(3) 革命運動清算後の文学におけるフス主義理念の余韻



 リパニの敗北はわが国の政治、経済生活ばかりでなく文化領域にも重大な結果をもたらした。文学においてはアジテーションのかわりに論争形式が登場した。論争はカトリックと国内反動勢力に向けられた攻撃であり、ウトラクヴィスト(両形色説)派とターボル派とのあいだで、また後には友愛団 Jednota bratrská も加わって続けられた。フス派の理念は文学においては六〇年代のおわりまでには消えてしまうのだが、文学作品の革命的機能が弱まり、人々が徐々に仕事や生活構造のなかに復帰しはじめるのにつれて、宗教的関心をないがしろにして世俗的関心が強まり、それが娯楽文学への関心となって現われた。
リパニの決着が社会生活にもたらした意味は、貴族と裕福市民の権力強化であった。この二つの社会層はとりわけ、教会から奪った財産が永久に自分たちの手にとどまるように努力した。彼らは自分たちの両階層に属するものの何人かがフス主義を信奉しているかぎりは、ローマ教会のほとんど唯一の譲歩とも言える両形色説の受け入れで満足していた。民衆層は――たとえ教会への租税から開放されて、彼らの地位も多少は向上したとはいえ――ふたたび状況は徐々に悪化していた。それというのも、支配下の民衆を土地に縛りつけようとする試みがすでに現われていたからである。ところが教会ヒエラルキーはといえば、すでに政治的にだけでなく経済的にも破綻していた。なぜなら教会にはほんのわずかの土地財産が残っているにすぎなかったからである。
リパニ後の時代は必ずしも平穏ではなかった。というのは、この時期には封建領主間の抗争、それも血なまぐさい抗争が顕著になってきたこともあるが、その上、国内戦争までが続いたからである。この内戦はイジー・ス・ポジェブラットが地方総督 zamský správce に就任してやっと終息した。イジーは中央集権的専制主義国家を確立していったが、貴族たちよりは騎士や都市に依存した。やがて一四五八年に「一つの考えに統一された自由意志によって」チェコ王になってからは、チェコの「異端者ども」にたいする、それも、とくに自分にたいする――彼は両形色説信仰(ローマ・カトリックと対立するフス派の信仰・訳注)を取り下げる気は毛頭なかったから――ローマ教会の圧力に対決するために教皇をのぞいたヨーロッパ諸侯の同盟を結成しようと苦心していた。
一方、チェコの封建支配層(いわゆる「緑山党」 Zelenohorská jednotka ) イジーが自分たちを袖にして騎士たち、つまり下級貴族や市民たちに支持基盤を移したことを快くおもっていなかった。その状況につけこんで教皇は彼らのもとに足がかりを得たが、だからといって安閑としていたわけではない。チェコにたいして十字軍の派遣が宣言されたくらいである。その先頭に立ったのがイジーの娘婿、ハンガリーのマティアーシュだった。緒戦の状況はチェコにとってかなり不利だったが、「神の戦士」の反抗心が今一度盛り上がり、マティアーシュは捕らえられた。友好関係を復活するという約束のもとに釈放されたが、約束は反故にされ、ふたたび「異端者ども」にたいして兵を出した。イジーは外交交渉に取りかかったが、その途中で急死した(千四百七十一年)。イジーの死後、ほとんど四世紀半というものチェコの国土はチェコ人の支配者をもたなかった。
しかし「フス派王」の死はそれと同時に「フス主義理念」の終焉を意味しなかった。愛国心、真理のための戦い、生活向上を目指す文化、広い僧への教育の徹底がフス主義の永久遺産として残った。これらの基本姿勢はたとえ外国の影響にたいするペンによる抵抗であれ、または武器による戦いであれ、チェコ国のその後のすべての発展段階においてはっきりと保たれているし、また、続く何百年間のチェコ文化の真に偉大なる個性の担い手となったすべての人物たちによって常に意識的に発展されてきたのである。それはまたチェコ民族の健全な自意識の、涸れることのないない泉であり、暗黒のなかに、もはや一縷の希望の光も見いだせないような時代にも、力尽きようとする幹をよみがえらせるリンパ液だった。
リパニ戦以後の時代の文化の性格は、第一に、たとえば、建築の単純さに見られるような厳しいまでの独特の簡潔さである(tィーン教会)。しかし世俗的生活の価値が意識されるとともに、この簡潔さは影をひそめ、単純さはヴrヂスラフ時代の後期ゴチックの絵画に移行する。文学では生活にたいする新しい関係をイジー王の道化だった兄弟パレチェクという人物が具現する。つまり彼は誠実な信仰と世俗的生活の喜びとを、また、ウイットと積極的な隣人愛とを結合した。
広い層における教育にたいする関心は――すでに述べたように――フス主義時代の重要な遺産の一つであるが、文学作品の急速な伝播と、当然ながら、それらの急速な量産化と低廉化をと要求した。そこにおあつらえむきの助っ人となったのが印刷術の発明だった。チェコはヨーロッパのなかでもその発明を最初に利用した国の仲間である。およそ一四七〇年ごろ、プルゼニュで最初のチェコ語の本が印刷されたが、それは世俗的テーマの本で『トロイ年代記』 Trojanský kronika だった。プルゼニュに続いてすぐにそれ以外の印刷所がブルノ、オロモウツ、ヴィンベレク、クトナー・ホラ、プラハに出現した。プラハでは特にチェコ語の本が大量に出版されはじめ、それらの購入者は、その当時は、おもに市民層であった。そのことの出版者のなかには単に印刷職人であるだけでなく、しばしば高い教養を身につけた人もみうけられ、そういう人たちは出版された本の版元であるのに加えて翻訳者(ないしは編作者 upravovatel )だった。
しかし出版書の取捨選択という形の苦心の記録を残すことによって、文学記念碑の保存に携わった人たちのことも忘れることはできない。彼らはまさに蟻のような勤勉さで投じどんな作品が(さらに古い時代の作品も含めて)愛好されたか、当時の読者大衆がどんな興味をもっていたかを、今日のわれわれが知る手がかりを残してくれたのである。これらの貢献者に属するのは当時の教師たち、たとえば、オルdジフ・クシーシュ・ス・テルチェである。彼の遺産は実際巨大なもので、二十六巻の筆者本の全集である。ヤン・ピンヴィチュカ・ス・ドマジュリッツも古代チェコ語の作品を記録したが、同じく教師だった。


両形色説派のヤン・ロキツァナは不毛の宗教抗争に明け暮れた時代の実情を言葉を通して実に生き生きと描いている。彼はイジー王の政治の教会側支持者だった。彼の生きた時代は彼の目には一艘の船に見えた。その船に乗り組んだ僧侶たちは信者たちを天国の岸辺へと運ばなければならない。しかし意見に統一がないから、一方はこっちに進めようとするし、別の者たちはあっちへ進めようとする。だから乗客たちは誰の意見に従えばいいのかわからない。ロキツァナはプラハのティーン教会での説教によって有名である。説教は確かに現実に目を向けたものではあったが、それでも当時の現状維持の努力にすぎなかった。
ターボル派の側からは学識豊かな神学者ミクラーシュ・ビスクペッツ・ス・ペルフジモヴァの論争の声が聞こえてくる。両形色説派とターボル派とのイデオロギー逃走は一四五二年にイジー・ス・ポジェブラット王がターボル派に公認の聖杯派教会 kalianická církev との融合を武力で強制することによっておわった――ぶまり、彼は過激な運動はすべて押しつぶす政治家として振舞ったのである。六〇年代には新しいイデオロギー戦争の火の手が上がった。それは両形色説派とカトリックとのあいだに起こったものだが、イジーに反抗して教皇だけでなくチェコ国内の貴族まで立ち上がった。もはやそれは言葉だけの戦いではなく、武器を手にしての戦いだった。だがそんな争いは、フス戦争ですでに消耗し尽くした国の利益にはなるはずもないし、また、文化の発展のためにもならないのは当然である。文学はこれらの事件をあらゆる側面からとらえたのも事実だが、文学の発展、進歩の役には立たなかった。ようするにルネサンスへ向かうべき文学の発展が――フス革命の勃発のときのように――ふたたび遠ざけられる結果にしかならなかったのである。そのことは無味乾燥な、あけすけな宗教的性格の作品からもわかるだけでなく、芸術的表現によって時代の問題を書き記した寓意的『真理論争』 Hádání pravdy や『嘘』 Lzi のような作品からもわかる。この作品の著者は高位の法官であり、イジー王の政策の支持者だったツティボル・トヴァチョフスキー・s・ツィンブルカであった。真理は聖杯派教会とイジーの政策をしょうちょうし、欺瞞はローマ教会およびイジーの敵対者を擬人化したもで合った。このきわめて膨大な散文作品は本質的には新しい封建主義の擁護であり、その点ではトヴァチョフスキーの他の法律的著作と同じであった。
革命運動挫折後の新封建主義の条件のもとでの時代思想は全体的に消極性が目立つ。ペトル・ヘルチツキー(一三九〇― 一四六〇年ごろ没)の作品は、たとえ同時代の社会機構を非常に鋭く批判し拒否したにしろ、「悪をも拒否せず」という消極性に引きこもり、精神の戦いのみを強調する。
「それは肉体の剣ではなく、精神の剣である。なぜなら、精神によって生きるものは精神の剣を理解し、その精神の剣を持って精神のしかも巧緻なる悪魔と戦うことができるからである。しかるに盲目にして肉体的なる人間は悪魔との戦いにおいて自らを守ることができないか、あるいは悪魔の支配する闇のなかにあることを気づかない。だが、そんなときでも使徒は人々を肉体的な戦いに導かない。なぜなら、彼らに肉体の剣を取ることを許さないからである」とヘルチツキーは彼の処女作『精神の戦い』の中で述べ、生涯にわたってこの信念を守りつづけた。ヘルチツキーがどんな影響を受けたとしても、時代の制約に勝つことができなかったのは仕方のないことである。著者の生涯については作品の中にあるいくつかの記録遺体に手がかりはない。南チェコの小地主は、たぶん、低い教育しか受けられなかったに違いない。彼が接触したベトレーム礼拝堂の周辺が彼にとっては「大学」であった。とくにフスやヤロウベクである。だからウイクリフの著作も彼には未知のものではなかった。文学的にはシュティートニーから多くを学んでいるが、しかしフスの姿勢は「学ばなかった」。だからフスにたいしていろんな意味での敬意を抱いていたにもかかわらず、思想の上ではきわめて早い時期にフスと袂を分かっている――それはまさに「悪をも拒まず」の、つまり事故の信仰を防御するためであろうと暴力には頼らないというかの基本理念の所以であった。
ヘルチツキーの処女作『精神の戦いについて』 O boji duchovním はそのなかに、すでに作者の基本理念のすべてが包含されているという点できわめて驚嘆すべき作品である。彼の消極主義の理念とともに明確に示されているのは、自分の解釈なしに権威者の説を無批判に鵜呑みにすることをきっぱりと拒否していることである。ヘルチツキーの言葉に見てみよう。

われわれは役立たずで、無力で不正直である。だから他人の思想や書物を読めば読むほど、それだけ多くの誤った考えをもつようになる。しかし自分ひとりだけでは死んだも同然、見捨てられたも同然だ。ご存じのとおり、いまチェコには大変な悪と危険が存在している。そういう事態になったのも盲目の教師が大勢いるからだ。ところがわれわれは、これらの指導者たちがいろんな博士の書いたたくさんの本をかき集めることのみに腐心している様子を目の当たりにしている。そしてこれらの博士の本をかき集めてしまうと、まるで自分は万能なりといわんばかりにうそぶいているのだ。しかし読書の何たる課を理解せずして、読書がうまくいくはずはない。絹の刺繍を習ったからといって、耕作がうまくできるようになるわけではないのと同じである。

確かにこの宗教小冊子のなかにヘルチツキーのすべての信条と姿勢の根源をはっきり読み取ることができる。彼の唯一の権威は聖書であり、「汝、殺すなかれ!」という戒律から彼の生活態度は出てきている。この生活態度のほかにも、この最初の本にはチェルチツキーの全作品をつらぬいている基本的問題意識も含まれている。つまり、それは実際に根に見える現実にたいする問題意識であり、その現実はここの欠陥のすべての点について厳しく批判されており、ヘルチツキーが適切とみなす現実像と評価基準から結論を引き出している。彼は声を大にしてこの世界の権力者にたいして抗議する。
世界の権威者を悪魔の「お役所」のなかにおびき寄せたのは悪魔自身であると彼は言う。そして彼らを「高慢、吝嗇、肉体的、盲目な人間」として性格づける。なぜなら、彼らは「神を恐れず、他の人たちのことは省みない」からである。つまり、彼らは一般民衆のために、羊飼いか羊の群れを見守るように、善良な人たちを見守るために存在しているのではなく、一般の人たちこそが彼らのために、彼らの胃袋に奉仕するように彼らの子孫心を満たすように苦労しているのだ」と――しかしそれにもかかわらず彼の人生の信条は純粋に精神の戦い、悪魔の誘惑にたいする抵抗の戦いにとどまっていた。
ヘルチツキーの不変の世界観の記録をわれわれはリパニ以後の彼の主要作品『説教集』 Postila と『信仰の網』 Siet viery pravé のなかに見いだすことができる。『信仰の網』はペトロの漁の奇跡にかんする福音書の物語からとられたもので、作者はその奇跡を比ゆ的に説明している。網(すなわち、教会)は正しい行いの人を救済する目的で捕らえる。しかし罪人たちは網を破る。 しかもヘルチツキーはこういう行いの人間を直接名指ししてはばからない。
「だから二匹の大鯨が網にかかったとき、ペトロの網は大きく破れてしまった。その大鯨とは王国の支配権をもつ最高の地位にある司教であり、皇帝以上に尊敬されている。もう一匹の鯨は支配者の皇帝だ。彼は『お役所』と異端的権力をもち、信仰の皮をかぶっている。ところがこの二匹の大鯨が網のナかであばれたものだから、網は引き裂かれてしまい、まともなところはなくなってしまった」
しかし作者はこの問題についてはここまででやめている。同じようにして、中世以来引き継がれてきた当時の社会的身分差別(三身分:聖職者、貴族、民衆<非自由民>)についても勇敢に論じている。そして小冊子『三種類の人間』 O trojiem lidu のなかで社会的不平等を拒否しているが、しかしこれもそれだけで終わっている。こうしてヘルチツキーの実は革命的であるはずの意見も結局は言葉だけだった。鋭い社会観察も、社会的不平等の原因暴露も空論おわっているのだ。そこにヘルチツキーの最大の悲劇がある。
ヘルチツキーは先駆的な思想家であった。フス派のイデオローグたちの場合、具体的な事実にもとづく論証というよりは、いぜんとして引用の積み重ねによる論証のほうが圧倒的おおかったのにたいして、ヘルチツキーの場合は具体的な現実認識にもとづいた帰納法的立論の見られるのが注目される。しかし独創的な思考法をもっていたにもかかわらず、社会的実践にとって有効な結論を引き出しえなかったことで、チェルチツキーは道半ばにとどまったと言わざるをえない。
チェルチツキーの著作のスタイルもまた独創的である。説明部分は聖書からの多数の引用で重苦しく、文章はしばしば見通しが利かなくなるほどである(この点はフスの表現と極端に違っている)、だからといって、気取っているとか理路を欠いているとかいうわけではない。しかし著者が具体的な事例に即して自分の意見を述べるようなところでは生き生きと語り、警句にも触れ、民衆の意見についての知見をも利用し、皮肉も避けず、自然現象の比喩も用いることもできる――このようなところでは、彼が人を感動させることのできる言葉の芸術家の列に加えられる視覚を十分備えていることを証明している。

そこで使徒パウロがどうして世俗の権力がその二つの面を守らなければならぬか、また、どうして聖職者たちがその両面を教えなければならないのか、隷属する民衆は領主や聖職者たちを養い、苦労して彼らのために食料や飲み物や金銭を得なかればならないのかをおっしゃった。体のどこかが悪くなったときは、体のほかの部分も一緒になって苦しむという理屈から言うならば、剣を握った膨れ上がった連中が、それより小さな連中を圧迫し、迫害し、殴り、労に入れ、労役や利子やその他の口実で悩ませるというのはどういうことだ。彼らはすっかり疲れ果てたようにして歩きまわっているではないか。いっぽう、たらふく食らい、満ち足り、大騒ぎをして君臨する連中や、聖職者たちは体の両面に目を光らせ、どうやって彼らから財産を奪い取るか、どうやって自分たちのものにしようかと狙っている。しかも貴族と聖職者たちは、ともに手を結んで、労働を強いられている人民を思うがままに搾取する。ここの体の部分の苦痛をみんなで耐え忍ぶようにと仰せになる聖パウロのお言葉と、おお、これはまた、なんとかけ離れていることだろう! 彼らは泣いている。そうとも、彼らから剥ぎ取り、ろうにつなぎ、脅かしていながら、彼ら(貴族と聖職者)らはこの哀れな者たちの窮乏をあざ笑っているのだ。

ヘルチツキーの思想を実現しようと試みたのがきわめて重要な文化団体の一つである「友愛団」nbsp;jedonota bratrskáの会員だった。この団体の起源はリパニ後の時代にまで及んでいる。最初、この団体は十五世紀の五〇年代に起こった人間的宗教の一派だったのだが、やがて数世紀間を通して文化生活の上にも大きな影響を与えることになった。それはロキツァナの説教の聴衆のなかから起こった――ロキツァナがヘルチツキーの教義に注目するように教えたのである。これらのヘルチツキーの後継者のグループはクンヴァルト・ウ・ジャンベルカに拠点を置き(ロキツァナの請願にイジー・ス・ポジェブラット王も許可を与えた)、そこで原始キリスト教徒の範例に従って、謙譲と労働と忍耐のなかで生活する共同体を作った。
ヘルチツキーの消極主義は、彼らにとって、反動傾向が強化される時代のなかで世界にたいする唯一可能な姿勢に思えたのである。この団体は宗教的共同社会として一四六七年に設立され、司祭を自分たちで選んだ。はじめに彼らを指導したのはロキツァナの甥ジェホシュ・クライチーだった。しかし間もなくこの団体のメンバーは迫害され、死の罰さえ受けるようになった。それというのも同時代の社会秩序にたいして否定的な立場を取り、その制度も法律も拒否したからである。しかも自分の王国内の「異端」にがまんしきれなくなったイジー王自身までが追及に乗り出したのだった。だが、結局、チェコの兄弟たちは現実にたいして目をつぶり、自分の進行を客観的な現実に適応させるように、現実そのものによって強いられることになった。
この活動の後退は友愛団にとって単なる損失にはならなかった。皇帝的な面もあったのである。つまりメンバーたちが市民層や知識層、それどころか貴族的身分の人々のあいだにも浸透していったこと、また、それとあいまって団体内部においてもより高い教養を目指すという積極的姿勢が争われるようになったことである。たとえ逆説的にきこえるとしても、カトリックや両形色派からのたえまないこうげきさえもが、この一派に積極的刺激となって作用した。それというのも彼らとの抗争のなかで一派は結束を固めたし、何よりも文化の民衆歌とチェコ語と祖国への献身という領域でフス主義遺産の忠実な継承者となったからである。彼らの系統のなかからチェコの学問、芸術の指導的人物たちが出てきた――それらの多くが世界的意義をもっている――たとえば、ブラホスラフとコメンスキーである。


フス戦争の波が退くにつれて、アジテーション文学はかつての主導的地位を娯楽文学にあけ渡すことになり、新しい封建秩序が確立するのにつれて中世最盛期の作品への回帰現象が起こった。それは創作作品の不足のせいもあるのだが、その作品は『トリスタン』や『タンダリアーシュ』などの騎士物語でも、『新提案』のような教訓的なものでも、『馬丁と学生』のような風刺的なものでもなんでもよかった。古い散文作品のなかで改めて人気を博したのは『トロイ年代記』とマンデヴィルの『旅行記』などであった。
しかし新しい旅行記作品も現われた。それらの刺激となったのはチェコ王の政治的使節団だった。その一つは、詳細不明の小姓ヤロスラフがイジー王のフランスへの使節に同行したときの旅の体験を日記風の形式で書いたものだった。そして、いま一つは、ヴァーツラフ・シャシェク・ス・ビーシュコヴァが義理の兄弟イジー・レフの西欧諸国へのプロパガンダ旅行に加わって、そのたびの模様を描いたものである。シャシェクの旅行記はラテン語の翻訳によってのみ知られているが、A.イラーシェクもこの素材を自作の『チェコから世界の果てまで』 Z  ech a~ na konec svta に取り入れている。
上記の二作品が中世の旅行記とはっきり異なる点は、現実性を大いに強調し、空想的要素を背景に押しやっていることである。だからといって、すべての記録をそのまま受け取っていいかというと、そうもいかない。この二人の著者に特徴的なことは、彼らが見たことを自分の国の事情と比較していることである。shシェクの旅行記は旅行中のさまざまなエピソードを描くときに特にいえるのだが、彼の話術とウイットを生かせるような性格のものになっている。現代の読者の中にはわが国の長髪族の若者はかつてのイギリスのグループ、ビートルズの髪形を真似たものだと思い込んでいる人もあるかもしれないが、シャシェクの旅行記のなかに当時のロンドンっ子たちがチェコ人たちの髪型をどのように見ていたかをみるとき、きっとニヤッとするのではないだろうか。「彼ら(これはロンドンの人のこと=原注)の大きな驚きは私らの髪の長さだった。つまり、いまだかつて髪の毛の長さとみごとさでわれわれに勝った人間を見たことがないというのだ。われわれの髪が自然のままこんなに伸びたことを彼らに信じさせることはとても無理だった。。彼らは髪を松やにで継ぎ足したのだと言った。われわれの誰かが髪を解いたままとおりに出ると、そのまわりには、どんな当物を連れてきてもこんな人だかりにはなるまいと思われるほどの、大勢の見物人が取り囲んだ」
昔合ったことをどう見るべきか、こんな場合にも一概に言うのは難しい。それに古い習慣が必ずしも常に捨てられるというわけでもあるまい。それにしても当時のベニス人たちの習慣がまったくこのとおりだったというわけではなかったのだろうが、そのことをシャシェクは次のように記している。

ドージュ(ヴェニス共和国総督)の宮殿へ通じる門の前に石造りの絞首台が立てられている。どうしてこんなものを、よりによって宮殿のまん前に立てているのだ。ほかに立てるところはあるだろうにとたずねると、彼らの答えはこうだ。「総督の誰かが国にそむくようなことをしたとき、その総督をそいつにぶら下げるのだ。だからその場所に立てなのは、すべての総督にそのことを忘れないようにちゅうこくするためだ」と。

現実性の強調と鋭い現実観察によって、この二つの旅行記は新時代、つまりルネサンスと「人間主義」humanisumus の時代の作品の近くに位置づけられる。もともと人間主義の声はこのころヤン・ス・ラプシュテイナのラテン語作品『対話』 Dialogus にもきかれるのだ。彼はカトリック教会の高い地位に合った人物だったが、カトリックの聖職者たちが貴族層に反対して立ち上がった時代にイジー王の政策を弁護した。これによって作者はすでに非中世的姿勢を宗教にたいしても、人生そのものにたいしても示していたのである。わが国においては(フス戦争の中絶の後に)あらためてルネサンスと人間主義への参加が宣言されたのである。






(4) 文学の民衆化にたいするフス主義の意義


フス主義運動と行動をともにした文学の完全な民衆化への道程はここで終わる。ここにいたるまでの様々な段階は先行する時代に跡づけることができる。このことは内容的にも形式的にも言える。内容的側面から言えば、文学は人民大衆を行動へ導くことによって直接戦争に奉仕した。形式的側面では文学は口語に接近し(フスは文法と正字法を簡素化した)、なかでも重要なことはふす主義の時代になってこれまでチェコ語を締め出していた最後のラテン語の領域、つまり宗教の領分にまでチェコ語が浸透したことである。何人かのすぐれたフス主義の学者(たとえば、クシュチャン・ス・プラハティッツ)はすでにいくつかの専門的著作をチェコ語で書いていた。
フスの文学的(そればかりか文化全般、さらに政治的)活動はすでにわれわれの、現代の文化活動の概念に対応するものである。いわば、フスは何よりもまず自分の著作の対象として民衆から孤立した作品を書かなかった。むしろ彼らのあいだに交わり、彼らを指導し、彼らによって自分自身もまた導かれた。その点において――そして当然のことながら、誰にも、何者にたいしてもくじけることのない勇気において――われわれのすべてにとって、この人物の最大の意義があるのだ。だから、今日でも彼はわれわれの手本であるという意義を失っていない。フスの近代性は権威との関係でも、つまり彼の時代の教会との関係においても見いだすことができる。彼自身神学者であったが教会の命令を受動的に実行する人間ではなく、良心の自由ととくに、個人の責任を重んじた。そして国家は教会が自己の倫理的使命を誤った場合には、それに干渉する権利、むしろ義務があると判断したのである。
フス主義時代の文学的発展の情熱(パトス)は時事小歌、また賛美歌によって保持され、それらの歌は大いに流布した。それだけにフス主義の精神で民衆のために作られたもの(その一部は民衆自身も作った)は最も価値がある。思想的傾向性を意識した口承作品(ブジシーンスキー写本のチェコ語の詩)と聖書の文章も民衆層に奉仕した。
しかしフス主義時代に最初に出会うのは、民衆のための作品をフス主義の信奉者だけが書いたのではなく、敵対者たちも民衆を袋小路においこみ、惑わせようとして書いたという事実である。彼らh巧みに革命的作品のあらゆる創造手法を利用した。だが彼らの作ったものは偽りの民衆性であり、反民衆的利益を擁護しているのである(たとえば、反フス主義的風刺作品)。この後の時代でもこの種の文学に出会う。とくに、民族の運命にとって決定的瞬間においてである。(たとえば「白山」のころ)
フス主義勢力のリパニでの敗北のあとも文学の民衆歌の過程において獲得した成果は失われなかった。そのなかのいくつかのものは、確かに、一時的に影を薄めたが(扇動性と戦闘性)その他のものは全民族的な成果へと発展した。それを証明するのは、特に、民衆規模における文化水準の上昇であり、その一つの現われは友愛団の活動であり、他の一つは宗教の強い絆からの解放であった。宗教的な文学から脱皮しようとするフス主義の努力は、さらにまた高い発展段階での問題性をもってくる。そのことはヘルチツキーの作品に最もよく現われている。彼は作品のなかに――それは一見、宗教的に見えるが――同時代の生活全体を取り込むことによって、世俗文学と宗教文学とのあいだの境界を取り除いた。 宗教的素材はもはや単なる因習的な枠組みにすぎなくなり、宗教性は世俗化されている。この傾向は古代文学の次の発展段階でも見られ、宗教は他のすべての価値が従属しなければならない唯一最高の価値ではないという意識が徐々に具体的のなってくるのである。リパニ後時代において特別の重要性をもつのは市民階級を基盤とする読者層の広がりであり(市民層は貴族によりも民衆のほうに近かった)、それにたいして決定的力となったのは印刷術であった。






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