III. フス時代における文学の大衆化 [十五世紀初頭から十五世紀六〇年代末まで]



(1) 革命運動の思想準備への文学の参加 ― ヤン・フス
(2) 革命運動への文学の参加
(3) 革命運動清算後の文学におけるフス主義理念の余韻
(4) 文学の大衆化にたいするフス主義の意義


フス主義はわが国の文学および文化全般から見ても特殊な一時代を画したばかりでなく、他のヨーロッパ諸国と比較してもチェコ民族特有のものである。フス主義運動の意義は単なるチェコ的枠組みをはみ出していた。それというのもフス主義者たちの活動は当時のわが国の国境のかなたまで達しており、ヨーロッパ革命運動の発展のなかで重要な一節となっていたからである。フス主義運動は一四三五年のリパニの戦闘で敗北したとはいえ、その大衆性と革命性のゆえに、今日までわが国の社会的かつ文化的発展の一部となって生きつづけている。
革命運動そのものは一四一九―一四百三十四年の期間にすぎなかったが、文学(および社会)の発展の視点から見れば、その時間的区切りはさらに前後に広げられる。そのはじまりはすでにヤン・フス師が精力的に活動した十五世紀の初頭と見る必要があるし、十四世紀の後半には彼の先駆者たちがフスの進むべき道を準備していたのである。だから、リパニの戦いはフス主義者たちの努力がチェコの民衆の意識からも生活からも一挙に消え去ったことを意味しない。フス主義者たちの精神は単にヘルチスキーの作品(とくに社会の公平な制度への願望)から、ヘルチツキーやターボル派の意思に共鳴した同志集団からだけ聞こえてくるのではない。それどころか「白山」(Bílá hora, 1620) 後の反動勢力さえもが、いぜんとして――あまり成功したとはいえないが――「フス主義の異端」どもと戦っていたのである。
「燃えろ、燃えろ、ヤン・フスよ。われらの魂の炎を衰えさせないでくれ」と、その当時、非キリスト教的著作の焚書をおこないながらうたわれていたのである。炎は物質的価値を消滅させ、真理を求めてやまぬものたちの口を封じさせることはできた。しかし全民族の思想を抹殺することはできなかった。こうして炎はチェコ民族の悲劇のシンボルとなったばかりでなく、同時に文化―光、未開性―闇にたいする勝利のシンボルともなったのである。
フス主義時代の文学においてもまた、革命の準備期と絶頂期が一方に、またリパニ囲碁のフス主義の理念が余韻を響かせる時期がその一方にあるというように分けられる。統一的フス主義革命運動がなかったと同様に、文学もまた統一的ではない。しかし、それでもフス主義文学を全体としてとらえるならば、この文化的構成要素の反カトリック集団を念頭に思い浮かべる。彼らの情念は民衆性と実生活の現実的必要への方向づけの努力によって支えられていた。この努力は読者の改装が社会的に著しく変化したこととも関連している。文学の主導権は貴族や高位の聖職者ではなくなり、はじめは主として市民階層に受け継がれたが、革命運動の絶頂期には民衆自身が手に入れた。
民衆読者に対する配慮から、文化財産のいっそうの世俗化が求められたその頂点を宗教行事や神学領域への導入に認めることができる。フス主義時代の文学は宗教的性格が過剰であるとしても、だからといって、そのことが文学の世俗化を否定しているわけではない。肝心なことは宗教的文学がその排他性を失い、世俗人たちにも仕えるようになったこと、そればかりか反動的な高位の聖職者に反抗して世俗の人たちの利害を擁護さえしはじめたことである。世俗的文化と宗教的文化とのあいだの垣根は取り除かれた。これまでは単に生殖社葬にのみ許されていた領域に世俗的活力が浸透してきて、文化生活における特権的地位を奪ったのである。これが文学の発展にフス主義時代がもたらした最大の寄与であった。
文学の新しい社会基盤と、文学の新しい機能は、これ以前の時代と比べて著しい変化をもたらした。それは異なる現実との関係、異なる文学作品の英雄、異なる現実表現の方法であり、文学作品の種類の格づけも、また、表現手段ももちろん変わった。この発酵と沸騰に満ちた時代には高踏的な文学も娯楽的な文学も自分の場所をもつことができない。そして、いま在る現実に照準を合わせた文学、現在の事件にたいして自分の意見を発言しようとする文学、現実生活にたいして批判的姿勢をとる文学が前面に出てきた(情報伝達機能は聖像画においても目立っている)。だから古い文学ジャンルのなかで生き残りえたのはこの新しい機能を果たしうるものであった(たとえば、寓意的論争、風刺詩、宗教的小論文、年代記、それにとくに宗教歌)。それゆえ現実的問題の描写は直接的であり、表現の形式も手法も単純化された――フス主義的捜索には繊細な技巧に気を配るゆとりはなかったのである。できるだけ理解されるようにという努力の結果、ラテン語は排斥されるか、少なくともこれまでの特権的地位は制限された。しかしこの努力をチェコにおける教養の低下と解釈することはできない――むしろ逆である。つまり大事なことは最大限広い範囲の読者が母国語で教養を得られたということである。この方向でフス主義が大きな成功を収めたということは、反フス主義的意図のもとに書かれたエネアーシュ・シルヴィウス・ピッコロミーニの有名な声明のなかのコメントが証明している。そのなかで、後に法王になった彼は「フス派の女どもはイタリアのどんな司祭よりも聖書をよく知っている」と述べている。
チェコ国民のすべての層に教育を広めようというフス主義の努力は、ただ革命運動の時代にだけ意味をもっていたわけではない。後代のチェコ文学や文化の担い手たちのすべてがこの努力に結びついているし、それをさらに発展させたのである(ヴィクトリン・コルネル、ジェホシュ・フルビー、ヤン・ブラホスラフ、ダニエル・アダム・ス・ヴェレスラヴィーナ、ヤン・アーモス・コメンスキー、その他)。こうして「白山」にいたるまでの時代のチェコ文学(および芸術全般)の次なる発展の基礎が築かれ、文字通り民族全体がチェコ文化の担い手になったのである。フス主義の時代には文学的意思表示は――その宗教と密接な結合のゆえに――十四世紀よりも重要性をもつにいたった。言いかえれば、文学は価値観のヒエラルキーにおいて格上げされたのである。そればかりではない、フス時代にはチェコ文学の新しい概念規定が生まれた。チェコ文学とはチェコ語で書かれたチェコ人のみに奉仕する文学であるというふうに理解され始めたのである。この概念は次の世紀の発展によって支持され、近代的民族国家の基本的特質の一つである文化的統一の成立をも助けたのだった。
フス時代における社会的かつ政治的な急激な発展に伴って、当然文学の機能もこれまでの時代に比べて何倍もの速さで変化した。革命運動の準備期には文学のプロパガンダとアジテーションの機能も強調された。戦争の時期になるとこの機能は頂点に達し、同時にフス派民衆歌にもいっそう明確な形で活用されるようになってきた。そしてそれらの歌のなかには当時の民衆にとっての重要問題や生活状況のすべてが盛り込まれていた。つづく「リパニの役」後の時代には論争文学が前面に出てきたし、ふたたび娯楽文学も名乗りをあげてきた。
文学を時間軸にそって見ると、ふす主義時代はまさしく革命運動の年々で満たされている。この運動に即してこの時代を二つの時期に分けることができる。全般は革命の準備期であり、後半はふす主義理念の余韻を聞く 「リパニの役」以後の時期である。したがって、その分岐典は十五世紀三〇年代の半ばということになる。




                                                                                                                                                                                                                                                                               

(1) 革命運動の思想準備への文学の参加 ―― ヤン・フス Jan Hus


十四世紀後半を通して絶えず増大しつつあった経済および社会状況の混乱は十四・十五世紀の転換期にいたって、もはや途方もない規模にまで拡大した。世俗的封建領主たちと聖職者とのあいだにも対立が生じていた。世俗的領主たちは金を払ってさらなる利益の大きな源泉となる土地をえたいと思った――しかし主要な土地所有者は教会だったのだ。底ろがその教会たるや、恥も外聞もなく自己の利益を追求し、領地の小作農民にたいする関係でも、また私生活においてもキリスト教者とはおよそ無縁な生活を送っていたのである。そんなわけで支配階級の内部でも利害が対立した。教会の権力者たちは多くの貧しい進歩的聖職者たちからの批判の対象となっていた。これらの下級の聖職者たちは自分のためだけでなく、チェコの市民たち、下級貴族階級、町や村の搾取されている民衆を代弁して発言したのだった。説教壇からは高位の教会の代表者たちの理論(聖書の教え)と実生活との不一致を指弾する声が響き、その声は素朴な民衆の心に訴え、彼らを動かした。真っ先に最も多くの声をあげたのはチェコ語の説教の中心であるプラハのベトレーム礼拝堂であったが、この礼拝堂はチェコ人の住民の私的な寄付によって建立されたものだった。
知識人たちのあいだも平穏ではなかった。プラハ大学のドイツ人教師たちは頭数では多数派であり、イギリスの思想家ジョン・ウイクリフの改革意見に反対して騒然となったが、フスは友人たちとともにその意見に賛成の側に立った。ドイツ人たちはまた――ニ教皇時代には――ローマ教皇側に組し、わが国のヴァーツラフ四世の敵対者たちを支持した。王は「クトノホルスキー勅令」によって「チェコ王国内になんらの住民権をも」もっていないドイツ人たちから国籍の典から見た大学における大多数の権利を取り上げたが、それでも騒ぎは治まらなかった。それはもはや騒ぎの根源がかなりの深さに達していたからではなく、問題解決の鍵は国家権力と教会権力との関係の解決にあったからである。
ウイクリフの本を焼くべしという大司教の指示も焼け石に水であった。それというのも、これで騒ぎの本質を排除できたわけではなく、むしろ火に油を注ぐ結果になったからである。この焚書キャンペーンにたいして世論は大司教にあてた「臆病うさぎの大司教、本を焼いたはいいのだが、書かれた中身はつゆ知らず」という辛らつな小歌で応えた。しかし「告発されねばならぬ」 Musíbýti ohlá&#353eno という小歌のなかには反抗をあおるような脅迫的な言葉も現われた。

ズビニェク、本を焼いたげな
ズディェニェク、火をば点けたげな
チェコ人たちへの嫌がらせ
教皇どもに、呪いあれ!
いいか、チェコ人
見ろよ、チェコ人

とくに、劇的なのは一四一二年だった。

使節がプラハへやってきて
坊さんどもにけしかけた
たとえ、ご追従(ついしょう)に駆けつけようが
王からたみから搾り取れ
チェコ全土から容赦なく――

時事小歌『にせキリスト教徒を弾劾する』は教皇の懐をさらに潤す利益をもたらすべき免罪符商売の性格をこのように暴いている。免罪符の販売にさいしてプラハでは、フスの支持者たちと、ベトレーム礼拝堂を襲った武装ドイツじんたちとのあいだに激しい抗争が起こり、チェコ語による説教は禁じられ、フスは弾劾され、プラハには宗教行事一切の禁止令(インテルディクト)が公布された。しかし教会の僧侶たちは自ら自分の首をしめるような挙に出たのだった。フスは地方にくだり地方の人々の反抗心に訴えた。革命の原動力となったのは失うものをもたない人々、つまり都市の貧しい人たちと地方の人たちだった。そして最後までがんばったのもこれらの人々だった。なぜなら比較的進歩的な思想をもっていた貴族たちの陣営の中にも、市民階級の人たちのなかにも、その後の経過において「たとえ死すとも、信実を求め、真実に耳を傾け、真実に学び、真実を愛し、真実を語り、真実に従い、信実を守れ」というフスの言葉にしたがう決意をした人はほんのわずかだったからである。コンスタンツの町境に燃える火はあまりにも激しく、非の試練は恐怖を呼び起こした。だからこのスローガンが魅惑的に表現された単なる口先だけの教訓ではないことを身をもって証明した人であったればこそ、フスはそれだけ大きな尊敬を受けたのである。
ヤン・フス師(一三七一 ― 一四一五)は理論と実践を一致させえたという、まさにその意味で、真実、新しい時代の人間で合った。プラハ大学における彼の大学教育と教育者としての実践は、彼自身が生まれ育った無教育な民衆の生活環境にたいする十分な理解、それに、もちろん彼の説教活動ともあいまって、フスの活動のなかで特別の重要性を増してきた。フスは革命運動の指導的人物になったが、彼自身もまたこの運動の実際の推進者たち、つまり民衆層に指導されたのだった。彼はプラハ大学におけるチェコ人の優位を獲得しようとする努力(これはクトノホルスキー勅令の発布によってむくわれる)と、当時の反動的社会勢力の重要な拠点であった教会ヒエラルキーにたいする、倦(う)むことなき戦いによって公的事件の渦中に巻き込まれたのである。
フスの活動は、一方では当時一般にラテン語で行われていた学問的意見発表(論文、小論、教義問答など)に、また一方では民衆層を対象にしたチェコ語の説教や著述に向けられていた。フスの専門領域での活動は民衆の中での活動ほど重要ではないとか、理論的には単にかぎられた意義しかないとか言う人があるかもしれないが、それは間違いである。つまり革命運動を推進するためには民衆だけでなく、少なくとも知識階級の一部は取り込む必要がある。しかも当時の社会の腐敗の原因を暴露し、解明する必要があるのは当然であった。それは真のキリスト教の教義と教会ヒエラルキーの生活のなかでの「具体的現実」との比較、それにまた、きわめて徹底的な理論的分析とならざるをえない。
フスの論文が大胆な攻撃性を欠いていないということを、たとえば、彼のラテン語による主著『教会論』 De ecclesia が証明している。著者はそのなかで、当時の教会組織を次のように指摘して攻撃している。教会の首座を占めるのは教皇ではなく、キリストである。「人間を民衆の聖なる教会の体の一部とするのは、その地位でもなく、人間の選択でもなく、神のご意志である。しかも、それはキリストの教えに常にしたがう誰しもがかかわりうるものなのだ」。そして教会の「体」を人間の体になぞらえて、「教会には何か異質のものが付随しており、教会のなかには何か異質のものが存在している」。つまりフスによれば「人間の体のなかには、体そのものの構成要素でないいろいろなもの、たとえば、唾や痰や糞、汚物、小便などがあるように、キリストの神秘なる肉体――それが教会なのだが――そのなかにもかにかがある。言うならば教会に本来そなわっているはずのないものだ。たとえば食物の余分なものが人間の五体から排泄されるように、教会の余計なものは教会から排除さるべきなのだ」。フスはこれを論拠にして、教皇もあらゆるヒエラルキーも聖書にしたがって生きていないかぎり、真の教会のものではないと結論し、さらに真のキリスト教とはこのような信仰の「指導者」にしたがう必要はないことを論証している。彼は盲目的服従や教皇の無謬性やその特権的地位を激しく攻撃し、「自分の悪行を指摘されると腹を立てる者たちがいる。教会の指導者でさえも間違いを犯すし、その存在自体も必ずしも有用でない。神の教えや命令をつとめるのでないかぎり、自分の指導者であろうとも、誰一人、その人の言葉にしたがう義務はない」と論じた。たしかに、これらの言葉を頭から浴びせられたものたちにとっては、かなり読むのがつらかっただろうし、同様に彼らがあくせくと求めるこの世の権力の空しさを説くフスの言葉も耳に痛かったことだろう。フスは彼のラテン語の『カレル四世ご逝去の記念日にさいしての説教』のなかで、「人生は短く、権力もまたむなしい」とのべ、次のように続けている。

もし死者が声をあげて答えることができるとしたら、いまは亡きわれらの聖なる神学の師や教授たちはなんと言うだろう? 最も有能な実践家ミクラーシュ・ピツェプスは? 最も明晰な弁舌家ヴォイツェフは? 最も鋭敏な数学者エネクは? 最も秀でた詩人ミクラーシュ・ス・ラコヴニーカは? 最も先見性のある顧問官ミクラーシュ・ス・リトミシュレは? 最も熱烈な愛国者シュチェパーン・ス・コリーナは? 信号ラッパと言われた弁舌家ヤン・シュチェクナは? 甘美なる音楽家そして最後はとりわけ情熱的説教かとなったpットル・ゼ・ストゥプナは? これらの人びとや、またその他大勢の故人たちは、彼らの墓石を足で踏み鳴らしたら、なんと答えるだろう? 必ずや彼らは言うだろう――いやがうえにも空しいこの空しさ、すべては空しい。深い知識も何の意味もない。門地も美貌も何の慰めとならず、金の塊も何の助けにもならない。物質的事象は、氷が太陽の光に溶けるように、跡形もなく消え去ってしまうと。

かつてプラハ大学の他の学生とともに冗談を交わし、余暇を楽しんだ陽気な学士ヤン・フスの表情から笑顔も消えた。冗談を言うどころではなくなったのだ。彼は自分の教養によって人々を援助することが必要となった。「生活の糧を得る高度の学問」の場からはラテン語で、最も援助を必要とする人たちも近寄ることのできる場所から、説教壇から、ベトレーム礼拝堂からはチェコ語で語った。そして「聖務禁止」 interdict によってプラハを去らなければならなくなったときには、「垣根のあいだの場所からも、コジーと称する城の周辺でも、町から村への旅の途中の場所からも」語りかけねばならなかった。また、チェコ語でも書かなければならなかった。フスのチェコ語の著作には『聖職商売についての書』 Kní~ky o svatokupectví がある。この書は教皇の免罪符販売にたいして明確な態度を示し、この行為を厳しく断罪し、これを当時の教会の堕落の現われだと説明すると同時に、当時の社会全体をも容赦なく批判した。フスは文字による意見発表においても、練達の弁舌家であることを証明している。

ああ、いまや衆人の目にするところ、かつてなき悪習がはびこり、またそのどれもが神に背き、神の掟に反し、理性にもとるものである。だがキリストを基礎とせずして、よい建物が建つはずはない。然るにキリストは「おまえたちはただで取り、ただ与うべし!」といわれて、救済のためには精神のほどこしものをただで与えるように定められた。だが、悪魔は「ただで与うな、ただで取れ!」という。だから悪魔の定めは逆となる。諸君は洗礼を授け、懺悔を聞き、聖油をぬり、叙位され、ミサをおこない、罪の許しを与え、埋葬をなし、祈祷し,徹夜の勤行、俸給、儀式,教会、説教、聖体を与え、堅信礼、仕来りどおりの聖体拝領、保証書、免罪符、判決も出す。そのすべてを諸君は商(あきな)っているのである!

しかしフスは単に批判するだけにはとどまらなかった。結論では、いかにして免罪符販売に抵抗するかを教え、とくに――闘争を呼びかけて――民衆層の結集である世俗的勢力にはっきりと訴えたのである。
教会と実生活との関係についての見解をフスは『六つの誤りについて』という文書のなかで説明している。最初のラテン語の短い文章(本来は説教のためのメモだった)はベトレーム礼拝堂の壁に書かれていたものだが、第二次世界大戦後になってch個後の祈祷の記録とともにここで発見された。序論からもわかるように付す自身がその文章を書かせたのである。そこには「多くの者たちがおちいりやすい六つの誤りを指摘し、人々が自らそれを戒めるようにベトレームの壁に聖なる言葉を記す」とある。
追放のあいだに、どうやらその当時、最も読まれたと思われるフスの著作『説教集』 Postila がうまれた。だが、これまでの説教集と同じような、正確な意味での説教集(ポスティル)ではない。むしろ、それは民衆に向けた小論文集といったもので、それは――フスによってはじめて試みられ――やがて民衆の人気を得て、再興期にいたるまで書きつがれた文学ジャンルであった。フスは実生活にも関心を向け――シュティートニー ――と同様に女性たちのことも忘れなかった。彼女らのために『娘 Dcerka という教育書を書いたが、そのなかには著者フスの別の顔がのぞいている。そこで語っているのは、被抑圧者の権利の熱烈な保護者ではなく、あらゆる人生行路には苦難ばかりではなく、喜びもあることを十分理解したやさしい助言者であり、教育者である。そしてそこにはまたすぐれた観察者、心理学者も語りかけている。

老人は、けちでしみったれ、陰気で惨めったらしく、口は出したがるが聞きたがらない。そのくせ、すぐに怒る。金をもっていれば隠し、使うのを恐れ、与えるとしてもしぶしぶ与え、むしろ取りたがる。年老いた死にそうな人をほめそやし、元気な人をこきおろす。昔のことを懐かしみ、奮い手柄を自慢する。それらを思いため息をつき、首を振り,罪はいかんとと歯ぎしりする。

教育的意図をこめたものとしては『信仰解説、十戒と祈り』 Výklad Viery, Desatera a PáteYe(=Ot enáae) がある。これはフスの説教に直接参加できなかった人々のための、生の話の代用であった。著者はこの本の中に,これまでいろんな形で語ってきた思想を集大成しているが、とくに愛国的調子が――他のチェコ人の発言と比較して――強く響いている。
われわれがここに引用することのできたフスの作品のわずかな実例からもよくわかるように、フスの言葉は古い文学作品(たとえばシュティートニー)とくらべてずっと単純である。」それはフスが語りかけた広い範囲の読者層にたいする配慮が、これまでの複雑な表現をやさしくしようという努力に向かわせたのだ。フスは正字法の単純化にも功績がある。したがって自分の国の人々の文化生活に基礎的な方法で影響を与えたのである。
フスは生涯の最後の瞬間まで,わが民族のことを思っていた。そのことは彼が自分の信仰を撤回するように迫られていたコストニツェ(コンスタンツ)から友人や師や弟子たちにあてて書いたたくさんの手紙が証明している。しかも、彼は「牢獄につながれて師の判決を待っているあいだにも」手紙を書き、その手紙は書き写されて長いあいだまわし読みされていた。それらの手紙のなかでは、今日まで生き残り、チェコに住むフスの友人たちに忠告した有名な文章がある。
「愛されるように、善良な人々に暴力をふるわせないように、そして誰にも信実を求めるように」
この言葉はフスが命を懸けた生涯の信条でもあった。もし、ライン河が汚れた手を洗って知らん顔をしてから長い年月をへた今日でも、若者たちが「ベトレーム礼拝堂の説教」というポピュラー・ソングや、また、ハナ・ヘゲロヴァーの暗示にとんだ歌詞のなかで「何が恐ろしいことか知らなかった」者に教えてくれるあの歌によってフスの遺言を思い出してくれるなら、フスの作品や生きる姿勢を評価するありふれた決り文句など、ここにあえて口にする必要もあるまい。フス自身、これ以上に何を望むものがあろうか? <訳注・フスが処刑されたコンスタンツ(ドイツ。チェコ語ではコストニツェ)、ライン河源流の湖のそばにある>





(2) 革命運動への文学の参加


フスの死はもちろん彼の教えのおわりを意味しなかった。むしろその反対だった。もはや息絶えなんとする封建主義の不安な水面には、いっそう大きな渦が巻いていた。コストニツェでの「不正」な結果にたいして厳しい反対を唱える「時事小歌」がふたたび鳴り響いた。しかも、それらの歌はチェコ語ばかりでなく、外国に伝えるためにラテン語にもなり、後世になってこの歌はフス派の一種の賛美歌にさえなった。

おお、コンスタンツの宗教会議
聖なる集いといいながら
かくも、不用意
慈悲もなく、聖なる人を
滅ぼした!

そんなに罪があったのか
尊い神のお情けが
多くの罪に化けるほど?
みんなが、ほんとの懺悔をば
うそ偽りなく,するように

この歌のなかにはフスの教えの遺言として、教会の誤りにたいする批判も欠かしてはいないし、フスは自らの死によって罪を購ったのだという、教会ヒエラルキーの独り善がりの言い分など信じはしないぞという断固たる抗議の意思表示も忘れていない。

おまえら、間違い、犯したぞ
そして、真実からも、はみ出した
恥さらしな、悪行、その他
善男、善女の証言を
軽蔑こめて、くれてやる。

そは、かの人の、死のおかげ
それは、罪なき、人だった
忌むべき、僧侶の悪行は
広く、世間の、知るところ
隠しおおせる、ものかいや?

フス主義の時代にはじめて大きな声で鳴り響いた小歌は今日まで生命を保っているジャンルである。「ヒビの生活プログラム」に立脚した歌の一つを、われわれは「現代的」にはプロテスト・ソングと呼んでいる。そしてこの「抵抗の歌」がわが国ではじめて本当に芸術的形態でうたわれたのが「セマフォル劇場」の舞台で合ったことをはっきり記憶している人は、たぶん、もうほとんどいないのではないだろうか。シュリットル(作曲)とスヒー(詩)のこんびによる『わが生涯より』はハナ・ヘゲロヴァーによって上演された。
時事小歌とともに言葉による戦い――それは大学の集会(フォーラム)での意見発表や討論の形で――は続いた。そして間もなく武器による戦いもはじまった。フスの支持者であり、親しい友人でもあったエロニーム・プラシュスキーは国外でも論争に参加したすぐれた学者だったが、フス弁護の証言のために出かけていったコストニツェ(コンスタンツ)でフスの死の一年後に焚刑になった。フスの協力者であり、またベトレーム礼拝堂の後継者であり、同じく大学の学士でもあったヤロウベク・ゼ・スチーブラは強い意志の持主ではなかったので、戦争がはじまると、過激な意見を述べるのをやめ自分の学問のなかに閉じこもった。しかしそんなことは激しさを増す国内の戦争にも、フス主義運動が国境の外に及ぼす影響になんの変化ももたらさなかった。
革命の潮流は文学にも支援された。なかでも宗教小冊子(トラクタート)とならんで、フス主義の反対者の行動を嘲笑をもって攻撃したのは時事小歌だった。しかし、なによりも、それらの小歌は武装した「神の戦士」たちを一致団結させたのだった。これらの歌の大部分は、いわゆる『イステブニツキー讃美歌集』 Jistebnický kancionál のなかに記録されているが、、この種の歌集としては、実は最初のものである。歌集はフス派の歌が取り込んだ領域がいかに広範であったか、そして生活との結びつきが以下に緊密であったかを示している。宗教性はそこではその超地上的性格をまったく失っており、人間相互関係の平等は秩序のための戦いという奉仕精神に根ざしたものになっている。われわれにとって音楽はフス主義以来、単なる響き以上のもの――聴覚だけでなく心で受け止めるもの――となったのは、たぶん、そのせいであろう。イステブニツキー讃美歌集に保存されている一連の歌に共通する性格は、文学および音楽の形式と現実的内容との緊密なる結合である。これらの歌のなかで今日まで知られている作品『神の戦士であるものたち』 Kto~ jsú bo~í bojovníci はフス革命のシンボルとなり、あえて言うならば、多くの作曲家の尽きることのない霊感のもととなり、十九世紀後半の労働者の歌の一つにも取り入れられ、さらに、真理と権利との戦いの輝かしい勝利の証人ともなったのである。
メロディーはドブロフスキーが「堂々として恐ろしい」とけっして誇張ではなく性格づけたように、神の戦士の口から響いてくるのを聞くやいなや、フス派の敵どもがあわてて闘争するという効果をしばしば現わした。これと同形のものが憎悪の的となった皇帝ジクムントへの反抗を呼びかけるプラハ人たちの歌『立て、立て、プラハ、偉大なる町よ』 PovstaH,povstaH, veliké msto Pra~sk&eacute』である。戦争の歌はほかにフス焚刑のこと、店屋での免罪符売りのことをうたった歌、そのほかたくさんの信仰の歌も作られた。大勢の作者のなかで、いまのところ名前が知られているのは、ただ一人、ヤン・チャペックだけである。彼の作品『さて、正しい信仰のクリスチャンとは』は十戒を説明し、聖書の自由な解釈を支持している。また、『神の名において行動しよう』という歌では、フス派陣営のプログラムの要約を述べ、聖人崇拝を攻撃している。
しかし、また、戦争の初期に書かれた文書にはフス派の人々の目に映った当時の状況が反映している。それは『ブディシーンスキー写本』 Budyaínský rukopis と呼ばれているもののなかに保存されている三編の詩作品『チェコ王位への告発』 }aloba koruny  eské 『チェコ王位にたいする弾劾』 Porok koruny  eské 『プラハとクトナー・ホラの口論』 Hádání Prahy s Kutnou horou である。はじめに挙げた二作品は一四二〇年、ジクムントがチェコ王位についたが市民や民衆が認めなかった、そのときの様子を描いている。『口論』は当時人気の合った寓話的な論争の形でフス主義のプログラムを擁護している。プラハはフス主義理念の擬人化であり、キリストの前でローマ派の象徴であるクtナー・ホラと論争する。論争はプラハの勝利でおわる――作者(疑いなく教養人で言葉の芸術家である)の共感がプラハにあることは、二人の登場人物を紹介する作品の出だしの部分からすでに明らかである。

プラハは、右手のほうに立ち
クトナの山は、左方(ひだりかた)
プラハは上品、清楚な姿
いやみのない、美しい女性
澄んだひとみに、思慮ある言葉
金髪で、つつましやかに、頬染める

クトナの山は、せむしの女
地面を見つめた、目はほそく
険をふくんだ、ぼそぼそ声
首を振りふり、言葉を返す
こんなときでも、身につけたのは
頭布のついた、粗い服

作者はローマにたいする自分の憎しみを、クトナー・ホラに語りかける結びのキリストの言葉のなかにあからさまに述べている。

この罪ふかき女を、見るがいい
あいも変わらず、悪意をふくみ
自惚れ、不倫と、吝嗇(りんしょく)と
残忍、賭博に、明け暮れる
わが教えをば、踏みにじり
心の友をも、ないがしろ

コンスタンツに、たむろする
悪党一味に、奉公し
偽りの言葉、不遜にも
われこそ、聖なる集いなり
神のご意志に召されたり、とは
独り善がりの、思い込み!

文学を現実の事件に奉仕させ、文学を通して運動の推移にも影響を与えようとする傾向が、年代記のジャンルにもはっきり現われている。年代記は単なる事実の記録にとどまらず、ジャーナリズムにおけると同様に事実を評価しようとするようになった。そのことをヴァヴジネッツ・ス・ブジェゾヴェーの筆になるところの大規模なラテン語の作品『ボヘミアの王位について延べたる歌』 Carmen insignis Coronae Bohemiae が示している(新チェコ語版では『ドマジュリツェの勝利の歌』 PíseH o vítzství u Doma~lic というタイトルで出版された)。この作品は十字軍にたいするフス派兵士の勝利を祝賀しているが(チェコ国内の事件を外国にも知らせるという)プロパガンダの意味もこめてラテン語で書かれている。
フス主義時代の文学的記念碑のなかに、当時の戦争の記録も見出だすことができる。それはよく知られているように、農機具の武器としての使用とか、荷車のバリケードどかだけでなく、武器に即した新編成の戦闘隊形の記録などもある。一四二三年の「軍隊の階級」の制定にはヤン・ジシュカ自身も関与した。そこから、今日、われわれが感じるのはその民主的性格である(規律でも戦利品の配分でも)。ジシュカはまたいくつかの手紙の筆者でもある。それrの手紙はフスの手紙と同様に政治的マニフェストとなった――もっとも、それは驚くにはあたらない。それというのも、その手紙の筆者は鎚矛(つちほこ)と同様、言葉も巧みに使いこなせたからだ。だから「どんな石でも拾って投げる」ことができる者は誰でも正義の戦いの仲間に引き入れることができたのである。
フス主義の運動の期間でも大学の研究活動が停滞することはなかった。なぜなら「クトノホル勅令」によって外国人が大学から去りはしたが、大学にとってそれほど大きな痛手とはならなかったからである。神学のほか、自然科学でも発展を記録している。これらの学問分野の主な代表者たちは、学問的著作をすでにラテン語ばかりでなくチェコ語でも書き、ヨーロッパ的水準に達していた。たとえばフスの友人であり同郷者でもあったクシシュチャン・ズ・プラハティッツはとくに医者として知られており、死後も長いあいだ外国の学者から尊敬されていた。

造形芸術のいくつかの現象は、前フス主義時代との緊密な結びつきを示している。たとえば聖書のなかの彩色装飾は貴族的ヴァーツラフ時代の写本の豊かな装飾技法を絶やすことなく受け継いでおり、しかもさらにそれを発展させている――そこには清教徒的な性格はまったくない。ここで問題となるのは発展の持続性よりは、むしろフス主義時代の聖書の所有者、すなわち自由土地所有者(下級貴族)や市民たちが社会的地位の上昇の結果として貴族意識(「聖書の騎士」)をもつようになったことである。「ほんのなかの本」、つまり聖書――その当時の聖書は豊かな装飾をほどこした写本の形で多数保存されている――にたいする関心は、高度な教養と、またそれが広く一般民衆のあいだにも浸透していたことを物語っている。

さらに聖書の物語や宗教的行為が非宗教的タイプの作品や、ときにはパロディー作品の手本になっている場合の実例もある。そのいい例が一四〇一年のブルノの盗賊団退治を描いたラテン語の『シュパラニツキー盗賊団の受難、ブルノの首切り役人バルトシュの記すところによる』 Paaije alapanických loupe~níko podle sepsání Bartoae ,kata brnnského である。ここにはもはや受難劇的、復活祭的文学の性格はすっかり否定されている。ブルノの市民たちとの戦争を準備していた盗賊たちは「教会の壁の上に、ものすごく大量の石塊や放談が積み上げられているのを発見した。そこで壁越しにのぞいてみた。そしたら、なんと、ものすごく大勢の武装したものども集まっているのが見えた。そこで彼らに言った。
「諸君、君たちは何ゆえに祝いの衣装をもつけずに教会に集まっているのだ? それというのも諸君の装備せる武器、槍、砲弾は友情の印ではなく、諸君の怒りの現われであろうに」と。
作者は盗賊にたいするブルノの市民の勝利にたいしてさえも嘲笑をおしんではいない。
「彼らはなおいっそう、聖なる怒りの炎に煽られて戦争を継続し、ムニェニツェだかムニェニーナだかにたむろする別の盗賊どもをも征伐しようと思った。思ってはみたものの、上等のワインのいっぱいつまった樽が転がっているのを置き去りにしていくほどの勇気はなかった」
そして、数珠つなぎになって引かれて行く盗賊たちは絞首台を身にしたとたん、「恐怖のあまり、死人のように体を硬直させ、そのあげく、この一年間、喉から詰め込んだものを全部垂れ流してしまったほどだ。おかげで彼らのズボンは上から下まで真っ二つに裂けたもんで、役所の立会人は非常に不思議に思った。やがて地上は一面の闇におおわれ、地は轟音にふるえ……」
要するに、この作者はまったく神の子羊などではなかったのである。
同種のパロディ―ニぞくするのが、反フス主義的なラテン語作品『ウイクリフのミサ』である。この作品からわれわれは「ウイクリフがチェコでヤン・フスを生み、ヤン・フスがコランダを産み、コランダがチャペック(ヤン、前出)を産み、チャペックがオレシャークを産んだ。オレシャークはやがてスラードルとズムルズリークを産んだ。ズムズリークはやがてヤコウベクを産む。ヤコウベクはやがてクシシュチャン・ズ・プラハティッツを産む。プラハティッツは医学において四倍(科)の学士であったが、同時に十倍の悪党であった」ことを知るのである――すべての異端者は呪われた悪魔の息子だというわけだ。

『プラハとクトナー・ホラの口論』にはその対照作品がある。カトリック陣営から生まれた討論形式の韻文作品『ヴァーツラフ、ハヴェル、および、ターボル』である。この詩は戦争による国内の貧窮の責任追及の矛先を急進的なターボル陣営に向けている。反フス主義の思想は、フス派がまだ勝利の進軍を続けているあいだにも、多くのふう詩的作品のなかで表明されていた。そのなかのいくつかのものは、たとえば、チャペックの作曲になる『十戒』は『さて、汝ら、新しい信仰の靴職人よ』 Nu~ ,vy aevci viery nové という歌によって揶揄されたように、フス派の歌をパロディー化したものだった。反フス主義者たちの意図は歴史的作品『フス主義の先祖たち』 Po tkové husitstv&iacute, 『ターボル派について』 O sekt táborské 『フス派急進分派について』 O nahá ích のなかにもある。カトリック派はフス主義運動にたいする反感を表現するために、フス派たちが作品のなかで用いたのと本質的に同じ文学形式を用いたのである。

フス主義急進派の指導者たちがリパニで、フス主義右派とカトリックの連合軍に敗北した(一四三四年)後も、文学はフス主義思想のための戦いを継続した。特徴的なのは、そこには愛国的調子も認められることだ。それは危機の時代のなかでスロバキアの旋律とも共鳴して響いた。『チェコ年代記の抜粋』 Krátké sebránie z kronik  eských (ダリミル年代記からの引用が豊富である)という小冊子の未知の編者はチェコにたいしてドイツ出身の王の選択に注意をうながし、スロバキアの貴族の口を借りて、チェコ民族の歴史の中の反ドイツ的証拠を挙げながら論証している。

                                                                                  





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