(06) 封建主義全盛期におけるラテン語作品
(07) 封建主義全盛期におけるチェコのドラマと叙事詩
(08) 封建主義全盛期の世俗的抒情詩
(09) 芸術的散文と娯楽的散文のはじまり
(10) 十四世紀の風刺
(11) フスの先駆者
(12) 十四世紀文学と民衆との関係




(06) 封建主義全盛期におけるラテン語作品


ラテン語で書かれた文学の領域では聖人を題材とした作品(レゲンド)が前面に出てくるのは当然としても、この領域でもまた基本的変化が起こっていた。プラハ大学の設立という点からみても、当然、国内の強調人の数が増大した。なぜなら、教育のために外国の大学に行くという費用のかさむ旅行をあえてする必要がなくなったからである。その結果、ラテン語による文学にたいして関心を持つ刻者の範囲が広がった。つまり読者の中に俗人も加わることにより、ラテン語作品のなかにも世俗的要素が浸透してきた。そういった意味から、新しく生まれてくる作品の性格もまた変わってきたのである。ラテン語文学への世俗的要素の浸透については、とくに大学生、いわゆる「書生」(~ák) たちに負うところが大である。彼らは恋愛抒情詩や風刺詩、そしてしばしば民衆の歌の伝播者でもあり作者でもあった。
「不良学生」 (~ák darebák) の作品は単にチェコ国に特有のものではない。このような文学はこれ以前にも、これ以後にも、他の大学所在地を中心にいつも現われていた。なぜなら中世の大学ではすべての分野の教育を授けていたわけではないので(たとえば、医学はイタリア、神学はパリ、文法はオルレアン、その他)、学生たちはいろんな国を遍歴したので、彼らとともに彼らの詩も作者不詳、年代不詳の詩もまた遍歴したからである。その結果、さまざまな図書館にさまざまな形の写本が保存されることになったのである。しかも保存されたばかりではなく――とうぜん、いろんな形で――民族の文学にも反映した同時に芸術的文学と民間口承文学の要素の融合、相互の影響をもたらした。それちうのも学生は単に都市的環境から出てくるとはかぎらず、むしろ地方出身の学生がはるかに多く、芸術作品の原理のなかに――意識するとしないとにかかわらず――民族的要素を持ち込むことによって芸術を活性化したのである。文学作法の原理を学び、それに習熟した学生は学業を終えてきこくすると、その原理をきっと自作にも応用しただろうし、また芸術的要因によって民衆の文学にも影響をおよぼしたであろう。

「不良学生」の作品は若者たちによる、若者たちのための作品であった。それゆえにまた、永遠の若さを保ちえたのだ。いろいろな古い歌(ミンネザンク、俗謡など)を現代文化の中に取り入れたチェスキー・スキッフェルがよみがえらせたチェコの詩の中に今日も残っている。ABC 劇場で上演されたシリーズ『学長バルナバーシュ』と『不良学生たち』はM・ホルニーチェクの協力のおかげで大成功を収めた――A・プシダルはルツェンブルスキー時代の放浪歌手の生活を人間と運命との戦い(個人と社会の次元で)として室内劇『リュートをもった雀』で暗示的に描いている。この劇はプラハのナ・ザーブラッドリー劇場で上演された。

ラテン語の散文ではカレル四世自身がその能力を発揮している。彼は自伝を書き、聖ヴァーツラフ・レゲンドやいくつかの政治的文書も書いている。その時代まで伝えられたラテン語によるチェコの年代記を整理したのはプシビーク・プルカヴァ・ス・ラデニーナである。大学の必要から生まれた文書(いろいろな分野の学術参考書)も当然ラテン語であった。この時代には、わが国の文学作品を理論的に分析した現存するものでは最古の文献が出ている。その文学作品とは賛美歌『主よ、われらを哀れみたまえ』であり、分析は学識豊かなベネディクト派のヤン・ス・ホレショヴァの筆になるものである(分析には音符も添えられている)。この著者にはほかにも少なからず有意義な功績がある。それというのも、彼はクリスマスの民衆の習慣にも注目の目を向けているからである。もちろん、決してそれを非難しようというのではなく(もっと古い時代には非難されたが―訳注・本章の冒頭部の記述参照。I−(1)最古の口碑文学)、むしろそれらの本当の意味を歴史的に説明しているのである。それは『クリスマス・イヴについての論考』  Pojednání o `tdrém veru のなかにあり、そこで「七つの流布した風習」を取り上げている。彼は「寛大な夜」(クリスマス・イヴのことをチェコでは「シュチェドリー・デン(寛容の日)」 atdrý den と呼ぶ)の名称の由来を説明し(キリストの誕生によりこの世に寛容がもたらされた)、そして「かの天上的寛容」をしっかりと心に刻み込むためにおこなわれるこの祝祭を、人々の寛容の表明と説明している。興味深いのはヤン・ス・ホレショヴァ・がこのキリストの誕生という比類ない出来事と、これに結びついた民衆の風習を、地上のどこかの国王に王子が誕生したときの世俗的習慣になぞらえて説明している。世継ぎの王子がうまれると「使者たちが直ちに修道院や町や城を訪ねて、この慶事を王国中に触れまわる。するとすべての住民は喜び、使者の労をねぎらってケーキと称する大きな本物のパンを与える。これと同じ意味でクリスマス・イヴの夜(シュチェドロヴェチェルニー)には聖職者や学生といった地上の父の使者たちがキリスト教者の家を一軒一軒訪ねては歌を歌う」のであると。
十四世紀後半の基本的ラテン語作品はラテン語のできない人たちに知られずにおわったわけではなく、大部分はチェコ語に翻訳された。このことはチェコ人の読者が重要な意味を持ってきたことの証明である。これらの読者層が学術的文献にも関心抱いたという証拠は、大学の基礎講座として医学、方角、あるいは神学を学ぼうと巣ものは誰もが通過しなければならなかった当時の低むつ額か(今日の哲学かに似ている)で講義されていた課目のためのチャ古語の述語確定のために行った、大学教授 univerzitní mistr バルトロメイ・ス・フルムツェ(または、クラレタ)の辞書編纂の努力である。クラレタの最大の辞書は七千語におよぶ単語を含んでいる。この辞書の著者は賞賛すべき先駆的仕事をやり遂げた。なぜなら、この辞書編纂の労苦により、当時の教育の最高の価値をチェコ語化する基礎を築いたからである。言葉の記憶を助けるためにクラレタの辞書は韻文でかかれている。たとえば、中世の言語学者はクラレタから文法の述語を次のように学んでいた。

Fertur grammatica slovo tena,litera  tena,
vocalis hlá,liquida rozmk,muta nmka,
consona zvu na,sit pólhlása semivocalis,
sillaba s&#345k geritur,posicio vlo~enie,
conposicio slo&#382,dyptongus est dvojhlas





(7) 封建主義全盛期におけるチェコのドラマと叙事詩


封建主義全盛期のチェコ語文学はラテン語文学に対抗して十分な成果を収めていたばかりでなく、たとえば、そのはるかに広範な普及と現実的問題への深いかかわりによって、むしろラテン語文学を凌駕していたとさえいえる。まえの時代と比べて、新しい文学の種類も加わっている。娯楽的散文、専門的散文、それに芸術的また世俗的歌謡である。さらにチェコ文学の二つの分枝が発展するが、われわれはその発端において、すでにそれらのものに出会う。第一の枝は現実性を指向し日常的事件にも手を伸ばし、できるだけわかりやすい表現を目指す。第二の枝は内容の面からもまた芸術的表現の方法においても、いっそう高踏的になってきた将来の発展過程のなかでわが国の古代文学の特徴とみなされるこの時代のチェコ文学の最も重要な性格は、民衆とその環境への鋭い視線が向けられるようになったことである。保存されている文学的記念碑によって見ると、この傾向の最初に現われるのはドラマ形式のようだ。そのなかに豊かなユーモアとアイロニーに不満を覚えることはまずあるまい。

ほれ、旦那、イポクラス先生がおいでです
神さまのお恵みとやらでと恩きせて
なにはともあれ、今の世に、
医術まさる悪はない。

誰かが病気にかかっても
まだ、死にとうないと願っても、
病気の治療の手始めに、
まず、魂(心臓)を切り取らにゃ――

だいいち、この患者が魂をなくしたからといって驚くにはあたらない。なぜなら、この「類まれなる」お医者はきわめて「類まれな」効能を有するねり薬をおもちなのだ。一人の女は「洋ナシほどもあるおできが首に出来たし、別の女は「きりで穴をあけられるような痛みを感じた」また「一度嗅いだら逃げ出したく」なるような「高貴な香り」のする膏薬や、三匹のコオロギと「蚊の四分の一の半分」でできたものや、「修道士が庵のなかで、尼さんの上に乗っかってこさえた」膏薬もある、などなど。もちろん嘲笑されているのは医術ばかりではない――当時は、異常なまでに神聖冒すべからずであった――聖書までが槍玉にあがっている。それは「奇跡的」名医が神の名を唱えながら、そこでしかるべき呼び名を失った尻のある部分にイースト菌の膏薬を塗って、死せるイザークをよみがえらせたときの話である。そこでよみがえったイザークは創造主に呼びかけ、『クンフタの祈祷書』の感謝の詩句をパロディー化した言葉で救い主に礼を言う。劇の場面は中世の市場の状況に設定されているが、素材の基本は復活祭劇の一場面である。この劇のなかにはキリストの指定に香油を施そうとする三人のマリアが香油商人のもとへ行く途中の場面、香油商人とその女中がお客から金を騙し取る場面がとりいれられている。この劇は『香油商人』 Masti ká と呼ばれてる(作品はいくつかの断片として保存されているが、断片の1つには四百三十一行がふくまれている)。現代になって『香油商人』はフルボカー(南チェコの町)で近代的な舞台で上演された。

すでにしてきしたように、ラテン語の儀式的復活祭劇はきわめて興味ある発展経過をたどっている。十四世紀には、これらのいくつかの部分は一般民衆にも理解できるようにch古語に翻訳されたから、二重言語の劇が出現した。チェコ語に翻訳されたテキストの章句は本来のラテン語の基本線をそっちのけにして発展したばかりか教会の枠からもはみ出してしまった。なぜなら、新しい要素は主題から見ても、言葉の点からいっても教会の儀式からすでに遠くかけはなれてしまっていたからだ。そこには世俗的環境、民衆の言葉、野放図なユーモアが現われていた――学生たちに損功績があったことは言うまでもない。ラテン語は完全に背後に追いやられた。このような世俗化された形態では当然のことながら追求をうけ、禁止された。

そのほかの古代チェコ語による劇作品も断片としてではあるが伝えられている。それらの断片は受難劇やクリスマス劇がわが国においても上演されていたことを示している。『香油商人』の流れをくむものとしては(ラテン語の封じ込め、世俗的要素の優位、宗教的要素の嘲笑によって)たとえば、『陽気なマグダレーナ劇』 Hra veselé Magdaleny がある。そのなかで主人公の女中は中世的尻軽女として描かれている。この劇は――すでに注意をうながしたように――そのなかに二つの民衆の俗謡を取り入れていることでも価値がある。宗教的素材にたいする不遜な姿勢は、劇『キリストの死からのよみがえりと栄光について』も示している。それは騎士たちがきしるとの墓場の近くでサイコロ賭博をやっている様子を生き生きと描写した個所である。しかし同時にこの劇には、地獄の場面で悪魔どもが客たちをペテンにかけた職人たちの魂を引っ張り出してきたりするなど、社会批判的要素ももっている。
十四世紀の後半には叙事詩が非常に愛好されたが、そのなかでは、とくにチェコ語のれゲンドが上記のチェコ文学の二つの傾向をよく示している。レゲンド『聖プロコプ伝』は現実性を追求した文学形態である(この種の作品群について特徴的なことは、題材の選択である。つまりチェコ人の聖人について語っている)と同時に、民衆的要素のかなり混入した文学形態であるということだ。それにたいして『聖カテジナの生涯』は現実から遊離して、極端な純粋性を志向している(この作品群については、主題としては時代の好みに合わせて、イジーやドロテア、そしてカレル四世の時代には、とくに、大学の保護者であったカテジナなどの聖者が選ばれている)。同時にこの第二のグループにはすでにいくつかの叙情的要素も現われており、それを証明してくれるのが、まさに『聖カテジナの生涯』である。このニ作品はラテン語の原点に基づいている。
同時代性 aktualnost ――そしてあえて言うなら韻文の「聖プロコプ・レゲンド」の民衆化ということもできる。この作品はプロコプが生まれてから死ぬまでの生涯を年代記の手法で一〇八四行の詩に改作したものであり、おもに愛国主義的性格、スラブ教会時代に熱い関心を注ぎ、この聖者の清貧を強調して描いている。これらの要素はフス主義に近い。つまり、フス主義はプロコプ信仰と戸同様に「白山」(訳注・ビーラー・ホラの戦い、1620年、チェコ貴族、上流市民がハプスブルクに反抗して蜂起するが惨敗。以後、三百年におよぶチェコ民族抑圧の歴史の発端)以後の時代までめんめんと引き継がれながら発展し深められていくのだが、内容的には変容していく(貧者の保護者が反改革的勢力の代表者となったということである)。チェコ語レゲンドのの下敷きになったのはラテン語の偉人伝(本章「2.抒情詩と叙事詩」参照)であり、この作品はその同時代的意義をカレル時代のスラヴ主義運動に負っている(エマウスキー修道院の新たな設立において、スラヴ式儀式が導入された)、チェコ語への改作は単なるラテン語の隷属的翻訳ではなく、この素材へ取り組む詩人の個性的姿勢を示している。この姿勢は現実のチェコの事件にたいする作者の関心から生まれたものであった。古代スラヴにたいする共感とともに、このチェコの詩人は自分の社会的立場(貧者の側)をも明確に表明し、プロコプのチェコ的性格を強調することによって、国家主義的立場をも強調している。この立場は作品の重要な要因であり、物語の一連のエピソードによってそれを強調している。たとえばプロコプのチェコ的出生、またスラヴ的教養、プロコプの活動の場所であるサーザヴァ修道院保存のための戦い、スラヴ修道士にたいする影響などの話である。しかしながら、国家主義的要因がとくに前面に出てくるのは、このレゲンドの中心部の二つの場面とレゲンドの締めくくりの二つの詩句である。その最初のものは悪魔たちがプロコプに激しく言い寄る場面。悪魔たちは彼のチェコ性のゆえに、プロコプを修道院から追い出そうとしているのである。

チェコ人がおれたちの上にのさばっている、こいつらを罠にはめようと、ずいぶんまえからやってきた、ここから追放するために――

しかし悪魔たちの企みは成功しなかった。それというのも彼ら自身が激怒したプロコプに追いまわされ、鞭を逃れることさえできないありさま。「大騒動」のあげく、「脳天を岩にぶっつけ」たほどだ。第二の場面では、プロコプの死後スラヴ式の儀式を払拭しようとして、ローマ・カトリックのドイツ人たちが悪魔の使者よろしくやってくる。だが、死後もスラヴ人の修道院のことを心配していたプロコプは、三度もドイツ人たちの夢に現われて、憤怒の形相すさまじく、彼らに言い迫る。はじめは「面白半分に言い返していた」ドイツ人たちも、最後には、先の悪魔のように「凝然」となる。

みなが大いに驚くは
プロコプ聖者の御声なり
恐れおののきにげまどう――

そこでプロコプは証拠を見せる手段として、怒りに満ちた声のほかに、彼の聖杖をも用いたのでドイツ人たちは

逃れる道を聞きもせず
山羊めのように飛び跳ねた

こうしてスラヴ人の修道士たちはスラヴの修道院にもどってくる。詩人は「結び」のなかで満足して「プロコプ聖者の予言は満たされた」と述べる。
この作品も『ダリミル年代記』とどうように「現代化」され、広い読者大衆に向けて書かれているから、プロコプ・レゲンドの作者も年代記の作者と同じような表現手段を選んだ。すなわち、単純で、非技巧的な言葉を用いてレゲンドの異常な精気 zázra ný ~ivel をも日常生活に従属させたのである。したがって、典型的な中世のチェコ語レゲンドからは逸脱している。だからといって、もちろん、この作者が未熟な詩人であるということはできない。逆である。その当時の文学理論はその意図、主題にしたがって芸術作品創作の三種類の方法を規定していたのだが(高尚、中庸、低俗の三つのスタイル)、その点もこの詩人は心得ていた。『プロコプ伝』の作者はこの文学理論の知識を作品の全体にわたって証明している。「低俗」な主題は「低俗」なスタイルで表現した。しかし、ときにはどこまでが詩論の影響下にあり、どこからが作者自身の主張であるかがはっきり区別しにくいこともある。たとえば、プロコプの風貌の描写は現代の読者には、ともするとリアリスティックな要素と思い込まれそうだが――それでも、このような記述にたいして詩論の処方する基本線を守っていることを見逃してはならない。

この方は高貴の生まれ
肩も体も頑丈につくられ、
手足はきわめて強靭
身体、もちろん、すべて充実。
頭は、たっぷり大きい
そして顔は、もちろん白い。
ひたいは、十分、広く
ひげは、また、たいそう黒く
黒い髪は、中ほどの長さ
そして、表情の清らかさ。

したがって、このような文学記念碑作品の場合、現実とのかかわりを記述の細部ではなく、むしろ基本的思想とその表現のなかに見いだすようにつとめなければならない。すなわち、プロコプ伝の場合は、時代の現実的思想を表現するために、チェコ語レゲンドをいう形式を用いたということなかに、また、その思想を守ろうとする際の策はの戦闘的姿勢のなかに見いだそうとするべきである。詩人の名前は知られていないが、いくつかの特徴(経済問題への関心、言語の構成)によって、プロコプ伝とフラデッツ写本の風刺詩とのあいだに著しい近親性が認められる(このあと第9節参照)。そうなるとこのプロコプ伝は――同一作者だという説を取るとしたら――作者の以前の作品のように思われるが、それでも、彼はこの作品においてはじめて自分の個性的表現を発見したといえるのである。また、この作品から、作者は教養ある人物、おそらく僧侶であろうとも判断できる。プロコプ伝は『ダリミル年代記』によってはじめられた古代チェコ文学が、より時事性を加えていく発展の第二段階であり、それはフス主義へとつながっていく。この伝記の素材は近代においてヤロスラフ・ヴルフリツキーが詩的に改作する。

この伝記の庶民性はサーザヴァ修道院の会議室の壁画の何枚かのモチーフと驚くほどの共通性をもっている。たとえば、キリストの手を取って導く処女マリアを描いた場面であるが、この場面はヨーロッパ独特のものである。

主題の時事化と異国的素材をもったラテン語の原典を芸術的に改作したという点にかぎって言うならば、プロコプ伝の対極をなすのが『聖カテジナの生涯』 }ivot sv. KateYiny (3515行)である。

このなかでカテジナのキリスト教への改宗、彼女の教養と雄弁が語られる。彼女はこの雄弁をもって「悪い皇帝」異教徒のマクセンチウスからキリスト教を守り(彼女は皇帝の息子の妻となることを拒む)。また五十人の異教徒の学者と神学論争をして論破し、彼らを皇帝の妃(きさき)や王子とともどもキリスト教に改宗させる。最後には彼女はその信仰のゆえに刑罰を受け処刑されるが、その際、多くの奇跡が現われる。

『聖カテジナの生涯』は一般的な中世のチェコ語レゲンドの手法にもとづく、単なる叙事詩的作品ではない。作品の重要な個所ではいろいろな強調手法が用いられている。たとえば、カテジナの感情的体験は豊かな抒情性をもって描写される。作者は相当に広範な知的論争(異教徒の学者との議論)その他をも大胆に挿入している。こうしてこのチェコ人の作者は豊富な言語手段と平凡におちいらぬ表現の努力によって十四世紀の技巧的詩の頂点に立つ作品を作り出したのである。
『聖カテジナ』のなかで女主人公がキリストの教義を認識するところの描写の手法は――保存された作品から判断して――絶品である。皇帝マクセンチウスの息子の妻となることになったカテジナは隠者のもとを訪ねて意見を求める。ところが隠者はほかの男の話をする。その男は「いかなる知恵にも勝る知恵をもち、いかなる輝きにもまして美しい」男――キリストである。隠者は携えていたキリストと処女マリアの絵を与え、夜、独りで処女マリアに「彼女の子息をお現わしたまえ」と祈ることをすすめる。カテジナはその言葉に従い、二度にわたる恍惚の幻視のなかでキリストとその母を見る。カテジナは深くキリストを愛し、けっして理解によってではなく感情体験によってキリスト教の信者となった。そのご、再度の幻視のときに、カテジナはキリストとの婚礼を祝う。このくだりは作品のなかでも、最も美しい部分である。キリストはカテジナとの結婚の誓いをかわしながらうたう。

ようこそ、いとしきわが妻よ!
おいでよ、こちらへ、選ばれし乙女、
わたしのもとへ、かわいい小鳩!

うたいおわると、キリストはカテジナの手に指輪を渡す。カテジナも同様に、答えてうたう。

すでに、わたしは妻と呼ばれた
花婿は、わたしを処女のまま、
指輪を、わたくしにあたえてくれた
それで、わたしの心はよろこびにしびれた。

この恍惚状態から覚めたのち、、本当にキリストの花嫁になったという具体的な証拠、つまり「聖なる黄金の指輪」を見いだす。カテジナの愛の高揚を詩人は宮廷詩の世俗的な愛の詩特有の手法でびょうしゃしているし、わたしたちが予想もしない個所で宮廷式作法(エチケット)取り入れたりもしている。カテジナを鞭打つ際にも、色のもつ愛の象徴性を強調する。作者は肉体的暴力と愛の寛容を対置させて描く。カテジナのさいなまれた肉体は「献身的な愛する乙女が恋人に示すのとおなじ」色を「友人のために」も示している。エロチシズムの世俗的要素と神秘的要素の交替するなかで発揮される詩人の巧みな技法は、まさしくこの場面でいかんなく発揮されている。なぜなら宮廷詩の要素が「ソロモンの雅歌」の要素と渾然一体となっているからだ(ここで応用している「雅歌」の詩のなかでは、娘が恋人のことを「わたしのいい人、白くて赤い」という対照法によって表現しているのであるが、『聖カテジナの生涯』では、まずカテジナの美しさを表現するために、次には拷問を受けた彼女の肉体の表現のために用いている)。そればかりか、このなかには中世の世俗的叙事詩の反映も見られる。つまり、キリストにたいするカテジナの愛の燃え上がりを、トリスタンといゾルでの(麻薬を飲んだあとの)急激な愛の燃焼になぞらえている。これは宗教的エピソードのかなりきわどい世俗的呈示であり、拷問の場面の詩句においては危険なほど多くの真に迫った「地上的」感情の描写がある。
しかし、作者の「現世性」はさらに、他の領域にも現われる。それはこの物語の人物たちの精神状態の表現においてであり、この詩人の優れた観察能力を裏づけている。たとえば、カテジナがマクセンチウスの異端を非難するときである。

その瞬間、憤怒のあまり
恐怖のあまり、体はふるえ
血は凍り、顔は青ざめ
あたかも怒り、狂わんばかりなり

そして、廷臣たちがカテジナのせいでキリスト教徒になったことを知ると、

いまだ知らぬ、恐ろしい声が
喉の奥から噴き出してくる
どうもうな獅子の雄叫(おたけ)びのごとく
熊のごとくに、うなりを発し、心中は
荒れ狂っているのだろう、苦悩のうちに
目もうつろにさまようのみ

ということになる。
鋭い観察眼とあいまって、かかれた詩句が単純に、また退屈におちいらないようにという作者の配慮が有効に働いている。この作者の特徴は、色彩的かつ空間的視覚であるといえよう。もちろん、ここで行われているのはイメージされたものの個別化ではなく、むしろ類型(タイプ)創造の努力である。しかしそれにもかかわらず、『聖カテジナの生涯』のこの性格はきわめて示唆に富んだ作用を果たす(たとえば、カテジナとキリストの婚約が行われる広間の描写、カテジナがはじめて幻視のなかにキリストを見る草原の情景)。そしてそれがまたこの詩を他のチェコ・レゲンドと明確に区別する点である。

われわれは絵画と比較することができる。ヴィシェブロツキーの祭壇画を描いた画工や、同様にテオドリクもまた人物たちの表情のなかに感情の動きをとらえようと努めた。画面のなかに描かれた人物たちの心理の綾(あや)が浮かび出てくる。伝統の金色の背景は消え、空間描写の試みがはじまり、色彩的な造形によって立体感を表現するのに成功している。などなど

この詩人はさまざまな状況のドラマ性をいかにしてとらえるかという点でも卓抜した文学的資質を示している。対話の組み立て方(異教徒の学者との論争)、モノローグ、作者の言葉(たとえば、カテジナの鞭打ち)がその例である。作者はまたこの目的のために、実際、微細な部分に至るまで詩的な構成を使用し、その結果、作品の劇的緊張がより迫真性を加え、作者自身の興奮の渦のなかに、確実に、読者までも巻き込んでいく。
もはや、中世の全盛期の韻文の伝記のどれも『聖カテジナの生涯』の芸術的水準に達するものはない。しかし、この時代に聴衆、読者(そして、のちには観衆)の人気を博したという点で『聖カテジナの生涯』を凌駕したレゲンドが一つある。それは『聖ドロタ伝』 Legenda o sv.Dorote である。基本はカテジナ伝の主題とほぼ一致している。ドロタは異教徒の皇帝を夫とすることを拒否して、廷臣たちをキリスト教に改宗させる。ドロタはやがて拷問を受け、またもや奇跡が起こる。『聖ドロタ伝』はいろいろに改作され(小歌や劇、などに)、十九世紀にいたるまで庶民の観客のための民衆劇として幾度となく登場した。二十世紀になってから、E.F.ブリアンが『大衆劇集』の一編として「D34」劇団のために脚色してふたたびよみがえった(『大衆劇集』には古い劇がさらに二編ふくまれている。『おれたちのものか、おまえたちのものか?』 Je náa nebo vá&#353? と『サリチュカ』 Sali ka である――これらについては後段を参照)。

世俗的叙事詩は十四世紀の後半に停滞する。これらの叙事詩にあったのは『アレクサンダー物語』を一貫してつらぬいていた道徳的な理想であった。そこには素材を高度に芸術的な形に作り上げようとする配慮が見られる。騎士―戦士たちが広い社会的領域の大部分で高い倫理的価値観を求めてたたかっていた時代の道徳的理想が、まったく異なった形を取ることになったのである。政治参加(アンガジュマン)を発言するのは、いつも「低い」スタイルの作品だった。騎士物語はとくに個人的な、最も多くは愛情や騎士たちがまきこまれる、いろんなこんがらかった、しばしば童話的空想に満ちた冒険であった(竜や小人や怪物などとの戦い)。主人公たちは洗練された宮廷人である。この種の叙事的作品は著しく膨大であり、大半は数千行の詩句からなっている。作者たちはおもにドイツの叙事詩の翻訳で満足しており、とりわけ読者を喜ばそうとした。そのようのものの例としては『タンダリアーシュとフロリベッラ』 Tandariáa a Floribella があり、主題は冒険に満ちた、禁じられた愛である。空想的な生き物との血なまぐさい闘争を主題としたものには『大きなバラの庭』と『小さなバラの庭』がある。物語はドイツ的環境の中で展開される。しかし意識のなかには『アレクサンダー大王物語』が残っており、『アルノシュト公』などの他の作品の作者は『大王物語』からいろんな言い回し、そればかりかしく全体を取り込んでいる。歴史的確になっているのは明らかに皇帝オタ一世にたいするシュワーベン公ルドルフの犯行であるが、詩の銃身はエルサレムへの遠征の際のアルノシュトの空想的な運命の描写にある。いつしか作者はドイツの幻視の翻訳に没頭するとともに、チェコ人的感情にも没入したというわけで、主人公はチェコ人の騎士となり、アルノシュトの一行がコンスタンチノープルを船出するときには『主よ、われらを哀れみたまえ』の歌が流れたりする。
これらの詩作品はたとえ文学的には低い評価しか得ないにしても、比較的長い期間にわたって人気を博した。明らかにその面白さのゆえであろう――この種の「ロマン」を文字通り信じ込み、本当に実行したのは、たぶん、ドン・キホーテくらいのものである。騎士物語は繰り返し写本され、改作されて、されにフス戦争のころまで伝えられていくのである。やがて、そのなかの一つは新時代になっても、なお粋を吹き返す。その一方にはR.ワーグナーの音楽的改作があり、また一方には一九四三年のコクトーの、かなり統一を欠いたフイルム脚本(『永遠の帰還』 V ný návrat)があり、今ひとつは、回転式客席をもったcゲスコクルムロフ城劇場のためのコジークによる現代的な特殊な改作がある。
それは運命的かつまた宿命的な、墓場までつづく永遠の愛についての詩で、その主人公たちの名はトリスタンとイゾルデである。この作品は――ほとんどすべての全ヨーロッパ文学からもおなじみの主題だが――最も長いチェコ語版ではほぼ九千行にもおよんでいる。主となる話の筋は有名な童話的なモチーフから発展する。老王マレクは自分の花嫁となるべき女性を迎えに、騎士の一人、勇敢なるトリスタンを遣わす。しかしその花嫁を探す手がかりは彼女の頭を振ると二羽のツバメのようにさっと二つに分かれる「うつくしい髪」だけである。その髪はアイルランドの皇女、ブロンドのイザルダのものだった。イザルダの母親は、老いた花婿と自分の若い娘の心に愛を呼び覚ます秘薬をひそかに調合する。だが旅の途中で、

トリストラムは大きな渇きを覚え、飲み物飲まんと欲しけり。不幸にも、ここに給仕の居合わせず。そのとき、一人の次女の言いけるに「殿なる方、ここにわずかばかりのワインがござります」

こうして、侍女は知らずにトリストラムに例の秘薬をわたして、トリストラムとイザルダとのあいだに愛の芽生える手助けをしてしまう。それというのもトリストラムはイザルダにもそのワインをすすめるからだ。彼らを襲った尋常ならざる愛は、やがて二人の愛人たちをマレク王にたいする背信へと導く。そこには幻想的な事件、トリストラムばかりかイザルダの英雄的行為にさえ配慮を欠いていない。この愛の関係はトリストラムともう一人の(白い手の)イザルダとの結婚によってもおわらない。品詞の重傷を負ったトリストラムが自分の傷を治してくれるようにと「ブロンドの}イザルダを呼ぶが――彼女の到着は手遅れだった。要するに嫉妬に狂ったトリストラムの妻の「イザルダは来ない」という偽りの報告に、トリストラムは絶望して死んでしまうのである。やがて、彼のただ一人の最愛の恋人、ブロンドの髪の王女もまた、死せるトリストラムのかたわらに死ぬ。
この人間の運命の絢爛たる絵巻物はすぐれた心理学者の手によって描かれている。作者は主人公たちを生身のにんげんとして、その発展の過程で捕らえ、彼らの弱さを描くことも避けてはいない。この詩人は対話の名人であり、個々のエピソードのなかにも劇的緊張を盛り込んでいて、洗練されたニュアンスを「行間」に漂わせている。チェコの作者はドイツの原典の詩人よりも成功している。秘薬は単なる形だけの手段にすぎない――つまり、この詩は中世の枠を飛び越えてしまっている。その結果否応なしに大きな理念によって挑発しなければならなくなった。言い換えれば真実の感情(イザルダによって具身されている)は人間の生命よりも大きな価値がある。だからその真実の感情の名において、偽りの観衆に反してでも進んでいく必要があるのだ、と。この作品は、おそらく、多くの騎士物語のなかで、今日もなお時代遅れではない唯一のものであろう。




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