SILENT HILL ……8
『ひどい顔色だな、お前……』
青ざめた頬を撫でていた。
鏡の中の『あいつ』に。
不機嫌そうに固く引き結んだ唇も、逞しい骨格の浮き出た輪郭も。
目の前に立っているのは、紛れもない『俺』だった。
『処刑人』、いや『俺』は、罪人を裁く処刑人らしい冷たい視線を、真っ直ぐと俺に向け、大鉈を頭上へ振りかぶった。
「……嘘だ」
しかし、『俺』は何の躊躇いもなく、そのまま鉈を振り下ろした。
「!」
殆ど反射的だった。唸りを上げて落ちてくる鉈に対し、俺はショットガンを横に構え、防ごうとした。
しかし大鉈の重さも乗っている為、俺に叩き付けられた鉈はショットガンをへし折り、左肩に叩き付けられた。
痛みより、衝撃の方が大きかった。巨大なハンマーか何かで叩き伏せられたような威力に、俺の膝が折れる。
「つ、……っ!!」
次に、霧吹きのように俺の肩から血が溢れ出す。力の抜けた左腕が重く、俺は蹲った。
頬を、べたべたと濡らしているのは多分俺自身の血だろう。折れ曲がったショットガンが、ごとりと音を立てて足元に落ちた。
絨毯の上に転がるひしゃげたショットガンと、その上に飛び散る自分の血を、まるでブラウン管の中の景色のように眺めながら、俺はやっと、一言呟いた。
「嘘だ……」
嘘だ、これは夢だ。また悪い夢を見ているんだ。
再びゆっくりと、『処刑人』が動く気配を見せた。重々しい影が、俺に覆い被さってくる。
それを感じると、俺は半ば本能で、のろのろと逃げ始めた。少しでも『処刑人』、いや『俺』から遠ざかるために、背を向け、歩き始める。
そうとも、『俺』が艦長そっくりの人間を殺し続け、俺をも殺そうとしているだなんて、悪い夢に決まっている。
まったく、何て事だ。俺は本当にどうしようもない、恐がりの臆病者なんだな。こんな怖い夢ばかり見て、怯え続けているなんて、まるで子供のようだ。
その時、ふらつく俺の足が、何かにずるりと滑って倒れ込んだ。
「……っ!」
唯一自由の利く右手で何とか上体を支え、転ぶのだけは堪えた。
駄目だ、早く逃げないと。こんな悪夢から、早く立ち去らないと。
でないと俺は、もう俺は、本当に壊れてしまう……。
身体を起こそうとした俺の首筋に、ふいに、ぽたりぽたりと、水滴が落ちて来た。
何の───。考えようとして、思い出した。これは、樫井の血だ。丁度俺は、彼が貼り付けられている辺りで転んだのだろう。
『子供みたいだなあ、山中は』
樫井の、困ったような笑顔が脳裏を過ぎる。
ああ、御願いします、樫井さん。
また、あの意地悪い調子で、俺を笑って下さい。
また、これは怖い夢だったんだと、俺に信じさせて下さい。
俺は縋るような気持ちで、血の溢れる自分の肩を抑えながら、ゆっくりと頭上を仰ぎ見た。
しかし、そこに居たのは、四肢を貼り付けられ、悲鳴の形で唇を凍りつかせた、樫井だった。左胸とその唇から、鮮血が今もなお零れ落ちている。
既に作られていた、真下の血溜まりに、俺の血が混じり、滲んでいく。
ぴくりとも動かない、青ざめた膚を凝視しながら、俺は『死んでいる』という単語以外に、彼を形容する術を持たない事を知った。
いや。
(いいや、そんな事はない……)
この人は、さっきもそうやって死んでいたじゃないか。そして、何度も俺の前に現れてくれた。そうとも、これが夢だと、また俺を救ってくれるに違いない。
そうとも、誰も死んでいない。
樫井さんだって、艦長だって、俺だって、みんなここに居て……。
ふいに、がちゃり、と鈍い鉄の音が、背中から迫ってきた。首をねじ曲げると、大鉈の血だらけの刃先が、床から持ち上がろうとしている。
『俺』が、あの凶悪な凶器を、再び構えようとしているのだ。
俺は、ぞっと背中が総毛立つのを感じた。
こいつは、本当にやる気だ。俺と同じ顔なので、この状況に現実感が感じられなかったのだが、こいつは紛れもない『処刑人』だ。
樫井は、幾ら傷つけられても、幾度も蘇ってくれた。
しかし、俺はどうなんだろう?
(………)
そして、俺の肩に、初めて燃えるような熱さが沸き立ちつつあった。
痛い。神経が焼けるほど痛い。
痛みと同時に、言いしれぬ恐怖が俺の背筋を一気に貫いた。
殺される…。
殺される。
俺は、『俺』に殺される!
「う……うわあああ!」
俺は転がるように駆け出し、手近なドアへ飛び込んだ。
2階フロアへ出たらしい。俺はしかし、後ろも振り返らずに、更に近くの階段を駆け上った。
痛い。嫌だ。死にたくない。まだ肝心のあの人に逢ってもいないのに。
俺を待っている、待ち続けているあの人に、触れてもいないのに。
あの312号室で───。
俺は、階段を上りきった所で、つんのめるように立ち止まった。
一瞬、自分が逃げまどっていた背後の事すら忘れて、立ち尽くす。
『312』
俺のすぐ目の前にある扉には、そうプレートが掲げられていた。
……あの部屋だ。
俺たちが夜を過ごした、あの部屋だ。
やっと辿り着いたんだ。とうとうここまで来れたのだ。
俺はもどかしい思いを抑えて、震える片手で部屋の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。
がちゃり。
気持ちが逸って仕方がない。左肩の痛みも忘れたぐらいだった。俺は早くなる息を必死に落ち着けて、部屋の中へと歩いて行く。
大きなベッド、簡単なテーブルセット、そして湖を一望できる大きな窓。何もかもが3年前と同じだった。
「艦長!? どちらにいらっしゃるんですか!?」
俺は縋るように、求めるように、必死に辺りを見渡した。バスやトイレにも飛び込んだ。ほんの少しでも影になっている所すら、覗き込み、ひっくり返した。
「艦長、俺です! 山中です! お迎えに上がりました!」
しかし、部屋の中には誰も居なかった。俺の声だけが、虚しく反射するばかりである。
ベッドも、窓際のソファも、確かにそれは何もかも3年前のままだ。
ただ、あの人が居ない。
「艦長………」
俺は、とうとう最後の力が抜けてしまったのか、崩れるようにソファに座り込んだ。
馬鹿な、また『思い出の場所』を間違えたというのか。今度こそここだと思ったのに。あの人が、ここで待っていると信じて来たのに。
ここが違うのなら、また別の場所を探しに行けばいい。そうとも、この街は広いんだから、まだまだ俺の覚えていない思い出の場所があるのだろう。早く艦長の所に行かなければいけないんだから、こんな所でのうのうとしている暇はない。
そう思うのだが、どうした事か、俺の腰はソファに根付いてでもいるかのように、ぴくりとも動かなかった。
俺は、また立ち上がってあの人を探しに行かなければならないのに、もうその気力を奮い起こす力も残っていないのに気付いた。肩は間段なく焼け付くように痛み、左腕は感覚すらない。何より、艦長そっくりの人を幾度も目の前で殺され、しかも手を下していたのは俺で、その上自分すらも殺されかかったという、異常極まりない出来事が、続けざまに俺を疲弊させていた。
もうどうなっているんだ。
いや、もうどうなってもいい。
この狂った世界に、俺はいつまで居なければならないのだろう。
俺が一体、何をしたと言うんだ。何で俺がこんなにも酷い目に遭わなければならないんだ。この世界に入って、幾度目かになる疑問が、今度はかつてない大きさで、俺の中から首をもたげてきた。
どうして俺ばかりがこんな残酷な仕打ちを受けなければならないんだ。
何の所為で?
誰の所為で?
……誰の所為かは、呆れるほどに明確だった。
そう、『艦長』だ。
底のない沼から浮かび上がる泡のように、俺の意識の下から込み上げてきた黒い疑惑を、俺はとうとう否定出来なかった。
いや、しなかった。
この状況は、紛れもない艦長の所為だ。あの人が俺を呼んだ為に、こんな目に遭っているのだ。
愛しい人の言うことを、頭から信じるだけが能の、馬鹿で愚かで単純な男が、こんなザマになっているのだ。
では、この辛苦はすべて俺自身の所為なのだろうか? 俺がどうしようもなく無能で役立たずであるが故の、自業自得の苦しみを味わっているのだろうか?
いや。いいや。騙された愚鈍な男も悪いだろうが、甘い言葉で男をここまで導き、地獄の底まで突き落とした人間に罪はないというのか?
黒い泡が、俺を飲み込む。果てしなく深く、強く、渦を巻いて、俺を───。
ああ、そうだ。もう確信を持って言える。俺がこんな目に遭っているのは、紛れもない、艦長の所為だ。下手人はあの人の他にいない。俺のためにこんな悪夢を用意し、放り込み、希望を持ちかけた途端絶望に叩き込んでは、その度慌てふためいて泣き喚いている俺を、きっとどこかで今も微笑いながら見ているに違いない。特に滑稽な情景(シーン)など、ビデオにとって何度も眺めている事だろう。
何という事だ。俺は、とんだ道化師だったのだ。あの人の作った地獄の中で、泣いて、のたうち回って、あの人を捜し求めていたのだ。この悪趣味で狂った世界の創造主を、ただひたすらに信じ続け、心の支えにまでしていたのだ。
艦長。あなたは、何という人なのですか。何て酷い人なのですか。3年前、俺を置いて1人、何の言葉を与えてもくれず遠いところへ行ってしまわれた挙げ句、俺を笑い者にしていらっしゃったのですか。どこで見ているのですか。どこから見ているのですか。近いのなら、会いたい。会って貴方を───。
ああ、そして、俺という根性の不甲斐なさを、俺は、痛切に噛み締めていた。
そう、会えたとしても、彼を非難することも、罵ることも俺は出来ないだろう。こんな目に遭わされてもなお、俺はあの人に焦がれ、あの人を求めている。例えどれほど無様だと、軽蔑されようと嘲笑されようと、俺はあの人を赦し、その足下に跪くだろう。
「………っ……く……くく……」
ふいに、胸の奥から、押さえきれない衝動がわき上がってきた。それは堪える間もなく、俺の肺から勢い良く飛び出していった。
「…っく…、…くくく、は、ははは、あははははは、あっははははは!!」
どれ程心が引き裂かれようと構わない。何故なら俺は、この苦しみごと、あなたを愛すると誓ったのですから。
この世界を作ったのが艦長、貴方なら、とんだ思惑違いになりましたね。俺がこれぐらいで、貴方への想いを諦めると思いましたか? それとも俺を試したかったのですか?
なら、及第点を遙かに超える結果が得られましたね。ええ、そうですとも。
俺はどんな事があっても、貴方を想い続けます。追い続けます。むしろこんな、艱難辛苦を与えて頂いて、俺には好都合ですよ。俺がどれぐらい、まったく馬鹿馬鹿しくなるぐらい、貴方に夢中だと言うことを証明出来たのですからね。
驚きましたか? 思い知りましたか?
「あはははは、あっはははは、ははははは!!」
ああ、まったくざまあみろだ。傑作だ。最高だ。高みの見物と洒落込んでいたのだろうが、とんだ当てはずれになって、さぞや度肝を抜かれているだろう。戸惑うあの人の顔を想像して、俺はますます楽しくなって、高らかに笑った。
しかし笑いの波は、来た時と同じくらい、呆気なく去っていった。ふいに空っぽになったような気がして、ぴたりと笑い終えた。
がらんとした、空洞にも似ている空間に、笑いの余韻が残る俺の荒い呼吸が響いている。俺は血の滲む左肩を力任せに握り締めながら、引きつる腹筋を宥め、呼吸を整えた。
……俺は、何を笑っているんだ。潮が引くように、俺を満たしていたどす黒いものが消えていくと、ふいに部屋の寒々しさが身に迫って来た。
あの人の居ない部屋。俺だけが残された部屋。
下らない。この世界が、俺を苦しめるためにあの人が作り上げた世界だなどと、それこそ狂人の妄想だ。何を考えている。
よしんばそうだったとしても、艦長のなさる事だ。きっとやむを得ない訳があったに違いない。こうせざるを得ない理由があったに違いない。では、どんな理由が? 俺が苦しまなければならない必然性とは?
おぼろげながら到達し掛かっている結論と言えば、俺は裁かれているのではないか、という事だろう。俺は、なにがしかの罪を犯し、こうしていつ果てるともない辛酸を味わっているのだ。
俺は今まさに断じられ、刑を受け、償い、悔い改めさせられているのだろうか。
では、何の罪を? 俺が艦長に何をしたと言うのだろう?
いや、『何をした』というのが罪ではない。『何もしなかった』事が、罪なのかも知れない。
あの人が狙撃される瞬間、俺は呆れるほど遠い所で、馬鹿みたいに突っ立っていただけだった。あの人を守りきれなかった事が、罪だというのだろうか。
きっと、そうかも知れない。俺は、『この命に替えても、どんな時でも貴方を守ります』と何度もあの人に言っていたのに。それなのに約束も守り切れず、それどころかのうのうとその後3年間も生き続け、この上この世界を用意した貴方を、ざまあみろなどと嘲ろうとした。罰せられて当然だ。俺は最低最悪の罪人じゃないか。
……それが、俺の罪?
……これが、俺の罰?
ああ、艦長、貴方に逢いたい。もう貴方を抱き締めたいと、高望みもしません。
懺悔させてください。赦しを乞わせてください。罪深い俺に、どうか最後のチャンスを下さい。
やっと、俺が呼ばれた理由が分かった。俺は償わなければならないのだろう。
艦長、もう十分です。俺は俺の罪を、理解出来ました。骨の髄まで叩き込まれました。
ですから、どうぞもう赦して下さい。
どうぞ赦して下さい。
赦して下さい。
赦して……。
祈りに近い気持ちで、俺はきつく目を閉じ、項垂れ、赦しを乞うた。この世界のすべてに、俺を罰するものすべてに、懺悔した。
…………。
………。
……。
しかし、何も起こらなかった。
縋るように、恐る恐る目を開けたが、そこには相変わらず俺1人が座っている、何の変哲もない、ホテルの部屋があるばかりだった。
俺は、食いしばった歯の間から、重く苦しい溜息を付いた。
まだ解放されないのか。まだ赦されないのか。
俺はいつまで、この無限地獄を彷徨わなければならないのだ。それとも永劫償わなければならないのか。
途方もない絶望感と、出血の為だろうか、とうとう俺の意識が薄らいでいく。
ぼんやりと虚ろな目で、あの人だけが欠けた、飾り気のない素朴な作りの部屋を眺めていると、幸せだった頃の幻を、まるでついさっきの事のように、重ねることが出来た。
この部屋に泊まった翌朝。愛しく、狂おしい夜を過ごして、明けた朝を窓の向こうに感じる頃、俺は眼が覚めて、傍らの艦長を起こさないようにベッドを抜け出した。
余りに周囲から物音が掻き消えていたので、ふと、自分達だけを残し、世界から人が居なくなってしまったのではないかと思ったのだ。
そっとカーテンを開け、窓の向こうを見ると、相変わらずの濃い霧だ。それでも何とか目を凝らすと、鈍色の湖面に、ボートの影が幾艘も浮かんでいるのが見えた。
俺がその時感じたのは、安堵ではない。どちらかと言えば、残念な気持ちだった。
出来るだけ考えないようにしているのだが、これから俺達が出発しなければならない、過酷な航海の行く先を考えれば、胸が締め付けられるような気がする。それは、自分が陸のすべてのものと決別しなければならない事だの、果ては自分の命にも保証を持てない事でもない。ただひとつ、この人を喪ってしまうかも知れない不安だった。この航海は、今まで行ってきた近海の哨戒任務でもなく、追尾でもない。正真正銘の、血で血を洗う『戦争』だ。密かに彼から計画の全容を聞かされた時、俺の脳裏を過ぎったのは、その時落とされる幾多の命の中に、彼も含まれるかも知れない恐れだった。
もっとも、俺は反対など出来なかった。長年の夢だった、と熱っぽく語る少年のように純粋なあの人の目を見ながら、どうしてそんな事が言えよう。ただ、俺は命令のままに全身全霊を尽くすだけだ。勿論、俺はそう決意した。
しかし……。
しかし、俺の心のどこかには、どうしてもこの人を喪いたくない気持ちがあった。
彼の積年の計画を、犠牲にしたって良い。いや、いっそ誰の物にもしたくない。俺だけのものにして、俺だけを見つめてほしい。そんなエゴイズムが、確かに俺の中に巣食ってもいた。
だから、一瞬とは言え、世界が霧の中に自分達だけを残してなくなってしまった、という錯覚に、俺は喜んだ。
もし本当にそうなら、どれだけ幸せだろう。世界にたった2人きりだと言うこと。それは、2人だけで苦しみも喜びも分かち合えるという事だ。彼だけが俺のすべて、彼さえ居れば、他には何も要らない俺にとって、それは無上の幸福だ。
束の間、愚かでそして甘美な夢に心を奪われていた俺は、ベッドの軋む音に振り返った。
見ると掛布の間から、大きな目をこすりながら、艦長が俺を覗いていた。
『……おはよう』
にっこりと笑う艦長に、俺は脳の隅にこびり付いている妄想の残滓を悟られないよう、慌てて笑顔を繕った。
『すいません、起こしてしまいましたか?』
その、俺を信頼しきっている瞳を見た瞬間、俺は自分の馬鹿げた空想に慄然とした。この人の貴い理想どころか意思までも無視した、独りよがりで自己中心的な妄想。一体何を考えていたんだ。馬鹿げている。
そして、今日も霧がひどいですよ、と半ば独り言のように言いながら、あの人の潜るベッドへと俺は戻っていった。一瞬だが、俺を支配した震えるような幸福が、二度と出てこないよう、胸の奥へとしっかり封じて。
焦点を結んでいなかった俺の目に、奇妙なものが映った。それは、目の前にあるテーブルにあった。
(……)
それが、何であるのか理解するのに、俺の頭はしばらくの時間を要した。
(……ビデオテープだ……)
黒い、鈍く光るプラスチックの外殻。
樫井の声が、耳を通りすぎた。
『今も───確か、312号室だっけ───残ってるんじゃねえの?』
俺が回し続けた、ビデオテープ。笑うあの人を、歩くあの人を、俺の記憶だけではなく、もっと確かなもので残そうと、撮り続けたビデオだ。
俺は導かれるように、のろのろと血塗れの手を伸ばし、ビデオテープを掴んだ。3年も前に忘れていったにしては、それは呆れるほど綺麗なものだった。
この中に、艦長の笑顔が残っている……。
俺は、救いを求めるような気持ちで立ち上がり、ビデオテープを、テレビ下のビデオに差し込んだ。
ざああああ……
しばらく目障りな砂嵐が続いた後。ふいに、画面が明るくなった。
逆行の刺す窓が眩しく、あの人のシルエットをくっきりと映し出している。
『何だ、また撮っているのか?』
感心したような、呆れたような笑い声。俺はすぐに思い出した。この部屋で撮ったものだ。
『テープが勿体ないぞ。ほら、次は私が撮ってやる。こっちに来て窓際に立ってみろ』
窓からの光で、あの人の顔は濃い影に彩られていた。それでも、表情がよく見えないけれど、とても楽しそうな笑顔が浮かんでいる。
ブラウン管越しに、あの人を見るのは、勿論初めてじゃない。CNNを始め、世界のメディアというメディアは、彼を世界中のテレビに映し出した。俺も、沢山見た。しかしそこに映る彼は、あの人自身もそう振る舞っていたのだろうけれど、まるで俳優のようで、側で過ごした俺達の10年とは比べ者にならない、歪んだ乏しい姿だと思った。
それが、どうだろう。今こうして、俺の目の前に、俺の知るあの人が、そのまま再現されている。
ああ、そうだ。あの人がはにかんで笑う時、いつもこんな風にちょっと俯いたっけ。滑らかな背中の曲線が、踊るように目まぐるしく俺を振り返る。華奢な指が伸ばされる。笑顔が───眩しい。
『ああもう、ほら、ビデオを貸しなさい』
『そんな事言って、艦長結構機械に弱い事、俺は知ってるんですよ? 壊されたらたまりません』
『よせ、そんな事ばらすな。機関室から閉め出されてしまうじゃないか』
『あははは、じゃあ、このビデオは門外不出という事ですね』
画面が傾き、ぶれて、どこを撮っているのかも分からなくなった。この時、艦長がどうしても俺の手からビデオレコーダーをおうとして、ちょっとした揉み合いになったのだ。
『艦長、やめて下さいって、落としてしまいますったら!』
『お前がさっさと渡さないからだろう!』
ざああああ……。
再びビデオは切れて、砂嵐を画面いっぱいに拡げた。
殆どじゃれ合いに近い、笑い声の滲む楽しげな言い合いが、耳に余韻となって残っている。俺は懐かしくて、そしてその光景が余りに遠くて目を閉じ、天井を振り仰いだ。
そうしないと、涙がこぼれ落ちそうだったので。
艦長……。