(5) 真の祖国の息子たちの部屋 ―― 一六六七年



   「金の輪」酒場には秘密の、内輪の客用の部屋が一室あった。そしてオストリッチの羽根で飾り、胴鎧をガチャつかせながら街のなかをあるきまわっている皇帝軍直属の士官たちは、自分たちがいかにけばけばしく見えるが思ってもみないだろう。
    曲がりくねった暗い廊下の迷宮は、きしみを立てるクルミ材の階段に通じているが、知らない人にはどこにも行き着けない。そのかわり本物の「真の祖国の息子たち」は階段の十一段目まで来ると、なれた手つきで頭上の隠しドアを引き上げる。織物業者、染物業者、生地商、仕立屋、帽子製造業者のよき親方たち、また、その他同様の親方組合を代用する家庭のよき父親たちはこの曲がりくねった廊下、いまにもこわれそうなクルミ材の階段、隠しドアの錆びたちょうつがいのきしみの音のもつ秘密の危険さをよく心得ていた。そして強いシチリアのワインよりも少なからず美味なこれらのすべてを賞味していた。彼らは死を決意してライオンの巣穴に自らの意思で入っていくのだといわんばかりの大げさな身振りをしてから、その隠しドアのなかに入っていった。とはいっても「真の祖国の息子たち」の部屋のなかでは、陰謀とか皇帝の密告者たちの会合などという気配はまったくなかった。

    当時はまだ統一イタリアの思想などといったものは霧のなかのぼんやりした輪郭ほどにも描き出されてはいなかった。だからこのような「祖国の息子たち」にしたところで、一体どんな祖国の息子なのか自分にもよくわかってはいなかったのだ。
    あるものたちはスペイン人を憎み、他のものたちはフランス人を憎んだ。また、他のものはメディチ家を、ゴンザーガ家を、そしてそのほかのものは、すでに過去のものとなった専制者たちの一家を憎んだ。その当時、彼らの最も大きな関心事は自家専用の劇場やオーケストラであり、いかなる政治的な根拠によろうと、まさにこれらの善良なるクレモナ市民の憎しみを買う理由はなかった。もちろん、ハプスブルク家にたいする憎悪にかんするかぎり、その当時、ロンバルディア地方の諸党派の頭目にしろ、教皇たちや諸領主の政治的陰謀や大混乱のただなかにある諸党派の領袖にしろ、この点、つまりハプスブルク憎しという点では一致していた。
    だから、それがこの薄明の時代に、マンターニ、レナルドゥッチ、ストラディヴァリ、あるいはカラッチの父たち、また、その他の敬虔なる市民の家族の主人を「真の祖国の息子」の部屋に引きつけていた絆(きずな)だったのである。もちろんそれに加えて、最も上等のワインの所有者が、まさに、ワインの扱い方を最もよく心得ているエルコール旦那だったということも大いに寄与していた。

    彼らはその部屋の細長いテーブルに、白いかつらを頭にかぶり、真鍮のボタンつきの膝までの色違いのコート、レースの胸当てにレースのネクタイ、テーブルの下の足は白い靴下に留め金つきの靴をはいている。膝には象牙の頭飾りか金の握りのついた外出用のステッキをもたせかけ、テーブルの上にはエナメル仕上げか、金細工の嗅ぎタバコ入れを置いている。膝の上には、また、三角帽を置き、両腕で空を切っている。彼らのなかに数人の司祭が色のなかにまぎれ込んできたカラスででもあるかのように、黒い人影を作っていた。
    こうして彼らは彫りのある酒杯から好みのワインを飲むのだが、各自自分のものを飲むのである。
    いま、レナルドゥッチが祖国を捨てたある悪党カラッフォについて語っていた。彼は純粋のイタリアの出にもかかわらず皇帝に仕えることをいささかもいとわなかったというのである。一座のなかのそれぞれが、幾人かの裏切り者がいることを知っていた。そして大きな腹のレナルドゥッチはマデイラ産のワインを四杯飲んですっかり意気が盛り上がり、くり返して言った。
   「その犬野郎はうまく立ちまわって、もう師団長になっているそうだ。あのレオポルドのお気に入りにな。あんな家系からだ! あんな家系からだぞ! なるほどあの家系からは法王も出ておる。いいか、法王さえ出ているんだぞ!」
   「恥だ、恥さらしだ!」
    ほかの連中は舞台の上の群衆のように声をそろえて叫んだ。
   「恥だ、恥さらしだ!」
    誰かがハンガリーとスペインの不満分子のことを語り、同時に彼らハイエナどもの、かのスペインのハプスブルク家の急速な没落を予言した。それに反してマンターニは色っぽい冒険談を酒の肴にもち出した。彼はいわくありげな微笑を浮かべ、さも内緒ごとだぞといわんばかりに眉をつりあげて、あるバイオリン製作の親方のおかみさんの男関係のスキャンダルについてことこまかに、ことの次第を開陳した。
   「名前は誰だか言わんがね、そういうことは私の習慣にないことだからな。ただこれだけは言っておこう。三人の士官がだ、きちんと順番にその女のところに来て、夜な夜なセレナーデを歌うんじゃ。どうやらこの軍人たちは自分たちのあいだで、冷静に夜の割り当てをきめていたらしい。それもじゃ、そのなかの一人が、どこかの伯爵というんだが、とうとう最後に食らいやがった」
   「何を食らった?」
   「オマルのなかのものをだ。くそ桶の中のものを――つまり、その復讐者がまるごとその伯爵様の冠物のオストリッチの羽根の上からぶっ掛けたというわけだ。一方、その魔女のほうは夜着のまま月光のふりそそぐ窓から逃げ出していったが、そんときビンタも何発かくらったげな!」
   「それはそうと、バイオリン製作者の話が出たが、今朝、アレッサンドロの友人のあんたの息子さんとぱったり会ったがな、なんか様子がおかしかったぞ。心ここにあらずというふうじゃった」
    カラッチ親方がぼそぼそと言った。そして探るようにテーブルの上座にいる友人のほうをうかがった。
    ストラディヴァリは深まってきた夕闇のなかに身動きもせずにすわっていた。彼の厳しい彫りの深いクルミのように茶色のローマ人的風貌には、どう見ても長いかつらは似合わなかった。たぶんどれをかぶっているのは風習やら彼の社会的地位からの要求にしたがっているまでの話で、家ではそんなものは黒いビロードの帽子と一緒に部屋のすみに放り出されているのだろう。
    レールのシャツの前当てさえ、オークの木で彫ったような、たくましい鼻と角ばった顎をした顔の輪郭にはまるで調和しない――むしろ、この顔には古代ローマの皇帝警護の百人隊長の金の鎧のほうが似合っている。黒い目はびくともしない無関心さでその場の様子を追っていた。時折、ご馳走がその静かな目元をなごませることがあった。しかし、このりょうがんが燃えるように輝きはじめたら、必ずやひと波乱起こらずにはすまないことも誰もが感じていた。浮き出した静脈も見られないこの大きくて、堅そうなその骨っぽいこぶしは、まるでテーブルから生え出したかのように、その上に置かれていて、苦衷に振りまわすほかの人たちのこぶしと完全なコントラストを示していた。
   「あのアントニオもちょっと変わった若者だな」
    マンターニはあい変わらず辛らつな人物批評を続けていた。
   「外見は、そりゃ、まったくいやになるくらい、そっくりあんたに似てきたがな、しかし、わしが思うに中味ときたらこりゃあんたの才能のひとかけらもうけついじゃおらんようだな、アレッサンドロ」
   「どうしてそれがあんたにわかるのかね」
   「そりゃ……、第一、どっからバイオリン作りなんて馬鹿な考えがあの若衆の頭のなかに入り込んできたかじゃ。わしが知るかぎり、この五百年間を通して、あんたの家系にこんな職業のものは誰もおらん。全部が権威ある市民としてのしかるべき職業を選んでおる。すべての者が立派な官吏になっており、織物や生地を商ってきた。ある者は船に乗って航海し、ほかの者は軍人として奉公しておった。あんな木を切り刻んでおもちゃ作りとはなあ……」
   「あんたには気に入らんようだな?」
   「由緒正しきストラディヴァリ家にはふさわしくないな」
   「あんたはあほうだ」
   「この、わしがか?」
   「ほかに誰がいる? あんたは純粋な職人の技術ばかりか芸術でもある仕事をばかにしている。それに、この仕事は王の宮廷においても重んじられておるのだ。宮廷の誰もがその宝物室のなかに楽器を収集されておるのですぞ。あんたは王さまたちよりもえらぶっているのです。それこそ具の骨頂だ」
    きっちり測ったような手の動きでファレルノ産のワインのグラスを薄い唇のところに運び、それを一気に喉に流し込んだ。それでも彼の喉ぼとけはぴくりとも動かなかった。
   「おまえさんは、王の宮廷をちょっとばかりご大層に言っ取るようだな!」 「王の宮廷ですと? わしが共和派だということはあんたもよく知っておるはずでしょう。しかし、わしは芸術に敬意をはらう彼らを俵渇します。芸術なしに人間は、人間生活を生きているとは言えません。わたしの息子が生地のことに見向きもしないのを非常に喜んでおるのです」
   「アマーティのところの徒弟になるように助言をしたのは、あんたかね?」
   「わたしは息子に一言も言っては降りません。二兆のビオラ・ダ・ブラッチョがそれぞれことなるおとをもっていることに気づいたのは、あれがまだほんの子供のときでした。一つは高貴なる音をもっている――このファレルノ・ワインのような風味をもっている。そしてもう一方は気の抜けたビールを飲むときのようにまるであじけがない。その両方をあれの叔父が弾いたのです。アントニオは誰かが二種類の方法で弾くことができるとは理解できなかった。」しかし、そのうちだんだんと理解できてきた。その二つのビオラのあいだにあるものが、途方もなく大きな隔たりであることにな」
   「一つは職人の技術から、そして、もう一方は芸術から生れたのです」
    若い神父のボナヴェントゥーラが口をはさんだ。
   「職人といえど別に未熟者とはかぎりますまい、神父さん。わたしが申し上げたいのは、本当の親方は芸術家であるということです」
   「芸術は職人技術が完成したところからはじまります」
   「なぜなら、芸術家は手に職人技術をもたなければならないからです。さもなければ、実際のところディレッタントでおわります」
   「やれやれ、だからといってディレッタントを軽蔑されることもありますまい! いいですか、フロレンスの宮廷の廷臣だか、またはその他のお取り巻きが、何かの芝居でマドリガルをニ、三曲うたうことを思いついたというのです。そこで、彼らのために田園劇が書かれた。すると今度はある別の教養ある廷臣がこの古代的悲劇に音楽と歌が作曲されなければなるまいということに気がついた。で、どうにかこうにかそいつをでっちあげた。
    つぎに、音楽に合ったドラマを書く詩人が見つけ出された。それから祝祭のお客のために、宮廷では来る日も来る日も舞台の上で音楽劇や茶番劇の準備が行われた。ところが、いいですか――音楽のためのドラマから音楽のためのトラジコメディー(悲喜劇)が生れ、そしてやがて音楽にオペラが生れたのです。笑うべきディレッタントの努力から重要な音楽形式が生まれたというわけです」
   「ただし、それはまさに適切な時期にわれわれのモンテヴェルディが出現したからで、そうでなければ、その宮廷のディレッタントたちが何を生み出しえたでしょうか?」
   「たぶんな――しかし、幸いなことに彼は出現したのだ! そして、もし彼が出現しなかったとしても、ほかの誰かが現われただろう。オペラをその後ずっと発展させた別の百人が現われたのとおなじにな。大家は次々に生れておる。
    メディチ宮廷の素人の廷臣の名前など誰も覚えてはいない。だが、それにもかかわらずだ、新しい芸術を発明したのは彼らだ――そして新しい芸術は大家を生み出している。仮にだ、われわれが、いま、コレルリをもったとしても、もしガスパロ・ダ・サローやガスパロ・ティーフェンブルッケル、その他の楽器作りがリュートやヴィオラ・ダモーレからヴィオリーノ・アラ・フランセーズ(フランス式バイオリン)を作り出さなかったらどうなる?」
   「未来の大家の手によって演奏されるための楽器をこうあんし、完成させることほどすばらしいことは、この世にあるまいよ」
   「それに、また、わしら自身が神のみ手になる楽器そのものではないか! 神は川を、深山の松を、山の斜面の年ふりたオークの木や、果てしなき平原、寺院の塔をも奏でたもうておる。巨大なる奇跡というべき七色の虹は、まさに神の手になる弓のうるわしき円弧である。そのコンチェルト・グロッソは荒れ狂う嵐であり、そのアンダンテは春のそよ風であり、アダージオは秋の雨、プレスとは天かける雲、そしてプレリュードは昇りくる太陽です。
    神の演奏は繊細なこころよい音を発する人間の魂の表面から跳ね返ってくる。そしてその弦はもしかしたら何百万の人間の心臓で撚(よ)られているのだろう。そして神のフーガ、パッセージ、カノン、対位法、トリル、トレモロを称して、私たちは歴史、宗教、信仰、逃走、哲学、学問、発生、創造、そして、破滅のことを言うのです」
    この説教のあとに、ボナヴェンロゥーラ神父は杯を高く捧げた。そして全員は酒場のテーブルが雲のほうに向けられた光線とオルガンの音によって組み立てられた説教場に変わったように感じた――彼の化粧粉をかかられたかつらのまわりにはキューピッドたちが飛びまわっていたが、その中の誰かが地震よりも巨大な爆笑とともに神父の錫の杯に自分の天の酒杯を打ち合わせるために、例の虹の弓を投げ出した。
    しかし、それはほんの一瞬のことだった。酒をつぐカウンターのある部屋では、運送人たちがお互いにドスを突き出して争い、大きい食堂では胴鎧の士官たちがわめきあう、馬小屋では女中と馬丁が馬の糞のにおうなかで抱き合ったまま転げまわっている。窓もない息の詰まりそうな小部屋ではエコールの旦那が、シンヨール・カラッチのために十歳の乞食の娘を内緒で世話し、レナルドゥッチは運河(カナール)の橋の下である織物女工とデートがあるからと時計を見た。
    山羊ひげの密告屋は皇帝の警察に「真の祖国の息子たち」の部屋で見たこと聞いたことのすべてについて、報告書を書いている。暗い廊下の奥のところでは、どこかの酔っ払った放浪の騎士がエコールの旦那の貞淑なる奥さんをもみくちゃにしている。
    ワイン貯蔵庫の倉庫番はカビとくもの巣でおおわれたトカイ・ワインを盗んだが、それはもうずいぶん前からフェッリ枢機卿のためにさがしていたものだ。
    マスクで顔を隠し、曲がりくねった小道を冒険を求めて急ぐのは貴族の奥さん方、その乗り物の前に突き出した棒にぶら下がったランタンがゆれている。
    巨大なトラッツォ鐘楼はダイアモンドの帆地の闇のなかに消えている。それというのも、つきはまだ出ていないからだ。そして堂守の息子の少年は恐ろしい、未知の闇の無限の孤独の中でバチステラの小さなオルガンにうつぶして夢を見ている。
    そのころ、アントニオは巨乳のバルバラのところから帰って、わが家へ人目を避けるように忍び込んだ。






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