小説 『ストラディヴァリについて』         
        田才益夫      





  第一楽章
  第二楽章
  第三楽章
  第四楽章


     作者のジェルジ・サーントー(1893-1961)はハンガリーの作家である。彼は最初、芸術大学で建築を学ぶが、第一次世界大戦で中断され、兵士として前線に出て、額に負傷して片目を失明する。帰還してからは絵画に専念し、ルーマニアのコルジュヴァールで舞台美術の仕事にたずさわる。
    やがて健全だったもう一方の目も視力が落ち、ついに失明する。治療のために移住したウイーンで文筆活動をはじめるが、その陰には妻の献身的な援助があった。
    当然のことながら、失明という傷跡を残した戦争体験は、彼の思想に少なからず影響を与えたであろうことは否定できない。そのことは「生」と「死」、「モータル」なものと「インモータル」なものとの対決という視点が、絶えず――この作品を通して一貫して――保たれていることからも読みとれる。
     作者(作品のなかの「私」によれば、このロマン『ストラディヴァリ』は「大バイオリン協奏曲」として構想されたそうだが、それは必ずしも表面的な形式について言われているのではあるまい。むしろ、バイオリンという神秘的な楽器――なぜなら楽器そのものによっても、また、演奏家によっても、これほどにも異なる、微妙繊細な音色を出しうる楽器はほかにないから――を中心に、それを取り巻く人間の愛憎、欲望、執着、狂気といった人間の営為(モティーフ)が姿・形を変えながら執拗に提示され変奏されていくという意味においてであろう。
     この作品は歴史的大河小説の要素をもった作品であるから登場人物も非常に多く、人物たちは時代の経過とともに年をとり、また時代に即して新しい人物も登場する。だが、それにもかかわらず、いかなる場面でもバイオリンが絶えずソロ・パートを華麗にリードしていく。
     また、作品の協奏曲的性格は二つの時代的スパンを対照させながら、あるいは平行させながら物語を進行させているという点にも現われている。歴史的時代のスパンは1667年から1733年まで、現代は1908年から1933年までであるが、この両時代が交互に語られていく。この全体は四つの部分(楽章)に分けられている。

     第一楽章  アレグロ・コン・ブリオ(速く、活気をもって)によって物語りははじまる。(ちなみに、ベートーヴェンの第五交響曲『運命』も第一楽章「アレグロ・コン・ブリオ」ではじまる。このことからも作者がこの作品において「運命的」なものをイメージしていると解釈するのは穿ちすぎだろうか?)
     いま、年老いた「私」はラジオを通してコレルリ作曲のバイオリン曲『ラ・フォリア』(音楽的にはポルトガルの舞踏曲からきた変奏曲形式の曲。語源的には「狂気」という意味がある)を聞いている。作者ないし「私」の想像力はこのやや感傷的なバイオリンの音に刺激されて、このうえもなく広がっていく。
     やがて想像力はストラディヴァリのバイオリンを求めてさまよい、ウィルヘルム二世の閲兵式のおこなわれているポツダムの練兵場にたどりつく。ここにはクルト・フォン・ティーッセン大尉が自分の中隊を率いながら退屈しきっている。この大尉こそ「私」の求めるストラディヴァリのバイオリンの持主なのだ。
     1668年にストラディヴァリの手によって製作されたバイオリンは、クルトのもとにたどり着くまでに、きわめて数奇な運命をたどってきている。この楽章では両時代スパンの主な登場人物たちが紹介され、このバイオリンが製作者の手から最初の持主、つまり買主の手に渡されてからの数奇な運命(むしろ持主たちの悲劇的運命)が語られる。
     また、クルトが閲兵式からから帰って、私服に着替えていつもの仲間(芸術家やその卵たち)の溜まり場「バルトリーニの店」に行く途中、電車のなかで出会う「赤毛の女」のモティーフは歴史時代にもしばしば登場する重要なモチーフ(好色な女)である。

     第二楽章 ラルゴ・ソステヌート(ゆっくりと、しかもたっぷりと)ではアントニオ・ストラディヴァリの出生が語られる。兄ジャコモにつれられて名づけ親のアントニオ・アマーティのところを訪ねたのが、バイオリン製作者ストラディヴァリ誕生のきっかけとして語られている(アントニオ・アマーティはニコロ・アマーティの兄、弟のニコロは「大アマーティ」とも称され、バイオリン製作者アマーティ一家のなかでも最も優れたバイオリン作りの名匠。また、ストラディヴァリと親子ほども年のはなれた兄ジャコモのきわめてユニークな性格づけは作者の創作。家系図の上からはたしかに二十一歳年上の兄がいることにはなっている)
     さらに、チロル出身の特異なバイオリン製作者ヤコプ・スタイネルという人物も登場する。小説のなかで彼は彫物にすぐれた才能を示し、自分のバイオリンのネックの先端に通常の渦巻きではなく、獅子の頭を彫るという、奇妙なバイオリン製作者と紹介されている。ニコロ・アマーティの娘ベアトリーチェをめぐる恋敵として、バイオリン製作のライバルとしての二人の対決場面は一種の象徴にまで凝縮されている。
     現代の物語のほうでは、左手が麻痺してバイオリニストになることを断念して、バイオリン教師となったゴッビのレッスン風景と、その弟子たちのこと、友人の市井の哲学者グレーネンとその操り人形「コメディア・デル・グレーネン」のことなども紹介される。

     第三楽章 アダジオ・コン・フオーコ(おそく、熱烈に) ではストラディヴァリが親方として独立する前提となる旅修行のこと、そしてある旅籠での奇妙な体験のこと(ストラディヴァリが愛していたベアトリーチェと駆け落ちしたピエトロ・グァルネリの母親との奇妙な性関係)、また共にふられた恋敵ヤコプ・スタイネルとの旅先での出会い(小説では二人ともニコロ・アマーティの弟子ということになっている。ベアトリーチェといえば当然、ダンテの『神曲』のことが連想されるが、このロマンの作者もいろんな形でそのイメージをアレゴリカルに取り入れ、章句の引用までしている)。
     このベアトリーチェをめぐる三人の男の関係を図式的に見れば、真剣に愛していた二人(ストラディヴァリとスタイネル)は恋人を横から出てきた第三者(ピエトロ)にあっさり横取りされるということになるが、この筋立てはコメディア・デラルテの基本的パターンでもある。
    現代の話は、この楽章で第一次世界大戦が勃発する。クルト・フォン・ティーッセンは少佐に昇進し、ストラディヴァリのバイオリンもたずさえて前線に出るが、フォート・モーベージュの戦闘で片手、片足を失い、バイオリンとも別れ別れになり、捕虜の傷病兵としてパリへ転送される。
     戦争の災難は銃後にもおよび、ゴッビが自分の弟子のなかで、ただ一人、本当に才能を認めていた天才少女は街娼になっていた。 「それでも、ときどきバイオリンに触ってみることあるのよ」という、少女の言葉がなんともいえぬ哀れさを誘う(もう、逆立ちしたって取り返しはつかないのだ!)。

     第四楽章 プレスト・アジタート(急速に、急き込んで) では戦争によってゆがめられた、かつて颯爽としていた登場人物たちの戦後の退廃の生活が描かれる。
     そんななかでゴッビは、またもや天才少女を発見して、その少女に自分のすべてを懸け、デビューリサイタルのために、自ら『大バイオリン協奏曲』を作曲する。そして演奏会のあと、二十歳以上も年のちがう二人の結婚も約束されていたのだが……。
     一方、歴史時代のほうでは、この楽章ではじめて、その作品がストラディヴァリと比肩しうるバイオリン製作者グァルネリ・デル・ジェスゥ (キリストのグァルネリ。正式には、ジュゼッペ・アントニオ・グァルネリ) が登場する。
     彼は最初ジロラモ・アマーティの弟子になっていたが、師の無能さに見切りをつけて、一時、ストラディヴァリの弟子になる。
     グァルネリは「赤毛の娘」ベアトリーチェ(ストラディヴァリがかつて愛したベアトリーチェとピエトロ・グァルネリとのあいだに出来た子供――欧米では親子同名という例はめずらしくない) と愛し合って結婚するが、この赤毛のベアトリーチェが、こともあろうに師のストラディヴァリと愛人関係にあることを知り、殺害する。その結果、グァルネリは要塞牢獄に入り、ここで伝説として有名な(したがって真実かどうかは疑わしい)「牢獄のバイオリン」製作する。
     そのころ、クレモナも戦争とは無関係ではなかった。皇帝軍が守るクレモナの要塞はフランス軍の攻撃にあえなく陥落する。この監獄につながれていたグァルネリはその間に消息不明となる。
     こうして歴史の物語のなかの人物たちも、現代の物語の人物たちもすべてが何らかの戦争の傷跡を背負いながらロマンはおわる。だがバイオリン (人間の愛憎、戦争と平和の葛藤のシンボル――なぜならバイオリンはそれがすぐれたものであればあるほど、その音色の甘美な美しさにもかかわらず、人間の野心や欲望を挑発するから) は永遠に残るだろう。
     ロマンは "Fecit in aeternitatem" (彼はバイオリンを)「永遠なるものとして作った」 というラテン語の章句を最後に引用して物語はおわる。

<最後まで訳しおわったとき、これはすごい「反戦小説」だいうのが翻訳者の印象であったことを、つけ加えておきたい>

    余談  NHK交響楽団に獅子頭のついたコントラバスがある。首席奏者が使用している。
    数年前の四月の「N響アワー」(まだ、NHK・TV=3chで、土曜日の夜十時から放映されていたころだ)その「楽器紹介コーナー」の第一回目がコントラバスの紹介だったが、映し出されたコントラバスを見て驚いた。頭部が渦巻きではなく獅子頭なのだ。
    わたしは翌日だったか、早速、N響の練習場に電話をして、作者は誰かと尋ねた。楽器台帳には作者不明になっているというのが、楽器係の人の答えだった。
     また、わが国の世界的ヴィオラ奏者今井信子さんは1611年製作のアントニオ・アマーティ(この小説ではストラディヴァリの名付け親)のヴィオラを使っておられるそうである。いつかのNHK・FMの音楽番組で話しておられたのを聞いた覚えがある。