大手門古写真(明治5年頃阿部忠惟の撮影)一の門と同じ規模と思われるが、二階の造り が少し異なり、柱形を現さない土蔵造になっている。
(歴博 濱島正士教授)
一の門古写真(明治5年頃阿部忠惟の撮影)独立した二重の櫓門で、桁行8間のうち中央2間を扉口とする一階の平面は、「下総国印旛郡佐倉城御本丸御家形図」と一致する。(歴博 濱島正士教授)
銅櫓古写真(明治5年頃阿部忠惟の撮影)解体中の写真で、屋根瓦が下ろされ、上の重は 小屋組が見えている。(歴博 濱島正士教授)
三の門古写真(明治5年頃阿部忠惟の撮影)背面側を写したもので、事前に侍屋敷の門・塀が見える。一の門、大手門と違って、一階も塗り込められている(ただし、腰は彫子(ささらこ)下見)。
(歴博 濱島正士教授)
本丸天守跡現状 天守跡は発掘調査が行われ、平面構成が分かるように整備されている。本丸御殿跡は広い芝生となる。桜の頃は花見の人でにぎわい、冬にははるかに富士山を遠 望できる。
(歴博 千田嘉博教授)
本丸下堀現状 本丸の南下、鹿島川に画する部分の水堀で、旧状をよくとどめている。右手の森の上が本丸に当たる。写真右端の芝は本丸から斜面を駆け下って南に進出した出丸の一部である。
(歴博 千田嘉博教授)
佐倉城の歴史
 [創築年]慶長十六年(1611)  [創築者]土井利勝  [形式]平山城
 [規模]南北1×東西丁2キロメートル [遺構]堀、土塁、天守台、馬出し
■佐倉城の築城
 佐倉にはじめて城が築かれたのは戦国時代である。下総国では鎌倉時代以降千葉氏が守護を継承し、最初千葉市の亥鼻城に拠ったとされる。
 しかし文明年間(1469〜1487)に一族内の内紛から酒々井町の本佐倉城に本拠が移されたという。本佐倉は現在の佐倉から東へ約7キロメートル離れたところにあり、本佐倉城は土造りの壮大な総構えを巡らし、城下町も造られていた。しかし地形の制約からプランは非常に散在的で、求心的なまとまりを欠いていた。
 当時小さな村にすぎなかった現在の佐倉、当時の鹿島台に鹿島城を築きはじめたのは千葉氏の一族、鹿島幹胤であったがいったん中止され、その後天正年間(1573〜1592)になって後北条氏の要請によって再開されたという。近年の発掘調査の成果で、本丸の地下から複雑に屈曲をつけた、鹿島城の遺構と思われる中世の堀が検出されている。文献では未完成ともいうが、中心部分は完成していたと考えられる。
 天正十八年に豊臣秀吉によって後北条氏が滅ばされると、関東は徳川家康が領有することになった。本佐倉城には三浦義次、武田信吉、松平忠輝、小笠原吉次などが封じられたが、いずれも短期間で城と城下を整備するには至らなかった。
 しかし慶長15年(1610)土井利勝が三万二千石(のちに老中となり十四万二千石)で佐倉城主となると、中世の鹿島城跡に大規模な城郭と城下を建設することを決定し、翌十六年から元和二年(1616)まで6年の歳月をかけて、近世的な都市計画を完成させた。
■佐倉城の縄張構造と特色
 佐倉城の構造は台地先端に本丸を定め、北と東に曲輪を展開させる。中央には「姥ケ池」のある谷筋が入り込み北と東を区分する。西側は印旛沼に連なる低地と急崖に頼る。佐倉城は石垣をもたない土造りの城郭であるが、縄張は極めて理論的に構成され、近世城郭の典型ということができる。特に注目されるのは本丸から北へ進んだ椎木曲輪と、東へ進んだ三の丸へ出る部分にそれぞれ馬出しを備えたことである。
 いずれも馬出し守り外は武家屋敷地区となるところであり、いわゆる狭義の城郭の最外縁部に、積極的な出撃の姿勢を示す馬出しを採用したことがわかる。城郭全体に積極的なプランを一貫させたところに、土井利勝らの想いを強く感じることができる。武家屋敷は主に台地上に設定され、町屋は成田街道に面した大きく絢の手に曲がる道路に接して造られた。今でもいくつかの武家屋敷や江戸時代以来の道路に当時のようすを体感することができる。
■近世以降の佐倉城
 利勝が古河に移った後、佐倉城は石川・形原於平・堀田・大給松平・大久保・戸田・稲葉・大給松平の各氏に受け継がれ、延享三年(1746)からは堀田氏が入って明治維新を迎えた。佐倉城の城主のうち幕府老中を務めた者は7人におよび、幕閣の中枢を司る譜代大名の領地として佐倉は大きな役割を果たした。また幕末には蘭学が発達し、西の長崎、東の佐倉と並び称された。
 現在、椎木曲輪の武家屋敷跡には国立歴史民俗博物館が建つ。本丸、二の丸などは自然を生かしたひかえめな整備が行われ、博物館と合わせ四季を通じて歴史を楽しむことができる。ことに春の桜はみごとである。近年、本丸西下の低地部分の景観が残土処理場などによって失われつつあるのが惜しまれる。
(歴博 千田嘉博教授)
近世 佐倉城の歴史
佐倉城概要 佐倉城考察 復元図 空から見た城跡