(4) ブロンズの弱虫、ダイヤモンド研磨師の娘、ジェノヴァの殺人、およびキリストの投獄――1908年
「ゴッビさん! 起きてください! 十二時ですよ!」
下男の声が厳しく響いたが、薄闇のなかでは何一つ動く気配はなかった。下男は厳格な行動をうながす言葉を四回くり返した。そして彼のクレッセンドはやがて怒鳴り声までにたっした。しかし、薄明かりのなかはすべてのものがひっそりとして、ぴくとも動かなかった。
「ゴッビさん! 起きてください! 十二時ですよ!」
何の反応もない。エスリンゲン式ブラインドの二つの溝のあいだから光の筋が斜めにさし込んできて、ベートーヴェンのデウス・マスクの丸っぽい鼻に当たっている。そのほかにも光の筋のなかでは無数のほこりの分子が振動して、柔らかな虹の色をかもし出している。それは空気のプリズムのある種の非物質的な遊びのようにも見えた。その光の筋のなかを画の白い羽が幻覚のミニアチュアのようにひらひらとはためいていた。
「この食いしん坊の豚め、二度といえになどもどってこないか、それとも眠っているうちに脳溢血なんがでくたばりゃいいんだ」
下男はぶつぶつと口のなかでぐちった。彼は引退した俳優だった。彼の口のなかのつぶやきは、モノローグか、口を手でおおって唇の端で語られる――通常は括弧のなかに斜体文字で書かれた――せりふか、そのあいだの何かそんなようなものに聞こえた。
「バプティストよ、おまえはそんなことを考えているのか。ところが、どっこい、そのどっちでもないときている」疲れはてたようなだみ声がソファー・ベッドのほうから聞こえてきた。その声を追って、ライオンのうなり声のようなあくびが一つ、また一つと続いた。
「おい、さっさとブラインドでもあけろ、こののろまめ!」
あくびの終曲(フィナーレ)は断固たる命令口調に転調しておわった。
ガラガラという騒音とともにブラインドは一気に巻き上がり、光の洪水が部屋にあふれ、すべては天地創造の第一日目のような混沌(カオス)を照らし出した。まず第一に、とがった枝先を天にむけた低木の茂みが焼けるような、マデイル詩集で縁どった紫色のベッド・カバーが血の色に燃え上がっている。つぎには、そこからふさふさとした黒い髪と、オリーブ・ブラウンのしみに似たはれぽったい大きな顔がはみ出していた。それに続いて引きつったように握りしめたこぶしと、その先にはひじを張った腕がつながっていた。そしてまたもやあくびの発作。
一方のテーブルの上には、倒れたクリスタルのグラスと、ハイドシック・モノポルのラベルの貼ってあるシャンパンの空瓶が二本、オオバコの花の形をした大きな銀の盆、その上にはかじりかけのガチョウのももとオレンジの皮、さらにはブローニング・クレメント・バイビーが空の弾倉を引き抜かれて置いてある。引き裂かれた手紙のさまざまな大きさの紙片、くしゃくしゃに丸められたフォッシシェ・ツァイトゥンク紙、もともとテーブルの大きさには不十分なダマスク織りのテーブルクロスはずれて床まで垂れ下がり、オレンジのしみや、こぼれたタバコの灰、茶色になったタバコのこげ跡などでいっぱいだ。
その反対に、もう一方のテーブルの上には次のような静物がおかれている。真珠の飾りのついたマンドリン,縁からはみ出した二本の葉巻、金の吸い口のついたシガレットの吸いかすの山の載った灰皿、白い刺繍の入った真っ赤な長い女性用の手袋、しおれた三本のバラ「マレーハル・ニール」、張り骨入りで真鍮のホックつきで刺繍で飾ったゴム入りのストッパー、その上さらにワイヤーでほきょうしたうす紫ののこるせっと、四個の空のマッチ箱、チェコ製のグリーンの竜をあしらった中国風花瓶のなかからダチョウの羽根の扇が顔をのぞかしている。
一方の壁には二メートルちかくもあるパレストリエーリの作になる『ベートーヴェン』の三色刷りによる複製がかけてあり、その上のほうには、です・マスクのブロンズ・コピーが花輪の中に収まっている。その下には銅版画、ペン画、銀板写真(ダゲロタイプ)、水彩画、パステル画、大音楽家たちを写した写真が掲げてあった。
別の壁には,虎の毛皮、S字型剣(ヤタガン)、火薬装填用具つき火縄銃(マスケット)、古式ピストル、金メッキした長いベドウィン族の銃、二丁のギター,デリケートな葉を刻み込んだ銀の月桂樹の冠。窓の反対側の何もない壁には日本の掛軸がかかっている。
「目下のところ、当方が受けた損害は百八十マルクおよび二十ドルであります」
引退俳優は軍隊風に報告した。
「ゲルトルート・フォン・ゼーヴィッツ嬢、四十マルク、チェザーレ・レナルドゥッチ、五十マルク、セバスチアーノ・レナルドゥッチ、五十マルク、シュテファン・バボチャーニ、四十マルク、ハロルド・アイゼンベルク、二十ドル。これらの方々は、レッスンをあきらめてすでに帰宅されました」
「よし、よし、まあ、そのうちに取り返してやる。次のレッスンは誰かね?」
「クララ・ヴァン・ゼルホウト嬢,五十マルクでございます。もう、一時間も待っておられて、帰ろうとなさいません」
「待たせておけ。すぐに行く、部屋へ案内しておいてくれ」
「ご案内はいたしません。まえに、あのバに何か起こったとき、あたたはわたしにあたり散らされました。彼女には玄関の間で十分でございます。わたしはあそこでお嬢様にご機嫌をうかがいます」
「さっさと行け、この野郎! どっちにしろ貴様をぶっ殺してやる。消えろ! さもないと貴様のひげなんぞ、一本一本引き抜いてやる。この死にそこないのひげ面やろう、行け! 顔も見たくない!」
バプティストはへへら笑いをして、同時に膝を打った。それから、うかがうように掛け布団をのぞきこんで、うなずき、また、へへへへっと短く笑った。
「よし、いいか、目玉をおっことすなよ、ほれ」
ゴッビが掛布の端を持ち上げると、その下で弾力のある裸の女性の背中が丸くなった。そしてゴッビはまた掛布をおおった。
「さあ、目の保養がおわったら、さっさと出ていけ、この恥知らずの助平じじい、それとも、ぶちのめしてもらいたいのか……」
「バプティストがドアからひきさがると、ひげもじゃの怪物は鼻ひげをひねりながら、天上を見上げていた。それから、掛布をはねのけ、身じろぎもせずに長いあいだ裸の女の体を見つめていた。
赤みを帯びたブロンドの長い髪の毛がもみくしゃになった枕にまとわりついていた。ゴッビは女性の裸体に空気の網の目を描いているレースのカーテン越しの太陽の光の筋をじっと見つめていた。壁にかかった色あせたタペストリーは背景としては気に入らなかった。彼は横たわるヌードの背景に広がるイタリアの田園の風景を思い浮かべ、ここに横たわる女をジョルジョーネのヴィーナスに見立てようとした。
しかし美術館の古典作品のヌードはこのような輝くような実物にくらべると、ひどく色あせて見える――このなめらかな、挑発的なまでの,真珠の肌色のなかには、まるでそれが聖杯(グラ―ル)ででもあるかのように生命が燃えたぎっている。この肉体は白と黄色、赤みをおびたオレンジ色、オパールの青、古代紅色の交響曲(シンフォニー)だし、それに寝息と乳の匂いと、花のエッセンスと干草の香りの目もくらむような混合物だ。
この肉体に比べれば、ルノワールの色彩のビブラートも、シニャックやスーラの輝く色の点さえもが音を失うだろう――それでも、いつか、これらの色や香り、線やふくらみのすべての唯一の表現として、ドビッシーの音楽を無限のかなたで降る小雨の音のように聴いていたころがる。
あっという間に過ぎ去った数瞬間のなかで、彼はすでに年老いたオスの力の減退を意識していた。そして、このような瞬間に思わず深い溜め息をつくのだった。しかし、肺の奥深くからではない。このような行き、このような男性の秋を予感する冷え冷えとしたと生きはたくましい肋骨におおわれた空洞のドームの中からではなく、魂のなかから――これほどまでに推し量りがたい悲劇的な彼の存在の、悪寒にも似た、最もおく底の本質から――噴出されるのであった。そして、そこからは涙までが、何かをあこがれ求める大きな、黒い目にあふれ出るのだった。
彼は立ち上がり、ブロンデル(ジャック・フランソワ、1705−1774=フランス古典主義の建築家)風の枠に入った鏡のなかをみつめた。目には涙、目じりにはしわ、あごひげとぼさぼさの頭髪には銀色の筋がまじり、赤茶色の唇のまわりには、あごひげでさえ覆い隠せない深いしわが掘り込まれている。しかもくちもとのしわは、まるで時間という水野ながら画絶えず推定の砂を浚(さら)っているかのように、だんだん深くなっている。
鏡は黒い目の光と同じに盲目となった。すべては心臓の鼓動が徐々に鳴りをひそめていくかのように、ビロードの霧のなかに沈潜しようとしている。ブロンデル風の鏡の枠ははじけ、砕け、漆喰は金の地色のなかで、あちこちでしろくなり、黄色くなり、茶色になっている。プラハ産の絨毯の上には秋の熱病のような真紅の血をにじませている。そして部屋のむげんおなかではばたく白い蛾はまるで人生のはかなさをなげく白い男の、静かな小歌のようでもある。
ほんとは何かをしなければならないんだ。だが、ブローニングの弾倉は空っぽだ。ゴッビは左手の麻痺した指に自分の人生の空っぽの弾倉を感じるのだ。それは羽の粉をぬぐい取られた蛾の空しい羽ばたき、何の反響も起こってこない臆病な叫び、幻想を追う悪あがきでもあった。
どこかでブローニングが発射されている。どこかでヴィオロン・チェロが低いうなりを出している。どこかでは大勢の人々が満天の星をいただくよるのなかへ、そして朝まで働くものたちの曙光のなかへ戦いに出かける。また、彼はそこの色あせたバラの花やレースのカーテンを通してさしてくる太陽の網目の絵に向かって、酸っぱい匂いを発するシャンパンの空の瓶にむかって、電車の鈴の音に向かって、鹿側で製本された金塗りの最断面とエロチックな銅版画による装丁の『悪の花』(フレール・デュ・マル)に向かって、意味もないことをつぶやいている――彼はレッスンの時間割を強制的に押しつけてくる下男を恐れていた。そして、そのすべては、癒されることのない渇望の遊歩道で、歳月というくらい、幻覚の並木道で演じられたのだ。その行き着く果てには、いやな臭いを発するあばら屋が待ち受け、ざまあ見ろと言わんばかりの顔をしている。こんな瞬間には、誰だって死を願わずにはいられまい――この臭気のたちこめる大きな住居を彼はあこがれていたのだ。
ああ、その驚くべき孤独なる貧困は――古代キリスト教の地下墓地(カタコンベ)の甘美さのように――きっと甘美であるにちがいない。その周囲には、たぶん、空腹と屈辱と不潔と病気が、サーカスの猛獣のように歩きまわっているだろう。そして、その結果は大きな始まりとなるだろう。細い並木道は無限のなかに広がり、彼は冷酷なオスとなり、弾を込めたブローニング、勇敢なる傭兵に、創造的天才に、かつ、冷笑を浮かべる娼家の主に変身するだろう。すべては新しく生れ、彼は神の手に握られた彫刻刀となるだろう、
「そんなところでなにしてるのよ、おじさま? あれっ、坊や、あんた泣いてんの? 泣いているんじゃないよね? どうかしたの? ああ、あんた、あたしとできなかったからなの? そんなこと、もっと若くったってとっくにあることよ。まだ、はなったれのぼんぼんにもよ。おいでなさいな、今度は記を落ち着けて、さあ、あたしを愛して……、さあ、いいかげんにして、いらっしゃいよ……」
マルゴットはくすくす笑った。あくびをして、また、くすくす笑った。彼女の前に大きな熊男が、何かの滑稽な記念碑のように長い夜着を着て、突っ立っていた。ナイト・ガウンを着たブロンズの巨人像、ブロンズの臆病者。
「もう、行かなきゃならないんだよ、マルゴット」
彼は悲しげに答えた。その悲しげな様子に、マルゴットは驚いて聞きかえした。
「どこへ? なにか不幸なことでも起こったの?」
「わたしだって、パンのために稼がなきゃならないんだ」
「どこで? どうやって?」
「弟子が待っているんだ、この隣の部屋で」
「何を教えているの?」
「わたしは、材木からバイオリニストやヴィルトゥオーゾを彫り出している」
「そんなことで、いくらになるのよ、一時間に?」
「ふん、まあ、いろいろだがね。五十マルクということもあれば、ただで教えることもある」
「五十マルクですって? 一時間に? それじゃ、なんでそんなに絶望しているのよ? あたしが織物工場の女工で働いていたときなんて、一時間に二十ペニッヒ(五分の一マルク)だったわ。そりゃあ、あんた、人に鋸の目立てみたいな音の出し方をおしえるよりゃ、ずっと重労働だったわよ、ハハハ。それにただですって?どうして、ただでなんか教えるのよ、ぶきっちょの熊さん?」
「貧しい生徒にはただで教える。もし、その子に才能があればね」
「貧しい生徒ですって? 見なおしたわ、それじゃ、あなたは親切な人だったのね!」
「わたしは親切さ。君にはまだわからなかったのかい?」
「どうやって、わかれっていうのよ。あなたを知ったのは真夜中からよ。さあ、いらっしゃいって、キスしてちょうだい!」
「いまは、やめておこう。上履きが見当たらないんだ。ああ、片方はもうはいている。まあ、安心して寝ていなさい。バプチストがあとで何か食べるものをもってくるから――君の望みのものをな」
「バプチストって誰のこと?」
「ほんとうはバッチスタだ、イタリア人だからね。ただ、こういうふうに呼んだほうが上品に聞こえる。わたしの下男だ。さてと……ほら、もう一方も見つけたぞ」
ソファーの下からもう一方の上履きがのぞいていた。それをステッキの先にひっかけると、まるで大きなマスを釣り上げたみたいに高くっかげた。それから夜着のシャツをグレーの地に白と黒のたて縞のズボンのなかに押し込んだ。そのズボンのすそはくたびれた黄色の上履きの上にまで達していた。ズボン吊りは椅子の上に忘れていたが、そのかわり書机の隠し引出しからオレンジ色の地にどぎついグリーンと赤レンガ色のセセッション派(分離派)様式の花模様の刺繍のあるチョッキを引っ張り出した。
生地はもともとソファーなどの家具に張るためのものだった。しかし、家具用にしてはガラスの球のように、ある種のうす紫色がけばけばしい感じだった。そして生地の端が絹の茶色の筋で縁どられていた。夜着のシャツは襟の高いチョッキの下に完全に隠れた。その上部の首のまわりにすばやく、喪服のように黒い幅広のネクタイを巻きつけた。最後に紫がかった茶色の、同時に、うね織り記事で縁取りされたコートを着た。そのあとで、顎ひげと、頭の毛を申し訳程度に調えた。
「じゃ、ここにいてくれ。よるになったら、また『トルカデロ』に一緒に出かけよう」
ゴッビは音楽サロンのほうへゆっくりと入っていき、クラーラに挨拶した。オランダのダイヤモンド研磨師の娘はサロンの向こうから水のような――そのなかで小さな魚が泳ぎまわってでもいるかのような――目で冷ややかに彼を見ていた。ゴッビはこの何者をも見通してしまうような目をおそれていた。そのことをかくすために、少女のビロードのような頬をなで、大きな髷に結い上げた明るい亜麻色の神をなでるのだった。彼女の手にもキスをしたかった。そして、このうつくしい、清潔な娘の手を熱望した。かれは、不意に、オレンジのようにこの娘にかぶりつきたいようなきがした――もし、突然彼女の手に地が流れるのを見たら、こんな生娘のことだもの、なんと言い出すか知れたもんじゃない。
しかし彼は表向きの威厳をたもつために、彼女手にキスをしなかった。そして、軍隊式の厳しさで命令した。
「パガニーニのコンチェルト!」
クラ―ラはうれしそうに楽譜を出した。二人にはクラーラがひそかにパガニーニをさらっていることは公然の秘密だった。しかしそのコンチェルトをレッスンの際にこんなふうに持ち出すことは、ゴッビが彼女にたいして最大の名誉を与えたことを意味していた。
クラーラは金の鎖につけ、高い襟の白いブラウスのしたの胸のあたりにしまっているヴェルトハイム社製のかぎを引っ張り出した。彼女はバイオリンを出すためにケースのほうにかがんだ。それというのも、彼女は鍵をけっして鎖から外さなかったからだ。
ゴッビは彼女のこのような動きのなかに、隠れたエロティシズムを感じ、ケースのほうにかがんだこの健康で、おかしがたい少女を見ることで、彼のすべてが燃え上がり、彼自身の夜の不能のやるかたない思いがいやされるのだった。
「どうして、その鍵にそんなに記を使うのですかな? 必ずしも本物でないグァルネリを盗もうと思えば、ケースごと盗むことだってできるんですぞ」
彼はそう言って、しわがれた声で笑った。
彼はしばしばこの娘のグァルネリの信憑性に、このようにあからさまな疑念を示すことで彼女をからかっていた。それは彼のはんのちょっとした意地の悪い楽しみだった――そして、いまも、わざとらしいしかめっ面をして、そのバイオリンをためつすがめつ検分していた。
「もし、グァルネリの中期の作とくのなら、この f 字孔は軸からこんなに離れているわけではないのだがな。それに、もっと細身のはずだよ、お嬢さん。わたしはヒル家の記録などてんで問題にしておらん。グァルネリ製との保証書つきのバイオリンがみんな、あの名匠の手から生れたのだとしたら、少なくとも毎日、一丁ずつバイオリンを作っていたことになる。さあ、そっちのバイオリンはケースにもどしなさい」
クラーラは彼女ご自慢の宝物の信憑性を疑われたときにはいつも、耳のつけねまで真っ赤になるのだが、いまもおなじだった。彼女はこの意地悪の大きな子供がバイオリンを納めた、外側を鋼板でおおた戸棚のなかでごそごそと何かを動かし、棚の一つから獅子の頭飾りをもったスタイネル作のバイオリンを取り出し、不器用な悲劇俳優の身振りでそれを自分のほうに差し出す様子を見つめながら、軽い震えを覚えた。
「さあ、この楽器で演奏してごらん。わたしは誰かが一つのバイオリンだけに執着するのを見るのはいやなんだ。もしもだ、演奏旅行と途中で盗まれるとか、ホテルが火事になるとか、大西洋航路の客船が沈没するとかしたらどうするね――そして、君だけ助かったとしたら。さあ、これを取りなさい!」
クラーラはスタイネルを顎の下にはさんだ。バイオリンの渦巻きの部分には、巧みに、みごとな獅子の頭が彫刻してあった。彼女はバイオリンを構えて左手をおろした。そのままでバイオリンは鎖骨とあごにはさまれて水平の位置をたもった。それから左手を楽器のネックに触るか触らないくらいにあげて、右手で大きな規則的な円を描き、そして弓を弦にあてた。彼女が音を出し、調弦をしているあいだゴッビは満足そうな笑みを浮かべながら女の子の弟子が一ミリの狂いもないほど忠実に、彼が教えた通りに楽器を扱っているかを見守っていた。
やがて彼がうなずくと、パガニーニのバイオリン協奏曲が千の色をもった魔法のスイレンの蔓の、高貴で、気まぐれで、火花を発する巻きひげのように、その生き生きとした多様性を示しながら、部屋のなかをぐるぐるまわりはじめた。
ゴッビは葉巻に火をつけた。ブラジルのマークをもつハンブルク製の葉巻はなんとなくはがれかかっていた。それで舌でなめて指にはさんでころがし、はがれたところをくっつけて、病気の子供を甘やかすようになでさすってから、あらためてまた火をつけた。椅子を大きなサロンの一角にもっていき、椅子にまたがってすわり、そこで葉巻を吸い、娘と部屋にも注意しながら、音を追った。
亜麻色の髪のオランダ娘はクリスタルのような純粋さで演奏していた。ゴッビは磨き上げられた技巧の純粋さを驚きをもって聞いていた――彼のメソードがかくも確実な結果に導くとは彼自身思っていなかった。だが、それにもかかわらず彼は自分の教育者としての成功にそれほど喜びを感じてはいなかった。このクリスタルのような純粋さ、機械的に正確な演奏から感じられるのは、ダイヤモンド商の娘が演奏しているということだけだった。彼女の演奏の底には高価な宝石の純粋さと冷たさ、それに研磨師の魔法のような指先の器用さだった。
ああ、そうとも、彼らはダイヤモンドの天才的な研磨師だ。あの精神化したスペインのユダヤ人のように。彼はアムステルダムの自分の仕事場のよどんだ空気の地下室で、虫に食われた梁(はり)の下で、カビの生えた羊皮紙にとりかこまれて、いつのまにか新しい世界、新しい宗教、新しい信仰を創造したのだ。
彼はダイアモンドを磨きながら、宇宙的光沢の世界観さえも磨きあげた。その宇宙的光沢は、よくはわからないが、とにかく彼の魂の神秘な通路を経てその光にたっしたのだ。彼のダイアモンドの輝きは冷ややかな光沢ではなかった。むしろ輝き、火花を散らせ、燃えていた。
ただし理論に体系づけられた完全な結晶の形に合致しない場合にかぎりそうだったのだ。ダイアモンドのほこりのなかで、遠くの惑星が輝いていた。その後、小柄なスペイン・ユダヤ人の精神化した肉体は死んだ。ダイアモンドは冷たくなり、王冠に乗ってさまよい、最後には金庫のなかに行きついた。
しかし、ここでは、それは別のアムステルダムである。
彫刻のあるオーク材のドア枠の壁、オーク材仕上げの仕切りの上にはファイアンス焼の皿と金細工師の巨匠の名品、窓のステンドグラスの向こうの水路には花や野菜を積んだ平舟がゆったりとただよっていく。雲にさえぎられた太陽の光はまるでミルクを通して見るようだ。
母は糊の利いた真っ白なエプロンに真っ白な帽子。父親はカカオをすするお客に氷河のある風景を指し示す。なぜなら、氷河は平らなオランダの低地にはなにか異国的だからだ。
ガラスケースのなかには器具、食堂にはホッペマの『風車』のオリジナル。仕事場には天上から小さな三本マストの船がさがっていて、その舳先にはかわいらしい飾りのランタンがついている。
おやつのあとにはチェス。清潔さは驚くほど、ダイヤモンド市場の変動の波は、まるでバロメーターのように正確かつ規則的である。これらのすべてを、この娘が演奏したのだ。しかし、そのすべてのものの背後に、何かしら言うに言われぬ野性的な、黒い幻想のようなものが吹き荒れていた。それはまた人生に呼びかけるフクロウのペシミスティックな声のように、快楽を分かち与える悪魔の演奏のように、美の恐ろしい狂気のように、意地の悪い嘲笑、また、恐怖をかき立てる声のない笑いが弦に凍りついているかのように、飛び跳ね、うなりを発していた。
不恰好な服装をした死神、その手足からは棒の先につけた黒い旗のようにフロック・コートがたれさがり、ひらひらゆれている。死人のように青く、細長い顔かたち、それにかぎ鼻、固く結んだ唇の線はほとんどみえないくらい。肩の上までたれた濡れ羽色の黒い髪の縁どりのなかには、大きな悪魔的な、黒い目だけが燃えあがり、アコーデオンの蛇腹のようなしわを刻んだまぶたが瞬くとき、眼窩の奥深くで輝き、動き、火花を発するのだ。かつてコレラが流行したとき、パリの通りには人影は見えなくなり、死人を運ぶ荷車だけががたごとと音を立てて通った。
しかしコンサート・ホールはあふれんばかりに満員で、時々、死の発作に襲われている聴衆が連れ出されても誰も気づかなかった。第十列目の端の席である詩人が何かを書きつけていた。左手にはすでに彼を墓場に放り込むはずのふるえを感じていた。額には冷たい汗、膝の上には目も・ノート、そのなかに彼は自分の感じた記憶を走り書きしていた。
そのメモによると、演奏者の後ろで誰かが飛び跳ねている。ただ、なにか角のようなものだけが見える。演奏者は四本の弦を同時に鳴らして『ワルプルギスの夜』を弾いている。コレラ、破壊、拷問、死へのいざないはこのバイオリンから流れ出している。死の踊りの幻覚、天国の幻想の愚かしさ、そのほか、同じようなことが書いてあった。
次の日、この走り書きのメモから、この世で最もすばらしい批評が出るはずだった。しかし、そんなものがどうしてジェノヴァの殺人者の興味を引くというのだ? 彼は歩きまわり、手をふりまわし、荒れ狂い、そして破壊する。嵐のように舞台の上からそこに吹き荒れ、そよ風のようにやさしく愛し、魂の深遠の上に掛けられていた音の虹の橋を盗み取り、ダブル・フラジオレットのパッセージのなかに大雪山の雪に輝きを与え、うなりを立てる春の洪水を川に放ち、深山の泡立つ急流に音を与え、罰するかと思えば、いたわり、生んだかと思うと殺してしまう。一本ずつ弦が切れ、最後に残ったG弦だけが、ただ独り空間を引き締め、この最後の弦で、つい先ほど詩人が見たという、誰かわからない角を生やした人物が弾いている。
ヨゼフ・グァルネリの製作
クレモナにて、・・・・・・年
ゴッビは自分の前のバイオリンを見ている。このバイオリンと会ったのは、このバイオリンを見るためにジェノヴァに行ったときだ。タウン・ホールの「パガニーニ・ザール」に釣鐘形のガラスのおおいのなかに収まっていた。いつかクラーラもそれを見たにちがいない。その釣鐘のなかに、生命の海が音を立てているこの死のバイオリンを恐れたはずだ。いかなる瞬間においても、このガラスの釣鐘が微塵に砕けるかもしれない。彼女もまたこのガラスの鐘のまえにひざまずき涙を流したにちがいない。少なくとも、少しは泣いただろう、それを弾くことができないのをなげいて。
そしたらたぶんこのコンチェルトをまた違ったふうに演奏しただろう。クリスタルの純粋さなしに、ダイヤモンド研磨師のようにではなく、あのチューリップの色のなかではなく、またカカオの匂いもなく、糊のきいたエプロンもなしに演奏しただろう。
酔っ払いのジュゼッペ・ブァルネリが生き、そして死んだように、また愛し、抱擁し、飲み、人を殺したように、また、彼が悔い、そして、かつて死神のコンサートのために、このガラスの釣鐘のために、勝利と不死のために、このバイオリンをかつて作りえたときの得意満面の笑みのように。
こうして、このレッスンでゴッビ・エーベルハルトは姿勢やパッセージ、二重トリルやトレモロ、ピチカートやスタッカートについては一言も触れなかった代わりに、クラーラ・ヴァン・ゼルホウトに、酔っ払いのイエス――ジュゼッペ・グァルネリ・デル・ジェスゥ――の生涯と死について語った。