II チェコ文学の発生と十四世紀におけるその発展




(1) 文学の世俗化とチェコ語化のはじまり
(2) 抒情詩と叙事詩、十三世紀末から十四世紀中葉まで
(3) アレクサンダー大王物語
(4) ダリミル年代記
(5) 封建主義文化の全盛と文学の民主化
(6) 封建主義全盛期におけるラテン語作品
(07) 封建主義全盛期におけるチェコのドラマと叙事詩
(08) 封建主義全盛期の世俗的抒情詩
(09) 芸術的散文と娯楽的散文のはじまり
(10) 十四世紀の風刺
(11) フスの先駆者
(12) 十四世紀文学と民衆との関係








十三世紀中葉から文学の急速な発展が起こると、それはただちに高い芸術的質を獲得する。そして、社会発展の諸条件、つまり社会形態が休息に変化するのに応じて、広くゆきわたるのである。初期封建主義は砕石封建主義へと移行する。最盛期封建主義は封建的細分化をもっておわるが、封建的借地料の金銭支払い方式を確立し、手工業的生産を農業から分離して、さらに前面に出てきた新しい要因の発展を求めた。それが都市だった。文学の高い水準と急速な発展を可能とした裏には教育が大きく寄与したことはたしかである。つまり教育制度の充実によって学校が生徒たちの文学的基礎訓練の場となったということだ。

造形芸術の分野では、この時代はコチック様式によって特徴づけられる。この様式は境界の領域にも急速に浸透した(たとえば建築において)。言いかえれば、排他的環境(聖職者、宮廷、貴族)から都市や村へ急速に浸透し、この様式のある種の相対的世俗化現象もおこった。このことは十四世紀初頭における彫刻(たとえば、マドンナの木像)において、やがて絵画では教会内の壁が装飾や本の絵(女子修道院クンフタの受難、ヴェリスラフ聖書)などにおいて証明されている。

文学活動は十四世紀に頂点にたっする。しかし、この時代は単に平和な発展の時代ではなかった――時代ということで言えば、この世紀の後半に封建社会の危機が増大する。その危機のなかでは民族性の問題も重要な役割を演じた――すなわちドイツ的要素の都市への流入、宮廷、上級貴族、聖職者のドイツ文化への傾倒、ドイツ人顧問官のチェコ宮廷への招聘といったものへの反発である。封建制度の危機の影響、社会的事件に積極的にかかわろうとする意欲を最もよくとらえているのは、まさにこの時代の文学であろう。
文学にとって特徴的なことはその発展が、政治―経済的発展より、あるいは造形芸術よりもいくぶん遅れていたということである。文学における本質的変化は十三世紀と十四世紀の変わり目において見られるが、その時点で文学における記述用言語として、すでにチェコ語が用いられていた。これによってチェコ文学とチェコ語の結びつきの条件が出来上がったのである。
文学の発展は二つの段階を通過するが、その境界はおよそ十四世紀の五十年代である。その最初の段階はチェコ語文学とラテン語やドイツ語作品との葛藤、内容および形式の面での文学の世俗化(文学生活への貴族階級の参加)によって性格づけられる。第二の段階は市民階級の利害と民衆的要素の文学への浸透によって特徴づけられる。発展過程はより高い段階に到達する。つまり文学の民主化のはじまりであり、それはフス主義時代の文化努力の必須の前提であった。この時代のチェコ文学の前に立ちふさがった課題の重要性から見ても、また、とくにチェコ文学がこの課題を見事に克服したという理由からも、十四世紀を古代チェコ文学の最盛期とみなすのは当然である。

十三―十四世紀の文学は古代チェコ文学、その言語は古代チェコ語と言われている。古代チェコ語は現代チェコ語と次の点でことなっている――語彙の点から見ると――いくつかの母音(例、ie: tla ie) と語形(tvary) によって、また二種類の単純過去時制があった(例、bych = byl jsem、bieae = býval jsi, býval) および、双数(例、u iniata = ti dva u inili)である。しかし、これらは理解には何の障害にもならないことは、これ囲碁に引用される文例によっても明らかである。もちろん、引用文は変記されている。いわば正字法に則った記号法に移し変えられている。もともとの記述法は通常重記であった(例、"a" は"ss" と書かれていた)。また文字の形も違っていた(およそ十四世紀には、いわゆるゴチックの小文字が使われた十四世紀末と十五世紀には、とくに、いわゆるパスタルダである)。

封建主義の最盛期における文化生活の中心的地位を、常に聖職者が占めていたとはいえ(学校制度、学術、芸術にその特徴が現われている)、十三世紀以後の文学生活においてのみ貴族階級の関心が前面に押し出されはするものの、彼らにしても世紀半ばには文化的権利要求をともなう市民たちの勢力増大によって背景に追いやられる。人民大衆という観点がすでにそこにあったのである。
文学生活にたいする吟唱家たちの意義はこの時代になっても失われていない。十三世紀と十四世紀には学識ある職業詩人もその仲間に加わり(彼らのなかにはしばしば学生もいて、当時、彼らは「生徒 ~áci 」と呼ばれていた)、学芸の保護者、主として貴族の庇護のもとに生計を立てていた。これらの口承文学の伝播者たちは、学校で講義されている当時の文学理論の熟知者であり、その原理理論を民族の言語による文学実践に導入したのである。




(1) 文学の世俗化とチェコ語化のはじまり


文学の世俗化とチェコ語化の過程は十三世紀の中葉から十四世紀の40年代にかけて続いている。文化的創造活動は十三世紀の後半から目に見えて活発化したが、もちろん文学にも当てはまる。この活発化は経済の隆盛だけでなく、徐々に分化を深めていった社会階層間の対立によっても条件づけられていた。都市の意義の重要化と、それに対応して高まりを見せてきた富裕市民階級の政治的要求は、貴族階級およびその意図とも競合するようになった。なぜなら、ドイツの影響力が都市にも宮廷にも浸透してきたことによって、貴族階級は民族性の領域においても、宮廷や市民を相手に闘わなくてはならなくなったからである。プシェミスル王朝の断絶後、貴族たちは政治的キャスティングボードを得たが、すぐに彼らの敵対者、宗教的封建領主が現われて「国家内国家」を作り上げようとつとめた(これは成功した――と同時に、それによって彼らは封建主義陣営を分裂させたのも当然である――十四世紀後半)。しかし支配階級内部の緊張と平行して、都市においても裕福な市民層と貧民層とのあいだの緊張も存在し、また、自然借地用の金銭化にともない農村部においても貧富の格差は増大した。
こうして封建主義社会がだんだんと分裂化し、封建主義の主導者たちが生存権要求を強めてくるにつれて、文学活動もまた分裂化して成長しはじめた。文学活動の発展は全体的な教育水準の高さに支えられていたとはいえ、その教育をにぎっていたのはもちろん聖職者層だった。この発展にかんする証拠は、たとえば、現実化を見なかったとはいえ、ヴァーツラフIIによる大学設立計画である。
当時の文化の中心、したがって文化教育の中心でもあるわけだが、それは修道院だった。たとえば、プラハの聖イジー修道院(ここではラテン語の祈祷劇を育て、また宗教歌も編纂した)やズブラスラフ修道院(ここではコスマス以後最も重要な、芸術的にもすぐれたラテン語の年代記作品がペトル・ジタフスキーのペンから生み出された。ジタフスキーはドイツ人ではあったがチェコ的環境と融合してその関心を表現したのである)。コスマスのあとを継ごうとして多くの年代記が書かれたが、そのほかにある程度年代記と重複するところもある聖者伝も生み出された。サーザヴァ修道院の最初の修道院長聖プロコプにかんするチェコ語の韻文聖者伝の誕生には、この時代に現われたラテン語の聖者伝、いわゆる『偉大な生涯』 Vita maior が与って大きな力があった。文学受容の点からいえば、散文集『黄金伝説』 Legenda aurea 非常に愛読された。また、イタリア人、ドミニカ派のヤクブ・デ・ヴォラジーネの一二六〇年以前の年代の作品などがある。当然のことながら、これらのラテン語文学はごく狭い範囲の読者しかもっていなかった。それは主に聖職者たちであった。
しかし、文学生活のなかに世俗的要因――つまり上流貴族――がいかにして自己の権利を主張しはじめたかの証拠もある。彼らは宮廷の例にならってトイツ文学を好んだが、その文学はもちろんすでに世俗的題材によったものであった(恋愛詩、アレクサンダー大王についての叙事詩、名声を称える叙事詩など)。だが十三世紀のおわりにはドイツ語作品にたいしてチェコ語作品が対抗しはじめた。これらのチェコ語作品は同じく貴族を対象として書かれたものであった。これらのチェコ貴族の民族意識は一つにはドイツ市民層の発展にたいする反発から、また一つにはドイツの勢力下にあるチェコ宮廷にたいする反発から起こったものであった。それにしても、民族の言語で生み出されつつあった記述文学は困難にさらされていたことは疑うまでもない(一方ではラテン語文学と戦い、もう一方ではトイツ語文学との戦い)。チェコ文学がチェコ語のために頑張り、それどころか、ある点では勝利すらおさめたのである(たとえば、外国の素材を、原典の価値を低めることなくチェコの環境に適合させた点においてである)。




(2) 抒情詩と叙事詩―― 十三世紀末から十四世紀中葉まで



抒情詩はチェコの宗教的作品の領域のなかでも最も長い伝統をもっている(聖ヴァーツラフのコラールと歌『主よ、われらを哀れみたまえ』参照)。封建主義の最盛期の作品としては、理念的にも高邁、かつ形式的にも完成した二つの作品が伝わっている。これらの作品は当時の教養人層のために書かれたものである。その一つ『オストロフスキーの歌』は十三世紀後半のもので(ダヴレのオストロフスキー修道院の筆写本 codex のなかに記されていた)キリストの顕現 incarnation と人類の贖罪をうたったもの。いま一つは一三〇〇年頃の『クンフタの祈り』と呼ばれている朗唱風の歌で、プシェミスル・オタカルIIの娘であり、聖イジー女子修道院の院長でも会ったクンフタの祈祷書のなかに記されていたもので、これまで絶対的にラテン語によってきた主題、つまりキリストの体に神が移り住んだという信仰の章をチェコ語に書きなおしたものである。この歌の作者は「プログラス」(訳注・前出参照。現代チェコ語ふうには「プロフラス」/宣言)において綱領的に提示されていた進路へ踏み出すための、つまり、より平凡な一般大衆にも自分の国の言語で最高の文化価値に接近できるようにするための前提を築いたのである。

* 左の写真は『クンフタの祈祷書』の一ページ
 
同じく十四世紀の二〇年代の作と思われる韻文の『魂と肉体の論争』 Spor du&#353e s t&#283lem は内省的な響きをもっている。『肉体は魂とともに自分自身をも汚す」という論争の形で、罪にたいする責任の問題に解答が当てられている。要約すれば、人間は生きているうちにたくさんの罪を犯す。そして死後の裁判でその罪にたいして短しいが裁きを受けるというのである。この主題はその後、何度も書き継がれるが、それは中世だけにとどまらず十七世紀にも書き直され、民衆の歌の中に見いだされる。『クンフタの祈り』や『魂と肉体の論争』がたとえ同種のラテン語の作品と優劣をつけがたいとしても、その作者たちははっきりと独自の立場をもっている。『論争』においては主題がきわめて深刻であるにもかかわらず、作者は作品があまり単調におちいらないような配慮を見せている。肉体は魂にたいしていちじるしく高慢に、有頂天になり、自信まんまんに答える。たとえば「でも、いいかい、私には力がある。美や名声にたいする理解もある。私は悲しい時を知らないの……私には城も、賢明な忠告者もある。豊かな領地もある」だから「私は誰にもへりくだったりしないのさ」と。
十四世紀の前半には、大衆のあいだに広く浸透し、ほんとうに民衆化された歌が少なくとも二つは現われた。なぜなら、その記録は「白山後」<*訳注>時代の讃美歌集のなかにも依然として記録されていたからである。一四〇八年の宗教会議は民衆に教会内でも歌をうたうことを許可した。それは『全能の神、死よりよみがえりたもう』 Buoh vaemoh&uacute;c&iacute; vstal z mrtv&yacyte;ch と『イエス・キリストよ、心ひろき神のみ使いよ』 Jezu Kriste, a edr&yacute; kn~e とであり、後にこれをフスが改作している。明らかにこの時代には、民衆的な愛の歌の二つの貴重な資料が生まれている。それは『陽気なマグダレーナ劇』のなかにも取り入れられている。(「どうしてここに来たのかしら、あなたに会いにこの庭に」 Kudy sem j&aacute; chodila, Byla sem ti v s&aacute;dku

十三世紀と十四世紀との変わり目には、チェコ語の文学作品という実りの豊かさに加えて、言語的かつ韻律的な成熟によって初心者の域を脱していることを証明するレゲンド作品が叙事詩の領域から現われている。それらの作品に特徴的なことは、異国趣味と物語の緊張感、チェコ的題材にたいする無関心(これによって同時に、ラテン語のレゲンドとも異なっている)である。ここでは十字軍遠征によって刺激されたオリエントへの関心が作用していることは疑うまでもない。おそらくラテン語の作品との葛藤もさることながら、宗教的関心の上にすでに自分の好みに合った物語を作る努力を積み重ねるということが重要課題となってきたのである。これらのもろもろの事情によってチェコ語レゲンドはある聖人の生涯についてやさしく語るというかつての目的から離れてしまった。およそ二十年という期間にキリストの生涯に結びついたレゲンド(前期のラテン語による『聖人レゲンド集』の自由な改作)が何篇か現われたが、そのなかには現実生活の描写さえもが入り込んでいる。
これらの作品はほとんどが断片としてしか残っていないが、そのなかで文学的にもっとも価値の高いものは『ユダ外典』 apokryf o Jid&aacute;aovi である。この作品は息子の不吉な運命を母親が夢に見たのがもとで捨てられた一人のキリストの弟子の生涯を題材として脚色したものである。イスカリオテ島の女王は犠牲的精神でもってユダを引き取るが、ユダは彼女の息子を殺して、その後父殺しまで犯して、知らぬまに自分の母を妻にする。この罪が暴露されたのちに、罪を清めるためにキリストのもとに去る。しかし彼はその返礼にキリストを裏切り、自ら首をくくる。この異様な題材(オイデプス伝説を思い起こさせる)のなかでのいくつかの要素は民間口承文学のなかにも見出される(籠に入れられて流される捨て子――『漂流児』 poh&aacute;dka o Plav&aacute;&#269kovi の童話)が、チェコ語版ではプシェミスル王家断絶(一三〇六年)を暗示し、チェコ特有の事情に結び付けられているのが注目に値する。作者はユダによる女王の息子殺害を描写するとき、それが人間の裏切りの証拠でもあるかのように、その人間のおかげで凍死をまぬがれたのに、その保護者の子供を飲み込む蛇のたとえを最初に引き合いに出し、ついで誰もが知っているたとえ話を経て、国内の具体的な事例に進んでいく。それを有名な詩句によって紹介している。「同時にわが国も知っている/いま、チェコの国にも起こったことを/王の血縁者がいないというのに」。この言葉のなかにプシェミスル家の最も若い一人のことを重いここさせている。その若者は「年端もゆかぬに死なねばならぬ/たとえ、みなが望むとはいえ/罪もなくおのれの血を流したのだ」
新しいチェコ語レゲンドは十四世紀の三十年代に現われたが、使われた主題はいっそうの広がりを見せ、表現の技法も大きな幅を持った。複雑な形式への試みは『処女マリアとアンセルムスとの会話』において対話形式の使用となり、題材にたいする、より叙情的な姿勢を示し(例、『聖アレクシウスについてのレゲンド』 legenda o Alexiovi )、『アダムとエヴァのレゲンド』 legenda o Adamovi a Ev においては節構成を保持する。より若い世代のレゲンドのテーマとして特徴的なのは、聖職者のほかに騎士も登場することである。つまりチェコ語レゲンドは本来の目的から遠く離れつつあったということである。その例としては『一万騎士物語』 legenda o deseti tis&iacute;c&iacute; ryt&iacute;Yo と『聖イジー物語』 legenda o sv.JiY&iacute; であるが、そのなかのいくつかの主題は民間口承文学でも知られている(竜との戦い、王女の救出)。世俗的生活から主人公(騎士)を選ぶことによって、宗教的叙事詩は同時代の生活に接近する。たぶん、この過程は、騎士の生活からその主題を取った世俗的叙事詩によっても、たとえその人物――封建主義イデオロギーの持主――の選択が多少時代に遅れであったとしても、早められたと思われる。つまり西欧の中世伝説(アーサー王伝説の題材)の騎士たちは、古代史の英雄”騎士”たち(たとえば、アレクサンダー大王とかトロイ戦争の勇士たち)とごっちゃになって登場するのである。



(3) アレクサンダー大王物語 Alexandreis


世俗的題材の叙事詩『アレクサンダー物語』は最も古いレゲンドの連作「チクルス」 cyklus と同じころに現われた。これは膨大な作品である(保存されている九つの断片から推定すると、およそ八五〇〇行の詩句から成り立っており、知られているのはその五分の一にすぎない)が中世においてきわめて愛好され、ほとんどすべてのヨーロッパ文学のなかに取り入れられた主題にもとづいている。アレクサンダー大王の生涯の物語は、いかなる木も天までは届かないという格言の真理をありありと記録しており、チェコの作者にとっては、同時代の封建領主――戦士の理想像、またチェコ国家の理想像を描き出すのに役立っている。

話の筋はそんなに複雑ではない。作品の中で次のことが語られている。つまり、父の死後王座につくための教育を哲学者アリストテレスに受けたアレクサンダーはヨーロッパからアジアへまたがる炉独活を徐々に支配下におさめていく。彼の勝利の遠征はバビロンで終わる。彼はそこで毒殺されるからである。

* チェコ語版『アレクサンダー物語』

チェコの『アレクサンダー大王物語』は完全に出来上がった題材を改作している。それはフランスのラテン語原典版から取られている。チェコの詩人はプシェミスル宮廷に現われたドイツ語の『アレクサンダー物語』にも関心を寄せたが、題材に対して独自の姿勢を保っている。アレクサンダー大脳の主題は、この詩人にとって、プシェミスル王朝末期の同時代のチェコを描写するための手段となったばかりでなく(この未知の作者の反ドイツ的意識は自らを民族意識に目覚めた貴族階級のスポークスマンたちの一人に位置づけている)、またこの状況についての作者自身の意見をも表明し、何をなすべきかを宮廷に間接的に提言することによって、可能な限り状況に関与する手段ともしている。『大王物語』におけるチェコ事情の描写が特別の重要性をもつことは疑いない。なぜなら、それは同時代者のペンから生まれ出たものであるからだ。その上、この詩は、作者がアレクサンダー大王の題材を作者の時代に「現代化」 aktuarizace することによって、われわれが中世の戦争、兵士の武装、その他について望見する可能性を提供しているという点においてもドキュメンタルな価値を有しているのである。この「現代化」はアレクサンダーの兵士とチェコの騎士とを混同してしまうほど徹底している(ラドヴァン、ムラドタ、ヤン、ラドタ=訳注・いずれもチェコ人の名前)。芸術的側面においても疑いもなくこの詩は同様の大きな価値をもっている。作者は異常なほどの情熱を注いで書いている。叙事詩は生き生きとした会話、叫びなどの助けによって劇的な高まりを見せており、主要人物は単なる図式ではなく、作者が好意の中で、倫理的な発展のなかで捕らえた生きた人間となっている。
たとえば、アレクサンダーは部下の兵士たちに親切だったし、敵にたいしても寛大であった。しかし徐々に――自分の勝利に酔いしれ――高慢になり、征服欲にとりつかれ、快楽に身をゆだね、節度を忘れ、おもむろに破滅への道を進んでいく。作者の現実感覚は、たとえば、戦闘の状況、経過を描写しながら示唆に富んだ場面ばかりか、映画のスクリーンを見るかのように目前に現出させる不条理な戦いの恐ろしい結末をも徹底的に描ききっている。

少なからずの者が、わずかの間に死んだ。
一人はすでにたおれ、足をふるわせ
今一人はすでに横たわり、死につつあるが
その者はなおも勇を奮い起こそうとしている。
かれらを馬がふみつけ
内臓が飛び出している。
頭を割られたものがたおれている。
こいつは死にながら草に噛み付いている。
あいつは混血男に殺され
やがて首は斬り落とされた。


あいつは生きてふりむくが
こいつはもう死んで、地の海にうつぶしている。
あいつの心臓からは血があふれだし
馬が誰かを引きずっていく
こいつの腕は切りはなされ
こっちの者はビュンビュンと弓の弦をうならせる。
拍車を引っかけぶら下がるもの
また、足を切り取られたものもいる。
ただ、よつんばいになっているもの
ところが仲間はまっ裸でよこたわっている。

作者の個人的心情は、ただひたすらに、遠い故郷を思い出す兵士の郷愁のため息のなかで語られる。

ふるさとに合って子供とともに
ふたたび過ごすことができればいいが!

当然のことだが、作者はこれほどまでの不幸をみんなにももたらした「悲惨な戦争」のことを思い起こさせながら、平和な時代を賛美している。作者はそれを静かな田園の生活の描写においてとらえ、戦争の悲惨とを対照させている。

長老は年がら年中、土を耕して
柵を作り、平和なときは
そのなかで働いた
無粋な道具、使えはせぬが
槍をかかえて行かねばならぬ
藁を束ねることならば、とっくとご存じだろうものを
こっちの人とて、殻竿打つこと
黍(きび)の刈りいれどきをみることならば、心得ありだ。
殻竿hどれもこれも空しくころがされ
打つはずの者は誰も打たず
使い手のない鍬は、横たわる。
雄牛は、それぞれにため息をつくのは
交尾の世話を焼くものとていないからだ。
土を耕す者
低木を堀おこすものもいない。
立つものはすべて倒れ
生きて取り片付ける者もいない。
悲しい時が来たものだ!

この作者が、たとえヨーロッパ的教養を積み、低い人民層のうえに高く位置する貴族階級の一人だったであろうと仮定したとしても、彼のもつ民衆的性格を否定することはできない。それは自然との信頼関係であり、自然の営為との密接に結びついた人間的運命の把握である。たとえば、自然現象に不吉な事件の予兆を見ていることである(すなわち、大王にたいする謀反)。

しかして、はや、日は西にかたむくが
うす黒く、いつもとはことなる様に見える、
岸辺に止まっているのだろうか
進みはのろく
来るべきことの悲しみに
かくも、おぞましきことの、現実に、
そのとき下僕の見たものは
深手にたおれし、わが主人。
月もまた足を止めて
海辺にとどまり、
いっかな、昇ろうともしない、
そのためにすべてが悲しみにくれるだろう

『大王物語』のなかでは、自然の要素はさらに別の形でも現われるが、同時に、民衆の生活や文学と決して無縁ではない。作者は自然の要素を比喩的冠称としてしばしばもちいる(たとえば、主人公は獅子に、戦う騎士は羊のなかで荒れ狂う狼に、謀反者は死体を求めて飛びまわる猛禽にたとえられている)。また、これらの比喩は、三行詩の形で教訓への導入の情景として、特殊な三行詩のなかに組み込まれている。たとえば

沼地は穀物を産まず
また、名声と欲望は、快楽において
同じテーブルにつかぬ

または

いばらの若木は、鋭い棘を芽ぶき
足の速い動物は幼くして自らおぼえる
貴族は名誉にたいして常に貪欲だ

ときには詩人は広範な自然の「実例」によっても教訓をたれる(たとえば、魔法もかからない蛇のアスピスについて、アスピスは――話を聞きたくないときは――「一方の耳は地面に押しつけ、もう一方の耳は尻尾で押さえているからだ」と言い、同様に「男」は、要するに普通の人間は「身分が高くなると、よく聞こえるのに、ここうとしない」。より重要な描写への導入を意図したこのような手法は、ときには作者の言葉の重々しい強調となって現われるが、『大王物語』の作者が「真の」詩人としての腕を発揮する敷くの部分とはっきり対照を示している。たとえば、一日の時(夜明け)の簡単な定義の変わりに、自然的モチーフにかんする多様な比喩を用いている。

すでに、時が黎明にむかうとき、
小鳥は声をそろえてさえずり
夜が昼に別れをつげるとき、
太陽は急ぎ足に地上に現われる

また、あるときは「夜はあらゆる営みの母であり、成功をも、失敗をももたらす」というように、夜は詩人の広範な反省へのきっかけを与えている。そして、夜をむしろ人間の欠陥や邪悪な行為の比喩として、夜についての思索を深めている。
『大王物語』のなかで、私たちは、賢明なシビラ夫人のものとも、盲目の青年のものともされて、今日でも知られている民間伝承の予言を連想させる記述にも出会う。作者は領土拡大をねらうドイツ人にことよせて、彼らは――わが国で単なるお客にすぎないのに――プラハの

神がお許しになったのか
プラハの街に
チェコ人を見ずにすむように

なることを待ち望んでいるようだと怒りをこめて語り、すぐ後に続けて、侵入者たちに対して、言外に脅迫をほのめかす鄭重な懇願を述べている。

それなら、狙撃者が現われるかもしれませんぞ、
そうなりゃ、彼ら(チェコ人)の姿は見なくてすみますよ!

『アレクサンダー大王物語』は真実、古代チェコ文学の模範的作品の一つとなった。わが国の文学の発展のそもそもの始まりのときに、チェコの文学的また言語的文化の成熟度と、同時代の他のヨーロッパ諸国の文学と芸術的に拮抗しうる能力を証明したのである。また、一般に知られた主題を現代化するチェコの風土の創造力と、これほど早い時期にすぐれた文学作品のなかに現われる相対的な進歩性をも証明した。『大王物語』では政治的問題が前面に押し出され、宗教問題は背景に押しやられている(たとえば、非常に興味を引くことは、作者がもじどおり、あらゆる地上的財産の空しさについての協議をまったく無視しているという点である)。これを語っているのはチェコの貴族階級の一員なのである。文学は完全に世俗化への過程を進んでいく。そればかりではない。たとえそれが信じがたいことに思われようとも、近代的概念での文学への過程は、この『大王物語』によって踏み出されたのである。肝心なことは、この作品が単なる娯楽、現実からの逃避の手段となることに甘んじず、同時代の現実の社会問題にかかわっていこうと努力したことである。したがって『大王物語』の影響をそれに続く作品のなかばかりでなく、さらに後代の作品のなかに見出したとしても驚くにはあたらない。しかし、アレクサンダー主題のチェコ改作者が描いた「貴族―戦士」と「貴族―支配者」がときたまではあるが、生気を欠くことがあるのもたしかである。――それは貴族レベルにおいてばかりでなく、全民族のレベルにおいて異質な理念が前面に出てきたようなときである。したがって、この貴族の戦士たちについての賛美と警告をこめた記念碑的叙事詩も、チェコ民族が神の戦士となっていくとき沈黙するのである。




(4) ダリミルの年代記 Staro esk&aacute; Kronika tak Ye en&eacute;ho Dalimila


国内の現実の事件から十四世紀の二十年代に歴史的内容の韻文作品が生まれた。しかしこの作品は『アレクサンダー大王物語』とは対照的に、過去の場面も現在の場面もまったく異なる視点から提示したので、アレクサンダーの題材よりも大きな人気と読者層を獲得した。それが「ダリミルの作と称されている」韻文の年代記である。作者は、中世の大部分の作品と同様に、不明である(実を言うと「ダリミル」という名称の決定は歴史的には誤りである)。しかし作品からもわかるようにこの作者は小貴族の視点をもっている。だから政治的問題も『大王物語』の作者よりも民衆に近い立場に立って諸事万端を見ていることがわかる。それだからこそ、この作品のなかにはいくつかの民主的な性格も発見できるのである。

*1988年に出版された「ダリミル年代記」研究資料つき総合版(全2冊)


この作品の氏名を作者は「序言」のなかで次のように説明している。作者は「噂話を探しまわり」そのくせ「自分のことには無頓着」な者を民族的無地各社として非難し、「チェコのあらゆる現状を一つに統合する」ためにこのような仕事に取り組もうとする人物をほかに見いだせなかったから自分ではじめたのであると述べている。作者の自己批判的言辞、つまり自分はただ「単純に」民族の歴史を解説しただけだとか、「混乱しているとか無能だ」とかいって自分を非難しないでくれと、自分よりも能力のある人にたいして懇願しているのを言葉どおりに受け取る必要はない。事実、この自己批判は長い時代の流れのなかで文字通りに受け取られはなかった。そうでなければこの作品が十四組の写本によって保存されることはほとんどありえなかったであろう(そのうちの一つは、カレル四世の娘アンナ王女がイギリスへもっていったと思われている)。
ダルミルと称されている年代記の編者は中世の慣例による年代記記述法にしたがっている。つまり、世界の大洪水からヤン・ルツェンブルスキーの政治のはじまり(すなわち、一三一〇年)にいたるまでの事件を百六章にわたって記述している。最古代の記述にかんしては信頼の置ける資料とは認めがたい。一般に伝説のたぐいで、そのんかには『コスマス年代記』の著者も登場する。しかし部分的には伝説に多くの紙数を割いている。たとえばキリスト教スラヴの時代の記述において特に言える。著者がこの時代に特に共感をいだいていたことがうかがわれる。また、オルドジフとボジェナの時代についてもいえる。比較的新しい歴史においては同時代の老人たちの証言や、また作者自身の見聞からも取り入れている。それによって、今日では知られていない原典資料をも知ることができるのである(それらのものを「序言」でのべている)。同時に口碑資料をも利用している。
いわゆるダルミルの作とされる「年代記」に特に特徴的なものはチェコ民族にたいする強い連帯感であり、それは階級意識にまで目を開いている。この姿勢は国家や教会の支配機構のなかへのドイツ人の大量流入とドイツ人市民階級の富裕化がチェコ貴族の恒常的な貧困の原因であるという現実によって呼び覚まされたものではあった。このような状況のもとで作者はドイツ人の市民や貴族よりも「隷属民」 chlap と呼ばれるチェコ農民への近親感をもったのである。この意識は彼の愛国心の概念に成長する。このことをオルジフとボジェナの物語のなかでオルドジフ公が「百姓の娘」を妻に娶(めと)ろうとするのを諌める貴族たちにたいする答えのなかに示している。


貴族たちももともとは百姓の出だった
だから、貴族たちも百姓の子供をもっていた
われわれはみんな同一の父から出ているのだ
そして、たくさんの銀を蓄えたものの息子が貴族とみなされた。
こんなに貴族と百姓が入り混じっているのなら
ボジェナがわたしの妻となってもおかしくない。
チェコの百姓の娘と結婚するほうが
ドイツの王女を妻にするより、まだましだ。
だれもが、自分の国の言葉で熱い想いを語ろうではないか
そうなれば、ドイツ娘はわが国民には望まれぬ、
ドイツ女はドイツの家庭をつくるだろうし
わしの子供をドイツ語で教育するだろう。

ソビェスラフが息子たちに与える忠告のなかからも、強い民族的な音色が響いてくる。彼は息子たちに「ドイツの地」に行かないように命令し、「ドイツに行こう」なんてこと言い出したら、皮の袋に詰められて、ヴルタヴァ川で溺れ死ぬことになるだろうと、断固たる決意を述べている。
* 右は「ウイーン写本」の第一ページ

この作者の外国騎士道の否定も彼の伝統主義も、ドイツ人のわが国への流入にたいする反発から出てきている。作者は、以前は「無頼なおこないは悪い」とされてきたのに、チェコの貴族たちが身につけた「悪い習慣」を非難する。

悪い習いの一例は、自分の言葉をかえりみず
サイコロ勝負に名誉を賭ける。
その昔は槍試合、安全索もつけずにしたものだ
そのご褒美は処女たちだ。
彼らはいまは外国の、領主につかえることの
多くなる。口にするのも不快なこと。

年代記作者の、まさにこの愛国心のゆえに、この作品が新しい時代にまで長い生命力を保ち得たのである。この作品はチェコ民族の苦難の時代(たとえば「白山」<1620>年以前の時代、ナチスの脅威の時代<1930年代>には必ずといっていいほど(たとえそれが改作であれ、引用であれ、言及であれ)くり返し現われては、多くの若い世代の年代記作者の出発点とも、インスピレーションの源泉ともなったのである。しかも二度までもドイツ語に翻訳された(十四世紀と十五世紀)。
最後の章のなかで、王位についたヤン・ルツェンブルスキーと貴族たちにあてた助言という形で愛国的心情とともに、作者の明確な政治的プログラムを具体的に訴えている。

この王を、神よ、どうか末ながく祝福し
どうか、お諭したまわんことを、
王が農民を愛し
己の側近に、チェコの貴族を置かれるように。
貴族の方にも忠告しよう、分別あれと、
可能なかぎり落ち着いて、事にあたれと。
あなた方に忠告しよう、是非の判断あるならば
よそ者たちを国内にほうったらかしにしないこと。
もし、それをおろそかにするならば
墓穴を掘ることになりますよ。
どっちにしようかというときは、言っておきますが、
森のなかの、曲がった枝にご用心。
それが何の意味だかは、自分で分別なさいませ。
後生大事は自分の言葉、他人の言葉は捨てなさい。

たとえこの著者が封建貴族として、民族の核を貴族階級のなかに見ていようとも、自分の利益を国家の利益に優先して考えるものを者を次のように断罪している。

悪しき人とはかかるもの、
自分の利益のためならば、同胞社会も利用する。
同胞社会は誰にとっても守り神、
それを足蹴にするものは、無視してやるのが分別だ。

とくに注目されることは、この著者の見解を、すでにこの年代記のはじめのほう(第四章)でリブシェが述べていることだ。したがって解釈のうえから言ってもきわめて示唆に富んでいる。なぜなら、その前の章はリブシェが登場する以前の出来事を簡単に記録しているだけなのに、第四章に入ってはじめて、作者は視野のなかに広範な民族の事件を取り入れ、自分のいとにとって重要とみなすものを綿密に記録しているからである。国家の利益が個人の利益に優先するという作者の信念は今日でもその有効性を失っていない。
ダリミルと称される年代記の作者も『アレクサンダー大王物語』の作者と同様に、民族のことわざや比喩や慣用句をすでに引用した例文によってもわかるとおり、大いに利用している。しかしチェコ文学の急速な発展の扉を大きく開いた二つの基礎的作品雄あいだにある本質的なちがいは次の点にある。『ダリミル年代記』の作者はわが国の歴史のなかの歴史的(または「史実とされた」)事件を寓意を交えずに直接的にえがき、伝統的「詩的装飾」を好まず、率直にありのままを、目的意識につらぬかれた傾向性をもって語りかけている。この種の叙事的表現に適した韻文の方法はいろんなタイプが考えられる。『大王物語』が古代チェコ文学特有の八音節韻でかかれているのにたいして、ダリミル年代記は音節数の不定な(無韻律詩)をもちい、普通の会話体に近づいている。
この二つの作品はチェコ文学の言語表現の発展の端緒において、二股に分かれた二本の枝を示している。一つは特定の読者を意識したきわめて格式ばったもの(『大王物語』)と一般大衆をも対象にした枝、しかも、この枝においては積極的な闘争意識と挑発と社会的参加(『ダリミル年代記』)に重点をおいたものである。これはまた現代においても、文学に求められている機能のすべてを満たすためのみのリアル基盤であった。それゆえ『ダリミル年代記』はイデオロギー的側面において、古代のなかでもとくにフス時代に近いところに位置していることもたしかである。そればかりか、この闘争心と文学的表現の釈迦参加の意思によって、フス以前期の風刺作品(たとえば、『フラデッツ写本』の風刺)にも影響を与えているのである。










(5) 封建主義文化の全盛と文学の民主化への努力


わが国において封建主義文化は十四世紀の四〇年代から全盛期を迎える。分岐点はフス主義の革命運動の勃発によって形成される。十四世紀後半は古代わが民族の経済および政治生活における、おそらく最大の厳しい矛盾が特徴的に現われる。この時代の文化はこの対立を敏感に感じ取る地震計であったが、とりわけいろいろな側面からその対立を表現したのが文学であったといえよう。
わが国の古い時代のなかで、現在でも、われわれの意識に最もよく残っているのはこの時代である。とくにそれは造形芸術に負うところが大きい。たとえば、わが国の絵画は十四世紀後半にはヨーロッパにおける発展の先頭に立っていたし、十四世紀の重要な造形芸術はチェコ人ばかりか常に外国人の注目と驚嘆の的になっていた。カルルシュテイン城、カレル橋、ペットル・パルレーシュとパルレーシュの工房の彫像や建造物作品、ヴィシェプロレツキーの画匠テオドリクやトチェボニュスキーの画匠の油絵、すばらしい彩色をほどこした写筆装飾文字――これらは文化人の記憶のなかに常に独自の場所を占めていたものである。
音楽作品のなかにもその価値において、地域に密接に結びついた意義を獲得したものがある。とくに楽長ザーヴィシュやヤン・ス・エンシュテイナの作品がそうである。なぜなら、彼らは世界の音楽形式と、民族性を生かそうとするわが国音楽の進歩的要素とをみごとに結合しえたからである。わが国の文化人の記憶に強く焼きついている十四世紀のさらに画期的事業は、中部ヨーロッパでは最古の教育機関であるプラハ大学の設立である。それはまた文化発展の支柱であり、多くの政治活動の重要な拠点ともなった。同時代の年代記作者ベネシュ・クラヴィツェ・ス・ワイトミレはこのことについて次のように述べている。

神聖ローマ帝国およびチェコ国の王であり、人民の保護者、また、教育の改革者カレル王(四世)は金印勅書により学生に与えられた特権と自由を保証した。こうしてプラハの町にはドイツ中のどこにも引けを取らない大学が生まれたのである。そしてほかの国から、つまりイギリス、フランス、ロンバルディー、ハンガリー、ポーランドなどのどこの国からも学生が集まってきた。こうしてチェコの国はこの大学のおかげで外国でもきわめて有名になり、注目を引くこととなった。

大学と同時に図書館も作られ、その当初にカレル四世は一六二巻の写本を贈った。
当時、最高の経済的また文化的勢力であった教会はプラハに大司教区を置くことによって、マインツのドイツ大司教への従属から開放された。これにより独立した文化生活の発展が保証されたのである。その中心となったのがまさにこのカレル大学だった。大学は――教会の組織と同様に――発展の次の段階において重要な役割を演じた。つまり、協会の先生が進歩的発展にブレーキをかけていた当時にあって、改革的努力の原動力となった。だからはじめに大学が改革運動を準備し、のちにその運動を支える基盤となったのである。
十四世紀の後半は文学のなかに、すでにルネサンスとヒューマニズムの兆候であるいくつかの要素をもたらした。つまりヒューマニズム的対話の軽視来た現われ、人間の意思の自由その他が文学の主題となったのである。カレル四世の世界帝国はルネサンスのイタリアとと接触をもっていたのだから、それはまた、当然とも言える(ペトラルカはカレル四世を訪問したし、カレル大学の学長ともぶんつううしていた)。しかしフス主義運動は新しい傾向への最初の反響を沈黙させ、文学の発展の方向を長いあいだ、別の方向へ向けてしまった。この妨害は相当に深刻なものであり、その結果チェコには、実際、ルネサンス文学はまったく開花しなかったほどである。
カレル四世の名前はわれわれの意識のなかでは、かの文化の全盛と結びつくのだが、その功績は、チェコの国土が彼の治世のあいだにヨーロッパにおいて支配下に収めた全領土の文化ばかりでなく、政治、経済の中心になるようにしたことである。その主導的地位にあったのがプラハである。彼の支持基盤は教会と裕福市民階級であった。しかし、文化、政治、経済の各分野におけるカレル四世の積極的な努力は、当時の社会のすべての層に恩恵をもたらしたとはいえなかった。文化的ならびに経済的事業に必要な出費は人民層の窮乏化を招き、貧富の階層間の緊張を町でも村でも激化させる結果となった。その意思表示が民衆の異端化であり、革命運動の前哨戦であった。軋轢の場は上級貴族と下級貴族とのあいだにもあり、上級貴族と王とのあいだにさえも連帯感はなく、(神聖ローマ帝国)皇帝は中央集権の努力のなかでこれらの貴族階級の力を制限していた。とはいえ、貴族と外国人の王ヤン・ルツェンブルスキーとの対立のときのように、武器を取って戦うというようなことはなかった。上旧貴族はその戦いを洗練された宮廷人のやり方――外交的手段で行った。社会不安はカレルの後継者ヴァーツラフ四世の代になっても治まらず、ヴァ―ツラフは支持基盤を下級貴族に求めたが、社会不安はいっそうつのるばかりであった。ヴァ―ツラフは上級貴族と争ったばかりか、大司教とも争った。その上対立は教会ヒエラルキー間でも増大した。つまりが外見的な虚栄のなかで徐々に放蕩に身を持ちくず教会の支配階級と下級聖職者との間、また宗教的ヒエラルキーと世俗的封建制度との間でも摩擦が起こっていたのである。これはカレルとヴァーツラフ時代の隆盛と外面的には華々しい光輝に隠された裏面であった。

いまのべたように十四世紀後半の文学は錯綜した状況を忠実に反映している。文学機能の今日的概念を目指す、来るべき発展にとって、この時代は三つの要因が重要な意味をもつ。第一はチェコ語でかかれた文学の増大、第二に低い社会層のの利益の代弁と擁護、及び彼らの生活の文学作品への反映、第三に文化の分散化(たとえば、言語の地域主義によって証明されている)。この現象は文学においてばかりでなく造形芸術においても現われた。封建主義全盛期の文学言語はまえの時代と同様にラテン語とチェコとであったが、やがてチェコ語が優勢となり、以後、永久にチェコ民族の文学表現の手段となったのである。






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