SILENT HILL ……6
気が付けば、静寂が辺りを満たしていた。
いつ自分が叫ぶことを止めていたのか、記憶にもない。けれど、これは決して哀しみが薄らいだ訳でも無くなった訳でもない。ただ、俺の中が空っぽになってしまったからだ。
涙も声も涸れ果てた。もう吐き出すものが、無くなってしまったのだ。
俺は重い瞼を開き、顎を上げた。握り締めているシーツの血は、既に乾き始めていた。彼の温もりを失った肌が、白々と蝋細工のように電灯に照らされている。
流石に、彼の顔を見る勇気も気力もなかった。俺は震える膝を踏み締めて、ゆっくりと立ち上がった。
壁に手を付いて、何とか歩き出す。しかし四肢に、自分のものであるという感覚がない。操り人形にでもなった気分だ。
鉄格子をくぐり、扉の外へ出ると、陰鬱で重苦しい闇が俺を待っていた。
よろよろと、俺はその中を当て所もなく歩く。
(俺は、どこへ行くんだろう……?)
延々と続く闇の世界を、導かれるように一歩一歩進んでいく自分の足を、俺は他人の見た光景のようにぼんやりと感じていた。
余りの現実に、俺の理性はとうとう認識の拒否をはじめたらしい。意識をここでないどこかに飛ばすことで、心が壊れるのを防ごうとしているのだ。俺は夢遊病者のように、そうやって闇を泳ぎ続けた。
と、突如、すとんと身体から重みが、一気に消え去った。
本当に俺は身体を失ってしまったのか、と瞬間思ったが、違った。ぼんやりと歩いていた為に、大穴のひとつに落ちたのだ。
どこへ落ちるのか、勿論検討は付かない。それでも俺は、このまま落ちていって、いっそ闇のひとつにでも同化出来ればどれ程楽になれるだろう、と脳裏に刹那、思い描いた。
目を閉じたまま、俺は意識が浮き上がってくるのを感じた。
神経を爪先に巡らせると、ちゃんと感覚があった。俺の手足だ。
別に痛い所もない。そう深い穴へ落ちた訳ではらしいが、頑丈な自分の身体が、少し恨めしかった。
(おい、さっさと立ち上がれよ)
まだぼーっと四肢を伸ばしたまま、転がっている俺に、どこからか声がした。
ああ、放っておいてくれ。
もう辛いんだ。苦しいんだ。
こんな哀しい目に遭い続けながら、どこに行けっていうんだ。
(どこへ……? 今頃何を言っているんだ、お前)
声は、霧のように俺を包む、闇が発しているような、気がする。
その闇が、耳に首に肩に腰に膝に爪先にのしかかりながら、そう言った。
(海江田艦長を捜しに来たんだろう)
(この世界のどこかに居るあの人を、迎えに来たんだろう)
ああ、そうだった。俺は、大事な大切なあの人に呼ばれて、ここへ来たんだっけ。
ですが艦長、貴方はいったいどこに居るんですか?
このまま俺は、貴方の側に辿り着けるんでしょうか? だって、この世界はあんまりにも酷い、酷すぎるんですよ。
どうして、何故、俺がこんな目に遭わなければならないんでしょうか?
俺が何をしたって言うんでしょうか? 俺はこの罪人達を封じる地下の迷宮で、今まさに罰を受けているのですか? 何の罪を? 誰が裁きを?
俺は呼ばれて、貴方を迎えに来ただけなんですよ?
何で、俺が。俺だけが。
もううんざりです。もう沢山です。もう結構です。
艦長、貴方が本当に俺を呼んだのですか?
艦長、貴方は本当にここに居るんですか?
(おいお前、艦長の言葉を疑っているのか………?)
(なあんだ、やっぱりそうなのか………?)
闇が、ざわりと蠢き、俺の中に入ってきたような、気がした。
(お前、艦長を、愛しているんじゃないのか?)
(どんな辛い思いをしても、会いに行くと言ってなかったのか?)
(お前のあの人への想いは、その程度のものだったのか?)
どくん、と鼓動が一際大きく跳ね上がり、口から飛び出しそうになったので、俺は思わず息を止めた。
何を言い出すんだ、この闇どもは………
(しらばっくれるなよ)
「………れ」
(聞こえないふりするなよ)
「……まれ」
(見ない振りするなよ)
「…だまれ」
(感じない振りするなよ)
「黙れ」
(お前は、艦長の事を───)
「黙れ!!」
壁に、俺の声が大きく木霊した。
わあん、わあん……と弾いた弦のように、辺りに残る自分の声に、俺はやっと目を見開いた。
上体を起こすと、慌てて傍らに転がるショットガンとライフルを引き寄せる。
何だったんだ、今のは。冷たいショットガンを握り締めながら、俺は呼吸を落ち着けようとした。
周囲に生き物の気配はない。それでは今のは幻聴だろうか。馬鹿な、とうとう俺の頭がおかしくなってしまったのか。
跳ねるように立ち上がり、腰を伸ばした。いけない。何をぼんやりしている。そうとも、何があっても、何が起こっても、艦長を迎えに行くと誓ったじゃないか。そう、どんなに哀しくて辛くて苦しくても、もう一度あの人に会い、触れることが出来れば、何も怖いものなんかない。
とんでもない事を考える所だった。この世界の不条理さ、不気味さを、俺はあろう事かあの人に転嫁しそうになっていたのだ。
第一、憎むべき筋合いはあの『処刑人』だ。樫井の切り裂かれた傷は深く長く、かなり長大な刃物で命まで断たれた事を、物語っていた。そんな武器を持つ者と言えば、あいつしか居ない。
幸いまだ、強力なライフル銃を温存している。俺を二度も絶望の底に叩き込んだ、あいつの正体が何なのかは分からないが、樫井をその手に掛け、今もこの街のどこかを歩き回っているのだろう。畜生、絶対に許せるものか。今度出会ったら、どんな理由があろうとも必ず殺してやる。
そうとも、弱音なんか吐いている場合じゃない。挫けている暇はない。
俺はライフルを背中に背負い直し、改めて周囲を見渡した。この部屋は、どうした事か微かにぼんやりと明るく、ライトで注視しなくてもだいたいのレイアウトが目に飛び込んで来た。そして、ぎょっと身を竦ませた。
部屋の真ん中辺りで、天井から幾つも大きな袋が吊り下げられているのだ。
遠目にはまるで、屠殺場の食肉のようだが、あの大きさは……。
何となく足音を忍ばせ、俺は近寄った。
間近に立つと、丁度袋の先端が俺の胸辺りでぶら下がっている。
中身は見えないし、見る気もないが、この大きさと言い袋の形と言い、恐らくこれは人間の死体だろう。
恐る恐るライトで袋の上端を照らすと、文字を記した紙が一枚貼られているのが見えた。
『この者、殺人の罪により、
首吊りの刑に処す。
正義、そして復讐は為された』
……どうやらここは、死刑に処せられた罪人達の、死体置き場のようだ。他の袋にも同様に、『詐欺の罪』だの『偽造の罪』だのと貼られている。彼らは、各々それらの罪を背負い、絞首台に立ったのだろう。
紙で顔が隠れているのが、幸いだ。首を吊られた彼らの苦悶の顔を見なくて済む。
俺は、罪深いが故に死して尚晒し者になっている彼らに背を向け、向こうに見える扉へと歩いていった。
それは、どうも、この扉からは違う匂いがするような気がするからだ。この地下世界に充満している、饐えて湿った闇の匂いに今まで慣れた鼻へと、その違いは、敏感なほど訴えてくる。
恐る恐る開け放って見ると、驚いた事に真っ暗な中、草地が広がっていた。久々に嗅ぐ青々とした力強い匂いに、思考が混乱する。
まさか、地上に出たのか?
いや、そんな筈はない。俺は半端ではなく、遙か地下へと潜ってきた筈だ。
慌てて上空を仰ぐと、しかしそこには何もなかった。どっしりと、圧倒的な質量すら伴っているかのように、星も月も雲もない、闇が今にも降って来そうなほど立ちこめているばかりだ。これでは屋内なのか屋外なのか分からない。戸惑う俺は、しかしこの草地にぽつり、ぽつりと建つ墓標に、息を飲んだ。
ここは、墓地なのだ。
真後ろにある死体置き場との関係を考えれば、ここは罪人達を埋葬する墓場なのだろう。
俺は久々に感じた、新鮮な草の匂いにも感動できず、重い気分で見るとも無しに墓標をライトで照らしていく。
そこで、奥の方に、ぽっかりと黒い穴が口を開けているのが見えた。
(……?)
真新しい掘られた穴のようだ。
今や囚人の一人も居ない、この廃墟同然の刑務所で、新たな処刑者が居るというのか?
俺はそう単純な興味から、何の気なしにそちらへと歩いていった。
辿り着くと、やはりまだ新しい。脇に積まれている掘り返された土は、空気を吸ってこんもりと盛り上がっている。 見ると、これまた新しい墓標が既に建っていた。何気なくライトの光を向けて、俺は凍り付いた。
丸い光に照らし出された、彫り跡も生々しく刻まれた名前を見つめ続ける。
『山中栄治』
……俺の、墓か。
心臓をとびきり冷たい手で掴まれたような感覚の後、俺はのろのろと膝を付いて、どうやら自分が入るべき場所らしい穴を、覗き込んだ。
誰が、俺の為にこんなものを用意してくれたのかは、勿論分からない。しかし穴の底をライトで照らして、俺はぎょっと身を竦ませた。底は相当深い、いや深いどころではなく、延々掘り下げられているようで、ライトの光を呑み込み、俺を更なる地下世界へと誘っていた。
一瞬躊躇したが、俺は決意して、立ち上がった。何が待ち受けていようと、行くしかない。
たった、唯一の救いのあの人に会うのだ。俺が、何の為にこんな非道い目に遭っているのかは分からない。でも、きっとあの人だけは知っている。俺がどれだけ、あの人を愛し、この身を尽くしてきたか。あの人に微笑んで貰えれば、俺に何一つ後ろめたい事などないと、この狂った世界に思い知らせてやれるのだ。あの人に会えば救われる。あの人だけが、俺を救ってくれる。そうとも、あの人だけが俺のすべてだ。あの人へのこの思い、それだけは嘘偽りのない、真実だ。
俺は、息をすうっと吸い込むと、思い切って真っ暗な穴へと、身を投げ出した。