●佐倉城考察     (歴博 濱島先生著より引用)
佐倉城の縄張
 佐倉城祉は東西に延びる台地の西端にあり、西側は高さ20メートル弱の崖で、その先を流れる鹿島川が外堀の役目を果たしている。東側は中央に延びる尾根から何本かの短い尾根が派生して、低いながら複雑な地形を生かした自然ようがいの要害となっている。
本丸は南西隅(実際の方位はかなりずれていて南に近い)にあり、その東とかねおからぽり北の矩折りに二の丸、三の丸がそれぞれ空堀をしいのき隔てて続き、東方の三の門外と北方の椎木門外.くるわには武家屋敷の建つ曲輪が広がっていた。
東方からめてが大手、北方が搦手で、大手門の外は城下町へつながり、尾根上の街路の両側に武家屋敷や町屋が建ち並んでいた。城の南・西・北には水堀が巡らされて、本丸との間には帯曲輪と出丸二か所が構えられ、堀の外は北側半分を囲むように成田街道が通り、その街道は東側の中央尾根へ上って城下で最も繁華な町並を造っていた。なお、石垣は築かれずすべて土塁のままである。
佐倉城の建築物
 佐倉城は元和二年(1816)土井利勝により築かれてから明治に廃城となるまで、城内の状況は時代によって多少異なるが、比較的資料のそろっている18世紀の佐倉城について、本丸を中心に復元してみよう。
復元にあたり使用した資料のうち、主なものは次のとおりである。

1、「佐倉城大絵図」(正保三年(1646)頃

2、『御城内間数書上』(延享3年(1746)

3、「総州佐倉御城府内之図」(享保8年(1723)以後

4、『古今佐倉真佐子』(宝暦元年〜明和元年(1751〜1764)頃)

5、「下総国印旛郡佐倉城御本丸御家形図」(天明5年(1785)写し)

6、銅櫓・一の門等の古写真(明治初年)
本丸は差し渡し約140×120メートル、周囲に土塁を築いて東側の北寄りに一の門、南寄りに台所門を開き、南西隅に天守、北西隅にすみやぐら銅櫓、東側に角櫓を、内側の広場には御殿を建てていた。これらを囲んで土塁上に瓦塀が巡らされ、六か所に石落しが設けられていた。本丸については昭和五十五年に簡単な発掘調査が行われ、天守、銅櫓、一の門跡が確認されている。
 天守は8間×7間、三重、瓦葺で、土塁の内側に半分張り出しているため外側が三階、内側が四階に見え、内部は床下とも五階になってた。天守は武具の倉庫に使われていたが、文化10年(1813)押し入った盗賊のために焼失し、その後は再建されていない。
 立面に関する資料はないが、土井利勝が寛永10年(1633)古河へ移封されたときの古河城天守のものとみられる地割図が残されていて参考になる。その図を見ると、柱間寸法は少し大きいものの8間×7間、三重四階の構造形式は外側から見た佐倉城天守と同じで、各重とも飾破風を設けない点は「佐倉城大絵図」に描かれた天守と似ている。
の門
 一の門は8間×4間の櫓門で、屋根は入母屋造、瓦葺、左右各二間が番所となり、扉の左脇に潜戸が付く。古写真によると、一階は木部がそのまま露出し、二階正面中四間に出格子窓、両脇の壁に弓狭間と鉄砲狭間が各一か所ずつあり、土壁で塗り込まれている。
銅櫓
 銅櫓は6間×6間、二重、銅瓦葺で、江戸城吹上の庭内にあった三層楼を移したものという。
解体中の古写真を見ると、宝形造の屋根が鍛(しころ)葺のように二段になっていて、三重目を取り除き、三重の屋根をそのまま二重に乗せたようにうちのりささらこしたも思われる。一重、二重とも内法上まで筋子下見が張られている。
角櫓
角櫓は7間×6間、二重、瓦葺で、外側二面に石落しが設けられている。千葉氏の根古屋城から移したものともいう。台所門は一の門と同じ規模の櫓門であったが、文化三年大破のため取り壊され、以後木戸門にされたという。
本丸
 本丸御殿は中央に長い南北棟の広間があり、その北側に玄関と鑓の間が接続し、南側は中庭を挟んで料理の間が東方へ延び、その先には矩折りに台所が続く。中庭の西方は書院で、さらにその北西に金の間と称する書院が接続し、廊下で銅櫓へつながる。屋根はすべて柿葺であった。この御殿は年始、五節句に藩主が家臣から賀礼を受けるときに使われた建物である。
二の丸
 二の丸は中ほどに対面所、東側に腰掛長屋と二の門、北側に米蔵と不明門などがあった。対面所は藩主が在国中居住した館である。三の丸は、東側は空堀によって東西に二分されて内側に小姓長屋、外側に侍番所と三の門などがあり、北側は椎木蔵(米蔵)と椎木門があった。三の門の外は空堀によって桝形が形成され、椎木門の外には馬出しが構えられていた。(濱島正士)
考察 「佐倉城」
佐倉城概要 復元図 佐倉城の歴史 空から見た城跡