SILENT HILL ……7
だん! と着地した瞬間、俺は肺が凍り付いたような感覚に襲われ、むせ返った。
「……っ、───?」
次に襲ってきたのは、膚を締め付けるような寒気である。
慌てて見渡すと、辺りを満たしていたのは、突き刺すばかりの冷気だった。
(何だ、ここは……)
真っ暗闇という訳でもない。吐き出される俺の白い息越しに、部屋の様子がぼんやりと見えた。幾つも天井からぶら下がる巨大な固まりが、部屋の中央当たりで順序よく連なっている。
馬鹿な、また死体置き場に戻ったのか───俺は、堂々巡りを繰り返しているのではないか、という恐怖に、よりぞっと膚を総毛立たせた。
しかし、良く見ると様子が違った。巨大な配管が蛇のようにくねるタイルの壁と言い、この寒さと言い、ここは先刻の死体置き場などではないようだ。
ゆっくりと歩を進めて、ぶら下がる固まりに近寄ると、それは凍った肉だった。
……冷凍庫のようだ。
ほっ、と吐き出した俺の溜息も、白く凍り付く。
しかしこの寒さはこたえる。不眠不休で走ってきた自分の体など、この凍てつく冷気を易々と受け入れ、このまま眠り込んでしまいそうだ。
俺はそそくさと、手近な扉に手を掛け、部屋を後にした。
そこで、俺はぎょっと目を見張った。
視界を薄く煙らせる、伸ばした手の先すら見えないほどの濃霧。微かに向こうに覗く光景すらも、湿気を含んで重苦しい。
そう、眼前に悠々と満ちているのは、あの見慣れた、霧に覆われた静かな湖面なのである。
(そんな馬鹿な! 外の世界だと!?)
弾かれたように背後を振り返ると、俺の立っている場所は、資料館の裏手だった。
何という事だ、頭がおかしくなるぐらい地下深くへ潜った筈だったのに、何時の間に地上へ戻ってきたというのだろう?
事態が飲み込めず、呆然と辺りを見渡す俺の耳に、ふいに、ごつん、ごつん、と規則正しい、何かぶつかる音が聞こえた。
湖の上に張り出した木の通路を、音のする方へ歩いていくと、そこには一艘の船が船着き場で揺れていた。
その船にも、この道のりにも覚えがあった。
(あのホテルへ行った、船だ……)
そうだ、この船着き場から、向こう岸のホテルへ2人で行ったんだっけ……。
対岸へ目を凝らすと、微かだが、ちらちらと灯りが瞬いているのが見える。まるで、俺を求め、呼ぶかのように。
俺に躊躇う理由など、あるはずがなかった。
俺に残された道など、ひとつきりなのだから。
ひょい、とボートの上に降り立つと、俺はオールを握り締め、座った。
そして、対岸へと向けて、俺は湖を漕ぎだして行った。
『取り舵いっぱーい』
『はい、取り舵ですね』
『ああ、違うぞ、山中。私から見て取り舵なんだから』
『あ、そうか、じゃ、こっちですね』
『しっかりしてくれよ、優秀な操舵手殿』
『それは貴官のナビゲートによりますね』
『ほう? 私が言ったら、どこにでも行ってくれるというのか?』
『勿論です。お望みの所に、お連れしましょう』
『……』
『……』
『じゃあ、取りあえずは『レイクビューホテル』だな。そろそろお腹が空いて来たんだ。任せたよ、補給長』
『これは酷い。幾つ兼任しなきゃいけないんです?』
ははは……という笑い声が重なり合い、静かな湖に木霊した。
2人で向かい合い、霧の濃い湖面を、こうしてボートで渡ったのだ。
両肩が鉛のように重くなっていく。俺はそんな楽しい思い出に意識を飛ばすことで、上がる息を忘れようとした。
やがて、どれ程漕いで来ただろう。オールを握る両手の感覚がなくなる頃、ふいに、背中から暗闇に包まれる感覚に襲われ、ぞっと指先が強張った。
振り返ると、果たして、霧の中から巨大な建物が、山のようにそびえたっているのが見えた。
レイクビューホテルだ。
(……変わっていない……)
もう3年も経ったというのに、まるで外観は変わらない。しかし、この禍々しい気配は何だ。3年前は、大好きなあの人と一緒だったから、どんな場所も楽しく目に映ったのかも知れないが。
船着き場へ船を横付けすると、俺は木で渡された通路を、ホテル目指して歩いていった。
階段を上り、噴水を通り過ぎ、玄関を開け放つ。何もかも同じだ。奇妙な懐かしさに、胸が痛くなる。
ホテルの中は、やはり真っ暗だった。試しに傍らの電話も持ち上げてみたが、何も聞こえない。俺はライトを掲げ、目指す部屋へと足を踏み出した。電気も通っていないようだし、エレベーターは使えないだろう。俺は、徒歩でその場所へ向かった。
それは勿論、3階の312号室だ。
もう、2人の思い出の場所と言えば、そこぐらいしか思いつかない。いや、きっとあの人はそこに居るに違いない。2人、ここで幸福な瞬間を紡いだのを、俺は今も昨日の事のように思い出せる。
2人で窓から霧深い湖を眺め、肩を寄せ合っていると、彼はぽつりと、囁くように言った。
『何もない所だけど、静かで落ち着くね』
本当にその通りだ、と彼の潮騒のような優しい声音に酔いながら、俺も頷いた。ここには何もない。あるのは静寂だけだ。まるで、世界が俺達を残してすべて消えてしまったかのように。
『もう帰らないといけないのが、勿体ない……』
『…………』
この静寂に遠慮しているのか。いつもは饒舌な彼が珍しく、途切れ途切れに、ただ思いついた言葉を並べているように、独り言めいて言った。
『いつか、また、来たいね……』
『ええ……』
俺は、この時、今の今まで忘れようと、いや見ない振りをしていた不安が、足下から這い上がって来るのを感じた。もうすぐ漕ぎ出さなければならない俺達の航海の、その果てを。
『艦長。約束してください』
その肩を抱き締めながら、俺は声が震えないように、言った。
『必ず、またここに来ましょう』
その替わり、強く、彼の肩を抱き締めた。
艦長は、一度深呼吸してから、溜息と共に言葉を零した。
『ああ……必ず、きっと……』
そうだ、約束したのだ。あの人は、一度交わした約束を忘れるような人ではない。きっとあの部屋で、そそっかしくて、頼りない馬鹿な副長を、首を長くして待って下さっているに違いない。
フロントを通り過ぎる時、俺は中の鍵棚に、きらりと光るものを見た。フロントのカウンターを乗り越えると、幾つも並ぶ棚の中に、たったひとつ、鍵が置かれていた。
鍵の置かれている棚には『312』と書いてあった。
ああ、艦長だ。艦長が置いて下さったのだ。俺の為に、俺を呼ぶ為に。
すいません、艦長。ちょっと回り道してしまったお陰で、すっかり遅くなってしまいました。ですが、やっとここまで辿り着きました。もうすぐです。もうすぐ、貴方を抱き締めることが出来ます。もうしばらく、もうちょっとだけ、待ってやって下さい。
俺は鍵を掴み、フロントを後にすると、ロビーから続く大きな階段へ向かった。時折物悲しげな音楽を鳴らすオルゴールは、今やすっかり木偶の坊になっている。それを尻目に、手摺りを握り、階段に足を踏み入れたその時。
「山中!」
悲鳴に近い絶叫が、俺の鼓膜を突き刺した。
何事かと見上げたその視線の先には、信じられない、いや、信じたくない光景が広がっていた。
階段の突き当たり、広い踊り場に、四肢を張り付けられ、逆さに吊り下げられているその姿が目に飛び込んできた。もう見慣れた薄手の上着に、ぴったりと足に張り付いたジーンズ。臍の横から覗く蝶の入れ墨が、遠目にも見えた。
「助けて、山中!」
「か……」
馬鹿な。
馬鹿な。
そんな馬鹿な!!
「樫、井さん……!」
恐怖に青ざめた顔で、必死に俺の名を呼んでいるのは、紛れもない樫井だった。
「山中、嫌だ! 殺される!」
そして、あろう事か、哀れにも吊り下げられている彼の側に立っているのは、あの『処刑人』だった。
重そうな三角形の兜で、樫井を舐めるように見つめると、ふいにその後ろへと回った。
「山中ぁ!」
「よせ───!」
『処刑人』が、何をしようとしているのか分かった俺は、飛び出すように階段を駆け上がった。
しかし、手遅れだった。
樫井の大きな目が、更に大きく見開かれ、俺の名の形で凍り付いた唇から、血が滴り落ちる。
その左胸から、巨大な大鉈の先端が、血にまみれて突き出していた。
標本の蝶のように張り付けられた彼の体から、がくりと力が抜けたのが見える。
俺は、階段の途中で力尽き、座り込んだ。手摺りを震える指で、必死に掴む。そうしてないと、今にも階段の下へと転がり落ちてしまいそうだった。
息絶えた樫井の体が、思い出したように、ぐらりと張り付けられている台ごと後ろへ傾いだ。その拍子に、鮮血が、口と突き通された左胸から、糸となってこぼれ落ちている。
そして、その後ろから『処刑人』が、引き抜いた血だらけの鉈を手に、現れたのを、俺は瞬きも忘れて見た。
……してやる。
握り締めた手摺りが、みしり、と音を立てた。
…ろしてやる。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
殺してやる!!
『処刑人』の、感情の一欠片もない視線が俺と重なった、その時。俺は踊り場へと駈け上がった。
「殺してやる!!」
突進してくる俺目がけて、『処刑人』は大鉈を振り下ろした。
だが、俺はあの大振りな武器を自在に操作するのに、かなりの力を要することを知っていた。寸前で、足を止める。
がきいいぃぃん!
案の定、空振りした大鉈が派手な音を立てて、階段にめり込んだ。俺はその隙に、一気に踊り場へと飛び込む。
大鉈を持ち上げようと、力を込めている『処刑人』の背中に、俺はショットガンを構えた。今だ!
「くたばれ!!」
腰にためて、一気に引き金を引いた。
散弾銃の威力は凄まじかった。『処刑人』の奇妙な形をした兜が吹き飛び、その体が傾ぐ。
だが、死んではいない。『処刑人』は跪きながらも、身体を起こそうと蠢いている。俺はすぐに弾をリロードすると、今度はその剥き出しになった頭に叩き込んでやろうと、狙いを付けた。
何者かは知らないが、俺を幾度も幾度も苦しめる化け物め。
(これで終わりにしてやる!)
そして、引き金にかけられていた俺の指が、凍り付いた。
銃身の先で、よろめきながら『処刑人』の体が起き上がった。兜を取った顔が、こちらを向いている。
何が目の前で起こっているのか、俺には分からなかった。今度こそ現実感を喪失した光景に、肩から力が抜け、ショットガンが降りていく。
「ば……」
呆然と立ち尽くす俺の前で、『処刑人』は大鉈を握り直し、持ち上げようとしていた。しかし、俺はそれすらも目に入らないように、ただ凍り付いて、動けない。
「馬鹿な……」
彫像のように固まった俺の口から、呻き声にも似た声が、零れた。