落と不活性化にたいして批判的な説教や宗教的説教本を通してきわめて積極的に干渉していたのである。それゆえ、彼らは一括して「フスの先駆者」と呼ばれている。神聖ローマ帝国の皇帝でありチェコ王国の王であったカレル四世自身でさえ協会を支持していたにもかかわらず、その堕落を目の当たりにして、その結果もたらされるであろう危機を意識していた。そんなわけで宗教改革運動を主として説教活動によってはじめていたドイツのアウグスチヌス信奉者コンラート・ヴァルトハウザーを六十年代にはすでにプラハに呼び寄せているのである。彼はラテン語とドイツ語のみで説教したから、彼の活動は知識人やドイツ人の商人、またその使用人の範囲にかぎられていた。しかし、一応、功績のある仕事もした。というのは、彼は社会の弱い部分にも目を向け、彼らが意識に目覚めるのを助けたからである。
より大きな意義をもつのは、ヤン・ミリーチュ・ス・クロムニェジーシェの活動である。それは彼が一番多くチェコ語で説教したということからも理解されることである。そのことについて別の改革者マチェイ・ス・ヤノヴァがあるラテン語の文書のなかに書いている。「それにしてもミリーチュのあふれんばかりの読書量と該博な知識に驚嘆しない者があるだろうか? なぜなら彼は最初は単なる司祭であり、貴族の宮廷の書記にすぎなかったのだから。ところがキリストの霊感を受けてからというものは、きわめて賢明さをまし、一日に五回の説教を容易にこなすほどだった。すなわち、一度はラテン語で、また一度はドイツ語、後の三回はチェコ語で説教するのだ。しかも公開の場で、大勢の群集を前にして音吐朗々(おんとろうろう)として、その説得力は並大抵のものではなかった」――そして、この熱烈さをもって、時代の進歩を担う最も重要な社会層に向かって、つまり、まもなくフス主義運動の中心的担い手となる貧民層に向かって直接語りかけたのである。それにミリーチュ自身が手本たらんと努力したことも評価する必要がある。彼は政治的にも、教会の地位の上からも有利な身分を放棄して、貧民のあいだで生活した。しかし、彼もまたバルトハウザーと同様、道徳の改善は上からの改革で解決できると信じていた。それでも』彼の努力は一粒の種となり、豊穣な土壌を見いだした。
ミリーチュの弟子たちはベトレーム教会にチェコ説教者団のセンターを作ったのである。彼らの活動がいかに急所に迫るものであったかは、支配者たちが彼らの活動にたいして執拗に制限を加えたことによっても明らかである。支配者たちは彼らを追及し、拠点を奪い、国外に追放したのである。そのようにしても、なお、すでに蒔かれた種の成長を防ぐことはできなかった。ミリーチュの遺産はその弟子たちによって広められたが、その高家者のなかで最も有名なのは、おそらく、トマーシュ・ゼ・シュティートネーホであろう。
ミリーチュが彼を燃え上がらせたのは単に思想の点だけではなく、著作活動のほうでも刺激し、むしろその点にかんして、その後さらに進むべき方向をも示したのである。それは、これまでチェコ語によっては試みられたことのなかった領域、すなわち、神学的著作のなかにチェコ語を導入したこと、そしてそれによって民衆からは厳格に隔てられていた知的領域に接することが可能になったのである。この領域の認識はやがて効果をあらわし、真のキリスト教の教義と、教会ヒエラルキーの特殊な現実との矛盾を見せつける結果となった。なぜなら、当時、教会社会(ヒエラルキー)は、すでに、聖書のなかに示された本当のキリスト教的生活とかなりかけ離れたものとなっていたからである。マチェイ・ス・ヤノヴァの言葉は聖書の言葉の意義をみごとに言い表している。つまり「何事にたいしても示唆に富み、よき忠告をしてくれる聖なる予言者たち、また、キリストや使徒、福音伝道者たちの言葉そのものを常に身につけているほうが形骸化した言葉や同様の生命のない仕来りを頼りにするよりもずっと有益であると考える」と。それゆえに、すでに六十年代に準備され、七十年代に完成し、写本にされた「チェコ語の全訳聖書」もまたきわめて大きな意義をもったのである。
チェコの社会や文化のその後の発展にとって、どちらが大きな実りをもたらしたかという観点からすれば、マチェイ・ス・ヤノヴァの活動は――たとえ彼が思想的にミリーチュに近かったとしても、またパリ大学で学んだ神学者であり、付すの先駆者のなかの最初の神学者であったという点を考慮しても――ミリーチュの活動が与えたほどの大きな意味はもっていない。それというのも、彼の説教や著述は、主としてラテン語でなされたから、民衆層に身近に接することができなかったからである。彼は過激な思想(たとえば、危機の源泉は個人ではなく社会制度のなかにあることを意識し、キリスト教の真の信仰と偽りの信仰とを対立させ、それをいかにして見分けるか等々の方法をしめした)の持ち主だったが、教会の圧力で取り下げた。もちろん、それによって彼の教義が帳消しになるわけではなく、フスやヤコウベク・ゼ・スチーブラ、またフス派陣営に影響を与えた。
これらの説教家たちのほかにヴォイチェフ・ランクー・ス・エジョヴァやヤン・ス・ミータ、それにシュチェパン・ス・コリーナといったパリ大学で教育活動に従事していた学識豊かな神学者たちも改革の努力を支持していた。そしてフスやその後地方で活躍した説教したちは、まさにこれらの神学者たちの影響のもとに成長したのであり、また、革命運動の土壌作りを助けたのも、まさにこれらの神学者であった。しかも、彼らは――学者ではあったが――教会を批判するに際しても、けっして抽象的にではなく、強烈な具体性をもって論じたのである。「貧者の血から、また、免罪符によって財を集め、他人の労働から、また、だまくらかしによって莫大なる富を蓄えるとは、なんと愚かしいことではないか! 汝、友びとよ、貴人たちよ、すでにかくも長きにわたり、核も破滅的蔓延を見せる、かくも多き過ちと、核も前代未聞の堕落を前に、なんらの嫌悪も覚えず、せめて直視する努力もいたさないとは、まったくもって怪訝のいたりである」。このようにシュチェパーン・ス・コリーナはあるラテン語の説教のなかで述べている。しかも、それだけにとどまらず、批判の対象である高位の聖職者や貴族を「光を憎み、暗闇のなかでうごめく」悪党、盗人とさえ呼んではばからない。そして皮肉たっぷりに「歩くときはご用心!」とさえ忠告している。見落としてならないのはだれもが神学的問題を母国語で教える権利をもつという大学派神学者のなかの何人かの主張である。この意見を支持したのは、たとえば、世界的に名を知られた学者であるヴォイチェフ・フランクーと大司教ヤン・ス・エンシュテイナである。だから全著作をもってこの思想の実現のためにつくしたトマーシュ・ゼ・シュティートネーホ(一三三三頃――一四〇一〜九)の活動も、ヴォイチェフ・フランクーの庇護があったればこそ可能だったのである。
十四世紀における宗教的啓蒙の散文文学はシュテシートネーホの作品において頂点に達する。その特徴は、他国では自国語を宗教的作品に導入したのは聖職者か大学教師だったのにたいして、チェコでは文学が頂点を極めるのは背俗人の功績であったという点である。
「神はひとりラテン人のものなのか? チェコ人やドイツ人のものではないのか? また、おのれの国の言葉で聖なる御名に呼びかけんとする願いは空しいものなのか?」 このようにだれもが母国語とを通して最高の文化価値に接することができるという権利擁護の理念は『プログラス』(前出)の詩人が使徒パウロの言葉を引用してずっと昔に述べたことがあるとはいえ、ここで改めてシュティートニーの口から聞かれるわけである。この懸案が果たされるためには長い時間がかかり、チェコ人は自分たちの使徒パウロの到来を首を長くして――つまり、その使徒として南チェコの郷士トマーシュ・ゼ・シュテシートネーホが現われるまで――待たねばならなかった。もちろんシュテシートネーホが一般民衆のためにも教育を求める一方で、貴族たちへの説得も熱心におこなった。つまり、彼らの階級の誰一人として「母親が貴族や皇帝として産んだのではなく、生まれながらにして王侯であったものもいない。人々はお互いに平等だったのだ」と説いたばかりか、王のための「一般民衆」ではなく、「王こそ民衆のために王位に就けられたのだ」とさえ主張した。シュテシートニーはそこからさらに「王はこの民衆を辱めてはならない」と論を進めている。
作者はそのことを、王と農民との関係について「愚かな王たちは」民間に伝わる格言で「下賎の者どもは柳のようなもの。刈り込めば刈り込むほど枝が茂る」と思っているようだが、とんでもない話であると、たちまちその格言の意味を裏返しにしてみせるというふうにして説明している。シュテシートニーは確かに人間相互の関係に十分注目し、やがてそこから富者と貧者との関係へと人間観察を進めているといえる。啓蒙的努力とともに彼の関心を最も引きつけたものは、封建制度の危機が鋭さを増しつつある時代のなかでの差し迫った現実の問題であった。そのことを証明しているのは、どんなに小さな問題についても発言可能な機会があれば、その機会を無駄にはしなかったこと、それだけではなく、たとえば外国の原典に即して『チェスの本』という作品をチェコ語に書きなおし(この作品は各々の社会階層のあいだの関係や状況を、完全にチェスのゲーム、個々の駒の役割や地位、その色などになぞらえながらせつめいしている)、またチェコ的状況を踏まえながら内容を豊かにしていることなどである。
「歩は一般市民を意味する。彼らは平和なときにはさらに進むことができ、自分の升目のなかにとどまる。しかし平和が破れるとか、自分の升目から出なければならなくなったら、次の升へ一つだけ用心深く進まなければならない。だから歩がいつも前へ一つだけ進むということは、一般市民はひたすら自分の目の前の仕事にはげむべしということであって、一方、身分の高いものは彼らの平和を保障すべき義務のあることを示している。
シュティートニーの啓蒙活動を社会批判の活動と完全に切り離すことはできない。そのことは『チェスの本』も示しているとおりである。たとえば女王の駒について述べているなかで、作者の意見はこうだ。「女王または妃は、短剣をさした騎士のように歩きまわってはいけない」、むしろ女王は

男っぽい足取りよりは、楚々と振舞うか、それとも、恥じらいと、しおらしさで身繕うのがよい。だから、一方の女王は常に白い領地だけを進み、もう一方は黒い領地だけということは、二人が貴婦人であり、両方が気立てもよく、純潔の美徳を備えていることを示している。純潔を保っているのは、第一に、純潔の美徳は身につけるのが楽しく、好ましいからであり、第二に、純潔を好ましいと思わなくても、不潔といわれるのは恥ずかしいからである。男であれ、おんなであれ、評判の悪いもの、または、いかがわしい噂で汚されたものには気をつけること! 破廉恥なものとのつき合いを恥じ、そして、すべての不潔なものを恐るべし!

シュティートニーはその他の著作のなかでも女性の問題に厳しい目を向けている――この問題は娘の父として、彼の心に重くのしかかっていたもののようだ。たとえば『オパトヴィツキー著作集』 Sborník opatovický でも女性の問題に独立の章をあて、「未婚の女性と既婚の女性とのあいだには大きなちがいがある」と指摘している。彼は未婚の女性を「五ないし六」ものタイプに区別する。たとえば、第三のタイプには「世間ずれした、尻軽女が属する。これらの女は行き当たりばったりの色恋沙汰がが最大の関心事であり、だれかれにお構いなしに無責任な、実りのない約束をするのがうれしいのである。このように神の愛よりも現世的空しさを重んじ、懸命に現世的なことに備え、自らの意思で世俗にまみれるときは、この娘たちは汚れているというエレミア(旧約聖書)の言葉こそ、このような女たちにふさわしい」
トマーシュ・ゼ・シュティートネーホの個性は実践と学問の驚嘆すべき共存という形で示されている。このことは彼の最も有名な三つの著作集が証明している。『キリスト教者の一般的問題にかんする六巻の書』 Kní~ky aestery o obecných vcech kYest'anských では、信仰の問題にかんする基本的説教とともに実践的問題(たとえば、商売のこと)についても教訓をたれている。『ためになる話』 Xe i besední では、父と子供たちとの対話の形で最も難解な神学概念を説明している(神について、世界創造について、キリストの肉化などについて解説している)。『年々の祭日と休息日の語らい』 Xe i sváte n&#iacute; a nedlní z roka do roku では、教会に通うことのできない人たちと信仰の問題について語り合うというふうに書かれた短い論文が集められている。微妙な狭義的問題を無学な大衆に説明するという仕事はそれほど容易ではない。しかし、シュティートニーはその仕事をみごとにやってのけたのである。彼はわかりやすく解説しえただけでなく、表現の言語的完全性にも気を配った。彼の作品はわが母国語(チェコ語)の成熟の証拠であるばかりでなく、『織工』とともに十四世紀の散文の頂点を芸術的側面において代表しているのである。
専門的な面から言っても、シュティートニーが勉強家であったことは否定できない。彼がプラハ大学に学んだものの、卒業視覚は取得せずに、彼の領地の経営をはじめたのは事実である。しかし当時の学問との接触を断つことなく、しばしばプラハを訪れた。時、あたかもヴァルトハウザーやミリーチュの活躍のときであり(彼はついにプラハに移住する)、哲学的著作の読書により、自らの教養もつんだのである。彼の偉大な見識については、それが自著のものであれ、翻訳であれ、個々の作品のなかにうかがい知ることができる――とくに翻訳作品において、原典の選択と彼が筆を加えて改訂した出版物によって、彼が当時の学問の水準に立っていたことの証拠を目の当たりにすることができる。良心的な専門家としてのシュティートニーの特質は、彼が自分の作品に何度も手を入れて完全なものとし、新しい作品集に仕上げたことである。
しかし、社会制度に対する彼の姿勢は、なお中世的な観念の枠を超えていなかった。彼は現在ある制度は、神から与えられたものであるから、不変のものと考えていた。その結果、すでに崩壊しつつある封建社会をなんとか調和させようとのみ努めた。シュティートニーは美学の問題にかんしても中世的世界観の上にとどまっていた。地上のうつくしいものは、それが神の美しさの反映であるがゆえにのみ美しい。地上の現実はいかに美しくあろうとも過ぎ去っていく。われわれのすべての努力は「天上の生活」の愛に向けられねばならない。このことは『地上の愛と天上の生活の愛』(『ヴィシェフラット集』)で美しく述べられている。シュティートニーはそれを美しい自然の情景を通して物語っているのである。

おお、なんと驚嘆すべきことか、天がかくも安全に世界を護るとは! なんと驚嘆すべきことか、世界は清浄なる空気と快き陽光に美しく飾られているとは。つきもまたかくも綾なる変容をなす! 不思議なるは星ぼしの美しさ、驚くべきその軌跡! しかして、この地には何たる安らぎのあることか、さまざまな花のなかに、さまざまな美味なる果実のなかに、野やくぁの流れの歓喜に満ちた美しさのなかに、また、広葉樹の森の涼しい木陰、園に咲く花ばな、広大な原野の見晴らしのなかに、そうとも、ブドウの木はうれしげに小枝を四方に広げている! 諸々の鳥のさえずりのなかに、美しき孔雀やその他諸々の鳥たちの羽毛の奇異なる彩りのなかにある喜びはけっして小さなものではない!」 ――そしてこの自然の情景のなかに「永遠の女性的なるもの」――シュティートニーは女性の美しさにたいする畏敬の念さえも忘れてはいない。「ではその目の明るい輝き、美しい額、かわいらしい鼻、上品な頬、しとやかな唇、幸せに満ちた髪にやどる女性の美を見るのが喜びでないはずはあるまい? しかも、それに加えて美しく衣装を着飾ったら!」 しかしそんなものはすべて何の意味もない。なぜなら「天国の愛はこう言って答えるだろうから。地上のびや魅力はどんなに愛しても、永つづきはしない。おお、あの世の美や魅力こそ、愛のすべてなのだ。それは永遠につづくものだから」

しかしトマーシュ・ゼ・シュティートネーホの作品はもう一つのことを証言している。それは作者の文化水準の高さや、当時の学問や芸術の水準の高さばかりではなく、民衆層の水準の高さである。なぜなら、彼の作品はまさにその民衆層に向けてかかれたものなのだから。そして、この理由から、われわれはフス以前期におけるあらゆる文化的努力の頂点をシュティートニーの作品のなかに認めるのである。






(12) 十四世紀文学と民衆との関係


民衆化をめざす文学発展の経過を十四世紀について見るならば、その重要な進展は『コスマスの年代記』にその端緒をみるところの文学の世俗化の傾向のなかにある。しかし世俗化の過程はコスマスの範例どおりに進んだわけではなく、それとはちがった別の、とりわけ多様な形を取って進んだ。世俗化の過程で最初に積極的な役割を演じたのは、世俗的封建領主たちが支持したドイツ語の作品であった。なぜなら、それらの作品は世俗的題材によるものだったから、世俗的読者の中に支持者を得たからである。これらのドイツ語作品の貢献は、自分たちと対抗しうるチェコ語作品の発達を援助したこと、しかも、これらのチェコ語作品は文学の世俗化への発展過程のなかで第一級の意義をもつ作品であったことである。
十四世紀にはいってすぐに、二つの重要なチェコ語の作品が現われた。『アレクサンダー大王物語』と『ダリミル年代記』である。この量作品は世俗的文学作品の代表作となり、その作品には一般民衆あるいは環境に向けられた関心すら読み取れる。たとえ『大王物語』が民衆的位置から書かれたものではなかったとしても、また、作者が民衆の生活を民衆的視点でとらえていなかったとしても、『大王物語』のもたらした大きな寄与はこの民衆にたいする関心にある。それというのも、この物語のなかには民衆の生活の情景が色濃く描かれており、また、教訓的三行詩では素朴な民衆の発想が取り入れられているからである。『ダリミル年代記』の著者はコスマスに結びついている。彼はチェコの伝説を書きとめることによって、民衆の口碑を民族文学の体系のなかに取り込んだ。彼もまた封建支配階級の代弁者であったとはいえ、民衆にたいして『大王物語』の作者とは異なる姿勢を持っていた。その姿勢は愛国心にもとづくものであった。ところが作者が愛国心を階級的利害より優先させた結果、その愛国心はある程度の民主主義的性格をさえおびることになった(オルドジフとボジェナの伝説)。文学の民衆化を目指す発展にたいして、これらの作品の作者たちが現実の事件に注目したという点でも独自の意味がある――もっとも『ダリミル年代記』の作者のほうがより直接的であった。同時に大きな意義は年代記の韻文形式の選択である。重要なのは、それも民衆の口承文学によっておなじみの無韻律詩の形式をあえて選んだということである。たとえ『ダリミル年代記』の三様式の当時の理論を熟知していたのだとしても、この詩の形式のなかに民衆の読者とのある種の関係がまったくないと言い切ることはできない。(なぜなら中世の詩論の法則が、民衆の口承文学にも配慮して作られたものであるかどうか、実は、われわれにもわからないからである)
次の発展段階を代表するのは、新しい社会層が発言している『フラデッツ写本』の攻撃的作品である。そのなかには貧民層にたいする搾取への復讐を秘めた反抗的な脅迫の声さえ聞えてくるである。しかしその前の『香油商人』を見落としてはいけない。ここでは聖書的エピソード(イザークの蘇生)によって、当時の社会体制のなかに存在していた秩序を保護していた中世最高の、けっして触れてはならないイデオロギーの領域が嘲笑されているのである。その面では『香油商人』の攻撃性は『フラデッツ写本』の攻撃性よりも大胆であった。
文学の民衆化を準備していたのは、そのほかに、世俗的騎士叙事詩や世俗的抒情詩である。叙事詩のなかで最もはっきりしているのは「ブルンツヴィーク伝説」にもとづくものであるが、この伝説は――もともとは「文学的」素材だったが――民衆の口碑のなかへ浸透していったものであった。このほかにも人為的文学のなかには民衆の口碑で知られているモチーフを人為的文学が民衆の口碑から取ったのか、それともその逆かを特定するのはむずかしい。
世俗的抒情詩の領域では市民的な、また民衆的な活力が大いに発言している。それは作品全体のなかにおいてであれ(『わたしはいい人なくしたの』『シュチェンベルカ氏の歌』)、高踏的な氏に特有の要素と民衆的要素の合成によるものであれ(『ザーヴィシュの歌』)主導的な要素である。
文学の民衆歌への道程をたどっているのだとしても、『聖カテジナの生涯』が「純粋に」高踏的作品だからといって無視して通りすぎるわけにはいかない。『聖プロコプ伝』と比べると、政治的な行為とはほど遠い上旧貴族社会のなかでの出来事を内容とした、形式的にも哲学的にも難解で、技巧の粋をこらした言葉の綾をちりばめた作品である。しかし重要なのはこの難しい主題を『織工』と同じくチェコ語で、したがって民族の広い層に理解できる言葉で書き上げたことである。その結果、シュティートニーの哲学的散文への橋渡しをし、同時代の最高の教養を民衆的読者の手にとどくようにし、また、その名のもとに隷属を強いられているイデオロギーの認識への仲介の役割を果たしたのである。
シュティートニーは宗教-哲学的散文領域でのラテン語の独占支配を打破した。もちろん、彼が代弁したのは封建的政治理念であった(彼は単に破壊された秩序を調和させようとしたにすぎない)。だから民衆層に直接組したわけではなく、むしろ仲介者-解説者であろうとしたのである(要するに、彼は生前、田舎の民衆が読み書きできるようになろうとは予想さえできなかったのだ)。






(1) 文学の世俗化とチェコ語化のはじまり
(2) 抒情詩と叙事詩、十三世紀末から十四世紀中葉まで
(3) アレクサンダー大王物語
(4) ダリミル年代記
(5) 封建主義文化の全盛と文学の民主化
(6) 封建主義全盛期におけるラテン語作品
(07) 封建主義全盛期におけるチェコのドラマと叙事詩
(08) 封建主義全盛期の世俗的抒情詩
(09) 芸術的散文と娯楽的散文のはじまり
(10) 十四世紀の風刺
(11) フスの先駆者
(12) 十四世紀文学と民衆との関係

第三章 フス主義時代における文学の大衆化[十五世紀初頭から十五世紀六〇年代末まで]





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