(3) プリマヴェラ (春) ――1667年



   まったく美しく晴れ上がった五月のある日、それはまるでバイオリン製作者の町のうえに、神さま自らがバイオリンを鳴り響かせたもうたような日だった。メロディーはちぎれ雲、鳥たち、山のいただきに花々、娘たち、光と影。青と月桂樹の森の新緑の微妙な色調は協和音に変わり、川の水のせせらぎがトレモロとなる。そよ風がヴィヴラート。そして少し年を取ったおどけもの、それでいて永遠に若い心臓の鼓動を打つのがトルラッゾの古い鐘だ。その鐘の音と響きと振動は、水浴びをする太陽にほほ笑みかけるポー川の流れる平野全体に余すところなく広がっていく。
  「神はすべてのものにまします」
    アントニオ・ストラディヴァリは心のなかで言い、両親に、そして、その他の市民たちにも笑顔を向けた。白いかつらをつけた皇帝軍の将校たちに、黒い服の神父たちに、職人組合の親方たちに、すりや乞食たちにも。彼らは古びたサン・ピエトロ寺院へ礼拝のために大勢で駆けつけていた。彼自身は五月の祭りを朝早くからポー川の岸辺で祝っていた。彼はまばゆいロンバルディア地方の日の出の太陽の光を、開けっぴろげの十七歳の心のなかにたっぷりと吸い込んでいた。露をおび、まっすぐに伸びたたおやかな草の茎、花開いたビロードの杯、蝶の羽の粉、そしてジロラモ・アマーティーのバイオリンの充実した響き。この天国のもののごときオーケストラには、アントニオ・ストラディヴァリにはただ一つの声部が欠けていた。やや、顔を赤くしながらたずねた。
   「おい、ジロラモ、君の……君の妹はどうして来なかったんだ?」
    ジロラモは答えなかった。彼は昇りくる太陽に向かって弾きに弾いた。全身全霊を込めて、体のすみずみまで情熱にひたされて、まるでこの高台一帯に太陽の光線をまき散らすのを手伝ってでもいるかのように。そしてどの音も新しい光線をもたらした。
   「ベアトリーチェはなぜ来なかったんだい?」背の高いアントニオがくり返したずねた。「彼女は約束したんだ。なぜ来なかったんだい?」
    痩身のジロラモは体をゆらしもせずに、モンテヴェルディの『春(プリマヴェラ)』を弾いていた。そして音色とメロディーの線から月桂樹の森の中でボッティチェリの絵の生命を目覚めさせ、若い男たちはオレンジの木の金色の果実のほうへ背伸びしていた。娘たちは空気のヴェールのなかをおどりまわり、キャンバスの中央のところに強い生命力と、この世のものとも思えぬ存在の、あらゆる希望の微笑をたたえて、大きな腹をした、間もなく母親になろうとする女が立っていた。
    うたうポー川はその背に色彩をはこび、ただよう雲の白っぽい斑点をちらちらと映しだしている。やがて、太陽の光の鏡の縁のなかの雲の影を川の水の上に積み重ねる。雲は厚さを増し川は青く曇り、まるで流れを止めたかのようであったが、それでも、貫き通してくる光の束のしたを、川岸の草むらとしかめっ面を向けあいながら、流れも早く流れ去っていた。
   「ベアトリーチェは礼拝に行く準備をしていたから来なかったんだ」
    ジロラモはそう言って、急に演奏をやめた。
   「妹のことは放っておけよ、アントニオ。妹は君の思い通りにはならないよ。要するに女心、量りがたしさ。彼女はまだまだ男を悩ましつづけるよ。妹はいつの間にかびっくりするくらい美しくなった。だから、このぼくでさえ……、もし兄妹でなけりゃ、わかるかい……、あの紫色の目、金髪、それに……、ときどきのぞくことがあるんだよ、妹が脱いだり着たりしているとき……。そりゃあ、もう……、君にだけ教えて……」
    アントニオはあおくなり、体中をふるわせた。そしてジロラモに一撃くらわせるために腕を振り上げた。こぶしが風を切ったが、殴らなかった。ジロラモはこぶしが飛んでくるまえに目を閉じた。ふたたび目をあけると、のっぽのアントニオはすでに川岸の道を一散に駆けて遠ざかっていた。長い足で駆ける彼は突風のような速さだった――それは狂気じみた駆け方だった。そして樺の木の黒い節が、驚いたような、サチルスのようないたずらっぽい目で彼の後姿を見送っていた。
    アントニオのまわりにはマルハナバチがうなり声を発していたし、トンボは夢幻的な真珠色の羽で飛びまわっていた。昇ってきた太陽はすでに光のオルガンの鍵盤の全音域をつかって嵐のような光のフーガとカノンを演奏していた。森の礼拝堂の扉ももまた愛しあうカップルのために開かれ、娘や奥さんたちは輪骨(フープ)を入れてふくらませた大きなスカートをはき、小道を不安定な足どりでやってきた。米の粉をふりかけた塔のように高い白いかつらのてっぺんには、小さな羊飼いの帽子のリボンか、または、狩猟者の帽子の柔らかなダチョウの羽が小刻みにゆれていた。
    境界線のところまで駆けだしていった将校の、ふくらんだ胸鎧の上に、太陽の光が反射した。数人の貴族の帽子は金の刺繍で縁どられていた。道のほこりの上には、古ぼけた金色の紐で縁どられ、鼻のもげたキューピッドの飾りのついた座り籠(セダン)も上下にゆれていた。
    ここまで来るとアントニオも自分の常軌を逸した逃走を恥ずかしく感じていた。彼は右にも左にも目をやらず、コウノトリのような細い足で、急ぎ足おいう程度の速さで歩きつづけた。やがて、おなじみの顔も見えるようになった。そして、レナルドゥッチ、マンターニ、カラッチの諸氏ののまえで必ずしも最新流行とは言いがたい帽子をややぶきっちょに取った。これらの諸氏は同業者組合の仲間で、彼の父アレッサンドロの親しい友人たちだった。
   「やあ、ノッポのアントニオ、どこまで伸びるんだね、まさか天までじゃあるまいな?」
   乗馬靴をはいた小男のカラッリ氏が声をかけた。
   「お言葉ですがまだ父を抜いてはおりません」
   『うまい答えだ。ストラディヴァリ家の連中ときたら、どいつもこいつもおんなじだ。ローソクを鋳型で作ったようにな。わしは、おまえの曾爺さんもしっとるがな、九十歳まで生きとられたが、いや、まったく息子も孫も、つまりおまえの親父さんだが背丈はみんな同じだった」
   「神のご加護によったのでございましょう、エドモンドさん」
   「いやあ、神のご加護がなくてもじゃよ、ハハハ。だが、どうかね、アントニオ」
    ごわごわの鼻ひげと山羊ひげをしたマンターニがたずねた。
   「仕事はまだいやにならんかね? それに、老ニコロ・アマーティはどうだ? へんくつな爺さんだろう?」
   「もし、ご異存がなければ申しますが、マンターニさん、いまのところ仕事はいやではありませんし、一生、いやにならないでしょう。それに、こういってはなんですが、私自身の人生よりも、ニコロ旦那を尊重しています」
   「それはいい、それはいい」
    小男のカラッチが話しに割り込んできた。
   「結局のところ、誰もかれも布地の商いをするわけにはいかんのはたしかだ。あんたにはその職業がむいとったんだ。あんたはその職業を選び、自分の親方として老アマーティを選んだんじゃ。誰よりも尊敬しておる。ふん、あんたは若い。いまにあんたの職業組合のほこりとなるじゃろう。話は違うが、親父さんのシニョール。アレッサンドロにわしからもよろしくと伝えておいてくれ。いつでも「金の輪」酒場でまっとるからなとな」
    三人の織物商人はお互いにそれぞれの嗅ぎタバコをほめあっている。アントニオはビロードの帽子を上にあげ、頭をさげた。嗅ぎタバコの入れ物は長い縞のチョッキのポケットに消えていた。そしてそれぞれは自分の目的地のほうへ向かって歩きはじめた。
    アントニオはいまはピアッツァ・デル・メディチを目指していくべきだということがわかっていたそこにはピンクのエジプト斑岩(ポルフル)から彫られた二匹のライオンがほほ笑みながらアマーティ家の門を見張っている。
    彼の耳にはジロラモ・アマーティの描写の言葉が響いていた。「……ときどき、彼女が脱ぐか、着るかしているときに、鍵穴からのぞくんだ」というジロラモの声が絶え間なく聞こえ、モンテヴェルディの『プリマヴェラ』はこの声の陰にかくれて聞こえなかった。この歌はグァリーニの田園劇の挿入歌としてうたわれていたものだ。ジロラモは、もともとは小オーケストラのために書かれたこの曲を暗記して、それを楽器のなかの新しい女王、フランス風バイオリン(ヴィオリーノ・アラ・フランセーズ)のための小品に編曲していたのだ。
    しかし、いまのアントニオにとっては、そんなことはどうでもよかった。彼をこんなにまで落ち着きをなくさせているものは何なのだろう? 彼は自分のなかにあらゆる種類の抑えがたい怒りと、何とも説明しがたいいらだちを覚えるのだ。いったい世間ではどうして、彼の最も愛するもの、新しい形に生まれ変わったバイオリンにたいして、フランス風(アラ・フランセーズ)などと言うのだろう。だってガスパロ・ダ・サローがブレッシアでリラをもとにして作ったのではないか!
    フランス人たちはいまやその楽器を自分たちの発明だと公言してはばからないし、同様に、あの不愉快なひげもじゃのチロル人たちもまた、あのかわいらしい細い胴と、優雅な線をもった楽器の女王をあのぶきっちょなガスパル・ティーフェンブルッケルの娘とみなしている。おmけにあそこではあのヤコプ・スタイネルがアマーティ家の石畳のベランダで鳩たちに取り囲まれながらベアトリーチェを見るときはいつもあの不潔な視線で彼女を汚している。
    この二つの嫉妬はアントニオのなかで荒々しく融合していた――彼は、首筋でもこめかみでも血管が脈打つのを感じていた。彼はすでにフランスやフュッセンのバイオリン製作者ばかりでなく、互いに肩をたたきあいながら、アマーティやグァルネリのクレモナのバイオリン製作者の一派を蔑視しているブレッシアのバイオリン製作者たちもにくんだ。
    ベアトリーチェとバイオリンは彼のなかで融合して一体となっていた。彼は、クレモナでアマーティの秘密ばかりでなく、ベアトリーチェまでも盗もうとしている不愉快なチロル人のスタイネルに復讐を誓った。またイタリアの町々をわがものがおにのさばり、かき集めた金で自分の仕える宮廷のために、最も出来のいいバイオリンを買いあさっているブレッシア人、フランス人、スペイン人、オーストリア人にも復讐を誓った。
    横の路地にはごみの臭いがたただよい、路地をまたがって張られた紐には破れた下着が洗濯をして干してあった。カビと鼻を刺すアンモニアの臭気の立ち込めるその下の路地にはキスが音をたて、愛の激しい息遣い、抱擁の波が押し寄せていた。汚らしい子供がごみの山を彫りくり返し、老婆たちは二歩ほどの幅の小道をはさんで向き合った窓と窓で叫びあい、いまにも床ブラシをもち出してきてチャンバラでもおっぱじめそうな気配だった。
   この騒々しいいがみ合いのなかで、アントニオはジロラモの言葉と鍵穴のなかの視線と、モンテヴェルディの『プリマヴェラ』――そのすべてが鬱屈した憎しみと不安で満たされた。そのとき半地下の部屋の窓から誰かの手がにびてきて、白いウールの靴下をはいたアントニオの長い足をつかんだ。
   「お待ちなさいな、ハンサムなお兄さん。ちょっとあたしんところに寄っていきなさいよ。あたしのできること何でもしてみせてあげるわよ」
    アントニオは雷にでも打たれたようにびくっとして立ち止まった。生れてはじめて女性の手を自分の体に感じたのだ。母さんの手、年老いた乳母の手、それに斜視の女中の手、それはまた別のものだ。そのなかには暖かみと安らぎがあった。いまここにある手は肉ではなく血だった。白いウールの靴下をとおして彼の血のなかに流れ込んでくる。そして地下からは磁石のような、逆らいがたい炎をたたえた自堕落な目が光っていた。目の下には青く黄色っぽいしみがあり、その上には血のにじんだうち傷があった。濃くぬった唇はあまり評判のかんばしくない女のものだった。
    ジロラモやその他の徒弟たちがアントニオをしばしばこの街はずれに誘ったものだった。彼らの話から、この女が彼に何を期待しているのかを正確に知っていた。だから彼の無意味な質問をかえすときに、まるでネズミ捕りの罠にあしをはさまれたかのように、しどろもどろになってしまったのだ。
   「何の用事です? あなたは何ができるのですか?」
   「フッフッフッ、あんた、まだ、あれ知らないみたいなこというじゃない、ぼんぼんののっぽちゃん!」
    女は大きな声で笑った。
   「あんた、ふるえてんのね?あんた、本当に知らないの? じゃ、ちょっとおいで、おいでなさいって!」
   「その窓からじゃ、入れないよ」
    またもや魔女のような笑い。
   「だれが窓から入れなんて言ったのよ! 門からおいで、いま、迎えにいくから。そしたらすぐよ。どうしたの、そんなにふるえて」
   「わかった、じゃ、足を放して、迎えにきてくれよ」
    さび朽ちた両びらきの鉄の門がきしみながら開き、暗い通路がアントニオを同居人たちのヘヘラ笑いの向こうに飲み込んだ。門のところで地下室の窓からのびてきた手がすでに彼を待っていた。そして、また彼をつかんだ。
   「ぼくは、そのこと、友達に聞いただけなんだ。ぼく、まだ、一度も……。ぼくは何をするべきかも……、それに……」
   「じゃあ、あたしのあとから階段をのぼっておいでなさい。手をかして。ここじゃ、あんた、自分の鼻の頭さえみえないわよ。こっち。だまって繰ればいいの。でも、あんたのうんめいが、この「巨乳のバルバラ」のところへまっすぐつれてきた日をきっと忘れないわよ。ここじゃ、あたしはそう呼ばれてるの……」
    空気のよどんだ暗い地下室のお国、どこか非現実な遠くに地下室の窓からぼんやりと光が彼のほうにさしていた。彼はすっかりどぎもを抜かれていた。なぜなら、こんなものは通常の愛といったものじゃない。一金貨(ゼッキ)、五銀貨(スクード)、それどころか十銅貨(ソルド)、五銅貨にも値しない。ここには銅貨の音も銀貨の音も金貨の音も聞こえない。ここにはガスパルの一党にたいする、またチロル人にたいする、フランス人にたいする、ベアトリーチェにたいする、ジロラモに、全世界にたいする激しい、苦渋に満ち戦いもない。
    ここでは濁った悪が蒸留され、相手になった女への支払いがここでバイオリンに浄化され、ポー川の岸辺のリンゴの木は重たい鼻の祝福をほこり、トラッゾ鐘楼の大きな鐘は地下室のアンモニアの鼻の臭気のなかへ誘う。月桂樹の森の深い緑のなかにはボッティチェリの若者たちが黄金の果実を取ろうとして背伸びをしている。処女たちのヴェールはロンバルディアのそよ風のなかで天使たちの挨拶のようになびいている。太陽の光はトンボの虹のような羽の上に眠っている。地下室の暗闇はゆたかなビロードにやわらぎ、そして、どこかのアマーティの痩せた後継者がモンテヴェルディの『プリマヴェラ』を筆写の楽譜からぎーぎーと不快な音を出している。
    この引っかく音とともにヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、そしてコントラバスの弦も鳴りだした。最初のコンチェルト・グロッソの昇天がゆっくりと描き出されていった。声部のクレッセンドに五月祭の鐘の音も加わった。まるで天使の笑い声の合唱のようにバティステロの鐘までがもう鳴りだした。
    どこかで神を賛美するパレストリーナのオルガンも嵐のように響いている――見よ、兄弟。こういうのがかつてのアントニオだった。こうゆうのが、かつての、太陽の光の洪水と蝶の羽の下の小鳥たちの歌のなかで誇らしげなロンバルディー平野の楽器と音楽の春だった――そしてクレモナの暗い地下室のなかでも――。










(4) ブロンズの弱虫、ダイヤモンド研磨師の娘

(5) 真の祖国の息子たちの部屋

(6) ティーッセンの日曜日