(6) ティーッセンの日曜日


    šá 冬の日曜日には、ティーッセンは大尉は断固として寝坊をする。そうすることで、情けを知らぬ士官付き当番へいシュルツェがかれをゆさぶって酷寒のかみそりで彼のもう一つのボヘミアンな夜の生活を容赦なく切除する。いつもの朝に復讐をするのだ。
   クルトが目を覚ます瞬間、靴底のに蹄鉄を打ちつけた半長靴のかかとをカチッと打ち合わせて呼びかける。
  「ご命令により報告いたします。中隊長殿、ただいま、六時十分であります」
    その意味するところは、身を切るような冷たさ、機械的なすばやい着替え、影のように背後に流れ去る朝の通りの風景、衛兵の敬礼、兵営内での容赦ない悪罵、あらゆる種類の無意味な朝の報告、新兵の腹立たしいほどののろまさ、この上もなく退屈な点呼、サーカスの道化的住建操作訓練の滑稽さだった。
    「ご命令により報告いたします。中隊長殿、ただいま、六時十分であります」
    これが春なら日を受けてキラキラ輝く菩提樹の新芽のなかで、小鳥たちがさえずっている。電話線には太陽が反射し、空にはたったいま製綿工場から出てきたばかりといわんばかりの丸い雲の塊がただよっている。やがて、どこかの天の工場がいま洗ったばかりの清潔な手で青い空のなかへしまいこむ。
    それとも「ご命令により報告いたします、中隊長殿、ただいま六時十分であります」で目を覚ます。すると秋の霧の中から枯れゆくこずえの真っ赤な色が浮びあがる。あわい黄色のはもまた散り始め、地面の上をころがってでもいうかのように、さらさらと音をたてる。そしてぬれた家の前のアスファルトの道路の上にも……。
    もし兵隊のような制服を着た掃除不が掃除をしなかったら、木の葉はきっと去りゆくものの甘い香りをただよわせながら、茶色く積もっているだろう。霧に疲れた女たちは貧血気味の青白い顔を上げ、苦しそうな息をして『ローエングリン』か自殺のことでも思っているだろう。心のなかでさびた鉄の鎖を引きずる音がかすかに響く。
    同じ霧はロンドンの高級住宅地(メイ・フェアー)では黄色みをおびている。インドの連帯の将校たちはクラブで卵を混ぜ合わせた地もしたたるタルタル・ステーキを食っている。それはインドの太陽のようにエロー・アンド・ホワイト色で、彼らの目に焼きついている。また、その目には虎狩りやゴルフのクラブを手にもったインドの支配階級(ラージャ)の娘たちの思い出も生きている。数匹の象が背中に柳か竹で編んだパゴダを乗せて、ゆったりと歩いている光景も……。
   「六時十分」
    日曜日――白い雪の上にはまだ闇がおおっている。カラスたちはお互いにくちばしでけん制しながら、湯気の立つ馬の糞を見つめている。
    たとえ彼がいたとしても、バイオリンもリボンで飾ったギターも部屋の中のそれぞれの場所で、ひっそりと沈黙を守り、二匹のフォックステリアも自分たちの寝床のなかで歯をふるわせている。兵営の門の前で答礼するおっくうさに耐える必要もない。ハノーヴァーやモアビトで過ごす時間はじつにすばらしい! ティーッセンはこの「ご命令により、報告いたします」を聞くのが好きだった。だ。だって、その楽しかったことのすべてが――にぶい光沢を放つムラノ産のガラスを吹いて形作った幻想的な鳥のような――夢を払いのける目覚めの瞬間の朦朧(もうろう)とした彼の頭のなかを一瞬のうちに駆けめぐるからだ。
    そして故郷のハノーヴァーでは漆喰職人であるシュルツェは、こういった瞬間にはいつも微笑むのだった――だって彼は彫刻家の下働きをつとめたこともある。だから芸術の何たるかも多少は心得ていたし、兵営が六時十分に中隊長殿をいかに苦しめているかも知ってた。
    しかし冬の日曜日になると、この時間をたてに、ご主人様を強制することはできなかった。その時刻にはアトリエのなかではもの音ひとつ立てることは許されなかった。あるときティーッセンは軍貸与の拳銃をシュルツェに向けたことがあった。そのときは何かのはずみにすごい音をたててしまったからだった。それにフォックステリアたちもベッドが自分のほうからきしみはじめないかぎり、幅広のエンピール様式のベッドの下で身動きひとつしない――あてがわれた布団のなかで歯をかちかちさせながら震えている。
    やがて掛け布団のなかから手がのびてきて背椅子の上のタバコをさがしまわる。この椅子には彫刻のある背もたれがついていて、ロココ式のゴブラン織の布が張ってある。そして常にベッドの頭のところに置いてあるのだ。それはコックスとボックスもッドの下から出てきてもいいという合図でもあり、ドアの隙間からのぞきながら待っていたシュルツェにも陶磁器製の暖炉に火をくべに入ってもいいという合図でもあった。
     この暖炉はティーッセンがまだ士官学校の生徒だったころ家からもってきたものであり、そのとき以来、彼は勤務地が変わるごとにもち運んできたのだった――それは父祖の代からの館のシンボルであり、そのなかには思い出のほのかな香りもふくまれていた。コックスとボックスもこの暖炉をその他の愛玩物同様に愛していた。蒸し暑い夏のさなかでも長い昼寝のあいだじゅう、こいびとででもあるかのように暖炉にぴったりくっついている。そして冬の朝など、いつもの敬虔なる儀式が暖炉のまわりで、いつはじまるかと注意しながら、ベッドの下からチラッチラッと暖炉のほうへ視線を送っている。
    手は椅子の上の「バチャルキ」の箱を開けた。放送に描かれた牧歌風の情景が生き生きとしはじめ、シュルツェはくしゃくしにした包装紙と木片をもってきて、半長靴のかかとをカチッと合わせる。暖炉のなかに木片をそそろえて火をつけ、その火で大尉殿のタバコにも火をつけるのだった。うす青いタバコの煙の筋が冷たい太陽の光のなかを花模様の絹の掛け布団の上から天井にまで立ちのぼった。シュルツェは徐々に大きな暖炉の口からくべ足していく。するとベッドのそばの金色の女人像柱(カリアティッド)がチラチラ燃える火の光を受けて浮かび出し、やがて最後には暖炉の火は弱々しい品色から赤銅色に変わっていくのだ。そのあいだに、シュルツェはパンとベーコンを料理する。茶色にトーストしたパンのスライスはベーコンの油をたっぷり吸い込む。サモワールのなかで茶がたぎっている。
    クルト・フォン・ティーッセンは絹の襟のついた真っ赤な綿入りの部屋着を着こんで、ゆっくりと履き古しの濃紺のセーラー・ズボンに足を突っ込んだ。長ぼそい足の先は破れた革のサンダルの上に垂れ下がる。それから肘掛椅子にすわってギターをかき鳴らした。小さな音ではじけながら燃える薪を見つめる。ギターの音に合わせ、弦の眠そうな振動に合わせて、何かをつぶやき、歌ならぬ歌をしっしっし―と口ずさんだ。
   「おーい、シュルツェ、まだ昼前なのか、それとも、もうひつ過ぎなのか?」
    クルトは何時に女人像に日があたるかを正確に知っている。ちょうど十二時に女人像めぐって暖炉の火と太陽の光が抗争をはじめるのだ。だが、それでも心ひそかに意図的な微笑を浮かべてたずねるのだ。彼は石膏(スター)パイプで一服やりたくなった。
   「つしんでお答え申し上げます。ただいま、十二時四分過ぎであります」
   「そんなことは聞いておらん。ただ、午前か午後かと聞いただけだ。郵便はなしか?」
    第二の質問はわざとだ。なぜなら郵便など来たためしはないからだ。クルトの母は連隊長の未亡人だったが、軍隊的几帳面さで、月の最初に日曜日に手紙を書き、領地についての問題、親戚や使用人についてのこまごまとした心配事や困ったことについて、誰に子供が生まれ、誰が死んだかを報告してきた。
    この手紙は、常に、その月の最初の月曜日の五時に宛名人に届けられる。それ以外の手紙は、当番へいたるシュルツェとしては、もう、この三年間の長きにわたって一度も手にしたことはない。
   「つつしんでご報告いたします、中隊長殿。手紙はございません」
   「誰かおれのことを訪ねてはこなかったか?」
   「つつしんで申し上げます、中隊長殿。一人の令嬢、ないしは、夫人、したがってご婦人がお訪ねになりました」
   「どんな? ブロンドか? 黒いのか? 体型は? 高いのか、ほそいのか? 伝言は何もしなかったか? だいぶ前か……えーい、このう! いつのことだ?」つつしんで申し上げます、中隊長殿。ブロンド、背は高く、太ってもいず、やせてもいず、何も伝言はされませんでした。一時間ほど前、もしかしたら、それよりもう十五分ほどまえだったかもしれません。ただいま、ダイニングルームのほうでおまちになっておられます」
   「このとんま野郎! 少しは気をきかせたらどうなんだ? 死にそこないの古生物(イクチオザウルス)め! ただちに、こちらへ案内しろ!」
   「復唱! ただちにご婦人をこちらへごご案内するであります、ちゅうたいちょう殿!」
    イクチオザウルスはかかとを合わせ、歩調を取って洗面所を通りぬけて出て行き、すぐに全室に通じる小さなドアのほうから現われた。
   「つつしんで報告いたします、中隊長殿。クラーラ・ヴァン・ゼルホウト嬢であります」
   「ほんとに申し訳ありません、クラーラさん。要するにあのイクチオザウルス野郎がわたしを起こさなかったのです。心からおわびいたします。知ってさえいたら……」
   「あの方、おっしゃってましたわ、日曜日にあなたをお起ししようものなら、体中に風穴を空けられるって……。あたしのことならご心配なく。ストーブのそばですごく楽しんでましたわ。あたし、ニック・カーターを読んでいたんです。『赤い手の復讐』っていうんです」
    シュルツェは漆喰職人の不器用さで朝食をテーブルの上にならべた。
   「ベッドをきちんと片付けろ」
    クルトはそう命じて、目のまわりが片目がね(モノクル)をかけたような毛並みの二匹のお取り巻きに、赤くなるまで焼けたベーコンの鉄板から食べ物を与えた。
   「じゃあ、クラーラさん、よかったら、ここにおかけなさい。さあ、どうぞ」
    クルトはゴブラン織のひじ掛け椅子を窓のほうにもっていった。そこからは小さなアトリエの外の通りが見えた。クラーラはたまにクルトを訪れるときは、ここにすわりたいと思った。そしてくるともまた、いつも、日の光が亜麻色の明るい髪にあたって光輪のように見えるその場所に椅子をすえるのだった。逆光のなかの彼女の顔から海の青さをして目だけが輝いて見える。こうしてこの娘はエロティシズムとはまた別の喜びを彼に与えてくれるのだ。
    二人の二年間にわたる交友は、静かな微笑にみちた一種のプラトニックな幸福感、お行儀のいい子供っぽい冷静な手へのキス、善意の仲間意識といったものに属していた。彼らは自分たちの友情を恩師布なかの大事な植物のように、また、絶対にシミをつけてはいけない十泊のダマスク織のクロスのように慎重にあつかっていた。
    それはまた大地をおおう汚れなき初雪のようなものでもあり、その雪の結晶(クリスタル)のなかではその結晶の一つ一つの魂の秘密が、そして、いささかの情欲もない高貴なる時間の間幕劇(インテルメッツォ)が無言のままキラキラと輝きを放っているようなものでもあった。二人は自分の生活に弱音器をかけていて(コン・ソルディーノ)、あからさまなプライヴァシーの詮索は避けるようにしていた。それでも、たまに、目と目が合ったようなとき、相手の秘密を避けながら、ことさらに子供時代のことをもちだすのだった。だから赤く焼けた釘で十字架に打ちつけられるような夜の苦悩も、激しく絶望的な燃えるようなキスも、将校のみに許された死ぬほど退屈な封建的で愚かしい兵営の平穏も彼らの真剣な話題になることはなかった。
    二人はニック・カーターやアンデルセンの童話を自分で読むか、相手に読んで聞かせたりもした。ときにはバイオリンを弾き、またギターを奏でた。黒いモノクルをかけて、白い毛皮にくるまったコックスとボックスという名の子供たちとも遊んだ。あるいは張るかかなたの電話線や電線を引いた屋根、ネオンサインの上のほうで神秘的にほほ笑む何千という顔や声を展望することも合った。
   「あたし、すごく重要なお話があって来たのよ、クルトさん。あたしあなたのご意見をうかがいたいんです」
   「恋愛ですか、それとも、結婚?」
   「そんな問題で途方にくれたこと、あたし、一度もありませんわ。でも、あなたさえ同意してくださるなら、あたしたち一緒になりたいんです」
   「それは、誰?」
    その質問には不機嫌と、やや嫉妬に近い響きがあった。
   「あるストラディヴァリとよ。あたし、すっかり愛してしまったの。父も同意したので、あたし、そのストラディヴァリ、買いたいの」
   「でもそのことでどうしてぼくの同意が必要なんです?」
   「ほんのちょっとね。だって、あなたのストラディヴァリだもの。たぶん、あなたはあの楽器をあまりかわいがっていないわよね? あなたって、ほかの何にでもそうだけど、ほかの人だったら当然、金庫のなかにしまいこんでおくわよ――あなたのところでは、そのへんに放り出してあるだけでしょう。どうかすると一日中ケースのなかだわ。
    あたし、非難して言っているんじゃないのよ。あたし、あなたのそのボヘミアン的なところが代好き。あたしにはないものだわ。あたしね、ほんとは、あのバイオリンで、あたしにとってのはじめてのコンクールに出たいわけではないの。というよりは、むしろ金庫のなかにしまっておきたいのよ」
   「それじゃ、あなたは二万オランダ金貨の保険を掛けることになりますよ。火災、洪水、事故、盗難にたいしてね。保険契約は長い時間をかけて、細かな点まで徹底的に検討されたうえで、あなたの家の弁護士とオランダ保険会社の弁護士と共同でおこなわれる」
   「あなたは笑っているみたいだけど、ほんとはこう言いたいんでしょう、もし……」 「もしそのバイオリンが売りに出ていればね」
   「じゃあ、売ってくれないの?」
   「あなたには絶対にね。でも、ぼくのことを悪く取らないでほしい。ぼくはあの楽器をあなたへの贈物にもしない。もしぼくが競馬の賭けで全財産を失うとか、またそれ以外の理由で金に困るとか……、そんなときのために、ようするに、ぼくがその楽器を大変な財産としてもっていたいのだというふうには思わないでほしいんだ。じつをいうと、ぼくはものすごく名深部下院だ。だから、それが理由だと言ってもいい」
   「だって、迷信とどんな関係があるの?」
   「いいかい、あなたも知ってのとおり、ぼくは本のなかでだけロマンチストになる。それだって、ごくまれだ。ただし、このことはもはやロマンチックどころではなく神秘の領域に足を踏み入れることになるんだ。まあ、E・T・A・ホフマンが得意とする領分だな。それから、もうひとつ打ち明けておくと、それはきわめて不安定にゆれ動いている空間なんだ。考えてもみてごらん、ぼくはときどき冷や汗をびっしょりかいて、次にはこわくなって逃げ出すことがあるんだよ。ところが、そいつはすぐにまた、ぼくを磁石のように吸いつけてしまう。
    たぶん、そんなバイオリンなんか存在しないのかもしれない。ただ、E・T・A・ホフマンみたいなさっかだけがそんなバイオリンのことを書いたんだ。たとえばストラディヴァリの手から、ささやかなわが家までたどりついた、その運命的な旅路みたいなものをね」
   「なんでよ? だってその楽器ならそこにあるじゃない、あのトルコ風の喫煙テーブルの上に。あのニスはタバコの茶色のやにのつやがあるし、表板には墨でかいたような f 字の孔が黒く見える。手にしようと思えばいつでも手にできるわ」
   「それにしてもだ、いずれにしろ、感覚による知覚なんてものは単純に言って信用できない。だから、そのバイオリンはいわばある頭のおかしな忠告者が、中流市民家庭の家の霊や、安眠をさまたげる悪夢、実体のない幽霊、大きな家具から現われる妖精や、あごひげをはやしてへらへら笑っているドクトルの骸骨、指の先でコツコツとノックするお化けたちの陽気な集会の夜の、恐ろしい夢のなかからもち帰ったのだと言えるかもしれない――だから、この楽器はあらゆる悲劇的事件を媒体として成長してきた肝臓ガンともいえる」
   「まあ、なんてことよ、クルト・ヴァン・ティーッセンは神秘主義者なの! あなてにそんなところがあるなんていままで知らなかったわ。あたしには面白かった。でも、あたしはクラーラ・フォン・ゼルホウトよ」
   「まさに、その名前だよ。このバイオリンにつけられた名前と同じだ。ゼルホウト、アムステルダムの市民家庭の名前だ。花を積んだ小船の浮かぶ灰色の運河、オークの丸テーブルのある食堂、遠景に氷河を望む風景、茶褐色の堤防、清潔、整頓、娘のバイオリニストはベルリンでエーベルハルトの弟子。カカオ、ジャヴァの取引市場、ロッテルダムの通貨、部屋の仕切り壁にかけられた有名画家の絵(彼の作品はアムステルダムのリイクス美術館にも飾られている)。
    どれだけの人がこの名前で呼ばれていることだろう。しかしクラーラ・フォン・ゼルホウトの一夜にどんな事件が集中することになるかについて、いまのぼくに何がわかるっていうんだい? 夢のなか、または目覚めているときの空想について、苦悩する心について、または魂の行進について、渇望の死の踊りについて、茶褐色のオランダの堤防を通しておこなわれる残酷な搾取について、ぼくがその何を知っているんだい?
    たぶん、まさにクラーラ・ヴァン・ゼルホウトの夜のむこうで、海がこれらの堤防に狂気のごとくに打ち寄せている。たぶん魂の底なしの深遠のなかから、夢のなかで骨だけの馬に乗った黙示録の幻覚が浮かび出してくるだろう。おそらくある一人の人間の血にぬれた心臓のなかでバイオリンの弦が音を発して切れるだろう――そしてぼくたちはその事実の前に愕然とするしかないだろう! 
    このカエデの木の加工にとりかかったとき、アレッサンドロ・ストラディヴァリの息子アントニオはどんな経過をへてアマーティの工房にたどりついたのだろうか? たくましい、大きな、なめらかな手がニスを塗りながら最後の刷毛のひと塗りをしていたとき、大昔からのトラッツォの鐘楼の古い鐘が響いていたのだろうか?」
    クラーラの目に子供っぽい驚きが満ちた。中隊長をしているチューリンゲン貴族は、ここでトーストと炒めたベーコン、ポークの燻製を食べている。砂糖もラム酒もシトロンも入れない紅茶を飲み、フォックステリアにも食べさせてから、当番兵にさげるように合図した。
    たったいま、耳にしたあの高揚した言葉はどこから出てきたのだろう? ここで何が起こったのだろう? それな、きっと、バイオリンが人間の言葉で語りかけ、この形のなかに閉じ込められた自分の存在の秘密を推理させようとしていたのかもしれない。それはたぶん、真っ赤な血の色をした冬の太陽が沈むときに、ガラス窓に向かってうたっていただけなのだろうか?  きっとこのすべては彼女の夢だったのだ。そしていま彼女は目を覚ましたのだ。そうとも! だからいまになってやっと楽に息をしているじゃないか。だってすべては単純明快、秘密なんて何もない。いま正確に三時間のゴッビ方式による指使いとボーイングの練習をしなければならない。
    でも、それにしても、彼女の前にはヒナゲシのような真っ赤な部屋着を着てクルトが、幅の広いセーラー・ズボンに、破れたサンダルをはいてたっている。そして本棚のなかのほこりをかぶった地図や、くしゃくしゃになった画用紙や古い雑誌、羊皮装丁の蔵書家用の本のあいだを引っかきまわしている。やがて何かのノートのようなものを引っ張り出して、そのあいだから黄色くなった一枚の紙を抜き出し、それを広げて読んだ。

    クレモナのアントニウス・ストラディヴァリウス、千六百八十一年に製作
    騎士サルヴァトーレ・ディ・トスカーノ、千六百八十一年より所有
    エゼキエレ・アミーゴ、一六九三年
    侯爵ヨゼフ・フォン・ウント・ツー。シュワルツェンベルク、一七〇〇年
    侯爵ドゥ・シャトルノワール、一七三三年
    ガストン・ドゥサント-ブーブ、一七八九年
    セルゲイ・ディミトリエヴィッチ・コノヴァノフ、一八二〇年
    騎士スタニスラフ・ドゥ・ウィシュニオウスキ、一八二六年
    ダヴィッヂ・ダヴィドヴィッチ、一八四九年
    ヘンリク・ウィニャフスキ、一八六七年
    ウイリアム・エブスワース-ヒル、一八七〇年
    アーチボルト・ダンジー、一八八五年
    男爵ホルスト・フォン・ティーッセン、一九〇六年

「見せて」
    クラーラは興奮で頬を赤くしていた。
   「それ、あたしに見せてください!」
   「悪いけど、ただのシミだらけの汚らしい紙切れだよ。インキと血のべたべたしたシミが順番に一面に書き並べてある。ある人からある人へ、ある土地からある土地へ、世紀から世紀へ、このバイオリンとともに遍歴したんだな。見たいんならどうぞ、でも名前と数字だけだよ。もし何か一編のロマンかドラマでも期待しているんならがっかりするよ」
    クラーラは答えなかった。彼女は長いあいだ、それぞれに異なる筆跡や、異なるインキ、シワやシミなどをガラス窓を通して入ってくる夕暮れの薄明のなかで丹念に見つめていた。するとそこにはあたかも一枚の紙片がうす明かりのなかで瞬間に燃えだし、人間の運命が矢のようにとがった低木の形になって燃え上がっているかのように、また、その紙の上で、闘争もモードもアダージオも、犯罪、香水、汚らしい下水溝、おそらく、修道院の秘密の快楽も娼家の瞑想も、何もかもがごっちゃになっているかのように見えた。
    また、おそらく凄惨な地獄(インフェルノ)、古びたゴンドラ、そして、短刀のきらめき、大オルガンのフーガを引っかき鳴らす雷鳴、いかさま賭博師のあぶら汗、それに、もしかしたら、野花が咲き、蜂や蝶の飛びかう野の小道も突撃を告げる狂気じみたラッパや太鼓のすさまじい音も、それに鈍い火縄銃(マスケット)の発射音も……。
    しかし、たぶん、クラーラはそのなかに名にも見なかったし、感じなかったし、きかなかったし、ふれもしなかったし、匂いもかがなかったし、予感もしなかったにちがいない。彼女はクルトに虫眼鏡を借りて、ながいあいだ曲がりくねった筆跡を観察していた。
   「ひょっとして、筆跡鑑定にもこっているのかい?」
   「少しはわかるのよ。勉強したとまではいわないけど、むしろ直感だわ。筆跡一つ一つに性格が現われる。一点だけ一致している。みんな音楽家だわ」
   「それにもう一点あるんだよ、クラーラ。みんな悲劇的最後を遂げている」
   「そのことについて文字は何も語っていない」
   「しかしエブスワーズ-ヒル家の手記がそのことを語っている。父がその家族と文通していた。もしかしたら、家でまだ何通か見つかるかもしれない」
   「要するに神秘的で宿命的な結末ね。だから、わたしはそのバイオリンを手に入れることができないってわけなの」
   「そう、そういうわけなのさ」
   「じゃあ、あなたはどうなの、あなたはこわくないの?」
   「ときどき、ある何かの瞬間にね。ぼくが悲劇的運命にめぐり合うという気持ちがすることがある。たとえば、つい、このまえのことだけど……、電車のなかである赤毛の女性と知り合いになったんだ」
   「あなたがそのときバルトリーニの店に連れていったという女性でしょう?」
   「そう、彼女はぼくにとって宿命的な女性かもしれない。ぼくは彼女を避けた。そしてそんな風に逃げることが、ほかにもあるんだ」
   「じゃあ、どうしてそのバイオリンからは逃げないの?」
   「将来、いつか、ぼくは誰かを憎み、その人間に復讐したいと思うことがあるかもしれない。そしたら、そのとき、その人間にこのバイオリンを売る。それとも贈り物にする。だからこそ、このバイオリンを壊さないでいるんだ」
   「これまでに、もう、壊そうと思ったことあるの?」
   「ある。二回ばかり、はっきりと、こいつを壊すべきだと歯っきり感じた。いつか、このことはあなたにも話してあげるよ。でもいまは差なたがそれらの筆跡から何を読み取ったかきちんとはなしてくれよ。そしたら、ぼくも、ヒル家の人たちがそこに書かれた人たちのことについて知っていたことを話してあげる」
   「じゃあ、そうしましょう。まず最初はバイオリンが製作された年代についてよ。そこにどうしてヒル家がこのバイオリンに注目するかという理由があるのよ。このバイオリンはこの巨匠(マイステル)の初期の作品なのね。ストラディヴァリは最初の三〇年のあいだに作ったバイオリンをほとんど壊してしまったの、気に入らないからって。この試行錯誤の時代の彼の作品は――その後の膨大な作品の数からいって――ほんとうにわずかしか残っていない。だから……」
    クラーラは名前を一つずつあげながら、暗闇のなかで探し物をするひとのようにゆっくりと、やや、切れ切れに語っていった。いくつかの直線や曲線、性格的な特徴については、瞬間的に稲妻の閃光にてらしだされたかのように、まっすぐ確固たる足取りで話をすすめた。
    彼女が話しおえると、クルトが話しを引き取った。いくつも野手紙に指摘されてあったことを話し、ほとんど言葉をそのまま引用した。わずかな記憶やおぼろげな運命、そして不明瞭な筆跡鑑定の糸は撚り合わされはじめた。このたどたどしい、あちこちにそれながら進められる会話を再現することは、あまり意味がないように思われる。私も一度それらの名前の一覧表をこの手にしたことがある。私も文字、油字メタ汚れ、インクのしみ、色あせた血の痕跡をたしかめた。
    やがて、私はバイオリンとともに旅に出た。その運命をたどりながら、二百四十年にわたるその持主たちの生涯を私は生きてきた。だから、私はいまクレモナからベルリンのあいだに弦を張り、私の本というコンサートホールのまだ書きこまれていないページの壇上で変奏曲を演奏できるだろう。
    どうか私の演奏を聞いてください。そのうちに、だんだんとE弦もA弦もD弦も張っていきましょう。しかし、いまはこのG線一本で弾くことをお許しください。


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