佐倉城復元図
 「佐倉城大絵図」、御城内間数書上」、「総州佐倉御城府内之図」や『古今佐倉真佐子』、「下総国印旛郡佐倉城御本丸御家形図」などの資料をもとにして、本丸・二の丸・三の丸周辺を復元して描いたもので、十八世紀前半頃の状況を想定している。
 本丸の南西側に巡らされた水堀には二か所の出丸が設けられ、堀の内側の斜面には帯曲輪がある。北東側は本丸を囲むように二の丸、三の丸が配置されて、二重、三重に空堀が構えられており、その外側は東と北に武家地が広がる。武家地との境には、東側は空堀が桝形を形成し、北側はコの字形の空堀に囲まれた馬出しがあり、その間は急斜面で姥ケ池へ切れ落ちている。
 武家地から本丸へは、空堀の間に構えられた三の門・二の門(東側)、椎木門・不明門(北側)を通り、本丸の一の門・台所門へ至る。堀の内側には土塀が巡らされ、ほかにも要所に丸木や竹で組んだ行馬が設けられている。本丸には天守、角櫓や御殿、二の丸には対面所や城米蔵、三の丸には椎木蔵や重臣の屋敷などが建てられている。(歴博 濱島正士教授著)
銅櫓復元模型「下総国印旛郡佐倉城御本丸御家形図」や古写真をもとに復元したもの。屋根が宝形造、錣(しころ)葺になっているのは、江戸城から移した三層楼の三階部分を撤去して屋根をそのまま利用したためであろうか。
(歴博 濱島正士教授)
台所門復元模型 銅櫓と同じく「下総国印旛郡佐倉城御本丸御家形図」や同じ形式をもつ−の門の古写真をもとに復元したもの。似た形式の門は弘前城(青森県)に例がある。
(歴博 濱島正士教授著)
「古河城天守窪地割」
寛永10年(1633)の年紀があり、土井利勝が佐倉から古河(現茨城県)へ移封されたときのものと思われる。縮尺1/20の立断面図に各階の略平面図が添えられていて、各階の天井高・軒の出・柱間寸法・柱の太さ等が書き込まれている。
 描かれた天守は三重四階で、平面規模は一間の寸法が少し大きいものの、佐倉城天守と同じく桁行8間、梁間7間である。飾破風を全く付けない点は、絵であるから正確とはいえないが、「佐倉城大絵図」に描かれた天守はこれと似ている。
 佐倉城天守を復元考察するのに重要な資料となる。
(歴博 濱島正士教授著)
江戸後期佐倉城復元図
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