7/1 世間の栄養認識って・・・小学校の家庭科で習ったことはどこへ〜〜〜
5月になってから毎週月曜日にラジオで「栄養と食」についてのお話をしています。6月は「主食・副食、主菜・副菜」ってtなあに?と言う題です。
でも、これってあまりに常識的すぎていまさらなぜ?ですよね。ところが担当のディレクターによると「主食・副食、主菜・副菜ってなあに」という人(あえて若者とは言いません、いい年の方も含めてらしい)が結構いるというのです。まさか!と思う反面、言葉としては知ってるけど自分の食事の組み立てのなかでイメージがつかめていない人が大勢いるのも事実かもしれないと妙に納得してしまいました。
「主菜」をキャベツやはくさいなどの大型の野菜を指すと某有名大学の学生が言ったというのも笑い話としては聞いています。でも、まさかそこまで「食意識」の劣化が起きいようとは思いもしませんでした。
結局3回に分けて「定食メニュー」だとか「お刺身のパックは一番小さいサイズで2人前はある」とかの話をしました。
やはり、小学校レベルですよね。
最近骨董屋さんで漆器の一そろいを買った話はブログに書きましたが、並べてみて日本の食習慣の正しさに感心してしまいました。それぞれの器の大きさが、食品の量のバランスと一致するのです。飯椀は一番大きくて、深い。その次に大きいのは「平」とい
われる煮物椀で、さらに野菜料理が盛られる「坪」がつきます。つまり飯の次に たくさん食べたいものは「野菜」なのです。魚の盛られる「鱠」用の器は汁椀よりも小ぶりなのです。
イメージがわかない方は、お雛さまのお膳を思い出してください。本膳の一番基礎のお膳組がお雛様のお道具なのです。
栄養学など何も知らない昔の日本人が「経験から割り出した食べ方」が一番理にかなっているなんて、なんだかとても象徴的
だとは思いませんか?いろいろな理屈より、温故知新。昔の人の知恵に学ばなければなりません。
この大切な「食意識」をどこかに放り投げてくるのに一役買ったのは、やはり学校給食のアルミのチープな食器と献立、ランチプレートだったのではと真剣に悩んでしまいました。いまから大きくなるこどもたちのためにも給食の食器と献立はもっと考えるべきものがあると思わずにはいられません。
「こどもの発達と長時間保育」 保育時間より食事が」大切
5月16日厚生労働省研究班による5年間にわたる「長時間保育における発達への影響調査」の結果が発表されました。それによると保育時間の長短による発達の差はなく、むしろ食事を家族でする機会の多少が人間関係を構築する上での差が大きかったという。
家族で食事をす機会のめったにないこどもは他人の話しかけに答えるなどの対人技術の発達が遅れるリスクが70倍、理解度の遅れるリスクは44倍高くなるという結果が報告された。また育児の相談相手がいない家庭のこどもは、指で物をつかむといった運動能力が後れる傾向がみられた。 以上河北新報より抜粋引用
いかに「食事」の持つ機能が大切かという調査結果でした。「同じ釜の飯を食う」と言うことが人間関係を築く上で重要な要素を占めているかということです。でも、逆からいうと食事を共にしない家庭ではすでに人間関係が破綻しているとも言えるわけで、単に食卓を共にしていてもきちんとしたに人間関係のを結べない個人が座っているだけでは意味がないのではないでしょうか。
食卓の風景画和やかで楽しいものでなければ、いかにおいしく、栄養のあるものを囲んでいても対人技術gなどは養成されません。食事の内容や時間ではなく食卓を囲む人の気持ちがつながっていることがもっと大切のだとおもいます。かつて訪問指導にあたっていたときに何件かの「食べないこども」の相談に乗ったことがありました。ほとんどの場合家族関係に問題が隠れていました。嫁舅、姑。父親と母親の不仲。虐待。しわ寄せはこどもに。現れる現象は「少食、食べない、過食」などの摂食障害でした。
このいみで保育時間と発達障害とはほとんど連動していないのではともおもわれます。親が迎えに行ったとき飛びついてくる子供なら問題は起きないような気がするのですが、以下かがなものでしょう。
私は食事は必ずしも「母親が作らなければならない」とは思いません。惣菜やの物でも、レトルトでもよいと思います。でも食卓に並べるときに食べる人の顔を思い、体を思い、食べものに感謝する心を持っていれば、こどもはまっすぐに育つとおもっています。そうすれば毎回カップラーメンで済ますなどということは起き得ないし、また忙しい時には手の空いた人が食事を作ろうということにもなると思うのです。
女性も一人の社会人として働く上では今男性が家庭を顧みない程度の忙しさ(現状の男性の帰宅時間の遅さはもちろん問題ですが)を避けてはいられないです。ではどうするのとなったら、社会が構造を変革していかなくてはなりません。
きちんと整った食事、安全な食事が安くいつでもどこでも手に入れられる社会が必要です。その意味で「中食」が外食を上回ったのもあながち意味のないことではないとおもいます。
ひところ流行った「わたし作る人、あなた食べる人」が常に攻守位置を変えうる意識が肝心かななどとかんがえています。
トランス脂肪酸について・・・マーガリンVSバター
トランス脂肪酸についての記事が目に付きました。日経ヘルスのwebページ「サプリ&機能食品」に紹介されていたのです。http://medwave2.nikkeibp.co.jp/wcs/leaf?CID=onair/medwave/a027/307355
トランス脂肪酸とは液状の油脂に水素を添加して固体に変化させると含まれるようになる物質で、天然には存在しない立体構造を持った異性体です。「第6次日本人の栄養所要量」でも「食事摂取基準編」には「トランス脂肪酸の摂取量が増えると、血漿コレステロール濃度が上昇、HDL-コレステロールの濃度の低下など、動脈硬化症の危険性が増加すると報告されている」と明記されています。アメリカでは2004年1月から米国で食品への表示が義務付けられているそうです。
このたびの記事はトランス脂肪酸が「ボケ」を促進するのではないかとの内容です。かねがね私はマーガリンやショートニングについて不安を感じていたのです。学生時代にこのトランス脂肪酸(その頃は別の名前だったような気がする)を知った頃、世間的には「○オ○○ト」が発売されました。風味がそれまでのマーガリンとはまるで違ってバターに似ていて(良く味わえばまるで違うのだけど)、リノール酸信仰の走りの頃としては画期的な商品でした。
コレステロールが心配な方はバターよりソフトマーガリンをという風潮でした。栄養士もこぞって奨めたとおもいます。
でも、どこか不自然なのですよね。液体が固体に変わる。絶対に何か起こるとおもっていました。時代は変わリノール酸の食べすぎがアレルギーを引き起こすといわれたり、こんどは「ボケ」を促進するのではないかとの結果が報告されたようです。
私はバターの風味を大切に少量味わうのが一番良いと信じています。マーガリンを否定するものではないのですが、バターが手に入るなら量に注意して自然のバターを大切に味わうべきと思います。特に子供には絶対にバターの風味を味わわせるべきです。それが食育というものではないでしょうか。
「安いから多量に食べることができる→エネルギー過多になる、本物の味を知らずに育つ」を選ぶのか
「高くても少量の本物の味を味わう喜びを教える→おいしい物を感謝していただくことのできる人を育てる」を選ぶのかは親の責任でしょう。
IT革命・又はPC導入と栄養士
あれほど大騒ぎした「IT革命」という言葉が近頃は聞かれなくなってしまいました。でも
職場にはどんどんPCが「配布」され、「さあ、これを使って業務を効率化しろ」とプレッシャーがかけているのではないでしょうか?IT革命は栄養士にとって助けの神になるのか自らの首を絞めることになるのか。考えて見ましょう。
この2年間ほど、保育所の給食管理システムの構築の仕事がメインになっています。今まで手計算でしていた給食の事務業務をPC導入に伴ってIT化しようということです。しかし問題は山積しています。
まずPCが保育所に1台しか導入されてないこと。パーソナルコンピュータというくらいですから1人に1台が望ましい。せめて部署ごとに1台導入されないと効率が悪い。誰かが使っていれば待っていなければならないですよね。まして所長様のデスクの近くなどにレイレイシク鎮座していたりしたら、、、、使いたくても「いいや、今までどうりで」となってしまうにちがいないですね。いつでも気軽の使える環境がぜひ必要なようです。でないといつまでも業務のIT化、効率化は中途半端で終わってしまう。
デジタルデバイドの問題。といっていいのか、スキルの習熟の訓練が不足している。今までにない画期的な道具を職場に導入するのだからある程度のスキルアップのための訓練を実施してほしい。自己努力を要求されるの部分ももちろんあるけれど、経営側・使用者側も訓練に時間とお金を投入するべきだと思う。昨日も職場のPCで困っていることについてお聞きしたら、「デスクトップにファイルが山ほど入っていて、整理がつかない。」「みんなが勝手な名前でファイルを作ってしまうので、必要なファイルが探せない」などごく基礎的な問題で悩んでいるとのこと。PCを共有せざるをえない状況に追い込んでいて、それを最終的に管理するひとが誰なのかを決めていない状況が見て取れる。職場の話し合いも不足しているのだろう。ある程度の基礎的な共通理解があればもっと効率よく使うことができるはずだと思う。
WordやExcelの講習ももちろん大事だが、ファイル管理、PCそのものの業務の中での位置づけについての講習が少なすぎるのではないだろうか。
さて、IT革命の職場での進展によって栄養士はどんな影響を受けるのだろうか。
「栄養計算命」、「給食管理命」 だけの栄養士はどんどん淘汰されると思う。また淘汰されてしかるべきと思う。
IT革命(情報技術の革命)とはなんだろうか。それは「本当の本物のみが生き残れる社会」といっていい。
情報技術の革命によって社会構造が根底から覆り、中途半端なものは淘汰される。また素人の玄人化が進展する。いまや個人的な年賀状を印刷屋に頼む人は少数派になってしまった。ある程度のものは素人でも手作りで間に合ってしまうようになった。写真でも現像に出すことはなくなり自宅でプリントすることが当たり前になってしまった。となると生き残れるのは本当にすばらしい技術をも持った印刷やであり、写真の現像屋さんである。ここ一番の写真は専門家にとってもらうとか、望む色合いでプリントしてもらうとか。
では栄養士はどうか。病院での外部調理が許可されたり、保幼一体化の流れで調理室なしの保育園が許可になりそうだったり、栄養士の地位が危うくなっているように感じているのではないだろうか。でも「本物の栄養士」は淘汰されない!
淘汰されるのは、「機械でもできる仕事しかしてこなかった栄養士」 であろう。栄養計算や発注業務が栄養士の仕事と思ってはいないだろうか。そんなものはPCを使えば小学生にだってできる。問題は計算のために電卓をたたくことではなく、献立が食べる人一人一人に本当に適しているかを考えることであると思う。食べる人の顔が思い浮かばないような状態で献立が立てられる自体がおかしいと思う。
淘汰されない職のひとつに「保育士」がある。なぜか。子供と直接にふれあう職だからだ。栄養士だって同じ。食べる人ときちんと向き合う仕事をしていけば、仮に食事は委託や外部からの搬入になっても存在感は揺るがないはずだ。
「栄養士は食事を提供する人」という意識を私たちは捨てようではないか。「栄養士は食事を通じて人を健康な生活に導く伝道師」だと自覚したいものだと思う。IT革命によって廃れる職業がたくさん出てきて、廃業や倒産が世にあふれている。私たちも淘汰されないためには仕事の質を高め、その内容を精査してほんとうの栄養士業務が何かを考えないと、、、、世の中にいらない職業になってしまうような恐怖を感じるのである
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